瀧口修造と作家たち ― 私のコレクションより ―

第7回「アンリ・ミショー」

清家克久


図版1JPG図版1
アンリ・ミショー
リトグラフ
自筆サイン入限定Ⅲ/✕
制作年不詳
45×28cm

 アンリ・ミショー(1899―1984、ベルギー出身)は、年譜によると1925年(26歳)に、それまで絵画は忌まわしい現実の反復に過ぎないと嫌悪していたが、クレー、エルンスト、キリコらの作品に驚き、自らも描き始めたという。本格的に絵画の制作に取り組んだのは1937年からで、その年に個展も行っている。(「アンリ・ミショー展 ひとのかたち」(東京国立近代美術館カタログ2007年7月平凡社刊より)

 本作品にはエルンストのフロッタージュの影響が見られるが、ミショーにとって「ひとのかたち」もアパリッシオン(出現)に他ならない。ネットオークションで前回紹介したアントニ・タピエスの作品と同じ出品者のOgura Graphicsから2011年1月頃に3万2千5百円で落札した。直筆サイン入りで、エディションはⅢ/Xと記入されているが、調べたところでは70部限定の別刷り作品と思われる。

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『アンリ・ミショー展 ひとのかたち』
2007年7月平凡社刊

 私が初めてアンリ・ミショーの作品を見たのは1985年2月に上京した折の事で、京橋にあった「かねこ・あーとギャラリー」の個展だった。会場に向かう途中で「南天子画廊」から出てきた武満徹とサム・フランシスの姿を目撃したが、もしかすると二人はミショー展を見た後だったのかもしれない。展示品の中で、青いインクの線で流れるように描かれた人像のようなデッサンが印象に残っているが、60万円で売約済みだった。武満徹が買ったと誰かから聞いたような覚えがあるのだが・・・・。ちなみにリトグラフ作品で当時8万円の値段が付いていた。


 瀧口修造は「アンリ・ミショー、詩人への私の近づき」(『詩の本』筑摩書房1967年12月刊)のなかで「妙なことに、私が詩人ミショーに深い関心をよせはじめたのは、彼の絵画やデッサンの存在を知りはじめた頃と一致している。それは戦後もかなりおそく1950年頃であり、間もなく私は彼のデッサン集『ムーヴマン』(ガリマール1951年刊)を手にして、急に詩人としてのミショーへの関心もかきたてられたのだった。」と追憶しているが、1955年から1957年にかけてミショーについて度々言及している。(『コレクション瀧口修造』(みすず書房刊)2巻、3巻、10巻収録の初出リストは以下のとおりである。)

1「書と現代絵画について」(「書道講座7」1955年9月二玄社刊)
2「アンリ・ミショーのムーヴマン」(「美術手帖」1955年11月刊)
3「東と西の書」(「墨美」1957年1月刊)
4「記号について」(「みづゑ」1957年3、5月号連載)
5「詩と美術の周囲Ⅰ~Ⅴ」(「ユリイカ」1957年10月~1958年3月刊)
なかでも「詩と美術の周囲Ⅰ~Ⅴ」は、日記体の連載として珍しく身辺の事や過去に触れており、とりわけ「書くことと描くこと」についての記述が注目される。

図版3図版3
「アンリ・ミショーのムーブマン」
(美術手帖1955年11月号より)



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「詩と美術の周囲5」
(ユリイカ1958年3月号より)

 瀧口は、ミショーの独自な表現に書や絵画の記号性との関連以外に「書くことと描くこと」の根源的な問題を見ており、当時流行していたアンフォルメル運動の影響を受けて、「アンフォルメル芸術と現象的に呼ばれた傾向のなかに、自分にとってある本質的な問題にかかわるもののあることを感じる。しかもそれが長くシュルレアリスムが自分を捉えてきたものと終局において背馳すべきでないという確信のもとに。しかもそれは画壇的な消長や流行現象とは無関係に自分の内部に滲透し、現にとりつつある批評の形式を瓦解させるような危機意識をはらむ。」(自筆年譜1957年)と述べ、自身の切実な問題としても認識していた。

 1958年の欧州旅行中にパリの画廊でミショーの淡彩素描を見て、急に会ってみたくなり、画家の今井俊満と共に住居を訪ねた。その時のことは「アンリ・ミショーを訪ねる」(「無限」創刊号1959年5月刊)に書かれているが、ミショーからデッサン集『ムーヴマン』をどう思うかと訊かれて、「あなたの仕事は書くことと、描くことの基本的な問題、これをつなぐひとつの源泉の問題を提出し、そして明らかにされたのですね。」と答えるとミショーは頷いたという。その場でミショーは三冊の著書(内二冊は献辞入り)を、瀧口は白い舞扇を贈っているが、「夏扇、口なし」という句が浮かび、後日礼状に書き添える。ミショー訪問は瀧口にとって「忘れ得ぬ印象」を残した。

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「無限」創刊号
1959年5月刊

 ミショーは1931年から1932年にかけて8か月間に及ぶアジア旅行でインド、中国、日本、インドネシアを回り、翌年に『アジアにおける一野蛮人』を出版している。1953年にミショーを訪問したフランス文学者白井浩司の回想「アンリ・ミショーの印象」(「無限」創刊号)によると、日本では横浜に着いてから東京で歌舞伎を観て京都を見物し、神戸からまた船に乗って慌ただしく帰ったそうである。ミショーの部屋には写楽の浮世絵が掛かり、雅楽のレコードを聴くなど、日本への興味関心は強かったのだろう。

 瀧口は欧州旅行の後、職業として書くことへの疑念から時評的な文筆を避けるようになる一方で、「私の画帖から」(南天子画廊1960年10月)と題した初個展を行う。その時展示された作品やパンフレットの「それは書いているのか、描いているのかわかりません。その不分明のところが私には問題なのですが。」という言葉からはミショーと瀧口の営為が重なって見える。

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「私の画帳から」パンフレット
1960年10月南天子画廊刊

 美術評論集『点』(みすず書房1963年1月刊)の装幀にミショーのデッサンと自身のバーントドローイングを使い、ミショーの訳詩集『試練、悪魔祓い』(小島俊明訳・現代の芸術双書Ⅳ思潮社版1964年9月刊)のカバーデザインに自筆のタイトルの字と墨のドリッピングをレイアウトしたのも、ミショーへの親愛と共感、そして自分も描くことへの強い意欲の表れを示すものだろう。

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『点』
(1963年1月みすず書房刊)
函、ミショーのデッサン



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同上表紙カバー、
瀧口のバーントドローイング



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『試練、悪魔祓い』
(1964年9月思潮社刊)
表紙カバー


(せいけ かつひさ)

清家克久 Katsuhisa SEIKE
1950年 愛媛県に生まれる。

・清家克久さんの連載エッセイ瀧口修造と作家たち―私のコレクションより―は毎月23日の更新です。

清家克久さんの「瀧口修造を求めて」全12回目次
第1回/出会いと手探りの収集活動
第2回/マルセル・デュシャン語録
第3回/加納光於アトリエを訪ねて、ほか
第4回/綾子夫人の手紙、ほか
第5回/有楽町・レバンテでの「橄欖忌」ほか
第6回/清家コレクションによる松山・タカシ画廊「滝口修造と画家たち展」
第7回/町立久万美術館「三輪田俊助回顧展」ほか
第8回/宇和島市・薬師神邸「浜田浜雄作品展」ほか
第9回/国立国際美術館「瀧口修造とその周辺」展ほか
第10回/名古屋市美術館「土渕コレクションによる 瀧口修造:オートマティスムの彼岸」展ほか
第11回/横浜美術館「マルセル・デュシャンと20世紀美術」ほか
第12回/小樽の「詩人と美術 瀧口修造のシュルレアリスム」展ほか。
あわせてお読みください。

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