訃報です。
島州一先生が7月24日に亡くなられました。享年82。

例年にない酷暑の中、2018年7月24日、島 州一は急性骨髄性白血病の為亡くなりました。
僭越ですが、このblogについては、島 州一の作品画像に、妻である私がそばで見聞きしたことをコメントとして加えていきたいと思います。作品理解の一助になれば幸いです。
     2018年7月31日 島 今子

島 州一のフェイスダイアリー「とんだ災難カフカの日々」より>
島州一 1974年10月7日
1974年10月7日
銀座・ギャラリープラネートにて島州一先生
(現代版画センターの初めてのエディション展)
亭主が美術界に入ったのが1974年、もし60~70年代を「版画の時代」と称するのなら島州一先生こそが現代版画の革命児でした。
針生一郎先生は当時の現代版画センター機関誌の連載で、端的にそのことを指摘されています。

一九六〇年代には、ビデオ・カセット、有線テレビ、コンピュータ、電子リコピー、電子計算機、レーザー光線、教育機器など、エレクトロニクス・メディアが多様化した一方、版画ではガリ版の原理にもとづくシルクスクリーン技術の発達によって、写真の転写がいちじるしく容易になった。マス・メディアの複製機能をそのまま模倣するポップアートが出現し、「メディア・イズ・メッセージ」というマクルーハン理論がもてはやされたのも、この時代である。デザイナー粟津潔は「複々製に進路をとれ」「ものみな複製ではじまる」とこの時代相を要約したが、そういう方向をもっとも典型的に体現した版画家としては、島州一があげられるだろう。
*針生一郎「現代日本版画家群像 第11回 島州一と野田哲也」より>

現代版画センターは1974年春、顧問に久保貞次郎先生を迎え、事務局長・尾崎正教という、世間的には久保一派といわれる人々が参加して創立されました。
しかし事務局の中枢を担ったのは版画にも美術にもまったく縁のなかった亭主はじめ20代の若者たちでした。その一人、橋本凌一さんに関しては先日7月31日のブログに書きました。
初年度のエディション作家は20人ですが、久保カラーだけではなかったことがわかるでしょう。

靉嘔オノサト・トシノブ、矢柳剛、木村光佑高柳裕木村利三郎、丹阿弥丹波子、小田襄、船坂芳助、竹田鎮三郎島州一森義利、小田まゆみ、古沢岩美金守世士夫木村茂吉原英雄、飯塚国男、ジミー鈴木、木村満志子

素人集団に過ぎなかった現代版画センターだからできた作品もありました。
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『版画センターニュースNo.1』(1975年2月20日発行)、島州一「」を巻頭で紹介、頒価:500円でした。制作の経緯については初期スタッフだった西岡文彦さんが「第2回 エディションの革新性」で詳述しています。

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左から、関根伸夫「落ちるリンゴ」、島州一「筒」、島州一「ジーンズ」、島州一「ゲバラ
於・埼玉県立近代美術館「版画の景色 現代版画センターの軌跡」より、撮影:タケミアートフォトス

島州一先生のエディションはコピーした画像を筒に巻きつけたものであったり、布であったり、従来の版画の概念をことごとく覆すものでした。
このような作品を右も左も分からない素人たちが売ろうとしたわけですから、売れるわけがない(笑)。
現代版画センターの今考えれば苦肉の策でもあったわけですが、作家を連れて全国巡回展を文字とおり全国津々浦々で展開し、作家のオーラとオークションなどの非日常的イベントに参加者を巻き込み、その勢いで売っていったわけです。

全国に先駆けて手を挙げて下さったのがMORIOKA第一画廊の上田浩司さんで、盛岡まで行商に付き合ってくれたのが森義利先生と島州一先生でした。
1974年7月盛岡第一画廊版画への招待展1974年7月盛岡第一画廊版画への招待展DM
全国縦断「版画への招待展」盛岡展とオークション
会期:1974年7月13日~21日
会場:岩手県盛岡市・MORIOKA第一画廊
19740720全国縦断企画”版画への招待展”20171206114110_00003盛岡支部結成記念オークションにて。左から、「ゲバラ」を手にする綿貫不二夫、尾崎正教、島州一

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左から牛久保公典さん(版画収集家)、島州一先生、画廊主の上田浩司さんと長女のり土さん、右端で芳名簿に署名しているのは森義利先生

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当日の様子を中村光紀さん(当時岩手日報記者、現在は萬鉄五郎記念美術館館長)が『画譜』第2号(1974年9月1日発行)に寄稿されています。
クリックすると拡大します。

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クリックすると拡大します。

岡部徳三、石田了一ら優れた刷り師たちの協働を得て、現代版画センターのエディション活動は活発化します。
翌1975年には、一挙に新作エディションを制作し、全国数十箇所で「島州一・関根伸夫クロスカントリー7500km」展を同時開催しました。
1975年11月島・関根全国展・岐阜
1975年島・関根全国展共通DM
「島州一・関根伸夫クロスカントリー7500km」岐阜展
会期:1975年11月6日~11月16日
会場:岐阜県岐阜市・画廊匠屋(纐纈君平)
19751106島州一・関根伸夫クロスカントリー画廊匠屋_00002関根伸夫先生
19751106島州一・関根伸夫クロスカントリー画廊匠屋_00003
ジーンズ」の前に立つ島州一先生、左端立っているのが画廊主の纐纈君平さん

『島州一・関根伸夫 版画目録』は1975年の現代版画センター企画・全国縦断「島州一・関根伸夫クロスカントリー7,500km展」のために制作されました(テキスト執筆:東野芳明)。展覧会は1975年10月31日~11月30日の一ヶ月間、全国各地でほぼ同時に開催された。
版画のエディションの大きな特徴は、たとえば限定75部の版画を30種類、一挙に制作できれば、全国(全世界)で同時に75会場で、30点からなる展覧会を開催できるということにある。
1975年の「島州一・関根伸夫クロスカントリー7,500km展」はまさにそのことを実証した初めての全国同時展でした。
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島州一(しまくにいち)
1935年東京都に生まれる。2018年没する。1958年「集団・版」の結成に参加し、翌年多摩美術大学絵画科を卒業。「集団・版」のグループ展、現代日本美術展に発表を続け、1971年同美術展でコンクール賞、翌年ジャパン・アート・フェスティバルで大賞、以後もクラコウ国際版画ビエンナーレ展や、東京国際版画ビエンナーレ展など、国内外の版画展に多数出品し各賞を得る。1975年、関根伸夫と日本縦断展を全国30ヵ所で行う。1980年には文化庁在外研修生として欧米に1年間留学した。島の作品には、黄色に塗装した団地の外壁に黄色い布団を干したり、河原の石1万個に印刷し再び川に返す、また地面や新聞紙に泥の版画を刷るなど、日常的な物質による表現と物質そのものの関係を探るもの、映像の物質性や版画の可能性を探るものが多い。それによって、内面的な「個」と普遍性(世界)とのつながりを見出そうとした。
2018年7月24日死去。
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今春、現代版画センター(1974~1985)の全活動の軌跡を追った展覧会が埼玉県立近代美術館で開催され、時代に先駆けた島州一先生の作品の斬新さに多くの若い人が注目してくれました。
北海道から九州まで全国の行商に伴走してくださり、多くの版画作品を制作してくださった島州一先生に深い感謝をささげ、ご冥福を祈る次第です。
ありがとうございました。

●本日のお勧め作品は島州一です。
DSCF2415_600島州一「
1974年
シルクスクリーン
30.0×28.0cm
Ed.100  サインあり
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阿部勤設計の新しい空間についてはWEBマガジン<コラージ12月号18~24頁>に特集されています。
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