土渕信彦のエッセイ「瀧口修造の本」

8.瀧口修造『今日の美術と明日の美術』~後編

ピカソへの熱意は、1950年代を通じて継続的に、関連企画を自ら手掛けたり、関与したりしていることからも明らかと思われます。まず1951年には私家版の『ピカソのえがいた顔』(図10)を制作しています。これは「みづゑ」誌1951年8月号(図11)に掲載された同名の記事(図12)の、複数の肖像図版や自らの詩などを、1枚ずつカード大に裁断して厚紙製のケースに収める形式で、瀧口初の手作り本といえるかもしれません。読売新聞社文化部の海藤日出男氏や美術出版社の大下正男氏など、ごく少数の関係者に配られたようです。

図10 カード図10 『ピカソのえがいた顔』試作(完成形ではカードを収納する外箱ケースまたは内袋に同年の読売新聞社主催「ピカソ」展関連の印刷物が使用されたかもしれない)

図11 みづゑ図11 「みづゑ」(1951年8月)

図12 描いた顔図12 「ピカソのえがいた顔」

瀧口が「実験工房」と命名した若手の芸術家集団の第1回発表会が、「ピカソ祭」(後出)の演目の一つのバレエ「生きる悦び」だったことも忘れられません。「ピカソ祭」プログラムに寄せた「〈生きる悦び〉について」では、以下のように記しています(『コレクション瀧口修造』第7巻3頁)。参考までに、本書第3章の「アンティーブのピカソ」から、「生きる悦び」の図版(図13)も転載しておきます。

「ピカソは大戦の翌年の1946年に南仏海岸アンチーブの古城で制作に没頭します。久しぶりで大自然にふれて若さをとり戻したピカソの琴線にギリシャの神々の笑いや角笛の音が共鳴したのでしょう。ここに稀に見る清澄な牧歌的連作が生れたのですが、その中の大作に誰がつけるともなく「生きる悦び」(ジョワ・ド・ヴィヴル)という題がついてしまいました。[後略]」

図13 生きる悦び図13 ピカソ「生きる悦び」

この「ピカソ祭」は1951年11月16日に日比谷公会堂で開催された公演で、読売新聞社主催「ピカソ展」(日本橋高島屋)の関連イベントでした。同展は第1期が同年8月26日~9月2日、第2期が11月6日~25日に開催されています(図14・15)。

図14 ポスター1期図14 「ピカソ展」第1期ポスター

図15 ポスター2期図15 同第2期ポスター

その後も『ピカソ 人間喜劇』(みすず書房原色版美術ライブラリー、1955年10月。図16)や、『ピカソ 戦争と平和』(同、1956年4月。図17)などを著しています。第7回にも触れましたが、瀧口にとってピカソがいかに大きな存在だったか、お判りいただけるでしょう。ちなみに「原色版美術ライブラリー」シリーズには、他に瀧口が担当した巻として、『ゴッホ』(1956年8月。図18)、『シュールレアリスム』(1956年12月。図19)、『ミロ』(1958年4月。図20)などもあります。

図16 人間喜劇図16 『ピカソ 人間喜劇』

図17 戦争と平和図17 『ピカソ 戦争と平和』

図18 ゴッホ図18 『ゴッホ』

図19 シュールレアリスム図19 『シュールレアリスム』

図20 ミロ図20 『ミロ』


こうしたピカソに対する熱意は、第2次大戦中から終戦直後の、ブルトンに対する冷やかで客観的な態度と対照的です。たとえば「生きているピカソ」発表直後の、1948年1月に「アトリヱ」誌(図21)に掲載された「シュルレアリスムその後 パリの国際展とアンドレ・ブルトン」(図22)の末尾には、次のように記されています。

「[前略]筆者の思うのに、彼[ブルトン]は少なくとも半ばは「夢みる」人そのものであり、また審美家としてとどまっている。彼の詩人としての洞察の魅力も、理論家としての欠陥もそこにある。そして夢や無意識の現実的価値そのものが彼の体系の明晰度や硬度にも同じ限界性をあたえているのであろう。」

図21 シュルレアリスムその後図21 「シュルレアリスムその後 パリの国際展とアンドレ・ブルトン」

図22 アトリヱ図22 「アトリヱ」


こうした評価の根底に、ブルトンが1939年に軍医として招集に応じたとの情報に驚愕し、「シュルレアリスム観の瓦解」(「自筆年譜」1940年の項)に陥った体験が存在しているのは間違いないところでしょう。それまでブルトンたちは「祖国はいらない」「ドイツ・プロレタリアートに刃を向けるな」と主張していたのですから、この路線に沿ってシュルレアリスムを日本に紹介してきた瀧口にとって、応召というのは変節と受け止めるしかない事態であり、梯子を外されたように感じて失望しただろと、容易に想像されます。この「シュルレアリスム観の瓦解」が、終戦直後の頃も続いていたのではないでしょうか。

このような冷めた客観的な見方がその後どのように変化していくかは、たいへん興味深くまた重要な問題ですが、予定の字数も大幅に超過しているので別の機会に譲ることとし、話を『16の横顔・ボナールからアルプへ』に戻します。16名の西洋の美術家を採り上げた本書は、仮に「美術評論家」という言葉が、「美術について評論する人」、あるいはもう少し踏み込んで、「主に西洋の近代美術や美術家について、本や雑誌などメディアを通じて、一般大衆に判りやすく解説する人」という意味であるとするなら、「美術評論家瀧口修造」というイメージの形成に、大きく作用したことは間違いないと思われます。本書が自らの装幀の原点とも言える1冊である点は、前述のとおりですが、内容自体も「美術評論家」の著作に相応しいものです。これらの点から、本書は瀧口の美術評論集の原型ともいえる、重要な1冊ということができるでしょう。
つちぶち のぶひこ

土渕信彦 Nobuhiko TSUCHIBUCHI
1954年生まれ。高校時代に瀧口修造を知り、著作を読み始める。サラリーマン生活の傍ら、初出文献やデカルコマニーなどを収集。その後、早期退職し慶應義塾大学大学院文学研究科修士課程修了(美学・美術史学)。瀧口修造研究会会報「橄欖」共同編集人。ときの忘れものの「瀧口修造展Ⅰ~Ⅳ」を監修。また自らのコレクションにより「瀧口修造の光跡」展を5回開催中。富山県立近代美術館、渋谷区立松濤美術館、世田谷美術館、市立小樽文学館・美術館などの瀧口展に協力、図録にも寄稿。主な論考に「彼岸のオブジェ―瀧口修造の絵画思考と対物質の精神の余白に」(「太陽」、1993年4月)、「『瀧口修造の詩的実験』の構造と解釈」(「洪水」、2010年7月~2011年7月)、「瀧口修造―生涯と作品」(フランスのシュルレアリスム研究誌「メリュジーヌ」、2016年)など。

◆土渕信彦のエッセイ「瀧口修造の本」は毎月23日の更新です。

●今日のお勧め作品は、瀧口修造です。
takiguchi2014_II_20瀧口修造 Shuzo TAKIGUCHI
"Ⅱ-20"
デカルコマニー
イメージサイズ:14.2×9.3cm
シートサイズ :25.8×19.0cm
Ⅱ-21と対

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◆ときの忘れものでは「第310回企画◆Tricolore2019―中村潤・尾崎森平・谷川桐子展 」を開催しています。
会期:2019年4月12日[金]―4月27日[土]11:00-19:00 ※日・月・祝日休廊
4月27日(土)に予定していた谷川桐子×小松崎拓男さんのトークは、作家の体調が思わしくなく中止します。またの機会に開催しますので、悪しからずご了承ください。
告知画像
ときの忘れものが期待する1980年代生まれの若手作家の三人展を開催します。それぞれが選んだメディアは異なりますが、表現したいものをどのように創るかに、強いこだわりを持った三人です。
中村潤はトイレットペーパーを編んで造形したものや方眼紙を刺したオブジェ作品を京都で制作しています。
尾崎森平は環境心理学に触発され、生まれ育った東北の現代の風景を描いています。
谷川桐子は油彩という古典的材料を使いながら、緻密に描いた砂利や地面の上にハイヒールやブラジャーなどを配した作品を創り続けています。
今回の三人展では大作を含め、それぞれ数点を出品します。

●ときの忘れものは〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS に移転しました。阿部勤設計の新しい空間についてはWEBマガジン<コラージ2017年12月号18~24頁>に特集されています。JR及び南北線の駒込駅南口から約8分です。
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