中村惠一「新宿・落合に住んだ画家たち(中村式落合散歩)」第6回
写真家・堀野正雄
堀野正雄の写真との出会いは板垣鷹穂の著書の中でのことであった。このブログは「新宿・落合に住んだ画家たち」と題した連載ではあるが、どうしても取り上げたくて、今回は写真家の堀野正雄とした。機械美学を展開した美術史家・板垣鷹穂は上落合599番地に住んでおり、『機械と藝術との交流』(1929年岩波書店)や『藝術的現代の諸相』(1931年六文館)といった著書に掲載されたモダンで独特な写真を撮影したのが堀野正雄であった。特に『藝術的現代の諸相』では巻頭ページに堀野の写真がグラフモンタージュ的に配置され魅力的なページとなっていた。
『機械と藝術との交流』書影
『藝術的現代の諸相』の表紙
『藝術的現代の諸相』の写真ページ
一方、落合にはオリエンタル写真工業の本社ならびに学校があった。余談であるが、創設者の一人である勝精は勝海舟の養子であったが、実父は徳川慶喜であった。そして会社設立にあたり資金を提供したのは慶喜の直臣であった澁澤栄一であった。オリエンタル写真工業は自社の写真材料の普及の目的をもって雑誌『フォトタイムス』を発行しており、ここに堀野正雄も板垣鷹穂も執筆していた。また堀野は同誌の「ステージフォトセクション」において演劇やダンスの舞台写真や舞台写真撮影のための文章を提供した。私は雑誌『フォトタイムス』を通じても堀野正雄の写真や論文を目にすることになったのだった。
『フォトタイムス』昭和6年9月号表紙
堀野が落合地域と関係をもつのは東京高等工業学校応用化学科(現・東京工大)に入学した大正13(1924)年のことである。築地小劇場に出入りするようになり、舞台写真を堀野は撮影するようになった。そこで村山知義と知り合う。マヴォで前衛芸術を展開していた村山と知り合うことから落合とのつながりができていった。昭和2(1927)年、「堀野正雄個人演劇写真展覧会」を丸ビル丸菱呉服店ギャラリーで開催した。昭和3(1928)年には小山内薫が監督した映画の主演俳優・鈴木傳明の紹介により松竹キネマ蒲田撮影所の普通写真部に入社。ここで俳優・山内光と知り合った。山内は本名を岡田桑三といい、ベルリンへの留学経験をもっていた。まさに村山知義と同じ時期のベルリンにいたのである。堀野は岡田とともに村山知義の三角のアトリエに同居したのである。一方、オリエンタル写真工業の技師長であった菊地東陽と知り合い、乾板や印画紙の提供を受け、空いていればオリエンタルスタジオを無償で使うことを許されたようである。あけて昭和4(1929)年2月、三角のアトリエを協会の所在地として村山、岡田、中戸川秀一、浅野孟府、勝田康雄らと「国際光画協会」を結成、第一回展を紀伊国屋書店階上で開催している。昭和5(1930)年4月頃から板垣鷹穂との共同作業となる「機械的建造物」の撮影が始まっている。これらの成果は『フォトタイムス』でも紹介されたが、前述のごとく板垣鷹穂の著書に反映され、また銀座松屋で開催された第二回個人写真展覧会に展示され、写真集『カメラ・眼×鉄・構成』(1932年木星社書院)に結実した。
「船―リベット」(『カメラ・眼×鉄・構成』)
昭和5(1930)年、堀野は上落合441番地にアトリエ堀野を開設する。現在の中井駅から少し下落合駅よりの大正橋付近である。その場所は村山の三角のアトリエからも近く、板垣の自宅へも近い場所であって、堀野の作品展開を考えると絶妙な場所にアトリエを作ったものだと感心する。その年の9月頃、雑誌『フォトタイムス』の編集長である木村専一が主催する「新興写真研究会」の設立に参加している。堀野は日本新興写真運動の中心にいた一人であり、『フォトタイムス』は新興写真の故郷ともいうべき雑誌である。その編集にも嘱託として深くかかわった。またプロデューサーは岡田ではあるが、「独逸国際移動写真展」が国際光画協会によって開催され、多くの日本人写真家たちに大きな影響を与え、新興写真時代の幕開けをもたらすことになったのだった。
丸印の場所がアトリエ堀野の場所
赤い星印がアトリエ堀野、青い星印が三角のアトリエ、黄色の星が板垣鷹穂邸
アトリエ堀野に住んでいた時期に板垣鷹穂とともに制作したグラフモンタージュ「大東京の性格」が『中央公論』に掲載された。グラフモンタージュはその後も共同制作者を変えて制作され続けた。たとえば村山知義の構成による「首都貫流‐隅田川アルバム」、詩人・北川冬彦のシナリオによって制作された「玉川べり」といった作品が残されている。
「大東京の性格」のページ
「玉川べり」
「玉川べり」のページ
昭和9(1934)年アトリエ堀野は上落合を離れ、赤坂区氷川町23番地に引っ越すことになる。この時期、名取洋之助の日本工房の仕事を請け負うことも始まっている。こうしてたどると上落合にいた時期の堀野正雄は彼の代表作を制作した充実期であったことがわかる。戦後写真家であることをやめてしまったが、今でも当時の堀野正雄の作品は魅力的である。
(なかむら けいいち)
■中村惠一(なかむら けいいち)
北海道大学生時代に札幌NDA画廊で一原有徳に出会い美術に興味をもつ。一原のモノタイプ版画作品を購入しコレクションが始まった。元具体の嶋本昭三の著書によりメールアートというムーブメントを知り、ネットワークに参加。コラージュ作品、視覚詩作品、海外のアーティストとのコラボレーション作品を主に制作する。一方、新宿・落合地域の主に戦前の文化史に興味をもち研究を続け、それをエッセイにして発表している。また最近では新興写真や主観主義写真の研究を行っている。
・略歴
1960年 愛知県岡崎市生まれ
1978年 菱川善夫と出会い短歌雑誌『陰画誌』に創刊同人として参加
1982年 札幌ギャラリー・ユリイカで個展を開催
1994年 メールアートを開始
1997年 “Visual Poesy of Japan”展参加(ドイツ・ハンブルグほか)
1999年 「日独ビジュアルポエトリー展」参加(北上市・現代詩歌文学館)
2000年 フランスのPierre Garnierとの日仏共作詩”Hai-Kai,un cahier D’ecolier”刊行
2002年 “JAPANESE VISUAL POETRY”展に参加(オーストリア大使館)
2008年 “Mapping Correspondence”展参加(ニューヨークThe Center for Book Arts)
2009年 “5th International Artist’s Book Triennial Vilnius2009”展に参加(リトアニア)
2012年 “The Future” Mail Art展企画開催(藤沢市 アトリエ・キリギリス)
◆中村惠一のエッセイ「新宿・落合に住んだ画家たち(中村式落合散歩)」は毎月22日更新です。
●今日のお勧め作品は野田哲也です。
野田哲也
《Diary;Nov. 18th '76(b)》
1976年
木版+シルクスクリーン(作家自摺り)
45.0x64.5cm
Ed. 20 Signed
*レゾネNo.187(フジテレビギャラリー、1978年)
野田哲也
《Diary;May. 17th '83》
1983年
木版+シルクスクリーン(作家自摺り)
19.7x30.6cm
Ed. 60 Signed
*レゾネNo.279(フジテレビギャラリー、1992年)
こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください。
●ときの忘れもののブログは年中無休ですが、それは多くの執筆者のおかげです。昨年ご寄稿いただいた方は全部で51人。年末12月30日のブログで全員をご紹介しました。
●2019年のときの忘れもののラインナップはまだ流動的ですが、昨2018年に開催した企画展、協力展覧会、建築ツアー、ギャラリーコンサートなどは年末12月31日のブログで回顧しました。
●ときの忘れものは〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS に移転しました。阿部勤設計の新しい空間についてはWEBマガジン<コラージ2017年12月号18~24頁>に特集されています。
TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531 E-mail:info@tokinowasuremono.com
営業時間=火曜~土曜の平日11時~19時。日・月・祝日は休廊。
JR及び南北線の駒込駅南口から約8分です。

写真家・堀野正雄
堀野正雄の写真との出会いは板垣鷹穂の著書の中でのことであった。このブログは「新宿・落合に住んだ画家たち」と題した連載ではあるが、どうしても取り上げたくて、今回は写真家の堀野正雄とした。機械美学を展開した美術史家・板垣鷹穂は上落合599番地に住んでおり、『機械と藝術との交流』(1929年岩波書店)や『藝術的現代の諸相』(1931年六文館)といった著書に掲載されたモダンで独特な写真を撮影したのが堀野正雄であった。特に『藝術的現代の諸相』では巻頭ページに堀野の写真がグラフモンタージュ的に配置され魅力的なページとなっていた。
『機械と藝術との交流』書影
『藝術的現代の諸相』の表紙
『藝術的現代の諸相』の写真ページ一方、落合にはオリエンタル写真工業の本社ならびに学校があった。余談であるが、創設者の一人である勝精は勝海舟の養子であったが、実父は徳川慶喜であった。そして会社設立にあたり資金を提供したのは慶喜の直臣であった澁澤栄一であった。オリエンタル写真工業は自社の写真材料の普及の目的をもって雑誌『フォトタイムス』を発行しており、ここに堀野正雄も板垣鷹穂も執筆していた。また堀野は同誌の「ステージフォトセクション」において演劇やダンスの舞台写真や舞台写真撮影のための文章を提供した。私は雑誌『フォトタイムス』を通じても堀野正雄の写真や論文を目にすることになったのだった。
『フォトタイムス』昭和6年9月号表紙堀野が落合地域と関係をもつのは東京高等工業学校応用化学科(現・東京工大)に入学した大正13(1924)年のことである。築地小劇場に出入りするようになり、舞台写真を堀野は撮影するようになった。そこで村山知義と知り合う。マヴォで前衛芸術を展開していた村山と知り合うことから落合とのつながりができていった。昭和2(1927)年、「堀野正雄個人演劇写真展覧会」を丸ビル丸菱呉服店ギャラリーで開催した。昭和3(1928)年には小山内薫が監督した映画の主演俳優・鈴木傳明の紹介により松竹キネマ蒲田撮影所の普通写真部に入社。ここで俳優・山内光と知り合った。山内は本名を岡田桑三といい、ベルリンへの留学経験をもっていた。まさに村山知義と同じ時期のベルリンにいたのである。堀野は岡田とともに村山知義の三角のアトリエに同居したのである。一方、オリエンタル写真工業の技師長であった菊地東陽と知り合い、乾板や印画紙の提供を受け、空いていればオリエンタルスタジオを無償で使うことを許されたようである。あけて昭和4(1929)年2月、三角のアトリエを協会の所在地として村山、岡田、中戸川秀一、浅野孟府、勝田康雄らと「国際光画協会」を結成、第一回展を紀伊国屋書店階上で開催している。昭和5(1930)年4月頃から板垣鷹穂との共同作業となる「機械的建造物」の撮影が始まっている。これらの成果は『フォトタイムス』でも紹介されたが、前述のごとく板垣鷹穂の著書に反映され、また銀座松屋で開催された第二回個人写真展覧会に展示され、写真集『カメラ・眼×鉄・構成』(1932年木星社書院)に結実した。
「船―リベット」(『カメラ・眼×鉄・構成』)昭和5(1930)年、堀野は上落合441番地にアトリエ堀野を開設する。現在の中井駅から少し下落合駅よりの大正橋付近である。その場所は村山の三角のアトリエからも近く、板垣の自宅へも近い場所であって、堀野の作品展開を考えると絶妙な場所にアトリエを作ったものだと感心する。その年の9月頃、雑誌『フォトタイムス』の編集長である木村専一が主催する「新興写真研究会」の設立に参加している。堀野は日本新興写真運動の中心にいた一人であり、『フォトタイムス』は新興写真の故郷ともいうべき雑誌である。その編集にも嘱託として深くかかわった。またプロデューサーは岡田ではあるが、「独逸国際移動写真展」が国際光画協会によって開催され、多くの日本人写真家たちに大きな影響を与え、新興写真時代の幕開けをもたらすことになったのだった。
丸印の場所がアトリエ堀野の場所
赤い星印がアトリエ堀野、青い星印が三角のアトリエ、黄色の星が板垣鷹穂邸アトリエ堀野に住んでいた時期に板垣鷹穂とともに制作したグラフモンタージュ「大東京の性格」が『中央公論』に掲載された。グラフモンタージュはその後も共同制作者を変えて制作され続けた。たとえば村山知義の構成による「首都貫流‐隅田川アルバム」、詩人・北川冬彦のシナリオによって制作された「玉川べり」といった作品が残されている。
「大東京の性格」のページ
「玉川べり」
「玉川べり」のページ昭和9(1934)年アトリエ堀野は上落合を離れ、赤坂区氷川町23番地に引っ越すことになる。この時期、名取洋之助の日本工房の仕事を請け負うことも始まっている。こうしてたどると上落合にいた時期の堀野正雄は彼の代表作を制作した充実期であったことがわかる。戦後写真家であることをやめてしまったが、今でも当時の堀野正雄の作品は魅力的である。
(なかむら けいいち)
■中村惠一(なかむら けいいち)
北海道大学生時代に札幌NDA画廊で一原有徳に出会い美術に興味をもつ。一原のモノタイプ版画作品を購入しコレクションが始まった。元具体の嶋本昭三の著書によりメールアートというムーブメントを知り、ネットワークに参加。コラージュ作品、視覚詩作品、海外のアーティストとのコラボレーション作品を主に制作する。一方、新宿・落合地域の主に戦前の文化史に興味をもち研究を続け、それをエッセイにして発表している。また最近では新興写真や主観主義写真の研究を行っている。
・略歴
1960年 愛知県岡崎市生まれ
1978年 菱川善夫と出会い短歌雑誌『陰画誌』に創刊同人として参加
1982年 札幌ギャラリー・ユリイカで個展を開催
1994年 メールアートを開始
1997年 “Visual Poesy of Japan”展参加(ドイツ・ハンブルグほか)
1999年 「日独ビジュアルポエトリー展」参加(北上市・現代詩歌文学館)
2000年 フランスのPierre Garnierとの日仏共作詩”Hai-Kai,un cahier D’ecolier”刊行
2002年 “JAPANESE VISUAL POETRY”展に参加(オーストリア大使館)
2008年 “Mapping Correspondence”展参加(ニューヨークThe Center for Book Arts)
2009年 “5th International Artist’s Book Triennial Vilnius2009”展に参加(リトアニア)
2012年 “The Future” Mail Art展企画開催(藤沢市 アトリエ・キリギリス)
◆中村惠一のエッセイ「新宿・落合に住んだ画家たち(中村式落合散歩)」は毎月22日更新です。
●今日のお勧め作品は野田哲也です。
野田哲也《Diary;Nov. 18th '76(b)》
1976年
木版+シルクスクリーン(作家自摺り)
45.0x64.5cm
Ed. 20 Signed
*レゾネNo.187(フジテレビギャラリー、1978年)
野田哲也《Diary;May. 17th '83》
1983年
木版+シルクスクリーン(作家自摺り)
19.7x30.6cm
Ed. 60 Signed
*レゾネNo.279(フジテレビギャラリー、1992年)
こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください。
●ときの忘れもののブログは年中無休ですが、それは多くの執筆者のおかげです。昨年ご寄稿いただいた方は全部で51人。年末12月30日のブログで全員をご紹介しました。
●2019年のときの忘れもののラインナップはまだ流動的ですが、昨2018年に開催した企画展、協力展覧会、建築ツアー、ギャラリーコンサートなどは年末12月31日のブログで回顧しました。
●ときの忘れものは〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS に移転しました。阿部勤設計の新しい空間についてはWEBマガジン<コラージ2017年12月号18~24頁>に特集されています。
TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531 E-mail:info@tokinowasuremono.com
営業時間=火曜~土曜の平日11時~19時。日・月・祝日は休廊。
JR及び南北線の駒込駅南口から約8分です。

コメント