駒井哲郎を追いかけて第78回

<大好きな松本竣介と駒井哲郎の展示を見に、駒込のギャラリー「ときの忘れもの」へ。展示の素晴らしさもさることながら、阿部勤設計の個人住宅を活かした展示も魅力の場所でした。中央公論美術出版から刊行された、当時のままの松本竣介の文集が置かれていて、迷いなく即購入。
ギャラリーの方とも長くお話をさせていただき、大好きな画家や作家に関する話が盛り沢山で、出会いの必然性を感じました。何かを熱心に好きでいると、良いこともあるんだなあ。また定期的に足を運びたい場所ができました。
(20230220/igu_kazuma121さんのinstagramより)>

春の小展示/松本竣介と駒井哲郎」は明日が最終日です。
寒い中、短い会期にもかかわらず連日多くの来廊者を迎え、今更ながら松本竣介と駒井哲郎のファンが多いことを嬉しく実感しています。
今回点数は少ないものの、駒井先生の非常に珍しい作品を2点展示しています。

20220901駒井哲郎思い出_tri駒井哲郎 《思い出
1948年
ソフトグランドエッチング、ドライポイント、雁皮刷り
イメージサイズ:22.5×19.0cm
シートサイズ:37.3×28.3cm
Ep. d'Artiste(限定20部)
サインあり

20220901駒井哲郎フューグ・ソムナンビュール_tri駒井哲郎
フューグ・ソムナンビュール
1952年
エングレービング
イメージサイズ:16.0×20.2cm
シートサイズ:27.0×28.5cm
Ep. d'Artiste 1/7
サインあり

この2点は、原版が失われており、生前はもちろん、没後の後刷りは一切ありません。
初期の名作《思い出》は東京都現代美術館はじめいくつかの美術館が所蔵していますが、市場にでてくることはめったになく、昨年の明治古典会という古書業界の有名な入札会に出品があり駒井ファンの間で騒然となりました。結果、記録的な高値で落札されたと聞きます。
ビュランによる《フューグ・ソムナンビュール》は駒井先生が初個展(1953年資生堂ギャラリー)のために制作した意欲作でしたが、当時は不評でした。現存が確認されているのは今回の一点のみで、亭主が知る限り、かつて市場に出てきたことはなく、所蔵する美術館もありません。
このように希少な駒井作品を入手できたことは、亭主の「駒井哲郎を追いかけて」きた人生でも大きな幸運です。

亭主は長い間、駒井哲郎先生の作品を追いかけ、収集し、顧客にお納めしてきました。
1974年に会員制による共同版元として現代版画センターを設立し、駒井先生にも自由が丘画廊を通じ、新作エディションをお願いしたのですが、結局は実現はしませんでした。しかし、その縁で1975年11月~翌1976年3月にかけて「駒井哲郎新作発表全国展」を現代版画センターで企画することができました。駒井先生にとってはこのときが最後の新作発表展になりました(その年の秋1976年11月20日死去)。
版画センターが倒産し(1985年2月)、しばらく美術界からも遠ざかっていたのですが、縁あって銀座の資生堂ギャラリーの企画に参加する機会を得ました。
1991年に<資生堂ギャラリーとそのアーティスト達>というシリーズ企画をたて、その第1回展が「没後15年 銅版画の詩人 駒井哲郎回顧展」でした。
そのとき編集したカタログをご紹介します。

149)『没後15年 銅版画の詩人 駒井哲郎回顧展』図録
20220217184046_00013シリーズ企画<資生堂ギャラリーとそのアーティスト達>第1回展
会期:1991年6月1日~6月16日
オープニング:1991年5月31日
会場:資生堂ギャラリー(銀座)
カタログ:1991年、資生堂企業文化部刊
執筆:中林忠良、野見山暁治、駒井美子、福原義春、中村稔、河合晴生
解題:綿貫不二夫
デザイン:ディスハウス(北澤敏彦) 
26×18cm  63P 収録図版:85点
価格:1,100円(税込み)+送料250円
*東京芸大の現職教授のまま56歳の若さで亡くなられた駒井先生の初個展は1953(昭和28)年に銀座の資生堂ギャラリーで開催されました。ご遺族やコレクターの協力を得て、ゆかりの資生堂が没後15年を記念して回顧展を開催したのですが、従来の展覧会やカタログと異なり、モノタイプやカラー銅版など、「色彩画家」としての駒井哲郎の側面を強調した内容になっています。当時の社長・福原義春氏の駒井コレクションが世に知られるきっかけともなりました。
上掲の「フューグソムナンビュール」も38年ぶりに、再び資生堂ギャラリーで展示されました。
カタログの57~58ページに解題を執筆したので、以下に再録します。

出品作品について(1991年執筆、再録)

駒井哲郎の没後15年を記念しての本展は、少年時代から銅版一筋に生きた作家の初期から晩年までの代表作と、生前まとまって展示されることの少なかった色彩作品を中心に構成された。出品作品81点の内、色彩作品が50点以上を占める。
はじめに駒井哲郎と資生堂ギャラリーのつながりについて触れておきたい。
資生堂ギャラリーは、1919年(大正8)資生堂化粧品部3階に「陳列場」として開設されて以来、途中震災、建物の新改築、戦争などにより幾度かの中断閉鎖を経て今日まで活動を続けて来た。名称も開設当初の「陳列場」から、1928年(昭和3)の本建築竣工時に「資生堂ギャラリー」と変わった。1943年(昭和18)には戦時体制下「資生堂画廊」と改称され、その後1963年(昭和38)に再び「資生堂ギャラリー」に戻り今日に至っている。本カタログの文中「資生堂画廊」と「資生堂ギャラリー」が交錯するのはそのためである。70年を超える歴史の中で推定1000人近い作家たちが資生堂ギャラリーを個展やグループ展の発表の場としてきた。駒井哲郎もその一人であり、現在確認出来るだけでも以下の5回の出展歴がある。(『』の前に※印をつけた作品は今回本展にも出品される。)
1941年(昭和16)5月15日~18日 日本エッチング作家協会主催の「第2回エッチング展覧会」に『港』を出品。
1953年(昭和28)1月28日~31日初めての個展を開催。『フューグ・ソムナンビュール』連作10点、※『月のたまもの』連作3点、※『マルドロオルの歌』より3点などの他、初めての色彩銅版画『夜の風景の中の「雲」と「子供」』『分割されたる自画像』『夕べの街』『賭』『対話』を出品。
1969年(昭和44)10月13日~18日 春陽会会員による「七人の会展」に『時計の眼』『顔』『暗い絵』『残像』『顔の中の赤い月』を出品。「七人の会」のメンバーは駒井の他、清宮質文、中谷泰、南大路一、中村徳三郎、藤井令太郎、村山密。
1974年(昭和49)3月25日~30日 「九人の会展」に『笑う幼児』『静物』(石版)『魔法陣』を出品。「九人の会」のメンバーには上記「七人の会」に関頼武、五味秀夫が加わった。
1976年(昭和51)10月4日~9日 「九人の会展」に※『ビンとコップなど』※『帽子とビン』を出品。出品者は1974年と同じ。
今回の企画は上記資生堂ギャラリーでの駒井哲郎の発表作品の確認作業から始まった。初個展は1953年(昭和28)1月だが、奇しくもこの時銀座で二つの銅版画展が開かれた。駒井哲郎とともに戦後の版画界をリードした浜田知明(当時35歳)が1月27日から31日にかけてフォルム画廊で、一日遅れて1月28日から31日まで32歳の駒井哲郎が資生堂画廊でそれぞれ初個展を開いたのである。フォルム画廊での浜田知明は、代表作となった『初年兵哀歌』をはじめ作品18点を展示した。一方資生堂画廊での駒井哲郎は、ビュランによる意欲作『フューグ・ソムナンビュール』連作を発表したが不評で、逆に“壁面が淋しいからと、あわてて作った”初めての色彩銅版画に人気が集まるという皮肉な結果となり、『フューグ・ソムナンビュール』連作の多くはおそらく1部位しか刷らずにそれきりにしてしまったと思われる。原版も多くは破棄され、連作の全体も10点なのか11点なのか今では判然としない。1979年刊行の作品集には、5点が収録されているのみであり、1980年東京都美術館「駒井哲郎銅版画展」に出品された別の1点を含め現在知られるのは6点である。今回38年ぶりに4点(No.53~56)が資生堂ギャラリーに展示される。しかし不本意だったに違いないこの個展こそが駒井哲郎に色彩銅版画への道を開いたのである。前述の通り「分割されたる自画像』(No.82原版レプリカを今回参考出品)等5点の色彩銅版画が発表された。現在4点が判っているが『対話』については不明である。“色彩を銅版画の本質的要素とは見なしていなかった”(安東次男)にも拘わらず、生前駒井哲郎は色彩への強い意欲と自信を持ち、制作もした。ただ発表には消極的だったことは否めない。

本展の構成については、出品作品全81点を5つのグループに別けた。
◆油彩・水彩・素描(No.1~No.9)ーNo.2~No.4の油彩は、駒井哲郎の推定20歳頃の作品で恐らく展覧会への出品は今回が初めてである。No.3とNo.4の油彩(板)の裏には木版が彫られている(作品は未知)。
◆実験工房第5回発表会でのスライドの原画(No.10~No.24)ー春陽会や、サンパウロ・ビエンナーレで受賞、新進気鋭の銅版画家として脚光を浴びた駒井哲郎は、1952年(昭和27)瀧口修造を顧問格とするインターメディア集団「実験工房」に参加する。メンバーは、造形から北代省三、山口勝弘、福島秀子、写真の大辻清司、音楽からは武満徹、鈴木博義、湯浅譲二の三人の作曲家とピアニストの園田高弘、それに音楽評論の秋山邦晴、照明の今井直次、技術の山崎英夫たちであった。その第5回発表会が1953年(昭和28)9月に第一生命ホールで開かれ、駒井哲郎は湯浅譲二と組んでオートスライドの作品「レスピューグ」の共同制作を行なった。
湯浅譲二の回想(「プリントアート」17号、1974年)によれば、
…私達は当時始めて出来たオート・スライドを手にして、造形、音楽が協力してインターメディア的作品を発表することになった。私は駒井さんと組んで、ロベール・ガンゾの詩による「レスピューグ」を制作した。
ガンゾの詩は、部分的に引用すると、
朝の光だ 見よ 私達のもとへ丘が拡がる 鳥達や 花咲く樹々 そして 揺れそよぐ緑の叢にたたえる水と共に お前は やっと女らしく 肌ほてらせて あたかも私に引きしぼった恍惚の弓よ
といったものだった。駒井さんは赤や青、オレンジや黒などの色紙の上に絵具でイメージを画き、それをスライドにし、私は、フルートとピアノをもとにして、テープの逆回転などを利用しながら、日本では殆ど最初といっていい、ミュージック・コンクレートを作った。何日間もの連続徹夜での制作の末に開かれたコンサートの日に、会場の第一生命ホールで私はヘルツ・ノイローゼで倒れ、友人が薬局に走ってくれたりするあわただしさの中に、駒井さんはアルコールを大部入れて現われた。
興奮と不安、冒険への気負いが奇妙に入り混った夜だったが、いわば青春と友情のここちよい夢といった世界がそこにはあった。

……

今回出品される15点の原画はこの時のスライドのためのもので、全部で29点がパステルやグワッシュで制作されたという(作品の天地は不明)。
◆モノタイプ(No.25~No.41)―駒井哲郎は1970年代に多くの色彩モノタイプを制作した。120点以上が作られたといわれるが正確な点数は不明である。生前と没後の2度刊行された作品集にも収録されなかった。1980年東京都美術館「駒井哲郎銅版画展」には30点が展示されたが、今回はその時出品された2点(No.25, 26)を含め17点が展示される。
◆銅版画(No.42~No.79)ー駒井哲郎は石版(リトグラフ)や木版も若干制作しているが殆どは銅版画である。河合晴生氏によれば約40年間に確認出来るだけでも397点の銅版画を制作した。内70点が色彩銅版画である(1986年度東京都美術館紀要)。本展では15歳の頃から晩年までの38点を時代を追って選んだ。色彩銅版画は13点(No.69を含む)、完成作品と原版(No.76、77)完成作品と試刷り(No.70、70-b、c)、色違いで刷られた作品(No.51)なども展示される。
◆詩画集(No.80、No.81)ー駒井哲郎の才能は、詩画集や挿絵など多くの文学者たちとの共同作業を生み出した。本展では両者が時間と労力を惜しみなく注ぎ込んだ代表的詩画集2冊を展示する。青柳瑞穂訳『マルドロオルの歌』は戦後最も早い時期の限定豪華本であり駒井哲郎の初めての挿絵本だった。中の3点が資生堂画廊の初個展に出品された。『からんどりえ』は相互に触発しあった詩人安東次男との友情と共同制作が生んだ最も美しい成果であった。

凡例
別掲〈出品作品リスト〉のデータ表記は、出品番号、作品名、制作年、技法/材質、サイズ、限定番号、カタログ・レゾネNo.の順とした。
基本資料として「駒井哲郎版画作品集」(366点収録・1979年美術出版社、以下〈作品集〉と略称)があるが、展覧会として最も大規模であった1980年東京都美術館「駒井哲郎銅版画展」の図録(409点収録、以下〈都美図録〉と略称)が作品集の不足を補い、より詳しく正確な内容となっている。本展では〈都美図録〉と〈作品集〉をカタログ・レゾネとして使用し、データ記載の基本とした。従って●カタログ・レゾネNo.は〈都美図録〉と〈作品集〉の両方のカタログ番号を記載した。
各データは出品作品に直接あたり、〈都美図録〉〈作品集〉と照合しながら記載した。両資料の記載の異なる場合は原則として〈都美図録〉に従ったが、可能な限り他の資料にもにあたり正確を期した。特に河合晴生氏の〈都美図録〉以後の研究成果には大変助けられた。
●出品番号ー前述のように作品は5つのジャンルに別けて構成してある。各ジャンルの中で概ね制作年代順に出品番号を付した。
●作品名ー仏文題名(No.25、26、27、28、41、63、65、78、79には自筆の仏文タイトルが作品に記入されている)、別称についても判る限り併記した。両資料で作品名が異なる場合は〈都美図録〉に従った(No.51)。作品名の不明なものは作品名不詳とした。発表当時の作品名が後になって改題されたり(例A)、詩画集に挿入した作品を、異なる作品名で別刷りの単品として発表した(例B)場合もある。
例A/参考図版No.82『分割された顔』は発表当時は「分割されたる自画像」
例B/No.63『Novembre樹木(虹彩の太陽Soleil d'iris)』は、詩画集『からんどりえ』(No.81)に挿入された同一作品の別刷りである(<都美図録>等には記載なし)。1960年の南画廊個展では詩画集挿入作品を『虹彩の太陽 Soleil d'iris』としているが(別称)、本展出品の別刷り(No.63)にも自筆で“1/10 Soleil d'iris"と記入されている。
●制作年ー〈作品集〉で加藤清美氏が註記した通り初期作品は記録が少なく制作年代は推定によるものも少なくない。今後の研究により訂正されるものも出てくるだろう。両資料の制作年が異なる場合は〈都美図録〉に従った(No.48)が、〈都美図録〉以後に正確な制作年が判明した作品もある(No.47)。油彩等年代を特定できないものは作品傾向などから推定し、○○頃とした。
●技法/材質ー作品と〈都美図録〉等を照合して記載した。銅版画の技法用語は英文に統一した。材質について特に記載のないものはすべて紙である。
●サイズーイメーズ・サイズをタテ×ヨコで実測し記載した。事前に実測出来ないものについては<都美図録>等に従った。
●限定番号ー敢えて〈都美図録〉等に記載された限定部数(または刷り部数)を転記せず、作品に実際に記入されている限定番号またはエプルーブの表記のみを記載した。出品作品にはそれぞれサインと限定番号、Ep. d'Artiste等の表記がなされ、またノーサインのものもある。
駒井作品の限定部数は一応殆どが〈作品集〉に記載され〈都美図録〉もそれを基礎にしている。しかし〈作品集〉で加藤清美氏が“初期作品など、限定総数のすべてが市場に出たとは考えられないものもあり、また第一の限定数未満で打ち切られ、第二の限定に移った作品もあると思われる”と慎重な書き方で註記されている通り、駒井作品のエディション記録の確定はこれからの課題である。駒井哲郎のみならず版画家にとって1950年代の日本にはサポートしてくれる版元や工房、画商による出版(エディション)システムも市場も殆ど存在せず、作品に記入した限定番号の分母は必ずしも実際の刷り部数を反映していない。注文や出品に応じて少しづつ刷り、その都度次の番号を記入して行くことも多かった。No.53~56の『フューグ・ソムナンビュール』には自筆でEp.d'artiste 1/7と記入されている。一見7部刷られたようにみえるが、実際には駒井夫人の回想にある通り1部乃至は数部だけしか刷られていない可能性の方が高いのである。また逆にパイオニアとしての孤軍奮闘の中で、求めに応じ記録にはない“第二の限定”(セカンドエディション)を刷ったこともあったろう。『からんどりえ』挿絵の記録外の別刷り作品(No.63)があることは前述した。もちろんこれらのことは駒井作品の本質的な評価には何の関係もない。展覧会の個別データとしての正確さを期したまでである。
天上の駒井哲郎は色彩に溢れた今回の展示をどう見るだろうか。この小回顧展が一つのきっかけとなり、実績に比して不遇だった駒井哲郎の別の一面に光が当てられ、いつかモノタイプ等を含む全作品を網羅した、正確な記録による作品総目録(カタログ・レゾネ)が刊行されることを切に願う。(綿貫不二夫/アルス・マーレ企画室)

◆「春の小展示/松本竣介と駒井哲郎
会期:2023年2月15日(水)~2月25日(土)*日・月・祝日休廊
出品作品の画像とデータは2月9日ブログに掲載しています。
挿画本やカタログについては2月15日のブログ「松本竣介の画集・カタログ」と、2月16日のブログ「駒井哲郎の挿画本とカタログ」をご参照ください。
松本竣介と駒井哲郎展1280