関根伸夫資料をめぐって 5

梅津元

「流行り話題になり有名になるのは都会で、定着し、生活の一部になるのは地方である。そんな構造を理解出来るのが版画センターの意義ともいえ、第一の面白い特筆すべき点であろう。」「決して、文化は大都会に育まれるのではなく、そこでは流行が表層面を通過するのであって、内実は母なる故郷である地方に育ち根付くのである。」「江戸時代の浮世絵の活動の意義や魅力のように、現代版画センターがもう少し長時間続けられていたら、もっと文化的意義や生活環境に組み込めた活動だったといえるかも知れない。」
(関根伸夫によるアンケートへの回答/2017年11月)


 これは、「版画の景色-現代版画センターの軌跡」(埼玉県立近代美術館/2018年、以下「版画の景色」と略記)の図録に掲載されている関根伸夫の言葉からの引用である。本連載の前回でも指摘されているように、関根は現代版画センターの活動に深く関わっており、関係者に依頼したアンケートに回答を寄せている。冒頭の記述からは、環境美術研究所の活動にも通底する当時の関根の思考を読み取ることができる。
 関根は、このアンケートの回答で、1975年に「島州一・関根伸夫クロスカントリー 7,500km」を全国同時開催したことに触れ、「版画は1つの原画で数十枚、数百枚の単位で制作が可能である。故に全国同時開催の展覧会が出来る訳である。」と述べ、「国鉄ローカル線やバスを乗り継ぎ、全国津々浦々まで、支部が開催する展覧会のオープニングを巡る旅を繰り返した。確か山陰地方と九州地方の25カ所までは訪れた記憶が有る。」と記している。この旅については、本ブログに再録されている関根のエッセイでも言及されているので、ぜひ、あわせてお読みいただきたい(関根伸夫のエッセイ「<発想>について」第1回:初出『現代版画センターニュース』第12号・1976年2月1日発行)。

202106梅津元umezu_A関根伸夫作品の展示風景/「版画の景色-現代版画センターの軌跡」(埼玉県立近代美術館/2018年) 撮影:酒井猛


 このように、現代版画センターは、中央偏重の美術の現状に対して、生活実感のある地方への美術の普及を志した。それは、複数性という表現媒体としての利点と、比較的廉価で入手できる経済的な利点という、版画の特性を存分に生かした活動であった。ここで、関根伸夫資料に多くの資料が残されている環境美術研究所の活動を振り返ると、やはり、「地方」の重要さが指摘できるのである。環境美術研究所が手がけたプロジェクは、日本全国に及んでおり、その公共性や社会的意義を、関根が重視していたことが伝わってくる。
 本連載の第2回で紹介したとおり、「リサーチ・プログラム:関根伸夫と環境美術」(埼玉県立近代美術館/2021年)では、関根伸夫資料に含まれる多数の写真を素材として、環境美術研究所のプロジェクトを体感できるスライドショーを制作した。プロジェクトの選定はなかなか難しい作業であったが、以下となった。

環境美術研究所 プロジェクト 1970年代
・弁天橋親柱彫刻(神奈川県横浜市/1977年)
・水戸双葉台団地近隣公園(茨城県水戸市/1978年)
・新宿副都心野村ビル(東京都新宿区/1978年)
・九州産業医科大学(福岡県北九州市/1979年)
・奥久慈憩の森―昭和の森記念塔広場(茨城県久慈郡/1979年)

環境美術研究所 プロジェクト 1980-1990年代
・住友生命東京教育センター(東京都調布市/1981年)
・秦野南が丘団地緑道(神奈川県秦野市/1982年)
・千代野ニュータウン―語らいの広場(石川県松任市/1982年)
・新潟駅南口駅前広場―シンボルゾーン(新潟県新潟市/1982年)
・ハイランド塩浜(千葉県市川市/1982年)
・世田谷美術館(東京都世田谷区/1986年)
・東京都庁舎前広場(東京都新宿区/1991年)
・東京都多磨霊園みたま堂(東京都府中市/1993年)

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「環境美術研究所 プロジェクト 1980-1990年代」より
千代野ニュータウン―語らいの広場(石川県松任市/1982年)

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「環境美術研究所 プロジェクト 1980-1990年代」より
新潟駅南口駅前広場―シンボルゾーン(新潟県新潟市/1982年)

 このように、スライドショーで紹介されたプロジェクトに限ってみても、環境美術研究所の活動が日本の各地に広がっていることがわかる。また、プロジェクトの内容も、橋、団地、大学、公園、企業施設、駅、庁舎、霊園など、実に多様な施設に関連しており、人々の生活の様々な場面に関わりがあることもわかる。街の中に彫刻があり、生活の中に版画がある、日本の各地で、そのような「生活環境」が生まれることの「文化的意義」に、関根は精力を傾けた。美術の構造をより社会的意義のある方向へと広げようと目論んでいた当時の関根にとって、環境美術研究所の活動と、現代版画センターの活動は、ある意味では両翼であり、相互に刺激を与え合う活動だったのだろう。さらに、そこに生まれる需要を経済的な成功につなげたいという動機も見いだせるが、そのことの困難さも、関根は実感していたはずである。
 環境美術研究所と現代版画センターは、それでもなお、現代に通じる重要な問題を提起している点において、共通しているように感じられてならない。それは、「中央」と「地方」をめぐる問題であり、美術や文化に限定されず、より広い、社会的、政治的、経済的な問題でもあり、私たちの生活にも直結している論点である。「中央」と「地方」の関係の逆転という基本的な姿勢において、環境美術研究所と現代版画センターの活動は共鳴している。この点については、本ブログ掲載の植田実のエッセイを、ぜひ、お読みいただきたい。例えば、植田は、「版画の景色」について、以下のように書いている。

「ほかに思い当たる例がない会場の空気は、ただの作品展ではないことで、それは一隅に置かれた何冊ものファイル資料からも感じとれるのだが、作家や作品の厖大な数を超えて迫ってくるものがある。その数とは日本全国津津浦浦の「地方」である。」「版画は複数つくれるアートだから同時期に各地域で出来たばかりの作品を中心にした展覧会やオークションが可能だという、じつに単純な発想を実行に移したいきさつは、今回の企画展示と図録が語りつくしている。活動というより10年間にわたる組織的運動になってしまっているのだ。驚くほかはない。そこに確かに生起したにちがいない連鎖反応の現実感。」「(前略)当時の地方の空は自分の光で晴れていて、そこで版画を見ること、買うことはすぐ自然の営みになった。」「全国に張りめぐらされたその「地方」は中央との位相を逆にした。」


 植田は、現代版画センターの活動の意義が、「地方」と「中央」との位相を逆転させたことにあると述べている。これは、現代版画センター自体の活動の社会的意義であるが、関根は、そこに、自身が主宰する環境美術研究所の活動と重なる文化的意義を見出していたに違いない。さらに、植田は、「中央」と「地方」の関係における中央優位の地理的位相を指摘し、それが、「西欧」と「日本」の関係にも重なるという重要な指摘もしている。確かに、植田の指摘のとおり、「中央」と「地方」は、「西欧」と「日本」という構図にも適用可能であり、そのような構造が入れ子状になり、日本の文化的経済的構造が成立している。
 ここで、本連載の第2回で紹介した、関根伸夫資料に含まれるスケッチブックに記された関根の言葉について、再び考えてみたい。第2回の執筆時は、上記のような発想がなかったが、この論点をふまえて見直すと、「日本」という問題が浮上してくる。関根は、1970年のヴェネチア・ビエンナーレに参加した後、ヨーロッパを巡って様々な刺激を受け、それが後の環境美術研究所の設立の動機となるわけであるが、日本に戻ることを決めた時の心境が、ここでの論点と深く関わっていると思われるのだ。

「日本に帰らねばならないような気がする。(中略)僕らにとって一番よいのは、日本にいながらにして自由にやりたいことをすること、そしてそれが情報として世界的に流れること。(中略)僕自身の気持ちとして、現代美術そのものを以前の様にゼ認(ママ)出来ないということ。これをつきつめて方法をとると、現代美術の方向から大きく離れても、自分自身の興味を拡大していかねばならないということ。その、適切な場所は、やはり日本しかないだろう。」
(関根伸夫 スケッチブックより/1971年1月7日)



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関根伸夫 スケッチブック(1970年~2004年)/「リサーチ・プログラム:関根伸夫と環境美術」(埼玉県立近代美術館/2021年)

 この記述に、海外で活動することの現実的な困難が反映しているのは当然であるとしても、「日本に帰らねばならないような気がする。」という心境は、それだけに起因するものではないだろう。自らの活動の「適切な場所」は「やはり日本しかない」という記述から読み取ることができるのは、(日本における)「中央」と「地方」の地理的位相が、「西欧」と「日本」の関係にも重なるという植田実の指摘である。関根は、どこかで、美術や文化において、「西欧」を優位に置き、「日本」を低く見ることに疑問を感じ始めたのだろう。若くして美術家として成功し、「日本代表」としてヴェネチア・ビエンナーレに参加した関根が、「世界」を相手に国際的美術家としてさらなる高みを目指したのは当然のことだったであろう。しかし、そのような態度は、むしろ、日本の後進性を認めることではないかという危機意識が芽生え、日本を拠点に新たな活動を展開する覚悟を決めたと推測することができる。
 関根が、そのような動機をもって、「西欧」から「日本」に拠点を戻したのであるならば、日本における「中央」と「地方」の地理的位相の問題にも鋭敏に反応したであろうことは、容易に想像できる。活動の拠点を日本に見定めた時、その「日本」は抽象的な時空間ではなく、様々な地域の集合体である。そこで、経済的文化的中心である「中央」偏重の活動は、関根の新しい活動にとって、あるべき姿ではなかっただろう。もちろん、都市には都市の魅力がある。環境美術研究所の活動を展開する上で、目覚ましい発展の途上にあった都市が、重要な位置を占めていたことは間違いない。しかしながら、関根が環境美術研究所の活動を開始し、現代版画センターの活動にも深く関わるようになった1970年代以降という時代を視野に入れるならば、交通網の発達にともなう都市の近郊(いわゆるベッドタウンやニュータウン)の開拓、そして、地方の活性化に目を向けることは、重要な意味があったはずである。関根伸夫資料には、「西欧」と「日本」の、そして、「中央」と「地方」の、入れ子状の関係が、幾重にも織り込まれている。だから、関根伸夫資料を紐解く作業には、「西欧」と「日本」の、「中央」と「地方」の、地理的「位相」を「反転」させる可能性が潜んでいるのである。
うめづ げん

梅津 元
1966年神奈川県生まれ。1991年多摩美術大学大学院修士課程修了。同年より埼玉県立近代美術館に学芸員として勤務。担当した主な展覧会(共同企画を含む) :「1970年-物質と知覚 もの派と根源を問う作家たち」(1995)、「ドナルド・ジャッド 1960–1991」(1999)、「プラスチックの時代 | 美術とデザイン」(2000)、「アーティスト・プロジェクト : 関根伸夫《位相─大地》が生まれるまで」(2005)、「生誕100年記念 瑛九展」(2011)、「版画の景色-現代版画センターの軌跡」(2018)、「DECODE/出来事と記録-ポスト工業化社会の美術」(2019)など。

●カタログのご紹介
1559188354814埼玉県立近代美術館『版画の景色 現代版画センターの軌跡』展 図録
2018年 埼玉県立近代美術館 発行
サイズ:ケース表紙:26.0×18.5cm
編集:梅津元、五味良子、鴫原悠(埼玉県立近代美術館)
資料提供:ときの忘れもの
デザイン:刈谷悠三+角田奈央+平川響子/neucitora
印刷製本:株式会社ニッショープリント
※ときの忘れもので取り扱っています。
税込価格:2,750円(送料:250円)

詳しくはブログ2018年01月29日『埼玉県立近代美術館『版画の景色 現代版画センターの軌跡』カタログ紹介』をご覧ください。


●本日のお勧め作品は関根伸夫です。
sekine_44_mebias関根伸夫 Nobuo SEKINE
《空相―メビウス》
1975年
黒御影石
W66.0xH66.0xD16.0cm
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※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください

●ときの忘れものは2017年に青山から〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS に移転しました。もともと住宅だった阿部勤設計の建物LAS CASASを使って、毎月展覧会Web展)を開催し、美術書の編集事務所としても活動しています。
WEBマガジン<コラージ2017年12月号18~24頁>の特集も是非ご覧ください。
ときの忘れものはJR及び南北線の駒込駅南口から徒歩約8分です。
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