小林美香のエッセイ「母さん目線の写真史」 第14回
触って、見る
先日(2014年8月2日)、ガーディアン・ガーデンで開催された「視覚障害者と若手写真家のための「写真を言葉にして伝える」ワークショップ」に、写真を講評する講師として参加させて頂きました。このワークショップは、視覚障がい者と写真家が一緒に写真を撮り、撮った写真を介してコミュニケーションをするという趣旨のもとに行われました。私は実際に写真を撮影するのではなく、撮影された写真を見る立場での参加でしたが、見るということ、知覚すること、想像すること、カメラという装置、イメージと記憶などについて、私が写真を撮ること、見ることに関して前提としていた諸々のことを根底から揺るがされるような体験でした。非常に得難く、刺激的な経験をさせて頂いたように思います。経験したことの記憶が薄れないうちに、その内容をかいつまんでご紹介します。
写真家の尾崎大輔さんが、ワークショップの企と進行の指揮を執り、参加した視覚障害者の人たちとその介助者、写真家はチームになって撮影に赴きました(図1)。晴眼者である写真家たちも撮影に際してはアイマスクを装着し、見えない状態でデジタルカメラを操作して、撮影後は介助者の説明を手がかりに(つまり、撮影した写真を見ない状態で)写真を選びました。選ばれた写真は、通常の写真のプリント用紙と、カプセル・ペーパー(立体コピー用紙)の二種類の紙にプリントアウトされました。カプセル・ペーパーは、写真の視覚的な情報を白黒の二諧調で凹凸のある表面に、触れて分かるものへと転換します。プリントアウトされた写真を壁に貼った後、参加者はお互いが撮った写真を見る、表面に触れるという方法で鑑賞し、それぞれの撮影時の状況や被写体を選んだ理由を語ったり、感想を述べ合ったりしました(図2)。普段は、専ら「見る」対象として接している写真に対して、表面に触り、触覚を通して写真を感じるのはとても新鮮な経験でした。
(図1)
チームで撮影を行う写真家と視覚障がい者、介助者
(図2)
二種類の紙でプリントアウトされた写真を鑑賞する参加者たち
(写真提供 ガーディアン・ガーデン)
講評者としてワークショップに立ち会い、参加者の人たちと話をしたり、写真を見たり触ったりするなかで、写真を撮る・見るという行為に関して、さまざまな問いかけが私の頭の中にぐるぐると湧き上がってきました。視力の有無にかかわらず写真を撮る(シャッターを切る)ことはできるとして、そこで生まれおちてきた写真はどのように扱うべきものなのか、「見る」写真と「表面に触れる」写真は相互にどういう関係を持つのか(お互いに補完し合うのか、それとも別個のものとして存在しているのか)、晴眼者と視覚障がい者が写真を介して、互いの知覚領域を探りあうにはどうしたらよいのだろうか、そこに「言葉」がどのように介在し得るのか、、。このようなさまざまな問いかけこそが、ワークショップを通して私が得たものでした。
視覚障がい者の人たちが写真を撮り、写真の表面に触れることで画面の中に捉えられた対象を知覚したり、反応したりしている様子を目の当たりにすることで私が痛感したのは、それまで視覚障がい者の人たちのことを、写真に「撮られる」存在として見ることはあっても、能動的に「撮る」主体に成りうるとは想像すらしていなかった、ということです。視覚障がい者の人が被写体になっている写真は数多くあり、私自身もそういった写真を見る中で、固定したイメージに囚われてきたのかもしれない、とも思います。
ワークショップで写真の表面に触れて見るという経験をしたことで、視覚障がい者を捉えた二人の写真家の作品を思い出しました。一つは、チャールズ・ハーバット(Charles Harbutt,1935-)の「盲目の少年 ニューヨーク」(1961)(図3)です。薄暗い部屋の隅にしゃがみ込んだ男の子が、壁の上に落ちた光の筋に触れている様子を背後からとらえています。おそらく、壁面で光の当たっているところが少しだけ温かいのでしょう。指先で壁の温度の違いを感じながら、光があたっているところの境界を探り、指先で光を触ってみようと懸命になっている後ろ姿には、心を打たれます。少年の左側の机には白い紙が置いてあり、右側の壁面には絵の具で描かれた絵が貼りつけられており、少年の頭の中で描かれているのであろう、光の像を連想させる要素になっています。
もう一つは、ジェーン・イヴリン・アトウッド(Jane Evelyn Atwood, 1947-)が1980年代に、フランスやイスラエル、オーストラリア、日本で盲学校を撮影したシリーズ作品の中の一点(図4)です。この写真はフランスの盲学校で撮影されたもので、教師の介助を受けながら猫に触る子どもたちの顔と手がとらえられています。興味津々の手つきで猫の手触りや身体を確かめるように触る子どもたちに囲まれ、白猫が目を真ん丸に見開いて必死の形相になっている姿はユーモラスであり、また子どもたちがそれぞれに触りながら頭の中に思い描いている猫のイメージはどのようなものだったのだろうと想像させます。
(図3)
チャールズ・ハーバット
「盲目の少年、ニューヨーク」(1961)
(図4)
ジェーン・イヴリン・アトウッド
「フランスの盲学校」
どちらの作品も、目が見えない子どもたちの好奇心や、触ることによって身の回りの世界へのイマジネーションを広げていこうとする姿がとらえられており、その能動的な姿勢に感じ入ってしまいます。「視覚障害者と若手写真家のための「写真を言葉にして伝える」ワークショップ」を体験して、私が強い衝撃を受けたのは、世界に触ろうとする意志が写真に結びつくありようを目の当たりにし、そこから切り拓かれるかも知れない未知の領域の入り口を垣間見たからだと思うのです。
(こばやしみか)
◆小林美香のエッセイ「母さん目線の写真史」は毎月25日の更新です。
触って、見る
先日(2014年8月2日)、ガーディアン・ガーデンで開催された「視覚障害者と若手写真家のための「写真を言葉にして伝える」ワークショップ」に、写真を講評する講師として参加させて頂きました。このワークショップは、視覚障がい者と写真家が一緒に写真を撮り、撮った写真を介してコミュニケーションをするという趣旨のもとに行われました。私は実際に写真を撮影するのではなく、撮影された写真を見る立場での参加でしたが、見るということ、知覚すること、想像すること、カメラという装置、イメージと記憶などについて、私が写真を撮ること、見ることに関して前提としていた諸々のことを根底から揺るがされるような体験でした。非常に得難く、刺激的な経験をさせて頂いたように思います。経験したことの記憶が薄れないうちに、その内容をかいつまんでご紹介します。
写真家の尾崎大輔さんが、ワークショップの企と進行の指揮を執り、参加した視覚障害者の人たちとその介助者、写真家はチームになって撮影に赴きました(図1)。晴眼者である写真家たちも撮影に際してはアイマスクを装着し、見えない状態でデジタルカメラを操作して、撮影後は介助者の説明を手がかりに(つまり、撮影した写真を見ない状態で)写真を選びました。選ばれた写真は、通常の写真のプリント用紙と、カプセル・ペーパー(立体コピー用紙)の二種類の紙にプリントアウトされました。カプセル・ペーパーは、写真の視覚的な情報を白黒の二諧調で凹凸のある表面に、触れて分かるものへと転換します。プリントアウトされた写真を壁に貼った後、参加者はお互いが撮った写真を見る、表面に触れるという方法で鑑賞し、それぞれの撮影時の状況や被写体を選んだ理由を語ったり、感想を述べ合ったりしました(図2)。普段は、専ら「見る」対象として接している写真に対して、表面に触り、触覚を通して写真を感じるのはとても新鮮な経験でした。
(図1)チームで撮影を行う写真家と視覚障がい者、介助者
(図2)二種類の紙でプリントアウトされた写真を鑑賞する参加者たち
(写真提供 ガーディアン・ガーデン)
講評者としてワークショップに立ち会い、参加者の人たちと話をしたり、写真を見たり触ったりするなかで、写真を撮る・見るという行為に関して、さまざまな問いかけが私の頭の中にぐるぐると湧き上がってきました。視力の有無にかかわらず写真を撮る(シャッターを切る)ことはできるとして、そこで生まれおちてきた写真はどのように扱うべきものなのか、「見る」写真と「表面に触れる」写真は相互にどういう関係を持つのか(お互いに補完し合うのか、それとも別個のものとして存在しているのか)、晴眼者と視覚障がい者が写真を介して、互いの知覚領域を探りあうにはどうしたらよいのだろうか、そこに「言葉」がどのように介在し得るのか、、。このようなさまざまな問いかけこそが、ワークショップを通して私が得たものでした。
視覚障がい者の人たちが写真を撮り、写真の表面に触れることで画面の中に捉えられた対象を知覚したり、反応したりしている様子を目の当たりにすることで私が痛感したのは、それまで視覚障がい者の人たちのことを、写真に「撮られる」存在として見ることはあっても、能動的に「撮る」主体に成りうるとは想像すらしていなかった、ということです。視覚障がい者の人が被写体になっている写真は数多くあり、私自身もそういった写真を見る中で、固定したイメージに囚われてきたのかもしれない、とも思います。
ワークショップで写真の表面に触れて見るという経験をしたことで、視覚障がい者を捉えた二人の写真家の作品を思い出しました。一つは、チャールズ・ハーバット(Charles Harbutt,1935-)の「盲目の少年 ニューヨーク」(1961)(図3)です。薄暗い部屋の隅にしゃがみ込んだ男の子が、壁の上に落ちた光の筋に触れている様子を背後からとらえています。おそらく、壁面で光の当たっているところが少しだけ温かいのでしょう。指先で壁の温度の違いを感じながら、光があたっているところの境界を探り、指先で光を触ってみようと懸命になっている後ろ姿には、心を打たれます。少年の左側の机には白い紙が置いてあり、右側の壁面には絵の具で描かれた絵が貼りつけられており、少年の頭の中で描かれているのであろう、光の像を連想させる要素になっています。
もう一つは、ジェーン・イヴリン・アトウッド(Jane Evelyn Atwood, 1947-)が1980年代に、フランスやイスラエル、オーストラリア、日本で盲学校を撮影したシリーズ作品の中の一点(図4)です。この写真はフランスの盲学校で撮影されたもので、教師の介助を受けながら猫に触る子どもたちの顔と手がとらえられています。興味津々の手つきで猫の手触りや身体を確かめるように触る子どもたちに囲まれ、白猫が目を真ん丸に見開いて必死の形相になっている姿はユーモラスであり、また子どもたちがそれぞれに触りながら頭の中に思い描いている猫のイメージはどのようなものだったのだろうと想像させます。
(図3)チャールズ・ハーバット
「盲目の少年、ニューヨーク」(1961)
(図4)ジェーン・イヴリン・アトウッド
「フランスの盲学校」
どちらの作品も、目が見えない子どもたちの好奇心や、触ることによって身の回りの世界へのイマジネーションを広げていこうとする姿がとらえられており、その能動的な姿勢に感じ入ってしまいます。「視覚障害者と若手写真家のための「写真を言葉にして伝える」ワークショップ」を体験して、私が強い衝撃を受けたのは、世界に触ろうとする意志が写真に結びつくありようを目の当たりにし、そこから切り拓かれるかも知れない未知の領域の入り口を垣間見たからだと思うのです。
(こばやしみか)
◆小林美香のエッセイ「母さん目線の写真史」は毎月25日の更新です。
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