<アメリカが凄いなと思ったのは「とりあえずお金のことは後で考えるとして、今は命を守ることを最優先にしよう」という判断が一瞬にして行われたことです。数日後にレストランやバーをクローズすると決まった時、それを知ったお客さんたちは、いつもよりも多くチップを置いていったという話も色々なところから聞きました。それは店が閉まればウェイターたちの仕事がなくなるだろうと予測してのことです。スーパーに行列ができた時には、お年寄りを優先的に店に入れたという話も、いくつも聞きました。つまり、この国の国民は日本人と比較すると普段は「自分ファースト」に見えるのですが、こういう緊急事態が起きたときは自然と「協力しあうのは当然」と、実に人間味ある国民性が出てくるということです。
(20200327/打木希瑶子さんのfacebookより)>
コロナウイルスの惨禍に揺れるNY在住の打木希瑶子さんの投稿は長文ですが、ぜひ読んでください。
打木さんはアメリカの市民意識の根底には「聖書」が説く隣人愛がある、と書いていますが、信仰も聖書にも縁のない私たちはこういうときにとっさの「やさしさ」が出てこない。反省し、困ったときは助け合う意識を大事にしたいですね。
毎年4月2日は日比谷の桜を楽しみながら松本楼で「連翹忌」に参加するのが恒例でした。

2019年4月2日第63回連翹忌にて、右から北川太一先生、社長、高村豊周のお孫さんの櫻井美佐さん
於:日比谷・松本楼
連翹忌とは高村光太郎(1883年(明治16年)3月13日 - 1956年(昭和31年)4月2日)が肺結核のため、中野区の中西利雄アトリエで亡くなったとき、庭に咲いていた連翹の花に因みます。
毎年、命日の4月2日に開催されてきましたが中止になりました。
今回の新型コロナウイルスの危険が未曽有のことだと思わざるを得ません。
63回も開催されてきた連翹忌は高村光太郎を偲ぶ会ではありますが、光太郎没後60数年にわたり高村光太郎記念会を主宰し、その顕彰に生涯をかけてこられた北川太一先生にお目にかかれる年に一度の得難い日でもありました。
その北川先生が去る1月12日に亡くなられました。通夜、告別式は私どもの画廊からそう遠くない浄信寺で営まれました。
私たちにとっては人生の再起を期した『資生堂ギャラリー七十五年史 1919~1994』編纂の途次、温かい助言と無償の資料提供、コラム執筆等々でたいへんお世話になった恩人が北川先生でした。
2006年04月03日|連翹忌/画廊亭主の徒然なる日々
2008年04月06日|第52回連翹忌~4月2日松本楼にて
2010年04月15日|ギャラリー100年~高村光太郎はギャラリストの祖
2019年04月16日|第63回連翹忌 高村光太郎と北川太一先生
謹んで北川太一先生のご冥福をお祈りするとともに、来年は桜の美しい松本楼で連翹忌が再開され、全国から集まる光太郎ファン、北川ファンにお目にかかれることを楽しみにしています。
高村光太郎は日本の近代彫刻を切り拓いた彫刻家であり、画家、詩人にして歌人でもありました。
ということで本日の、
「一日限定! 破格の掘り出し物」は日本の現代彫刻のパイオニア堀内正和先生(1911-2001)の超レアな立体です。
堀内先生が京都で生まれた明治44年はヨーロッパから帰朝した光太郎が次々と詩作を発表、ブロンズの「父の首」を制作し、妻となる長沼智恵子とめぐり会った年でもあります。
原宿駅近くの堀内先生のご自宅の二階アトリエに伺うと部屋中ところせましと置かれた紙の「マケット」に圧倒されました。彫刻家というより数学者のごとき先生のムニャムニャ(当方が馬鹿なので)・難しい数式から作り出される不思議な立体、紙(のマケット)では簡単にできる(と思われる)が、それを金属で完成するのは至難のわざ、職人泣かせ、お金もかかるので実現したものはほんとうに少ない。
出品作品は紙でなくて塗料を施した重量ある木製です、ミュージアムピースといっていいでしょう。今回の臨時休廊がなければ皆さんに(一日限定で)ご覧にいれることもなかった究極の掘り出し物であります。
-------------------------------------------------
◎昨日読まれたブログ(archive)/2011年01月10日|磯崎新のエッセイ「還元」~建築家はなぜ版画をつくるのか
-------------------------------------------------
●ときの忘れものは2017年6月に青山から〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS に移転しました。
阿部勤設計の新しい空間はWEBマガジン<コラージ2017年12月号18~24頁>に特集されています。JR及び南北線の駒込駅南口から約8分です。
TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531
E-mail:info@tokinowasuremono.com
営業時間=火曜~土曜の平日11時~19時。*日・月・祝日は休廊。
(20200327/打木希瑶子さんのfacebookより)>
コロナウイルスの惨禍に揺れるNY在住の打木希瑶子さんの投稿は長文ですが、ぜひ読んでください。
打木さんはアメリカの市民意識の根底には「聖書」が説く隣人愛がある、と書いていますが、信仰も聖書にも縁のない私たちはこういうときにとっさの「やさしさ」が出てこない。反省し、困ったときは助け合う意識を大事にしたいですね。
毎年4月2日は日比谷の桜を楽しみながら松本楼で「連翹忌」に参加するのが恒例でした。

2019年4月2日第63回連翹忌にて、右から北川太一先生、社長、高村豊周のお孫さんの櫻井美佐さん
於:日比谷・松本楼
連翹忌とは高村光太郎(1883年(明治16年)3月13日 - 1956年(昭和31年)4月2日)が肺結核のため、中野区の中西利雄アトリエで亡くなったとき、庭に咲いていた連翹の花に因みます。
毎年、命日の4月2日に開催されてきましたが中止になりました。
今回の新型コロナウイルスの危険が未曽有のことだと思わざるを得ません。
63回も開催されてきた連翹忌は高村光太郎を偲ぶ会ではありますが、光太郎没後60数年にわたり高村光太郎記念会を主宰し、その顕彰に生涯をかけてこられた北川太一先生にお目にかかれる年に一度の得難い日でもありました。
その北川先生が去る1月12日に亡くなられました。通夜、告別式は私どもの画廊からそう遠くない浄信寺で営まれました。
私たちにとっては人生の再起を期した『資生堂ギャラリー七十五年史 1919~1994』編纂の途次、温かい助言と無償の資料提供、コラム執筆等々でたいへんお世話になった恩人が北川先生でした。
2006年04月03日|連翹忌/画廊亭主の徒然なる日々
2008年04月06日|第52回連翹忌~4月2日松本楼にて
2010年04月15日|ギャラリー100年~高村光太郎はギャラリストの祖
2019年04月16日|第63回連翹忌 高村光太郎と北川太一先生
謹んで北川太一先生のご冥福をお祈りするとともに、来年は桜の美しい松本楼で連翹忌が再開され、全国から集まる光太郎ファン、北川ファンにお目にかかれることを楽しみにしています。
高村光太郎は日本の近代彫刻を切り拓いた彫刻家であり、画家、詩人にして歌人でもありました。
ということで本日の、
「一日限定! 破格の掘り出し物」は日本の現代彫刻のパイオニア堀内正和先生(1911-2001)の超レアな立体です。
堀内先生が京都で生まれた明治44年はヨーロッパから帰朝した光太郎が次々と詩作を発表、ブロンズの「父の首」を制作し、妻となる長沼智恵子とめぐり会った年でもあります。
原宿駅近くの堀内先生のご自宅の二階アトリエに伺うと部屋中ところせましと置かれた紙の「マケット」に圧倒されました。彫刻家というより数学者のごとき先生のムニャムニャ(当方が馬鹿なので)・難しい数式から作り出される不思議な立体、紙(のマケット)では簡単にできる(と思われる)が、それを金属で完成するのは至難のわざ、職人泣かせ、お金もかかるので実現したものはほんとうに少ない。
出品作品は紙でなくて塗料を施した重量ある木製です、ミュージアムピースといっていいでしょう。今回の臨時休廊がなければ皆さんに(一日限定で)ご覧にいれることもなかった究極の掘り出し物であります。
-------------------------------------------------
◎昨日読まれたブログ(archive)/2011年01月10日|磯崎新のエッセイ「還元」~建築家はなぜ版画をつくるのか
-------------------------------------------------
●ときの忘れものは2017年6月に青山から〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS に移転しました。
阿部勤設計の新しい空間はWEBマガジン<コラージ2017年12月号18~24頁>に特集されています。JR及び南北線の駒込駅南口から約8分です。
TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531
E-mail:info@tokinowasuremono.com
営業時間=火曜~土曜の平日11時~19時。*日・月・祝日は休廊。
コメント