中村惠一のエッセイ「美術・北の国から」 第4回

森ヒロコ

 前回は道特会館にあった赤い扉の話であった。そして今回はその向かいにあった鮮黄の扉の内側とその主の話である。赤い扉の内側、つまりNDA画廊に行くようになると黄色い扉の内側も気になるようになった。そこで見せてもらうことになったのであったが、内部には版画用のプレス機があり、乾燥用にはられた紐に木製のピンチがぶらさがっている。インクの溶剤のにおいがする。「札幌版画塾」とよばれたこの工房は曜日によって木版画教室、リトグラフ教室、銅版画教室が開催されていた。講座のない日は生徒が自由に製版したり、プリントしたりしていた。この銅版画教室の講師が森ヒロコであった。年に一度はそれぞれの版画教室の受講生が制作した作品展をNDA画廊で開催した。森ヒロコに会ったのはそうした展覧会のオープニングパーティーの席だったように記憶している。笑顔が印象的であった。ギャラリーオーナーである長谷川洋行と夫婦であると知るのは昭和55(1980)年にNDA画廊で開催された個展を見た後であったかもしれない。
 森ヒロコは昭和17(1942)年5月5日に小樽で生まれた。実家は質屋であった。小樽市立緑稜高校を卒業後、東京女子美術短期大学でデザインを学んだ。昭和38(1963)年に卒業。東京で広告代理店「日報」に入社。グラフィック・デザイナーの仕事に就く。2年あまりの会社勤務を経て小樽に帰っている。そこで銅版画の講習に参加した。講師は一原有徳であったという。銅版画という技法が合ったのだろう、この表現に特化してゆくことになる。昭和46(1971)年、新書館が公募していた詩とイラストレーションのアンソロジー『星みがき★あなたの詩集3』(寺山修司編)に「6月の涙」を応募、採用された。これがデビューとなる。昭和47(1972)年より全道展への出品を始め昭和50(1975)年まで続く。また日動版画グランプリ展に出品を続け、昭和51(1976)年にはグランプリを受賞している。初めての個展はガレリア・グラフィカで開催されたが、それは昭和48(1973)年の事であった。夫となる長谷川洋行がNDA画廊を開設したのが昭和49(1974)年。森と長谷川が結婚したのが昭和50(1975)年である。昭和51(1976)年に札幌版画塾・銅版画教室を始めている。平成5(1993)年3月、昭和6(1931)年に父親が建てた石倉をギャラリーに改装、森ヒロコ・スタシス美術館が開館する。NDA画廊も札幌から移転し併設された。また銅版画教室も小樽に移転して継続された。その後、森は日本のみならずフランスを中心としたヨーロッパ各地で個展を開催、それによって森作品は紹介された。今もヨーロッパにファンを持つ。

001森ヒロコの実家である質屋の石蔵

 私が初めて森に会ったのは昭和58(1979)年のことであった。その頃の作品はやさしそうな表情を見せながらも少なからぬ毒を含んでいた。全体に少し視点は高く、まるで天使が少し空中を浮遊している位置からの視野のようにも感じた。時に地上は細かくひび割れており、この世の終わりを迎えた後の大地と翼をもがれた天使たちにも見えることがある。森ヒロコの版画に登場する少年や少女たちは天使だった過去をもっているのではないかと感じることがあった。
002落書きⅡ(1984)

003なわとびⅡ(1976)

 札幌版画塾・銅版画教室のスタートは昭和51(1976)年のことである。妻はその第一期生であり、森にエッチングの基礎的な技法を学んだ。教室は年に一回の展覧会をNDA画廊の展示室で行っており、さまざまな個性をもった生徒作品が並ぶ、見ていて楽しい展覧会であったことを記憶している。初期NDA画廊が建物再建のために休止していた期間、版画塾がどうされていたのかはわが夫婦は札幌を離れてしまったために知らないが、小樽の森の実家に「森ヒロコ・スタシス美術館」を開設してからは、自宅にアトリエを作り、そこで森ヒロコ銅版画教室を開催していた。土・日から都合を選び月に4回または2回を選択する仕組みであった。随分以前であるが小樽に森を訪問したことがあった。版画教室の開催時間であったので、生徒の方々に紹介されたのを憶えている。その後、私には再訪の機会がなく、結局妻は小樽のアトリエで森に会うことなく森を見送ってしまった。森が亡くなる前年の12月であったが、療養中の森から電話をもらった。毎年年末に送っていた日本茶の礼であったが、今までは手紙をもらうことはあっても電話がかかってくることはなかったので、少し驚いた。しかし妻が最後に森と話すことができて本当によかったと思った。当家の居間には森の作品がスタシスのグアッシュ作品と並べてかけてあるのだが、それは妻をモデルにした版画(寒い日)である。
004寒い日(1982)

005アリス・パズル(1980)

当家はマンションであるため猫を飼うことはできない。しかし夫婦そろって猫好きなので、部屋に飾った絵画の中には猫がとてもたくさん住んでいる。森作品も例外ではない。迷路に立つアリスも猫を抱いているが、当家の森作品には猫がかなり登場する。妻がモデルになった版画もコートに猫がかくれている。
006セーターセーター(1995)

007夕暮れに夕暮れに(1980)

森ヒロコが亡くなったのは平成29(2017)年5月1日のこと。『森ヒロコ作品集』が柏艪舎から刊行されたのは1年後の平成30(2018)年4月20日である。これで初期の作品を含めて全作品を見ることが可能になった。武蔵野美術大学でのスタシス展でお会いした中川素子さんから同じ柏艪舎から森の絵本を12月に刊行する予定であると聞いた。中川素子著、森ヒロコ絵による『宙からきた子どもたち』で1,500円。12月12日の刊行である。これも手に取っていただきたい一冊である。

008009
なかむら けいいち

中村惠一(なかむら けいいち)
北海道大学生時代に札幌NDA画廊で一原有徳に出会い美術に興味をもつ。一原のモノタイプ版画作品を購入しコレクションが始まった。元具体の嶋本昭三の著書によりメールアートというムーブメントを知り、ネットワークに参加。コラージュ作品、視覚詩作品、海外のアーティストとのコラボレーション作品を主に制作する。一方、新宿・落合地域の主に戦前の文化史に興味をもち研究を続け、それをエッセイにして発表している。また最近では新興写真や主観主義写真の研究を行っている。
・略歴
1960年 愛知県岡崎市生まれ
1978年 菱川善夫と出会い短歌雑誌『陰画誌』に創刊同人として参加
1982年 札幌ギャラリー・ユリイカで個展を開催
1994年 メールアートを開始
1997年 “Visual Poesy of Japan”展参加(ドイツ・ハンブルグほか)
1999年 「日独ビジュアルポエトリー展」参加(北上市・現代詩歌文学館)
2000年 フランスのPierre Garnierとの日仏共作詩”Hai-Kai,un cahier D’ecolier”刊行
2002年 “JAPANESE VISUAL POETRY”展に参加(オーストリア大使館)
2008年 “Mapping Correspondence”展参加(ニューヨークThe Center for Book Arts)
2009年 “5th International Artist’s Book Triennial Vilnius2009”展に参加(リトアニア)
2012年 “The Future” Mail Art展企画開催(藤沢市 アトリエ・キリギリス)

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◎昨日読まれたブログ(archive)/2011年01月10日|磯崎新「還元」~建築家はなぜ版画をつくるのか
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◆ときの忘れものは『難波田龍起作品史 1928-1996 アトリエに遺された作品による』刊行記念展を開催しています。
会期:2019年11月29日[金]―12月28日[土] *日・月・祝日休廊
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nambata_48・出品番号013
《(作品)》
1994年
コラージュ
29.0×20.0cm
サインあり
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難波田作品史チラシ

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ときの忘れものの年内営業は12月28日(土)まで。2019年12月29日(日)~2020年1月6日(月)までは冬季休廊いたします。
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