小国貴司のエッセイ「かけだし本屋・駒込日記」第62回

とある本屋さんが閉店するというニュースを見て「そうかぁ…。」と呟く。この「…」の部分には、たぶん言葉にはできない感情が詰まっていて、そこには言いようのない敗北感が混ざっている。みんなのその店を惜しむ声への、ちょっとした戸惑いもある。
自分だってどこかのお店の閉店を惜しむことはあるし、よく行くお店が閉店した時は「残念。また行きたかった。」と思う。よく行く、ならまだしも、年一くらいのたまに行く店であっても同じかもしれない。つい先日も近所の料理屋さんがなくなり「ああ…。また食べたかったのに。」と思った。つまりやっぱりどこかのお店が、それが本屋に限らずとも、閉店をするというニュースは、それなりにショックではあるのだ。
SNSが全盛の時代、その「ショック」は全世界に向けて発信される。(自分も何度もやっている。)昔だったら身の回りの人に「あの店無くなっちゃってショックだね」で済んだ話が、思い出と一緒に、いかに良い店であったかが拡散される。そして惜しまれる。場合によっては「遺志を継ぎます」みたいなお店が現れる…。
その流れが、本屋の閉店の際には、自分は苦手なのかもしれない。閉店するその店が、どうしても自分の店のように思えてしまうのだ。自分は惜しまれて閉店するくらいなら、罵られてでも商売を続けたい、と思っているから、その閉店する店主の立場に感情移入してしまうのかもしれない。いや、その店主は、惜しまれて「ありがとう」と素直に思うだろうし、自分だって顔の見えるお客さんに惜しまれたら「ありがとうございます。」と思うはずだ。だから、勝手に感情移入して、勝手に憤っているだけであるのは自覚している。でも、でもでも、である。この敗北感…。きっとリアル書店を潰した時点で、それがどんなに小さいものでも、逆に巨大なものでも、リアルの場が「負け」たという敗北感を、自分は感じているのだ。そうして、その敗北感を「いい店でした」という惜しむ声が、より一層強くする。「本当にいい店だったら、どうして負けたんだ!」と。
でも、いったい何に負けたというのか?
それはたぶん雑多なものを売る場の価値が、ロジカルなものに負けたのだ。(本当は「いいえ、世間に負けた」と言いたいところでもある。)
ネット書店は、売る側の嗜好、趣味、もしくは買い手の購買データを基にしたロジカルなおすすめは表現できる。そうしてそれはとても素晴らしい。というより、自分の商売を考えても、そうやって出来ていく単品販売が無ければ、もうとっくに自分の店は潰れていると思う。それはとても力があるし、正直、店の売上よりもよっぽど未来がある。
でも、それでは掬いきれない面白さが、リアルの場にはあると言いたい。雑多な空間には、原点であり終点のような、ロジカルさとはまったく違う魅力があり、そこでは思いもかけないものに出会う。自分の人生を変えた本とは、ネット書店がなかった時代のおじさんなんだから当たり前であるが、大体店頭の100円棚で出会っている。このリアルな場の魅惑は、しかも、一覧できる。一冊ずつ手に取らずとも(クリックせずとも)何十冊何百冊という情報が、数分で頭の中を出入りする。
でも、探している本が明快な時には、リアルの場は恐ろしく効率が悪い。だいたい運良く欲しい本があったとしても、値段が適正かはわからないし、状態も悪いかもしれない。そういった意味では、ネットの串刺しできる情報量とは、永遠に勝負にならない。自分にとって関係ない情報は不要なものである現代、ロジカルさが善な現代では、どう考えてもリアルな場は不利である。
でも、本当にそれでいいのだろうか?と思う。
相場とデータと嗜好で出来るネット空間と、雑多で非効率な自分の頭の外側に抜け出るようなリアルな場。どちらも共存するにはどう足掻けばいいのか。それを考えている。
(おくに たかし)
●小国貴司のエッセイ「かけだし本屋・駒込日記」は隔月、奇数月5日の更新です。次回は5月5日です。どうぞお楽しみに。
■小国貴司 Takashi OKUNI
「BOOKS青いカバ」店主。学生時代より古書に親しみ、大手書店チェーンに入社後、店長や本店での仕入れ・イベント企画に携わる。書店退職後、新刊・古書を扱う書店「BOOKS青いカバ」を、文京区本駒込にて開業。
●本日のお勧め作品は磯崎新です。
磯崎新「MOCA #4」
1983年 エッチング
イメージサイズ:15.0×20.0cm
シートサイズ:29.0×38.0cm
Ed.100 サインあり
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※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください。

とある本屋さんが閉店するというニュースを見て「そうかぁ…。」と呟く。この「…」の部分には、たぶん言葉にはできない感情が詰まっていて、そこには言いようのない敗北感が混ざっている。みんなのその店を惜しむ声への、ちょっとした戸惑いもある。
自分だってどこかのお店の閉店を惜しむことはあるし、よく行くお店が閉店した時は「残念。また行きたかった。」と思う。よく行く、ならまだしも、年一くらいのたまに行く店であっても同じかもしれない。つい先日も近所の料理屋さんがなくなり「ああ…。また食べたかったのに。」と思った。つまりやっぱりどこかのお店が、それが本屋に限らずとも、閉店をするというニュースは、それなりにショックではあるのだ。
SNSが全盛の時代、その「ショック」は全世界に向けて発信される。(自分も何度もやっている。)昔だったら身の回りの人に「あの店無くなっちゃってショックだね」で済んだ話が、思い出と一緒に、いかに良い店であったかが拡散される。そして惜しまれる。場合によっては「遺志を継ぎます」みたいなお店が現れる…。
その流れが、本屋の閉店の際には、自分は苦手なのかもしれない。閉店するその店が、どうしても自分の店のように思えてしまうのだ。自分は惜しまれて閉店するくらいなら、罵られてでも商売を続けたい、と思っているから、その閉店する店主の立場に感情移入してしまうのかもしれない。いや、その店主は、惜しまれて「ありがとう」と素直に思うだろうし、自分だって顔の見えるお客さんに惜しまれたら「ありがとうございます。」と思うはずだ。だから、勝手に感情移入して、勝手に憤っているだけであるのは自覚している。でも、でもでも、である。この敗北感…。きっとリアル書店を潰した時点で、それがどんなに小さいものでも、逆に巨大なものでも、リアルの場が「負け」たという敗北感を、自分は感じているのだ。そうして、その敗北感を「いい店でした」という惜しむ声が、より一層強くする。「本当にいい店だったら、どうして負けたんだ!」と。
でも、いったい何に負けたというのか?
それはたぶん雑多なものを売る場の価値が、ロジカルなものに負けたのだ。(本当は「いいえ、世間に負けた」と言いたいところでもある。)
ネット書店は、売る側の嗜好、趣味、もしくは買い手の購買データを基にしたロジカルなおすすめは表現できる。そうしてそれはとても素晴らしい。というより、自分の商売を考えても、そうやって出来ていく単品販売が無ければ、もうとっくに自分の店は潰れていると思う。それはとても力があるし、正直、店の売上よりもよっぽど未来がある。
でも、それでは掬いきれない面白さが、リアルの場にはあると言いたい。雑多な空間には、原点であり終点のような、ロジカルさとはまったく違う魅力があり、そこでは思いもかけないものに出会う。自分の人生を変えた本とは、ネット書店がなかった時代のおじさんなんだから当たり前であるが、大体店頭の100円棚で出会っている。このリアルな場の魅惑は、しかも、一覧できる。一冊ずつ手に取らずとも(クリックせずとも)何十冊何百冊という情報が、数分で頭の中を出入りする。
でも、探している本が明快な時には、リアルの場は恐ろしく効率が悪い。だいたい運良く欲しい本があったとしても、値段が適正かはわからないし、状態も悪いかもしれない。そういった意味では、ネットの串刺しできる情報量とは、永遠に勝負にならない。自分にとって関係ない情報は不要なものである現代、ロジカルさが善な現代では、どう考えてもリアルな場は不利である。
でも、本当にそれでいいのだろうか?と思う。
相場とデータと嗜好で出来るネット空間と、雑多で非効率な自分の頭の外側に抜け出るようなリアルな場。どちらも共存するにはどう足掻けばいいのか。それを考えている。
(おくに たかし)
●小国貴司のエッセイ「かけだし本屋・駒込日記」は隔月、奇数月5日の更新です。次回は5月5日です。どうぞお楽しみに。
■小国貴司 Takashi OKUNI
「BOOKS青いカバ」店主。学生時代より古書に親しみ、大手書店チェーンに入社後、店長や本店での仕入れ・イベント企画に携わる。書店退職後、新刊・古書を扱う書店「BOOKS青いカバ」を、文京区本駒込にて開業。
●本日のお勧め作品は磯崎新です。
磯崎新「MOCA #4」1983年 エッチング
イメージサイズ:15.0×20.0cm
シートサイズ:29.0×38.0cm
Ed.100 サインあり
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