「瀧口修造とマルセル・デュシャン」第22回
Shuzo TAKIGUCHI and Marcel Duchamp Vol.22

土渕信彦


米国旅行(その5)
前回まで4回続けて瀧口修造の米国旅行について述べてきたので、今回で切り上げることとし、以下に書き残した点を補足する。

まず、ティニー・デュシャンとの交流に関連した事柄をいくつか。
瀧口の「寸秒夢、あとさき」に、次のような一節がある(「現代詩手帖」臨時増刊「瀧口修造」、1974年。図22-1)。

「Géogénie n.f. 地球創造説(白水社。仏和大辞典の戦前版)
私のむかしの詩「地球創造説」(1928)を一冊の黒い本にしたが、そのまた黒い縮刷版を昨年出版した。それをティニー・デュシャンにあげようと、献辞に標題を英語で入れるとき、GEOGENYと書こうとして、おもしろくもないなと思い、突嗟にGEOGENESISと、旧約の創世記を結びつけてしまう。覗き込むティニーさんはふふと笑った。洒落と思ってくれたのであろう。
ネオロジズム? 私にはまだわからない。」

図22-1 「現代詩手帖」図22-1
「現代詩手帖」臨時増刊「瀧口修造」、1974年10月


引用で触れられた『地球創造説』縮刷版(1973年9月。図22-2)には、元版となる限定版(1972年)と上製版(同)があり、限定版にはオリジナルのロトデッサンが1葉付されている。どのバージョンも共通して黒紙に墨インクで印刷されており、頁を少し傾けて光の角度を変えないと文字が浮き上がらない(図22-3)。読み進めるのは骨が折れるが、黒紙に鉛筆で同心円状に線描されたロトデッサンの効果を、活字でも試みたものだろう。

図22-2 地球創造説図22-2
書肆山田『地球創造説』縮刷版(1973年9月)


図22-3 地球創造説 本文図22-3
『地球創造説』縮刷版
本文冒頭部


上の引用で語られているのは、おそらくティニーに招かれてデュシャンのアトリエを訪問した際のエピソードかと思われる(図22-4)。米国旅行の4年後の、マルチプル「檢眼圖」が完成した1977年の作品だが、ティニー宛てのロトデッサンが残されているので(図22-5)、この訪問のときにも『地球創造説』の縮刷版に添えて、一葉を贈呈していたかもしれない。

図22-4 ティニー・デュシャンと図22-4
ティニー・デュシャンと(1973年。撮影者はおそらく森口陽氏だろう)


図22-5 ロトデッサン(ティニー宛て)図22-5
ロトデッサン
“Hommage à Teeny Duchamp Shuzo Takiguchi ’77”
右頁の仏文はつぎのとおり
Rotodesin
Moi aussi je suis peintre!
pour
Teeny Duchamp
Shuzo Takiguchi
Tokyo 1977


逆にティニーから瀧口にプレゼントされた葉巻の箱も残されている(図22-6)。記載された日付から、訪問の際に贈られたものと思われる。瀧口が愛煙家であることを、前もって荒川修作あたりに聞いていたのかもしれない。

図22-6 葉巻の箱図22-6
瀧口に贈られたハバナ葉巻の箱(ティニー・デュシャンの署名と“Sept. 23. 1973”の日付入り。富山県立近代美術館蔵)


上図のとおり、箱の底に直に署名されているように見えるが、署名された紙一葉が底に敷かれているのかもしれない。いずれにしろプレゼントなのだから、元は葉巻が箱いっぱいに入っており、あらかた喫い終ってこの状態になったのだろう。

余談ながら、「寸秒夢、あとさき」の、上の引用のすぐ後には、デュシャンについての次のような記述もある。

「マルセル・デュシャンという人は、死んだとき、遺言により葬儀もせず、公の死亡通知も出さなかったらしい。それでもルーアンの家族の墓地に葬られて、墓石には故人の意志により、こんな意味のコトバが刻まれたという。

さりながら死ぬのはいつも他人なり。

こんな川柳ぶしの訳ではデュシャンも地下で泣くであろうが、泣くデュシャンなど想像できぬことも事実である。それにしても「語っているのはつねに死せる人である」の感もなくはない。永遠の語りと永遠の沈黙との同存である。良心のために原文を。

D’ailleurs c’est toujours les autres qui meurent.」

参考までに、デュシャン家族の墓と、墓地に至るまでの少し急な坂道の写真を掲げておく(図22-7,8)。

図22-7 デュシャン家族の墓図22-7
デュシャン家族の墓(撮影者:土渕)


図22-8 ルーアンの坂道図22-8
ルーアンの坂道(撮影者:土渕)


米国旅行から帰国した瀧口は、手作り本『扉に鳥影』(図22-9,10)を制作し、関係者に宛てて贈呈している。奥付には次のように記されている。

Fragments from Philadelphia Memorandum. Private Hand-made Edition. Limitted but Unnumbered. Rrose Sélavy, Tokyo, Decmber 7, 1973.
Shuzo Takiguchi, by himself.

図22-9 扉に鳥影 表紙図22-9
瀧口修造『扉に鳥影』表紙


図22-10 扉に鳥影 表紙裏・奥付頁図22-10
同上
表紙裏・奥付頁


発行日とされた”Decmber 7”は瀧口の誕生日に当たる。発行元が”Rrose Sélavy, Tokyo”(東京ローズ・セラヴィ)とされているのは、『マルセル・デュシャン語録』(1968年)や前出「檢眼圖」と共通する。なお、この手作り本は、後に雑誌「ユリイカ」1977年8月号の特集「シュルレアリスムの彼方へ デュシャンとルッセル」(図22-11)に、ほぼ原寸大で再録された。

図22-11 「ユリイカ」図22-11
「ユリイカ」1977年8月号


再録に際して自筆の解説「私製草子のための口上」が書き下ろされ、「ユリイカ」同号に掲載された。この解説のなかでは『扉に鳥影』だけではなく、米国旅行自体についても触れられているので、少し長くなるが以下に引用しておきたい。

「『扉に鳥影』は1973年9月、マルセル・デュシャンの死後はじめての記念回顧展がフィラデルフィア美術館で催されたとき、9月19日夜のオプニングへの招待(ブラック・タイでのディナー)には型通りの欠礼の返事を打電したあと、ふと普段着のままでぶらりとその時刻に姿を現わしてみようかという突飛な考えが浮かんで、曲りなりにも実行することになった、これはその奇妙な出来事の名残りである。しかし偶然に出会うことになった東野芳明氏がその現地報告をおもしろく書いてしまったが、私自身は初志の通りその報告めいたものをまだ発表していない。ここに複製されたゼロックスの手作りの小冊子は、かつての「デュシャン語録」でお世話になった友人や、この訪問で想い出深い関係のあった極めて少数の人たちにプライヴェイトな記念として贈ったもので、正確な部数は覚えていない。20部を越えないであろう。ポケットのメモ帖や有り合せの紙片に書きとめた断想めいたコトバを切り貼りしたもの、最後の紙片だけは帰ってからの補足。タイプした舌足らずの英訳文は、贈り先の外国人への配慮から。―何も秘密にする理由はなかったが、われながら発想の唐突さから、こんな訪れのかたちが自然にあってもよいと思っただけのことである。皮肉にも、この旅は私の生涯でも珍しく、おとぎばなしにも似た出会いや私的な想い出にみちているのだが。[後略]」

なお、『扉に鳥影』の表紙裏には、上図のとおり、上野紀子さんの油彩画(デュシャンの遺作の覗き込む瀧口の後ろ姿を描いたもの)を瀧口宅の庭に置いた光景を写したカラー写真が貼り込まれているが、「ユリイカ」への再録ではモノクロとなっている。
つちぶちのぶひこ

●今日のお勧め作品は、瀧口修造です。
20160613_takiguchi2014_II_18瀧口修造
「II-18」
デカルコマニー
イメージサイズ:15.7×9.0cm
シートサイズ :19.3×13.1cm


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