井戸沼紀美のエッセイ「二十二日の半券」第8回

『春原さんのうた』

すごく良い映画を観た。すんごく良い時間だった。でも、何からどう書けば良いのだろう……。とりあえずタイトルを書いておくと、私が観たのは、杉田協士監督の新作『春原さんのうた』だ。



主人公の沙知が、カフェでアルバイトをしたり、引越したての部屋で洗濯をしたり、眠ったりする。その一見のんびりとした日々を、見つめていた。見つめていたら眠くなってきて、そのうちカクン、と目が覚める。すると私の目の前の人も、右隣の人も、次々にカクン、となる。なんだろう今の。ちょっと可愛い。

映画は続いていく。次々に人が現れては、皆それぞれに沙知を気遣い、共に時間を過ごしては別れる。また出会う。沙知は時折少し寂しそうにも見えるけれど、基本的にはニコニコと微笑み、どらやきを食べたり、ナポリタンを食べたりしている。

中盤まで、ほとんど瞑想のような時間を過ごしていた。完全に身を任せていた。しかしある時、全身の毛を一気に逆撫でるような、とんでもなく美しいショットがバシャっと一瞬、スクリーンに映る。え、え!? 涙が出そうになるくらい動揺して、脳味噌が勢いよく起動し始める。

度肝を抜かれたショットに映っていたのは、一言でいえば「沙知の後ろ姿」だ。しかしその背中はきっと、自身が強烈な輝きを放っていたことに、いつまでも気づかない。

考えてみると『春原さんのうた』の登場人物たちは皆、人が「(他人からの)視線を気にしていない瞬間」に、それぞれ惹かれあっているように見えた。ある人は沙知が食事をしている無意識の瞬間を携帯で撮り、沙知はおじさんの丸まった背中を、こっそり写真におさめる。道で困っている人に、思わず声をかけてしまう。

生活していると、他人からの視線に、必要以上に敏感になることがある。「唐揚げの最後の一つ、食べたら欲張りだと思われてしまうかも……」とか、「もう学生じゃないし、奇抜な服買うのやめようかな……」とか、いつの間にか人から見た自分を気にしてしまうし、時に気にさせられている。しかし『春原さんのうた』を見ていると、社会なんて背負わず、安心して世界に存在しても良いんだよ、と肯定されたような気分になる。中盤以降、沙知が平然と髪を派手色に染めるように。

ニューヨークの映画祭で『春原さんのうた』が上映された際、客席から監督に「なぜ沙知は髪を染めたのか」と質問があったのだそうだ。その際、監督は「あなたが髪を染めるとき、理由はありますか?」と逆に質問したらしい。なんて最高な応答なんだろう!

突然髪を染めても、突然歌い出しても、そこに理由がなくてもいい。沙知がパートナーの春原さんに惹かれているのも、それと同じことだ。本人の望むことなら、故意に人を傷つけていないなら、何だってしてみたらいい。思いのままに暮らす姿こそが素敵だよ。登場人物たちに通底する態度はそういうものだったし、映画自体もまた、キャラクターに必要以上の意味をなすりつけなかった。

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ところで『春原さんのうた』は作家・歌人の東直子さんによる短歌「転居先不明の判を見つめつつ春原さんの吹くリコーダー」を映画化した作品だ。誰の転居先が不明なのか、春原さんとは誰なのか、なぜリコーダーを吹いているのか。その詳細をすべて読み手の感性に委ねる短歌のあり方と、映画『春原さんのうた』の佇まいは似ている。そういえばこの映画を撮影したキャメラマンの飯岡幸子さんも、撮影の際は「物語をなるべく多く外側に置ける最小限のフレームを心がける」と以前話していた。説明を最小限に抑えても、こんなにも鑑賞者を魅了する作り手たちの手腕に敬服すると同時に、映画の外にも登場人物たちの生が広がっていることを予感して嬉しくなる。

自分の認識の外にも、世界は広がっている。意味や理由なんてなくても、堂々と存在していい。映画を観た帰り道、緑のトラックの中で眠るドライバーに陽があたっていて、なんだかすごく感動してしまった。あの人は今、無意識に美しい。街を風が吹き抜ける。

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『春原さんのうた』
2022年1月8日(土)ポレポレ東中野ほかロードショー
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いどぬま きみ

井戸沼紀美
福島県生まれ、都内在住。明治学院大学卒。これまでに『ジョナス・メカスとその日々をみつめて』(2014年)、『ジョナス・メカス写真展+上映会』(2015年)、『肌蹴る光線』(2018年~)などの上映イベントを企画した。

井戸沼紀美のエッセイ「二十二日の半券」隔月、奇数月の22日に更新します。次回は2022年1月22日掲載予定です。

*画廊亭主敬白
上掲『春原さんのうた』はお正月8日からポレポレ東中野他で上映されますが、同じポレポレでは11月9日のブログでご紹介した杉本信昭監督の映画「分子の音色 A scientist and a musician」がただいま絶賛上映中です。
どうやら評判が良いようで、上映日が少し伸びました。
11月26日(金)までは、夜20:30から。
11月27日(土)~12月3日(金)まで、夕方16:00からです。どうぞ皆さんお出かけください。
大阪でも既に上映が始まっており(シアターセブン、12月3日まで)、続いて12月4日からは名古屋シネマテークでも上映されます。たくさんの方がご覧になって、全国展開されるといいですね。

画廊企画「秋のコレクション展/オブジェ」はお蔭様で盛況のうちに終了いたしました。倉庫の奥深く眠っていたオブジェ群が明るい秋の陽ざしを浴びて甦り、金沢など全国各地にお嫁入することになりました。お買い上げいただいた皆様に心より御礼申し上げます。納品に少しお時間をいただきますが、お許しください。

●ときの忘れものは2017年に青山から〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS に移転しました。もともと住宅だった阿部勤設計の建物LAS CASASを使って、毎月展覧会Web展)を開催し、美術書の編集事務所としても活動しています。
WEBマガジン<コラージ2017年12月号18~24頁>の特集も是非ご覧ください。
ときの忘れものはJR及び南北線の駒込駅南口から徒歩約8分です。
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