「瀧口修造とマルセル・デュシャン」第15回
Shuzo TAKIGUCHI and Marcel Duchamp Vol.15
土渕信彦
1.「急速な鎮魂曲」(その2)
今回は瀧口修造の手作り本『急速な鎮魂曲』(10部)について述べる(図15-1,2)。この手作り本は、「美術手帖」1968年12月号から「急速な鎮魂曲」の頁を抜き出し、二つ折りにした厚手の和紙の表紙・裏表紙に挟んで、冊子としたものである。この連載の第13回末尾で紹介したとおり、この手作り本『急速な鎮魂曲』を瀧口は、ティニー・デュシャンに対して『マルセル・デュシャン語録』A版とともに贈ったようで、68年12月28日付けのティニー・デュシャンからの礼状の中で、この手作り本についても触れられていた。
図15-1
手作り本『急速な鎮魂曲』表紙
図15-2
手作り本『急速な鎮魂曲』扉頁
上の図版は10部制作されたうちの第10番で、所蔵者は笠原正明氏。1975年9月に瀧口から贈られたものである。今回、ご厚意により撮影させていただいた。笠原氏はマルセル・デュシャンのコレクターとして有名な方で、実質的に日本初のデュシャン展となった78年1月の自由が丘画廊「マルセル・デュシャン小展示」(「瀧口修造の箱舟」第2回参照)で展示されたオブジェや作品も、大半は笠原氏のコレクションであった。
手作り本『急速な鎮魂曲』の刊行部数である10部は、『マルセル・デュシャン語録』A版の著者本と同数ということになる。第1~9番までは、ティニー・デュシャンだけではなく、作品を寄せたジャスパー・ジョーンズ、ティンゲリー、荒川修作や、マン・レイ、ロベール・ルベル、海藤日出男らに対して、『語録』A版とともに贈られたのかもしれない。
表紙には腕を組んだ男女のシルエットの図柄の白紙が貼られている。この図柄はいうまでもなく、画廊「グラディヴァ」のドアのためにデュシャンがデザインしたものである(図15-3,4)。「グラディヴァ」はアンドレ・ブルトンが1937年に開設した画廊で、名称はドイツの作家ヴィルヘルム・イェンゼンの小説から採られている。この小説はフロイトによって分析の対象とされ、シュルレアリストたちも愛好したことは、よく知られている。
図15-3
画廊「グラディヴァ」入口に立つアンドレ・ブルトンと、後ろ姿のオスカール・ドミンゲス(「みづゑ」1938年11月号「海外前衛美術消息」より転載)
図15-4
「グラディヴァ」入口のデュシャンとタンギー(同)
このドアの図柄は、1968年3月19日~4月20日にコルディエ/エクストローム画廊で開催されたマルセル・デュシャン展の際にレプリカとマルチプルが制作されている(図15-5)。『急速な鎮魂曲』表紙・裏表紙の白紙は、表紙の図柄右下のサインと裏表紙の記載の改行から判断すると、ともにこのマルチプルを元にしたものと思われる(図15-6)。
“ENTRANCE DOOR BY MARCEL DUCHAMP : 1968 VERSION OF GLASS DOOR MADE IN 1937 FOR THE OPENING OF ANDRE BRETON’S GALERIE GRADIVA.”
図15-5
マルチプル「グラディヴァ」のドア(『マルセル・デュシャン紙の上の仕事』(京都書院、1991年6月)より)
図15-6
手作り本『急速な鎮魂曲』裏表紙
表紙の裏に引用されている言葉は、ロベール・デスノスによる有名な言葉の遊びである(図15-7)。以下に引用する。「急速な鎮魂曲」の本文末尾にも訳出されていた。
“Si le silence est d’or, Rrose Sélavy abaisse ses cils et s’endort.
Robert Desnos”
「もし沈黙が黄金なら、ローズ・セラヴィはまつ毛をおろして眠りにつくだろう(ロベール・デスノス)」
図15-7
手作り本『急速な鎮魂曲』表紙裏
また奥付頁(裏表紙の裏)には以下のような記載が認められる(図15-8)。英文タイトルが、前回見た「クロス・トーク/インターメディア」のリーフレット・セットの“A Rapid Requiem”ではなく、何故だかわからないが、“A Swift Requiem”と変更されている。
“A Swift Requiem : Marcel Duchamp 1887-1968
Shuzo Takiguchi
Extract from “Bijutsu-Techo”
December 1968
10/10”
さらにこの10番本には、次のような献辞がインクで書き込まれている。
「笠原正明様
瀧口修造
1975年9月23日」
図15-8
手作り本『急速な鎮魂曲』奥付頁
「美術手帖」に「急速な鎮魂曲」を発表し、『マルセル・デュシャン語録』を刊行してから約2ヶ月後の、69年2月3日の明け方、瀧口は病に倒れて救急車で運ばれ、西落合の河井病院に2週間ほど入院することになる。『語録』の製作のために無理を重ねていたのだろう。「自筆年譜」1969年の項では、つぎのように記されている。
「暮から疲労を感じていたが、2月3日未明4時頃、日本読書新聞「日録」執筆中に脳血栓で倒れ、一時左半身麻痺に陥る。近くの河井病院に救急車で運ばれるが、2週間ほどで退院、6月中旬現在も通院加療中。」
「6月中旬現在」とあるのは、退院後に組まれた雑誌「本の手帖」(昭森社)69年8月号の「特集瀧口修造」(図15-9)のために、「自筆年譜」をこの頃に執筆していたためである。
図15-9
雑誌「本の手帖」1969年8月号表紙
「自筆年譜」で言及された日本読書新聞の「日録」には、69年1月の事項がいくつか挙げられた後、続けて次のように記されている。
「2月某日 ここまで書いたところでわが身に急変あり、”ああ”これが私の絶筆というものになるのかも知れぬぞ……と思いながら救急車のタンカから夜明けの空をあおぐ……寒風におそろしく雲足が速い。
― 然し、私は救われた。仮りにも……」
この頃、ロックフェラー財団の招待で渡米する計画があったようだが、病のため、この時には実現しなかった。
(つちぶちのぶひこ)
●今日のお勧め作品は、瀧口修造です。
瀧口修造
「I-11」
インク、紙
Image size: 30.5x22.0cm
Sheet size: 35.427.0cm
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Shuzo TAKIGUCHI and Marcel Duchamp Vol.15
土渕信彦
1.「急速な鎮魂曲」(その2)
今回は瀧口修造の手作り本『急速な鎮魂曲』(10部)について述べる(図15-1,2)。この手作り本は、「美術手帖」1968年12月号から「急速な鎮魂曲」の頁を抜き出し、二つ折りにした厚手の和紙の表紙・裏表紙に挟んで、冊子としたものである。この連載の第13回末尾で紹介したとおり、この手作り本『急速な鎮魂曲』を瀧口は、ティニー・デュシャンに対して『マルセル・デュシャン語録』A版とともに贈ったようで、68年12月28日付けのティニー・デュシャンからの礼状の中で、この手作り本についても触れられていた。
図15-1手作り本『急速な鎮魂曲』表紙
図15-2手作り本『急速な鎮魂曲』扉頁
上の図版は10部制作されたうちの第10番で、所蔵者は笠原正明氏。1975年9月に瀧口から贈られたものである。今回、ご厚意により撮影させていただいた。笠原氏はマルセル・デュシャンのコレクターとして有名な方で、実質的に日本初のデュシャン展となった78年1月の自由が丘画廊「マルセル・デュシャン小展示」(「瀧口修造の箱舟」第2回参照)で展示されたオブジェや作品も、大半は笠原氏のコレクションであった。
手作り本『急速な鎮魂曲』の刊行部数である10部は、『マルセル・デュシャン語録』A版の著者本と同数ということになる。第1~9番までは、ティニー・デュシャンだけではなく、作品を寄せたジャスパー・ジョーンズ、ティンゲリー、荒川修作や、マン・レイ、ロベール・ルベル、海藤日出男らに対して、『語録』A版とともに贈られたのかもしれない。
表紙には腕を組んだ男女のシルエットの図柄の白紙が貼られている。この図柄はいうまでもなく、画廊「グラディヴァ」のドアのためにデュシャンがデザインしたものである(図15-3,4)。「グラディヴァ」はアンドレ・ブルトンが1937年に開設した画廊で、名称はドイツの作家ヴィルヘルム・イェンゼンの小説から採られている。この小説はフロイトによって分析の対象とされ、シュルレアリストたちも愛好したことは、よく知られている。
図15-3画廊「グラディヴァ」入口に立つアンドレ・ブルトンと、後ろ姿のオスカール・ドミンゲス(「みづゑ」1938年11月号「海外前衛美術消息」より転載)
図15-4「グラディヴァ」入口のデュシャンとタンギー(同)
このドアの図柄は、1968年3月19日~4月20日にコルディエ/エクストローム画廊で開催されたマルセル・デュシャン展の際にレプリカとマルチプルが制作されている(図15-5)。『急速な鎮魂曲』表紙・裏表紙の白紙は、表紙の図柄右下のサインと裏表紙の記載の改行から判断すると、ともにこのマルチプルを元にしたものと思われる(図15-6)。
“ENTRANCE DOOR BY MARCEL DUCHAMP : 1968 VERSION OF GLASS DOOR MADE IN 1937 FOR THE OPENING OF ANDRE BRETON’S GALERIE GRADIVA.”
図15-5マルチプル「グラディヴァ」のドア(『マルセル・デュシャン紙の上の仕事』(京都書院、1991年6月)より)
図15-6手作り本『急速な鎮魂曲』裏表紙
表紙の裏に引用されている言葉は、ロベール・デスノスによる有名な言葉の遊びである(図15-7)。以下に引用する。「急速な鎮魂曲」の本文末尾にも訳出されていた。
“Si le silence est d’or, Rrose Sélavy abaisse ses cils et s’endort.
Robert Desnos”
「もし沈黙が黄金なら、ローズ・セラヴィはまつ毛をおろして眠りにつくだろう(ロベール・デスノス)」
図15-7手作り本『急速な鎮魂曲』表紙裏
また奥付頁(裏表紙の裏)には以下のような記載が認められる(図15-8)。英文タイトルが、前回見た「クロス・トーク/インターメディア」のリーフレット・セットの“A Rapid Requiem”ではなく、何故だかわからないが、“A Swift Requiem”と変更されている。
“A Swift Requiem : Marcel Duchamp 1887-1968
Shuzo Takiguchi
Extract from “Bijutsu-Techo”
December 1968
10/10”
さらにこの10番本には、次のような献辞がインクで書き込まれている。
「笠原正明様
瀧口修造
1975年9月23日」
図15-8手作り本『急速な鎮魂曲』奥付頁
「美術手帖」に「急速な鎮魂曲」を発表し、『マルセル・デュシャン語録』を刊行してから約2ヶ月後の、69年2月3日の明け方、瀧口は病に倒れて救急車で運ばれ、西落合の河井病院に2週間ほど入院することになる。『語録』の製作のために無理を重ねていたのだろう。「自筆年譜」1969年の項では、つぎのように記されている。
「暮から疲労を感じていたが、2月3日未明4時頃、日本読書新聞「日録」執筆中に脳血栓で倒れ、一時左半身麻痺に陥る。近くの河井病院に救急車で運ばれるが、2週間ほどで退院、6月中旬現在も通院加療中。」
「6月中旬現在」とあるのは、退院後に組まれた雑誌「本の手帖」(昭森社)69年8月号の「特集瀧口修造」(図15-9)のために、「自筆年譜」をこの頃に執筆していたためである。
図15-9雑誌「本の手帖」1969年8月号表紙
「自筆年譜」で言及された日本読書新聞の「日録」には、69年1月の事項がいくつか挙げられた後、続けて次のように記されている。
「2月某日 ここまで書いたところでわが身に急変あり、”ああ”これが私の絶筆というものになるのかも知れぬぞ……と思いながら救急車のタンカから夜明けの空をあおぐ……寒風におそろしく雲足が速い。
― 然し、私は救われた。仮りにも……」
この頃、ロックフェラー財団の招待で渡米する計画があったようだが、病のため、この時には実現しなかった。
(つちぶちのぶひこ)
●今日のお勧め作品は、瀧口修造です。
瀧口修造「I-11」
インク、紙
Image size: 30.5x22.0cm
Sheet size: 35.427.0cm
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