<創造性が私の生を形づくって来た。たとえば、窓の白いレースのカーテンは、私にとって、偉大な芸術作品と同じくらいに重要であった。カーテンのこの繊細さ、そこから漏れる陽の光り、その形態、その動き。そこから芸術について私が学んだものは、学校で学んだこと以上のものであった。私はこの部屋に10年でも坐っていることができる。眼さえ上げれば、私は奇跡をみているのだ、と感じることだってできるのだ。(中略)
かつて私は、アフリカやアメリカ・インディアンの芸術を蒐集していた。それは、1931年のパリではじまった。人類博物館に連れてゆかれた私は、そこでアフリカ彫刻の展覧会をみた。仮面や全身像がならんでいた。私はそれらのひとつを手にとってみ、その力を眼のあたりにみた。これらの驚くべき彫刻は私に深い印象を与えた。私にはアフリカ彫刻を研究する必要など感じなかった。ただちに私はその力と一体となった。ニューヨークに戻ると私はよく地下鉄の駅へ降りてゆき、そこに立っている黒い支柱をながめ、それらの持つ力と強さとが私にはよくわかった。その支柱が私に対してまさしく何かをなしたのだ。それは、単に私が視たということではない。あの原始的な彫刻がなしたように、それはあたかも私にエネルギーを注ぎこんでくれるかのようであった。 こうした経験のすべてが私に教えてくれたのだ、芸術家は現存するもろもろの関係を認識し、そしてそれを捉えるのだ、ということを。
( ルイーズ・ニーヴェルスン ※『ルイーズ・ネヴェルスン展』図録(1975年、南画廊)より>
「霜月の画廊コレクション展」では20世紀を代表する三人の女性作家~ソニア・ドローネ、ルイーズ・ニーヴェルスン、ニキ・ド・サンファル~の作品を紹介してきました。
三人目は、ソニア・ドローネと同じくウクライナ生まれのルイーズ・ニーヴェルスンです。

ニーヴェルスン(Louise Berliawsky Nevelson, 1900~1988)は本名はレア・ベルリャフスキー(Leah Berliawsky)。
よく知られているのは捨てられた家具のような日用品の廃物などを集め、これらを切り刻んで黒く塗り、黒い箱の中に入れて寄せ集めた「アサンブラージュ」です。
椅子の脚やベッドの枠、野球のバットなど、黒く塗って箱の中に寄せ集められた日用品の残骸は箱の中で影を作り相互に作用する。さらに黒い箱は中身を表にして上に積み重ねられ、祭壇のように壁に立てかけられる。
亭主がニーヴェルスンのアサンブラージュを初めて見たのは1974年か1975年(記憶がはっきりしません)、南画廊の志水楠男さんを訪ねたときでした。
南画廊は1975年2月3日~28日「ルイーズ・ネヴェルスン展」開催していますが、亭主はその展覧会を見たのではなく、その前後に、応接コーナーに置かれていた真っ黒に塗られたニーヴェルスンの立体作品です。
南画廊での個展開催の年にNYのシムカという版画工房で制作されたのが、今回ご紹介するシルクスクリーンです。

ルイーズ・ニーヴェルスン Louise Berliawsky Nevelson《7509》
1975年 シルクスクリーン 70.8×85.4cm Ed.40 Signed
キエフで材木を扱うユダヤ人商家に生まれ1905年アメリカに移住。1920年富裕な船主のチャールズ・ネヴェルソンと結婚。ニューヨークのアート・スチューデンツ・リーグで絵画や声楽、ダンスを学びますが、夫は彼女の芸術の勉強に反対し別居します(1941年離婚)。別居後はミュンヘンに移り、1933年のナチスの政権獲得までの間、ハンス・ホフマンの元で絵画を学んだ。アメリカに戻り、ニューディール政策のもと公共事業促進局(WPA)の連邦美術計画に雇用されて美術教師として働きながら、1937年、メキシコの画家ディエゴ・リベラがロックフェラーセンターに制作していた大壁画を手伝っています。
彼女が環境芸術家として評価を確立するのは60歳近くになってからで、1957年最初の「黒い箱」の作品を制作します。クリスマスに贈られたワインの空箱の仕切り板が生み出す影や細胞状の空間同士の関係に霊感を受けたと言われます。1958年木切れや廃物を入れて黒く塗った箱を数メートルまで高く積み上げ、暗い部屋の中に観客を取り囲むようにして設置した展覧会『Moon Garden + One』で一躍、脚光を浴びます。以後一貫して黒く塗った木や金属のコラージュ作品を制作し続け、1988年ニューヨークで死去、アメリカを代表する美術家の一人としていまも尊敬されています。
◆「霜月の画廊コレクション展」
会期:2019年11月8日[金]~11月22日[金] *日・月・祝日休廊

画廊コレクションより、今まで余り展示の機会のなかった11人の作家の油彩、版画、ポスターなどをご紹介します。
出品:ドメニコ・ベッリ、ジェラール・ティトゥス=カルメル、ニキ・ド・サンファル、マノロ・バルデス、ヤコブ・アガム、ジョン・ケージ、ルイーズ・ニーヴェルスン、ソニア・ドローネ、アンディ・ウォーホル、棟方志功、杉浦康平
かつて私は、アフリカやアメリカ・インディアンの芸術を蒐集していた。それは、1931年のパリではじまった。人類博物館に連れてゆかれた私は、そこでアフリカ彫刻の展覧会をみた。仮面や全身像がならんでいた。私はそれらのひとつを手にとってみ、その力を眼のあたりにみた。これらの驚くべき彫刻は私に深い印象を与えた。私にはアフリカ彫刻を研究する必要など感じなかった。ただちに私はその力と一体となった。ニューヨークに戻ると私はよく地下鉄の駅へ降りてゆき、そこに立っている黒い支柱をながめ、それらの持つ力と強さとが私にはよくわかった。その支柱が私に対してまさしく何かをなしたのだ。それは、単に私が視たということではない。あの原始的な彫刻がなしたように、それはあたかも私にエネルギーを注ぎこんでくれるかのようであった。 こうした経験のすべてが私に教えてくれたのだ、芸術家は現存するもろもろの関係を認識し、そしてそれを捉えるのだ、ということを。
( ルイーズ・ニーヴェルスン ※『ルイーズ・ネヴェルスン展』図録(1975年、南画廊)より>
「霜月の画廊コレクション展」では20世紀を代表する三人の女性作家~ソニア・ドローネ、ルイーズ・ニーヴェルスン、ニキ・ド・サンファル~の作品を紹介してきました。
三人目は、ソニア・ドローネと同じくウクライナ生まれのルイーズ・ニーヴェルスンです。

ニーヴェルスン(Louise Berliawsky Nevelson, 1900~1988)は本名はレア・ベルリャフスキー(Leah Berliawsky)。
よく知られているのは捨てられた家具のような日用品の廃物などを集め、これらを切り刻んで黒く塗り、黒い箱の中に入れて寄せ集めた「アサンブラージュ」です。
椅子の脚やベッドの枠、野球のバットなど、黒く塗って箱の中に寄せ集められた日用品の残骸は箱の中で影を作り相互に作用する。さらに黒い箱は中身を表にして上に積み重ねられ、祭壇のように壁に立てかけられる。
亭主がニーヴェルスンのアサンブラージュを初めて見たのは1974年か1975年(記憶がはっきりしません)、南画廊の志水楠男さんを訪ねたときでした。
南画廊は1975年2月3日~28日「ルイーズ・ネヴェルスン展」開催していますが、亭主はその展覧会を見たのではなく、その前後に、応接コーナーに置かれていた真っ黒に塗られたニーヴェルスンの立体作品です。
南画廊での個展開催の年にNYのシムカという版画工房で制作されたのが、今回ご紹介するシルクスクリーンです。

ルイーズ・ニーヴェルスン Louise Berliawsky Nevelson《7509》
1975年 シルクスクリーン 70.8×85.4cm Ed.40 Signed
キエフで材木を扱うユダヤ人商家に生まれ1905年アメリカに移住。1920年富裕な船主のチャールズ・ネヴェルソンと結婚。ニューヨークのアート・スチューデンツ・リーグで絵画や声楽、ダンスを学びますが、夫は彼女の芸術の勉強に反対し別居します(1941年離婚)。別居後はミュンヘンに移り、1933年のナチスの政権獲得までの間、ハンス・ホフマンの元で絵画を学んだ。アメリカに戻り、ニューディール政策のもと公共事業促進局(WPA)の連邦美術計画に雇用されて美術教師として働きながら、1937年、メキシコの画家ディエゴ・リベラがロックフェラーセンターに制作していた大壁画を手伝っています。
彼女が環境芸術家として評価を確立するのは60歳近くになってからで、1957年最初の「黒い箱」の作品を制作します。クリスマスに贈られたワインの空箱の仕切り板が生み出す影や細胞状の空間同士の関係に霊感を受けたと言われます。1958年木切れや廃物を入れて黒く塗った箱を数メートルまで高く積み上げ、暗い部屋の中に観客を取り囲むようにして設置した展覧会『Moon Garden + One』で一躍、脚光を浴びます。以後一貫して黒く塗った木や金属のコラージュ作品を制作し続け、1988年ニューヨークで死去、アメリカを代表する美術家の一人としていまも尊敬されています。
◆「霜月の画廊コレクション展」
会期:2019年11月8日[金]~11月22日[金] *日・月・祝日休廊

画廊コレクションより、今まで余り展示の機会のなかった11人の作家の油彩、版画、ポスターなどをご紹介します。
出品:ドメニコ・ベッリ、ジェラール・ティトゥス=カルメル、ニキ・ド・サンファル、マノロ・バルデス、ヤコブ・アガム、ジョン・ケージ、ルイーズ・ニーヴェルスン、ソニア・ドローネ、アンディ・ウォーホル、棟方志功、杉浦康平
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