井戸沼紀美のエッセイ「二十二日の半券」第2回
『ふつうの人々』
近くのスーパーに入っても、ふらりと公園に立ち寄っても、「↔︎」の記号が目に入る。感染症の対策のため、他者との距離を保つようにと呼びかけるものだ。隣の席と自分の席がパーテーションで区切られている飲食店もとても多い。少し前までは「全部の店が一蘭みたいになればいいのに」と言った友達に共感していたけれど、いざそうなってみると感動はなく、もはや「距離を取ること」に飽き飽きしていている。
今年、ある小説を読んでから、その中にあった「近さ」についての記述にずっと思いを馳せているのも、もしかすると上記のような気分の反動かもしれない。自己と他者をきっぱりと分け隔てるのではなく、誰かと傍にいることで、その他者とワンセットであるような新たな自己を獲得すること。それを小説は「「近さ」の関係に入る」という言葉で表していた。わたしとあなたではなく、あなたとわたしがひとつになるのでもなく、「ワンセットであるような新たな自己を獲得すること」。そしてその「近さ」の関係おいて共有される事実を、登場人物のひとりは「秘密」と呼ぶ。
この「近さ」と「秘密」の考え方は、映像作品を観るうえでも頭をよぎることが多々あった。今回はそのなかから、地域を選ばず視聴が可能で、11月~12月の時期にも似合うドラマシリーズ『ふつうの人々』を紹介させてほしい(同じテーマで、黒沢清監督の『スパイの妻』についても誰かと話してみたいです……)。
『ふつうの人々』は、アイルランドの作家、サリー・ルーニーによる2作目の小説『NORMAL PEOPLE』(2018)を映像化したもので、成績優秀だけれど学校で孤立しているマリアンと、その同級生、フットボール部所属で人気者のコネルの、18歳からの4年間を描く作品。コネルの母親が裕福なマリアン家に清掃員として雇われていることをきっかけに接近した2人はやがて惹かれ合い、自分たちが肉体関係を持っているという、最初にして最大の「秘密」を共有することになるというのが『ふつうの人々』のあらすじだ。
マリアンとコネルの「秘密」がどのようにして守られるのか / 守られないのかや、その周囲の人間関係を描くだけでも、じゅうぶんにドラマは成り立つように思う。しかし『ふつうの人々』を観終えると、同作がゴシップ的な「秘密」の扱われ方に微塵も興味を持っておらず、ただある「近さ」を描こうとしているのだと気づかされる。
劇中、マリアンとコネルの「秘密」はある段階でほどかれる。しかしその時、周囲に騒ぎ立てる人間はいない。そこにいるのは、キッチンで涙ぐみながらガラスのコップを割ってしまうマリアンと、つらそうな表情で息をあらげ、夜道を足早に歩いていくコネルだけだ。ここで視聴者は、マリアンとコネルが、社会的な理由によって仕方なく「秘密」を保っていたのではなく、自分たちの「近さ」を維持するために「秘密」を持ち続けていたのだと気づかされる。家族関係や友人関係がうまくいかず、誰かと「近さ」をわかちあうことに慣れていなかった2人にとって、「秘密」は単なる駆け引きではなく、唯一自分たちを繋ぎ止める手綱なのだ。そしてここから『ふつうの人々』のテーマは、いよいよ「近さ」に踏み込んでゆく。
メールやネット通話などの手段は、「近さ」に訴えかけることができるのか。一度「近さ」を手に入れたのなら、事実の共有のない「遠さ」にも、耐えうることができるのだろうか。血縁や約束があっても決裂する関係や、横並びで観るマルセル・デュシャン(『裸体、汽車の中の悲しげな青年』)について。様々なゆさぶりをかけながら、物語は進んでゆく。何が僕らを遠ざけてしまうのか? 何なら僕らを遠ざけることが出来るのか?
そして「近さ」について考えるとき、同作が終始キャラクターの身体を重要視していることがとても誠実な態度だと感じる。違った家庭環境や身体のつくりを先天的に背負った個人どうしが、あるとき他者に「近さ」を感じるというのはどういうことか。そんな大きな問いにきっぱりと答えを叩きつけられてしまったら、きっと呆然としてしまうだろう。しかし『ふつうの人々』は、優等生のマリアンが試合中のコネルを観て「すごく美しくて、セックスするとこを見たくなった」と話すような、わかりそうでわからない、しかしおそらく本当なのだろうという「近さ」をとりまくニュアンスを、登場人物たちの身体をおざなりにしない形でもって、見事に表現している。12話6時間のうち41分を占めているというセックスシーンは、その最たるものだろう(それらの場面には、Netflixの人気ドラマ『セックス・エデュケーション』にも携わったイタ・オブライエンがコーディネーターとして参加したのだそうだ。
原作者であり、ドラマ版でも共同脚本を務めたサリー・ルーニーは「登場人物たちの現実に説得力があるとすれば、それは2人の間のある種の関係が可能であることを示します。けれど、書籍にもドラマにもそれ以上のことは何もなく、伝えるべき教訓も道徳もありません」と語っている。「ある種の関係」は「ある種の関係」であって、とても一言で断定できるものではないだろう。しかし今わたしは、その中に見た「近さ」の温度に、どうしても惹かれてしまう。教訓や道徳からも、遠く離れて。
日本ではApple TVで『ふつうの人々』の日本語字幕版が視聴可能。
https://tv.apple.com/jp/show/normal-people/umc.cmc.4sjrnd7ie99ifd2yvnf2shy30
画像素材が取り寄せられなかったので、『ふつうの人々』で印象的だったシーンの絵を描いてみました。
(いどぬま きみ)
■井戸沼紀美
1992年生まれ、都内在住。明治学院大学卒。これまでに手掛けたイベントに『ジョナス・メカスとその日々をみつめて』(2014年)、『ジョナス・メカス写真展+上映会』(2015年)がある。
*井戸沼さんが参加した『ジョナス・メカス論集 映像詩人の全貌』が刊行されました。のちほど編者によるエッセイを掲載しますが、今年最後の大収穫です、ぜひご購読ください。
●ドキュメンタリー叢書創刊 #01『ジョナス・メカス論集 映像詩人の全貌』のご紹介
『ジョナス・メカス論集 映像詩人の全貌』

216ページ、四六判
執筆:ジョナス・メカス、井戸沼紀美、吉増剛造、井上春生、飯村隆彦、飯村昭子、正津勉、綿貫不二夫、原將人、木下哲夫、髙嶺剛、金子遊、石原海、村山匡一郎、越後谷卓司、菊井崇史、佐々木友輔、吉田悠樹彦、齊藤路蘭、井上二郎、川野太郎、柴垣萌子、若林良
編集:若林良、吉田悠樹彦、金子遊
編集協力、装幀:菊井崇史
発行:2020年11月5日 neoneo編集室
*ときの忘れもので扱っています。税込み 2,200円+送料250円、メール・fax等でお申し込みください。
こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
・井戸沼紀美のエッセイ「二十二日の半券」は隔月、奇数月の22日に更新します。次回は20221年1月22日掲載予定です。
●ときの忘れものは青山から〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS に移転しました。
阿部勤設計の新しい空間はWEBマガジン<コラージ2017年12月号18~24頁>に特集されています。JR及び南北線の駒込駅南口から約8分です。
TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531
E-mail:info@tokinowasuremono.com
営業時間=火曜~土曜の平日11時~19時。*日・月・祝日は休廊。
『ふつうの人々』
近くのスーパーに入っても、ふらりと公園に立ち寄っても、「↔︎」の記号が目に入る。感染症の対策のため、他者との距離を保つようにと呼びかけるものだ。隣の席と自分の席がパーテーションで区切られている飲食店もとても多い。少し前までは「全部の店が一蘭みたいになればいいのに」と言った友達に共感していたけれど、いざそうなってみると感動はなく、もはや「距離を取ること」に飽き飽きしていている。
今年、ある小説を読んでから、その中にあった「近さ」についての記述にずっと思いを馳せているのも、もしかすると上記のような気分の反動かもしれない。自己と他者をきっぱりと分け隔てるのではなく、誰かと傍にいることで、その他者とワンセットであるような新たな自己を獲得すること。それを小説は「「近さ」の関係に入る」という言葉で表していた。わたしとあなたではなく、あなたとわたしがひとつになるのでもなく、「ワンセットであるような新たな自己を獲得すること」。そしてその「近さ」の関係おいて共有される事実を、登場人物のひとりは「秘密」と呼ぶ。
この「近さ」と「秘密」の考え方は、映像作品を観るうえでも頭をよぎることが多々あった。今回はそのなかから、地域を選ばず視聴が可能で、11月~12月の時期にも似合うドラマシリーズ『ふつうの人々』を紹介させてほしい(同じテーマで、黒沢清監督の『スパイの妻』についても誰かと話してみたいです……)。
『ふつうの人々』は、アイルランドの作家、サリー・ルーニーによる2作目の小説『NORMAL PEOPLE』(2018)を映像化したもので、成績優秀だけれど学校で孤立しているマリアンと、その同級生、フットボール部所属で人気者のコネルの、18歳からの4年間を描く作品。コネルの母親が裕福なマリアン家に清掃員として雇われていることをきっかけに接近した2人はやがて惹かれ合い、自分たちが肉体関係を持っているという、最初にして最大の「秘密」を共有することになるというのが『ふつうの人々』のあらすじだ。
マリアンとコネルの「秘密」がどのようにして守られるのか / 守られないのかや、その周囲の人間関係を描くだけでも、じゅうぶんにドラマは成り立つように思う。しかし『ふつうの人々』を観終えると、同作がゴシップ的な「秘密」の扱われ方に微塵も興味を持っておらず、ただある「近さ」を描こうとしているのだと気づかされる。
劇中、マリアンとコネルの「秘密」はある段階でほどかれる。しかしその時、周囲に騒ぎ立てる人間はいない。そこにいるのは、キッチンで涙ぐみながらガラスのコップを割ってしまうマリアンと、つらそうな表情で息をあらげ、夜道を足早に歩いていくコネルだけだ。ここで視聴者は、マリアンとコネルが、社会的な理由によって仕方なく「秘密」を保っていたのではなく、自分たちの「近さ」を維持するために「秘密」を持ち続けていたのだと気づかされる。家族関係や友人関係がうまくいかず、誰かと「近さ」をわかちあうことに慣れていなかった2人にとって、「秘密」は単なる駆け引きではなく、唯一自分たちを繋ぎ止める手綱なのだ。そしてここから『ふつうの人々』のテーマは、いよいよ「近さ」に踏み込んでゆく。
メールやネット通話などの手段は、「近さ」に訴えかけることができるのか。一度「近さ」を手に入れたのなら、事実の共有のない「遠さ」にも、耐えうることができるのだろうか。血縁や約束があっても決裂する関係や、横並びで観るマルセル・デュシャン(『裸体、汽車の中の悲しげな青年』)について。様々なゆさぶりをかけながら、物語は進んでゆく。何が僕らを遠ざけてしまうのか? 何なら僕らを遠ざけることが出来るのか?
そして「近さ」について考えるとき、同作が終始キャラクターの身体を重要視していることがとても誠実な態度だと感じる。違った家庭環境や身体のつくりを先天的に背負った個人どうしが、あるとき他者に「近さ」を感じるというのはどういうことか。そんな大きな問いにきっぱりと答えを叩きつけられてしまったら、きっと呆然としてしまうだろう。しかし『ふつうの人々』は、優等生のマリアンが試合中のコネルを観て「すごく美しくて、セックスするとこを見たくなった」と話すような、わかりそうでわからない、しかしおそらく本当なのだろうという「近さ」をとりまくニュアンスを、登場人物たちの身体をおざなりにしない形でもって、見事に表現している。12話6時間のうち41分を占めているというセックスシーンは、その最たるものだろう(それらの場面には、Netflixの人気ドラマ『セックス・エデュケーション』にも携わったイタ・オブライエンがコーディネーターとして参加したのだそうだ。
原作者であり、ドラマ版でも共同脚本を務めたサリー・ルーニーは「登場人物たちの現実に説得力があるとすれば、それは2人の間のある種の関係が可能であることを示します。けれど、書籍にもドラマにもそれ以上のことは何もなく、伝えるべき教訓も道徳もありません」と語っている。「ある種の関係」は「ある種の関係」であって、とても一言で断定できるものではないだろう。しかし今わたしは、その中に見た「近さ」の温度に、どうしても惹かれてしまう。教訓や道徳からも、遠く離れて。
日本ではApple TVで『ふつうの人々』の日本語字幕版が視聴可能。https://tv.apple.com/jp/show/normal-people/umc.cmc.4sjrnd7ie99ifd2yvnf2shy30
画像素材が取り寄せられなかったので、『ふつうの人々』で印象的だったシーンの絵を描いてみました。(いどぬま きみ)
■井戸沼紀美
1992年生まれ、都内在住。明治学院大学卒。これまでに手掛けたイベントに『ジョナス・メカスとその日々をみつめて』(2014年)、『ジョナス・メカス写真展+上映会』(2015年)がある。
*井戸沼さんが参加した『ジョナス・メカス論集 映像詩人の全貌』が刊行されました。のちほど編者によるエッセイを掲載しますが、今年最後の大収穫です、ぜひご購読ください。
●ドキュメンタリー叢書創刊 #01『ジョナス・メカス論集 映像詩人の全貌』のご紹介
『ジョナス・メカス論集 映像詩人の全貌』

216ページ、四六判
執筆:ジョナス・メカス、井戸沼紀美、吉増剛造、井上春生、飯村隆彦、飯村昭子、正津勉、綿貫不二夫、原將人、木下哲夫、髙嶺剛、金子遊、石原海、村山匡一郎、越後谷卓司、菊井崇史、佐々木友輔、吉田悠樹彦、齊藤路蘭、井上二郎、川野太郎、柴垣萌子、若林良
編集:若林良、吉田悠樹彦、金子遊
編集協力、装幀:菊井崇史
発行:2020年11月5日 neoneo編集室
*ときの忘れもので扱っています。税込み 2,200円+送料250円、メール・fax等でお申し込みください。
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・井戸沼紀美のエッセイ「二十二日の半券」は隔月、奇数月の22日に更新します。次回は20221年1月22日掲載予定です。
●ときの忘れものは青山から〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS に移転しました。
阿部勤設計の新しい空間はWEBマガジン<コラージ2017年12月号18~24頁>に特集されています。JR及び南北線の駒込駅南口から約8分です。
TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531
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