本日から第273回企画「恩地孝四郎展」を開催します。

会期=2016年2月6日[土]―2月20日[土] 12:00-19:00 会期中無休
◆ギャラリートークのご案内
2月12日(金)18時より西山純子さん(千葉市美術館主任学芸員)を講師に迎えてギャラリートークを開催します。
※要予約/参加費1,000円、若干残席があります。お申込みはメールにてどうぞ。
1975年5月、飯田橋にあった憂陀というバーで開催した「恩地孝四郎展」以来、何度目かになるささやかな恩地孝四郎展を開催します。
40年前の出品作品は、恩地孝四郎のご息女、三保子さんにお借りした作品でした。
以来、私たちにとって恩地孝四郎は最も重要な作家の一人となりました。
簡単に恩地の生涯をたどってみましょう。
1891(明治24)年7月2日(偶然ですが亭主も同じ7月2日生まれです)東京に生まれた恩地孝四郎は、日本創作版画協会(1918年)、日本版画協会(1931年)、日本版画奉公会(1943年)の創立に参加、国画会版画部に属し、戦後の日本版画協会再建(1946年)にあたっても中心的な役割を果たしました。近代版画の歴史と共に歩んだ作家といっていいでしょう。
「色と形を以つて、心を表現するのが、本来美術の純粋形態である筈だ。それが、美術は形を模さねばならぬものといつのまにか定められて了つてゐる。(中略)凡そ、知解にうつたへる芸術ほど下等なものはないのだ。すべての中間作品、通俗作品がそれである」(恩地孝四郎/版芸術1932年 4月創刊号)と鋭く指摘するように、恩地は版画とか油彩とかの表現手段を超えて明解に自己の目指すものをつかみ、またそれを様々な材料と技法を使い表現することができた稀有な作家でした。
山本鼎たちによって始まる創作版画運動は版画のオリジナリティを確立するために「版画は絵の複製であってはならない」という主張を実践しようとします。具体的にはその主張が「自画自刻自摺」という言葉に置き換えられ、やがてスローガン化します。本来は優れた版画表現を獲得するための方法論に過ぎなかった言葉がいつしか自己目的化し、結果として運動のエネルギーを矮小化させ、多くの場合創作そのものが袋小路に陥ってしまったことは否めません。
特筆したいのは「夢二学校の出藍の生徒」だった恩地は、そのようなスローガン化したドグマからは全く自由であったということです。
彼が十代で出会い決定的な影響を受けた竹久夢二は創作版画運動とは少しずれた地点で多くの版画作品を残しましたは、創作のための作家の創意と、それを表現する技術の駆使において天才的な腕をふるいます。『婦人グラフ』の表紙を飾った木版画などは、自摺どころか木版の機械印刷によって制作されています。つまりバレンは使っていません。「自画自刻自摺」などという念仏を飛び越えて真に「版の絵」の素晴らしさを獲得した先達でした。
夢二の影響もあったでしょうが、恩地はまた早くから萩原朔太郎『月に吠える』(感情詩社、1917)など本の装丁を手掛け、1929(昭和 4)年の『白秋全集』で装丁家としての地位を確立し、夥しい数の装丁を残しています。
指導者として後輩たちにも心をくだき、1939年から毎月第一木曜に自宅で「一木会」という研究会を開きます。この会は戦後まで続き、現代版画の開花へと橋渡しの役割を果たしました。
文字通り日本の近代版画の指導者として活躍し、1955(昭和30)年 6月 3日死去。
恩地が創作した抽象作品の多くは海外に渡り、長く日本では見ることはできませんでした。
亭主は創作版画と恩地孝四郎についてはそれなりに学び、また多くの作品を扱ってきたと密かに自負していたのですが、東京国立近代美術館で開催されている「恩地孝四郎展」を見て、その密かな自負が根底から覆されました。
大げさではなく、亭主が見てきた数多の展覧会で、今回ほど打ちのめされたことはありません。
その日のショックは先日のブログに少し書きました。
桑原規子さんという恩地孝四郎の研究者がいます。
桑原さんは「私は調べてからでないと書けない」というように、地道に文献をあさり、海外の美術館を訪ね、それこそ一歩一歩、恩地という巨峰に挑んできました。
その成果が大著『恩地孝四郎研究 版画のモダニズム』です。
ブログに書いていただいた「著者からのメッセージ」にあるように、恩地没後、その真価を問えるような展覧会が今日の今日まで実現しなかったのは、
<恩地の戦後作品の大半が海外に収蔵されているからである。終戦直後、恩地の抽象版画を評価したのは、日本人ではなく日本に駐留したアメリカ人たちだった。それが皮肉にも、現在では画集の出版や展覧会の開催を妨げる要因のひとつとなっている。
私の場合は、幸いにも科学研究費補助金を頂けたため、2003年から大英博物館、シカゴ美術館、ホノルル美術館、レジョン・オブ・オナ―美術館(サンフランシスコ)、ロサンゼルス・カウンティ・ミュージアム、ボストン美術館、ハワイ大学マノア校図書館、パリ国立図書館、パリ装飾美術館9館の調査が行えた(そのほとんどは味岡千晶氏との共同調査である)。>
私たちが知らなかった(見ることができなかった)恩地孝四郎の真の世界を東京国立近代美術館で開催されている「恩地孝四郎展」で見ることができます。
どうぞ、皆さん竹橋へ!
見なければきっと後悔します。
お時間がありましたら、ときの忘れものにも立ち寄り、ささやかな小展示をご覧いただき、その余韻を味わって頂けたらと思います。

会期=2016年2月6日[土]―2月20日[土] 12:00-19:00 会期中無休
◆ギャラリートークのご案内
2月12日(金)18時より西山純子さん(千葉市美術館主任学芸員)を講師に迎えてギャラリートークを開催します。
※要予約/参加費1,000円、若干残席があります。お申込みはメールにてどうぞ。
1975年5月、飯田橋にあった憂陀というバーで開催した「恩地孝四郎展」以来、何度目かになるささやかな恩地孝四郎展を開催します。
40年前の出品作品は、恩地孝四郎のご息女、三保子さんにお借りした作品でした。
以来、私たちにとって恩地孝四郎は最も重要な作家の一人となりました。
簡単に恩地の生涯をたどってみましょう。
1891(明治24)年7月2日(偶然ですが亭主も同じ7月2日生まれです)東京に生まれた恩地孝四郎は、日本創作版画協会(1918年)、日本版画協会(1931年)、日本版画奉公会(1943年)の創立に参加、国画会版画部に属し、戦後の日本版画協会再建(1946年)にあたっても中心的な役割を果たしました。近代版画の歴史と共に歩んだ作家といっていいでしょう。
「色と形を以つて、心を表現するのが、本来美術の純粋形態である筈だ。それが、美術は形を模さねばならぬものといつのまにか定められて了つてゐる。(中略)凡そ、知解にうつたへる芸術ほど下等なものはないのだ。すべての中間作品、通俗作品がそれである」(恩地孝四郎/版芸術1932年 4月創刊号)と鋭く指摘するように、恩地は版画とか油彩とかの表現手段を超えて明解に自己の目指すものをつかみ、またそれを様々な材料と技法を使い表現することができた稀有な作家でした。
山本鼎たちによって始まる創作版画運動は版画のオリジナリティを確立するために「版画は絵の複製であってはならない」という主張を実践しようとします。具体的にはその主張が「自画自刻自摺」という言葉に置き換えられ、やがてスローガン化します。本来は優れた版画表現を獲得するための方法論に過ぎなかった言葉がいつしか自己目的化し、結果として運動のエネルギーを矮小化させ、多くの場合創作そのものが袋小路に陥ってしまったことは否めません。
特筆したいのは「夢二学校の出藍の生徒」だった恩地は、そのようなスローガン化したドグマからは全く自由であったということです。
彼が十代で出会い決定的な影響を受けた竹久夢二は創作版画運動とは少しずれた地点で多くの版画作品を残しましたは、創作のための作家の創意と、それを表現する技術の駆使において天才的な腕をふるいます。『婦人グラフ』の表紙を飾った木版画などは、自摺どころか木版の機械印刷によって制作されています。つまりバレンは使っていません。「自画自刻自摺」などという念仏を飛び越えて真に「版の絵」の素晴らしさを獲得した先達でした。
夢二の影響もあったでしょうが、恩地はまた早くから萩原朔太郎『月に吠える』(感情詩社、1917)など本の装丁を手掛け、1929(昭和 4)年の『白秋全集』で装丁家としての地位を確立し、夥しい数の装丁を残しています。
指導者として後輩たちにも心をくだき、1939年から毎月第一木曜に自宅で「一木会」という研究会を開きます。この会は戦後まで続き、現代版画の開花へと橋渡しの役割を果たしました。
文字通り日本の近代版画の指導者として活躍し、1955(昭和30)年 6月 3日死去。
恩地が創作した抽象作品の多くは海外に渡り、長く日本では見ることはできませんでした。
亭主は創作版画と恩地孝四郎についてはそれなりに学び、また多くの作品を扱ってきたと密かに自負していたのですが、東京国立近代美術館で開催されている「恩地孝四郎展」を見て、その密かな自負が根底から覆されました。
大げさではなく、亭主が見てきた数多の展覧会で、今回ほど打ちのめされたことはありません。
その日のショックは先日のブログに少し書きました。
桑原規子さんという恩地孝四郎の研究者がいます。
桑原さんは「私は調べてからでないと書けない」というように、地道に文献をあさり、海外の美術館を訪ね、それこそ一歩一歩、恩地という巨峰に挑んできました。
その成果が大著『恩地孝四郎研究 版画のモダニズム』です。
ブログに書いていただいた「著者からのメッセージ」にあるように、恩地没後、その真価を問えるような展覧会が今日の今日まで実現しなかったのは、
<恩地の戦後作品の大半が海外に収蔵されているからである。終戦直後、恩地の抽象版画を評価したのは、日本人ではなく日本に駐留したアメリカ人たちだった。それが皮肉にも、現在では画集の出版や展覧会の開催を妨げる要因のひとつとなっている。
私の場合は、幸いにも科学研究費補助金を頂けたため、2003年から大英博物館、シカゴ美術館、ホノルル美術館、レジョン・オブ・オナ―美術館(サンフランシスコ)、ロサンゼルス・カウンティ・ミュージアム、ボストン美術館、ハワイ大学マノア校図書館、パリ国立図書館、パリ装飾美術館9館の調査が行えた(そのほとんどは味岡千晶氏との共同調査である)。>
私たちが知らなかった(見ることができなかった)恩地孝四郎の真の世界を東京国立近代美術館で開催されている「恩地孝四郎展」で見ることができます。
どうぞ、皆さん竹橋へ!
見なければきっと後悔します。
お時間がありましたら、ときの忘れものにも立ち寄り、ささやかな小展示をご覧いただき、その余韻を味わって頂けたらと思います。
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