井戸沼紀美のエッセイ「二十二日の半券」第12回

『WANDA/ワンダ』


※文中、『WANDA/ワンダ』の重要なシーンにまつわる記載がございます。

「哀しいほど滑稽な逃避行が始まる——」。そんなキャッチコピーとともに、1970年のアメリカ映画『WANDA/ワンダ』が日本で公開され始めた。

その年の『ベネツィア国際映画祭』で最優秀外国映画賞を受賞したにも関わらず、アメリカで長らく正当な評価を受けることがなかったという同作は、マルグリット・デュラスの称賛、イザベル・ユペールの配給権獲得、映画保存組織ザ・フィルム・ファウンデーションとファッションブランドGUCCIの支援によるプリント修復、ソフィア・コッポラの作品紹介などを経て徐々に熱狂的な支持者を増やし、公開から52年後の今年、ようやく日本でも劇場公開されるに至ったのだそうだ。* そして7月10日、私は渋谷で『ワンダ』を目撃した。その忘れたくない体験について、この文章に記しておこうと思う。

『WANDA/ワンダ』予告編

映画の主人公はワンダ。夫と子供がいたが、何の躊躇いもなく離婚し、親権も欲しがらなかった。平気で人から金を借り、お金がないのに映画を観て、お金がないのに酒を飲む。仕事はクビ。その日に出会った男に抱かれ、セックスが終われば雑に捨てられる。金色の髪はボサボサだ。一見不安になってしまうそのキャラクターこそが「スクリーンの中の人々は完璧で、劣等感を抱かせ」るから「映画が嫌いだった」という監督・脚本・主演のバーバラ・ローデンが、デビュー作にして遺作となる同作で描きあげた、たった一人の主人公だった。*

たまたま前日にアニエス・ヴァルダの『幸福』(1965年)を観て、カラフルでリズミカルな画面を堪能していた私にとって、『ワンダ』の幕開けは衝撃的だった。* 石炭採掘時に捨てられた硬石の山を静かな移動ショットで捉えたのち、赤子が泣き叫ぶ狭い部屋を映すシーンへと突入する。なんて薄暗くて荒んだ景色なのだろう。灰色の世界。それがこの映画への第一印象だった。しかし同作を観進めるにつれ、私は主人公のワンダと共に、忘れられない色を目にしていくことになる。

S_25124889グッチ銀座の企画「シネマ ヴィジョナリーズ」で配布された『WANDA/ワンダ』のポストカード

たとえば劇中、狭くて薄汚れた場所ばかりを目にしていたところに、突然「わっ」と広い空が映し出されるシーンがある。その青の中を、白いラジコンが飛び回る。このとき、ワンダは三流強盗のデニス(マイケル・ヒギンズ)との出会いをきっかけに青い車で街を飛び出し、白い服に着替えている。ラジコンと同じように誰かに操縦される身ではあれど、広い世界に飛び出せそうな予感が、どことなく滲んでいる。

しかし身を預けたデニスとの強盗計画はあっけなく失敗する。「妻」も「母」も「私にはムリ」だと思っていたワンダが、唯一できるかもしれないと思っていた犯罪。その夢が破れてしまう。犯行現場でワンダの行先を阻む警官の制服に青色がかすみ、ワンダの青い瞳が滲む。

日常に戻るしかなくなったワンダは、いつものようにバーで男に奢られ、車に乗せられる。よくわからない砂場で体をまさぐられ始める。ここまでは犯罪計画前となんら変わらない。しかしここで、いつもは平気で体を委ねていたワンダが、初めてそれを拒否して逃げ出す。とにかく逃げ、倒れ込んだ森で頭上を見上げると、そこに広がるのは空の青ではなく、覆いかぶさる木々のどうしようもない緑だ。

地に根をはる植物の存在が、ワンダにまだこの地で生きていかなければならないことを知らせる。それは一見残酷な知らせだ。しかしワンダは「哀しいほど滑稽な逃避行」の過程で青色を目にし、白い服に袖を通したからこそ、見知らぬ男の雑な欲望を拒むという選択肢を知った。だからこそ、緑を初めて目の当たりにした。そう捉えることもできる。

バーバラ・ローデンはワンダに分かりやすく幸せな結末を用意しなかった。映画の最終盤でワンダは、またも見知らぬ男に囲まれている。しかしその様子を観てもこちらがあまり動揺しないのは、揺れ動くカメラと共に、ワンダの世界に一つひとつの色が宿る旅路を目にしたからだ。映画の最後、行くあてのないワンダに声をかける女性の真っ赤なセーター、その目が覚めるような色にも、新たな世界の入り口が垣間見える。その先にどんな結末が待っているかはわからない。けれど、ワンダがあの灰色の世界のどこかで、色を認識し始めていることだけは確かだ。愉快なのか不快なのかわからない音楽が爆音で流れて映画は終わる。

この作品が必ずしも観客に希望を与えるとは思わない。けれど、ローデンと同じように映画の中の完璧な登場人物たちに劣等感を抱き、映画を遠ざけてきた人たち、お金がない人、誰かの理想になろうとして疲弊した人が、いつしかワンダと出会えたのなら、またどこかで、新しい旅が始まるのではないだろうか。例えそれが哀しいほど滑稽な逃避行だとしても。旅路を阻む権利は誰にもない。



*前回は2012年から数年開催されていたグッチ銀座の企画「シネマ ヴィジョナリーズ」内で上映された。2022年の配給は、今年始動した映画配給会社「crepuscule films(クレプスキュール フィルム)」によるもの。感謝。
https://wanda.crepuscule-films.com/

*「映画が嫌いだった」という発言は『WANDA/ワンダ』パンフレットより引用。坂本安美さん、高橋諭治さん、山崎まどかさんの寄稿ふくめ、とても参考になるパンフレットでした。

*『WANDA/ワンダ』を観た日に劇場で会った友達が、アニエス・ヴァルダ『冬の旅』(1985年)には『ワンダ』と通ずる部分があると教えてくれたので観てみようと思います。楽しみ。

(いどぬま きみ)

井戸沼紀美
福島県生まれ、都内在住。明治学院大学卒。これまでに『ジョナス・メカスとその日々をみつめて』(2014年)、『ジョナス・メカス写真展+上映会』(2015年)、『肌蹴る光線』(2018年~)などの上映イベントを企画した。

井戸沼紀美のエッセイ「二十二日の半券」は隔月、奇数月の22日に更新します。次回は2022年9月22日掲載予定です。

●ときの忘れものは2017年に青山から〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS に移転しました。阿部勤が設計した個人住宅だった空間で企画展の開催、版画のエディション、美術書の編集等を行なっています(WEBマガジン コラージ2017年12月号18~24頁の特集参照)。
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