中村惠一のエッセイ「美術・北の国から」 第2回
一原有徳
北海道には昭和53(1978)年4月から丸4年間暮らした。きっかけは大学受験。静岡県浜松市の高校に通っていた私は日高山脈や大雪山系といった北海道の山々のスライドを先輩に見せてもらったことをきっかけに志望校を変えた。北海道の山に登りたいと思ったからだった。試験のあった3月頭は春一番が吹き、札幌は未曽有の大雪だった。美しかったが、過酷でもあり、飛行機が飛ばずに羽田空港で一泊した。初めての北海道は厳しい貌をみせたのだった。だからこそ極めて印象的であったといえるのかもしれない。
そんな経緯から大学に入学してすぐに登山のサークルに加わった。そして札幌近郊の山から登り始めた。当時の山のガイドブックには登山家・一原有徳の文章がよく掲載されていた。また、『小さな頂』(1974年茗溪堂)という北海道の山に関する文章を集めた本が刊行されており、楽しく読んでいた。文学や美術にも興味のあった私は、登山という文脈やつながりのほかにもいろいろなかかわりをもつようになっていた。そんななか、はじめ一原有徳を登山家として知った私は札幌のNDA画廊で一原の版画作品を見ることになったのだった。初めて見た一原の版画は今までに見たことがないような造形が画面いっぱいにひろがった独特のもので、その独自なモチーフやマチエールに驚いた。そのイメージの不思議さに魅了された。その時までに見ていたどの絵画にもない画面であると思ったのだった。

一原と初めて直接会ったのは昭和54(1979)年のこと。NDA画廊で開催された島州一の個展のオープニングの時であった。山のエッセイや登山記録の文章を読んでいたので、勝手に屈強な登山家を想像していた私はそのイメージを一気に壊されてしまう。会場に現れた一原は小柄で、怪我のために少し足を引きずる歩き方をしていた。しかも饒舌で満面の笑顔をみせる気さくな方であった。最初の出会いの日にはたっぷりと登山の話をしたのだと思う。具体的に何を話したのかは忘れてしまったが。
一原は明治43(1910)年徳島県に生まれた。幼いうちに北海道の真狩に転居している。大正12(1923)年に小樽に転居したが、この年に小樽運河は完成している。昭和2(1927)年には郵政省小樽地方貯金局に勤務、昭和45(1970)年の定年退職まで勤務した。一原が勤務した小樽地方貯金局の庁舎は現在、小樽市立美術館になっている。その3階には「一原有徳記念ホール」が常設され、一原の作品が常に展示されている。一原が勤務していた時期、この庁舎の地下にはポスターの印刷のために石版石とリトプレスが置かれていた。すでに誰も使っていなかったために、一原は石版をパレットがわりに使っていた。その際に石版石に残る絵の具の像が面白く、これをすり取ることを思いついたそうだ。
小樽市立美術館
記念室でのアトリエ再現
これが一原の代表的な技法、モノタイプ作品の初めであった。モノタイプで注目された一原であったが、鉄、トタン、銅、真鍮、アルミ、鉛など数多くの金属を製版し版画にしたり、金属自体を作品主体にしたオブジェに加工したりと作品の幅を広げていった。私がNDA画廊で見た展覧会では「モノタイプによるミニアチュール」「小さなオブジェ(主に鉛やアルミにプリント)」などのユニークな作品展示がされた。私が初めて買った美術作品は島州一のシルクスクリーン版画と一原有徳の1960年制作のモノタイプである。特に一原のモノタイプは一目見るなり見惚れたものであり、札幌での私の部屋中央に長く飾った作品である。金属の破片が重なったような画面は時に銀色の光を放っているようにも見えた。描かれた造形もマチエールもかつて見たことがないものばかりであった。

親しくなった一原とは食事にいったり、コーヒーを飲みにいったりと直に二人で話す機会が多くなった。そうした中で忘れられない言葉があった。それは「あなたが言うように見たことがないマチエールや画面ができたとするじゃない。面白いなあ、どこにもない造形かもと思うでしょう・・・。ところがね、土星とか木星とかの惑星表面とか銀河の写真を見るとね、そっくりな造形があったりするのよ。自然には本当に敵わない、独自と思ってもこの宇宙にない造形なんてないのかもしれない。悔しいけどね。」だった。また、例えば歌手や俳優の話になった時、あるライバル二人を比較したとすると常にアヴャンギャルドな資質をもった側を好きだと評価していた。ご本人は「明治生まれの資質だよ」と言われていたが、本当だろうか。一原独自の資質だったようにも感じる。
一原は文学的な才能もあって、戦前から俳句を作っていた。そして山岳小説も書いた。そんな一原が書いた「乙部岳」という小説がある。妻の実家にも近い道南の山であるが、そこには隠里があり、主人公が迷い込む面白い話である。私も妻もこの小説のファンであった。当時は登山道のなかった乙部岳に沢登りをして登頂したいと話し合って、手稲山の沢で訓練した。残念ながら、その夏は天候が不順で危険でもあったので山行はあきらめたが、二人の距離は一気に縮まり結婚に至ったのだから一原は当家にとって大恩人である。
一原有徳「山行小説集」
一原有徳俳句集『メビウスの地平』
モノタイプ作品

私が大学を卒業し札幌を離れた後、1988年に神奈川県立近代美術館(別館)で、回顧展「現代版画の鬼才 一原有徳の世界」が開催された。作品は巨大化し、壁面いっぱいにどこかの惑星の風景のようなモノタイプが展示されていた。その十年後の1998年には徳島県立近代美術館と北海道立近代美術館で、回顧展「一原有徳・版の世界」が開催された。こちらの展覧会は伺えなかった。2010年10月1日、老衰のため小樽市内の病院で死去、100歳であった。その翌年に小樽市立美術館に一原有徳記念ホールがオープンし、作品とともにアトリエが再現展示された。今でも少し高い声で話す一原の言葉が耳に甦る。
「今度はどんな面白いことをされるの? それは新しいの?」
(なかむら けいいち)
■中村惠一(なかむら けいいち)
北海道大学生時代に札幌NDA画廊で一原有徳に出会い美術に興味をもつ。一原のモノタイプ版画作品を購入しコレクションが始まった。元具体の嶋本昭三の著書によりメールアートというムーブメントを知り、ネットワークに参加。コラージュ作品、視覚詩作品、海外のアーティストとのコラボレーション作品を主に制作する。一方、新宿・落合地域の主に戦前の文化史に興味をもち研究を続け、それをエッセイにして発表している。また最近では新興写真や主観主義写真の研究を行っている。
・略歴
1960年 愛知県岡崎市生まれ
1978年 菱川善夫と出会い短歌雑誌『陰画誌』に創刊同人として参加
1982年 札幌ギャラリー・ユリイカで個展を開催
1994年 メールアートを開始
1997年 “Visual Poesy of Japan”展参加(ドイツ・ハンブルグほか)
1999年 「日独ビジュアルポエトリー展」参加(北上市・現代詩歌文学館)
2000年 フランスのPierre Garnierとの日仏共作詩”Hai-Kai,un cahier D’ecolier”刊行
2002年 “JAPANESE VISUAL POETRY”展に参加(オーストリア大使館)
2008年 “Mapping Correspondence”展参加(ニューヨークThe Center for Book Arts)
2009年 “5th International Artist’s Book Triennial Vilnius2009”展に参加(リトアニア)
2012年 “The Future” Mail Art展企画開催(藤沢市 アトリエ・キリギリス)
●中村惠一さんの連載エッセイ「美術・北の国から」は毎月22日の更新です。
●本日22日(火、祝日)は休廊です。
●本日のお勧め作品は一原有徳です。
一原有徳 Arinori ICHIHARA
《DEY》
1977年 銅版
41.4x29.8cm
Ed. 100 signed
*現代版画センターエディション
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※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください。
●ときの忘れものは青山から〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS に移転しました。
阿部勤設計の新しい空間はWEBマガジン<コラージ2017年12月号18~24頁>に特集されています。JR及び南北線の駒込駅南口から約8分です。
TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531
E-mail:info@tokinowasuremono.com
営業時間=火曜~土曜の平日11時~19時。*日・月・祝日は休廊。
一原有徳
北海道には昭和53(1978)年4月から丸4年間暮らした。きっかけは大学受験。静岡県浜松市の高校に通っていた私は日高山脈や大雪山系といった北海道の山々のスライドを先輩に見せてもらったことをきっかけに志望校を変えた。北海道の山に登りたいと思ったからだった。試験のあった3月頭は春一番が吹き、札幌は未曽有の大雪だった。美しかったが、過酷でもあり、飛行機が飛ばずに羽田空港で一泊した。初めての北海道は厳しい貌をみせたのだった。だからこそ極めて印象的であったといえるのかもしれない。
そんな経緯から大学に入学してすぐに登山のサークルに加わった。そして札幌近郊の山から登り始めた。当時の山のガイドブックには登山家・一原有徳の文章がよく掲載されていた。また、『小さな頂』(1974年茗溪堂)という北海道の山に関する文章を集めた本が刊行されており、楽しく読んでいた。文学や美術にも興味のあった私は、登山という文脈やつながりのほかにもいろいろなかかわりをもつようになっていた。そんななか、はじめ一原有徳を登山家として知った私は札幌のNDA画廊で一原の版画作品を見ることになったのだった。初めて見た一原の版画は今までに見たことがないような造形が画面いっぱいにひろがった独特のもので、その独自なモチーフやマチエールに驚いた。そのイメージの不思議さに魅了された。その時までに見ていたどの絵画にもない画面であると思ったのだった。

一原と初めて直接会ったのは昭和54(1979)年のこと。NDA画廊で開催された島州一の個展のオープニングの時であった。山のエッセイや登山記録の文章を読んでいたので、勝手に屈強な登山家を想像していた私はそのイメージを一気に壊されてしまう。会場に現れた一原は小柄で、怪我のために少し足を引きずる歩き方をしていた。しかも饒舌で満面の笑顔をみせる気さくな方であった。最初の出会いの日にはたっぷりと登山の話をしたのだと思う。具体的に何を話したのかは忘れてしまったが。
一原は明治43(1910)年徳島県に生まれた。幼いうちに北海道の真狩に転居している。大正12(1923)年に小樽に転居したが、この年に小樽運河は完成している。昭和2(1927)年には郵政省小樽地方貯金局に勤務、昭和45(1970)年の定年退職まで勤務した。一原が勤務した小樽地方貯金局の庁舎は現在、小樽市立美術館になっている。その3階には「一原有徳記念ホール」が常設され、一原の作品が常に展示されている。一原が勤務していた時期、この庁舎の地下にはポスターの印刷のために石版石とリトプレスが置かれていた。すでに誰も使っていなかったために、一原は石版をパレットがわりに使っていた。その際に石版石に残る絵の具の像が面白く、これをすり取ることを思いついたそうだ。
小樽市立美術館
記念室でのアトリエ再現これが一原の代表的な技法、モノタイプ作品の初めであった。モノタイプで注目された一原であったが、鉄、トタン、銅、真鍮、アルミ、鉛など数多くの金属を製版し版画にしたり、金属自体を作品主体にしたオブジェに加工したりと作品の幅を広げていった。私がNDA画廊で見た展覧会では「モノタイプによるミニアチュール」「小さなオブジェ(主に鉛やアルミにプリント)」などのユニークな作品展示がされた。私が初めて買った美術作品は島州一のシルクスクリーン版画と一原有徳の1960年制作のモノタイプである。特に一原のモノタイプは一目見るなり見惚れたものであり、札幌での私の部屋中央に長く飾った作品である。金属の破片が重なったような画面は時に銀色の光を放っているようにも見えた。描かれた造形もマチエールもかつて見たことがないものばかりであった。

親しくなった一原とは食事にいったり、コーヒーを飲みにいったりと直に二人で話す機会が多くなった。そうした中で忘れられない言葉があった。それは「あなたが言うように見たことがないマチエールや画面ができたとするじゃない。面白いなあ、どこにもない造形かもと思うでしょう・・・。ところがね、土星とか木星とかの惑星表面とか銀河の写真を見るとね、そっくりな造形があったりするのよ。自然には本当に敵わない、独自と思ってもこの宇宙にない造形なんてないのかもしれない。悔しいけどね。」だった。また、例えば歌手や俳優の話になった時、あるライバル二人を比較したとすると常にアヴャンギャルドな資質をもった側を好きだと評価していた。ご本人は「明治生まれの資質だよ」と言われていたが、本当だろうか。一原独自の資質だったようにも感じる。
一原は文学的な才能もあって、戦前から俳句を作っていた。そして山岳小説も書いた。そんな一原が書いた「乙部岳」という小説がある。妻の実家にも近い道南の山であるが、そこには隠里があり、主人公が迷い込む面白い話である。私も妻もこの小説のファンであった。当時は登山道のなかった乙部岳に沢登りをして登頂したいと話し合って、手稲山の沢で訓練した。残念ながら、その夏は天候が不順で危険でもあったので山行はあきらめたが、二人の距離は一気に縮まり結婚に至ったのだから一原は当家にとって大恩人である。
一原有徳「山行小説集」
一原有徳俳句集『メビウスの地平』
モノタイプ作品
私が大学を卒業し札幌を離れた後、1988年に神奈川県立近代美術館(別館)で、回顧展「現代版画の鬼才 一原有徳の世界」が開催された。作品は巨大化し、壁面いっぱいにどこかの惑星の風景のようなモノタイプが展示されていた。その十年後の1998年には徳島県立近代美術館と北海道立近代美術館で、回顧展「一原有徳・版の世界」が開催された。こちらの展覧会は伺えなかった。2010年10月1日、老衰のため小樽市内の病院で死去、100歳であった。その翌年に小樽市立美術館に一原有徳記念ホールがオープンし、作品とともにアトリエが再現展示された。今でも少し高い声で話す一原の言葉が耳に甦る。
「今度はどんな面白いことをされるの? それは新しいの?」
(なかむら けいいち)
■中村惠一(なかむら けいいち)
北海道大学生時代に札幌NDA画廊で一原有徳に出会い美術に興味をもつ。一原のモノタイプ版画作品を購入しコレクションが始まった。元具体の嶋本昭三の著書によりメールアートというムーブメントを知り、ネットワークに参加。コラージュ作品、視覚詩作品、海外のアーティストとのコラボレーション作品を主に制作する。一方、新宿・落合地域の主に戦前の文化史に興味をもち研究を続け、それをエッセイにして発表している。また最近では新興写真や主観主義写真の研究を行っている。
・略歴
1960年 愛知県岡崎市生まれ
1978年 菱川善夫と出会い短歌雑誌『陰画誌』に創刊同人として参加
1982年 札幌ギャラリー・ユリイカで個展を開催
1994年 メールアートを開始
1997年 “Visual Poesy of Japan”展参加(ドイツ・ハンブルグほか)
1999年 「日独ビジュアルポエトリー展」参加(北上市・現代詩歌文学館)
2000年 フランスのPierre Garnierとの日仏共作詩”Hai-Kai,un cahier D’ecolier”刊行
2002年 “JAPANESE VISUAL POETRY”展に参加(オーストリア大使館)
2008年 “Mapping Correspondence”展参加(ニューヨークThe Center for Book Arts)
2009年 “5th International Artist’s Book Triennial Vilnius2009”展に参加(リトアニア)
2012年 “The Future” Mail Art展企画開催(藤沢市 アトリエ・キリギリス)
●中村惠一さんの連載エッセイ「美術・北の国から」は毎月22日の更新です。
●本日22日(火、祝日)は休廊です。
●本日のお勧め作品は一原有徳です。
一原有徳 Arinori ICHIHARA《DEY》
1977年 銅版
41.4x29.8cm
Ed. 100 signed
*現代版画センターエディション
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