平嶋彰彦のエッセイ「東京ラビリンス」のあとさき
その24 渋谷—駅周辺の再開発と渋谷川沿いの景色
文・写真 平嶋彰彦
前回にも書いた大学写真部の旧友たちと、昨年の12月9日と今年の1月13日、渋谷を歩いた(註1)。
12月9日の待ち合わせ場所は渋谷駅のハチ公前。最初に渋谷ヒカリエの11階から渋谷駅周辺の再開発現場を展望。それがph1~ph3の写真である。ph4は4階にある庭園でのスナップ。ph5は宮益坂から見た渋谷川上流方向の跡地。
それより、渋谷センター街を抜け、再開発のため近々閉店するという東急百貨店本店と併設のBunkamura(文化村)を一目見たあと、その南側の斜面にある道玄坂のラブホテル街と百軒店商店街を歩いてまわった(註2)。さらに駅南側の再開発のようすをのぞいてから、渋谷川に沿って並木橋まで歩く予定だったが、あちこちで道草をすることが多く、途中で陽が落ちてしまった。
そんなことから、歩き損なった渋谷川の部分は、目的地を並木橋から天現寺橋付近までに延長し、年の明けた1月13日に改めて歩いてみることになった。ph6~ph20は、その日にスナップした渋谷駅周辺と渋谷川沿いの街並みである。

ph1 渋谷駅の再開発工事。渋谷ヒカリエ11Fから。正面手前は銀座線渋谷駅。その奥がJR渋谷駅で、渋谷スクランブルスクエア中央棟と西棟が2027年に開業する予定。駅地下にはいまも渋谷川が流れる。2022.12.09

ph2 渋谷ヒカリエ11Fからガラス越しに見た渋谷の眺望。右は渋谷スクランブルスクエア東棟。その左は渋谷ストリーム。2022.12.09

ph3 渋谷ヒカリエ4Fから見た駅南側の再開発。画面中央は首都高速3号渋谷線。その左奥に稲荷橋があり、渋谷川はそれより下流は地上を流れる。2022.12.09

ph4 渋谷ヒカリエ4Fの庭園。ベンチで寄り添うカップル。ベンチの上から写真を撮る人。2022.12.09
渋谷は周りを丘陵に囲まれた谷間にある。その中央を南北に流れていたのが渋谷川である。1885(明治18)年、その流路に沿って日本鉄道品川赤羽線(現JR山手線・同赤羽線)が敷設され、渋谷停車場(現渋谷駅)ができた。渋谷川の渋谷駅より上流は1964(昭和39)年の東京オリンピックまでに埋め立てられた。上流には隠田川と宇田川(河骨川)二つの流れがあり、渋谷駅北側の宮下公園南側で合流していた(ph5)(註3)。
渋谷川の川名はこの合流点から天現寺橋までの通称である。江戸時代の渋谷は上渋谷村・中渋谷村・下渋谷村に分れていた。渋谷駅の辺りは中渋谷村で、天現寺橋の架かる広尾のあたりは下渋谷村に属していた(註4)。上流の一つ隠田川は、神宮前公園(神宮前6丁目)から宮益坂までの流域が上渋谷村に属していた。もう一方の宇田川は、現在の宇田川町の中央を東南方向に流れていた。その流路跡が井の頭通りになるが、この宇田川町の一帯もやはり上渋谷村の内だった(註5)。
渋谷は街歩きの会でこれまでも何度か歩いている。
最初に歩いたのは2013年だった。メンバーの一人福田和久君の話では、渋谷は渋谷駅を中心にした大規模な再開発計画が進行中で、これから10数年をかけて、大きく変貌しようとしている。この年の3月15日には、その計画の一つとして、東急東横線の渋谷駅から代官山までの線路が地上から地下に切り換えられる、というのである。そこで、まず1月18日に宇田川町と道玄坂あたりの繁華街を歩いたあと、翌月の13日、東横線に沿って代官山から渋谷までを歩くことになった。
福田君は大学写真部の1年後輩である。彼は神宮前2丁目で生まれ育ち、いまもそこに住んでいる。子どものころは、すぐ近くを渋谷川(隠田川)が流れていた。しかも勤め先の音楽会社は自宅から歩いてせいぜい10分のところにあった。
そもそも私たちが街歩きを始めたのは、2011年に彼が定年退職したのがきっかけだった。彼と同期の宇野敏雄君によると、本人はこれから暇になるから街歩きをするつもりだということである。宇野君と3年後輩の柏木久育君と私は、大学を卒業した後も、月に一度は顔をあわせる間柄で、それぞれ街歩きを続けていた。
それなら、いっそのこと、4人で街歩きを始めたらどうだろう、と提案してみた。多久彰紀君や伊勢淳二君も同じ年回りだから、いずれ近いうちに暇になる。誘ってみれば、彼らも乗ってくるに違いない。というようなことで、4人が6人になり、やがて菊池武範さん、鈴木淑子さん、笹井温迪君も加わり、会員は9人になった。
私たちの会は誰が中心でもなければ、規約のようなものもない。街歩きの探索地はみんなで相談し、いまは案内役と下見役を、都心の近くに住む宇野・福田・柏木の3君が引き受けているが、もとは祭礼の頭屋や念仏講の寄合いのように持ち回りにしていた。当日は、12時に集合し、4時間ほど歩く。そのあとは飲み会。コロナ渦のいまは1時間か1時間半に自粛しているが、ふだんは街歩きより長くなる。

ph5 宮益坂下から見た渋谷川の流路跡。正面奥は宮下公園。その手前で隠田川と宇田川が合流し、それより下流を渋谷川と呼んだ。2022.12.09

ph6 渋谷駅ハチ公前広場。正月だからか、大黒さまが祀られている。2023.01.13

ph7 蕎麦屋の壁の落書きと選挙ポスター。鶯谷1-6。2023.01.13

ph8 マンション排気口の芸術作品。八幡通り。東1-31。2023.01.13
渋谷駅から明治通りを恵比寿方向へ500mほど歩くと並木橋交差点がある。並木橋は渋谷川に架かる橋である。この橋の傍にはかつて東横線の並木橋駅があった。駅は1945(昭和20)年の空襲で焼失、翌年に廃止されたというが、2013年には橋の西詰傍にプラットホームの側壁がまだ残っていた(註6)。
現在は橋の上に立つと、川の奥に渋谷スクランブルスクエアと渋谷ストリームがそびえたつ(ph9)。1985年の『昭和二十年東京地図』の取材でも、この橋の上から写真を撮ったことがある(註7)。そのときは気づきもしなかったが、橋の東側の一画に、鎌倉街道の案内板があると福田君がいう(註8)。
この右手の細い道を、古くから鎌倉街道と呼び、源氏が鎌倉に幕府を開いて以来、東日本の各地に設けた軍道のひとつといわれています。/ここから西へ行くと、渋谷川を渡っをのぼり、猿楽塚の二つの築山の間を抜けて目黒川にくだり、さらに多摩川を渡って神奈川県に入ります。/また東に進むと、青山学院の付近を通り、千駄ヶ谷方面に達し、さらに東北地方に向かっていたといわれています。/大永四年(一五二四)に、相模の北条軍がこの鎌倉道を通って江戸に攻めのぼり、そのときの戦火が渋谷地域にもおよび金王八幡宮付近にあった城郭が焼失と伝えられています。
並木橋から「西へ行くと」、「東へ進むと」と書かれているが、この道筋は現在の八幡通りに大略は相当するものとみられる。
八幡通りを西へ向かうと、代官山駅の西側で山手通りと交差する。はす向かいに重要文化財の旧朝倉家住宅がある。その北西側に隣接するのが、上記の案内板にある「猿楽塚」である(註9)。「二つの築山の間を抜けて目黒川にくだり」というのは、旧朝倉邸南側の道幅の狭い坂道のことで、目切坂と呼ばれている(註10)。坂を下りていくと、目黒川が北西から南東方向に流れていて、下流方向に歩いていくと、まもなく東横線中目黒駅に出る。
いっぽう、並木橋から八幡通りを東へ向かうと、左手に金王八幡神社がみえてくる。境内に案内板があり、言い伝えによれば、1092(寛治6)年、渋谷氏の祖河崎高家の創建。その子重家が鎌倉街道沿いの要衝であるこの地に居城。それ以来、渋谷氏の氏神として尊崇されてきたという。金王は重家の子の渋谷金王丸常光のことで、のちの土佐坊昌俊だという(註11)。昌俊は頼朝の命を受け、義経を京都堀川の宿所に急襲するが、敗れて六条川原で斬首されたとされる(註12)。
金王八幡神社の社伝は「疑ふへき事多し」と『新編武蔵風土記稿』は書き、『江戸名所図会』も家系図と「違へり」と書いている(註13)。しかし、創建縁起の信憑性はともかく、中世には渋谷が相模(神奈川県)と武蔵(東京都)を結ぶ鎌倉街道の要衝の一つであり、当時の渋谷の中心地が現在の金王八幡のあたりだったことは間違いなさそうに思われる。
鎌倉時代には相模の中心地は鎌倉だった。戦国時代に北條(後北条)氏が本拠にしたのは小田原である。1524年の合戦では、北条軍は小田原を発ち、「この鎌倉道を通って江戸に」攻めのぼったものと思われる。明治時代になると、相模の中心は横浜になった。相模(神奈川県)の政治経済の中心地は時代によって変遷するが、東急東横線は、中世以来の鎌倉街道を鉄道により再編した近代的輸送路とみられなくもない。

ph9 並木橋から見た渋谷川の上流方向。奥は渋谷ストリームと渋谷スクランブルスクエア。渋谷3。2023.01.13

ph10 明治通り。都バス東2丁目停留所に貼られた化粧品ポスター。2023.01.13

ph11 明治通り。都バス東2丁目停留所とガラス張りのビル。東2-27。2023.01.13

ph12 明治通り。信号待ちの学校帰りの小学生。広尾1-8。2023.01.13
渋谷は東京の都心から首都高速道路で東名高速道路に向かう途中にある。
首都高は渋谷駅の南側を東西に通じているが、その高架下を走るのが国道246号線である(ph3)。駅の北側には宮益坂から道玄坂へ向かう道があり、道玄坂の西側で国道246号に合流している。これが大山道である。大山は伊勢原の大山阿夫利神社のことで、江戸時代にはその参詣路になっていて、矢倉沢往還とも呼ばれた(註14)。
矢倉沢は南足柄市矢倉沢のことである。大山道は伊勢原の西にも通じていて、秦野から矢倉沢を経由して足柄峠を越えて御殿場へぬけ、その先の吉原で旧東海道に合流していた。国道246号と道筋は必ずしも一致しないが、東海道の補完的な役割を担うという点では、矢倉沢往還はその前身といっていいかもしれない(註15)。
ちなみに、国道246号は伊勢原から先は箱根・足柄峠を迂回してJR御殿場線に併行する道筋で、沼津で国道1号(旧東海道)に合流する。1934(昭和9)年、丹那トンネルが開通するが、それまで東海道本線は御殿場線の軌道を走っていた。『三四郎』の主人公小川三四郎が、郷里の熊本から上京したのも現在の御殿場線である(註16)。
箱根といえば、大学4年のとき、開通して間もない東名高速道路を走って、富士山を見に行ったことがある。早稲田祭になると、政経学部の大教室に建築用の鉄パイプを組み、写真パネルを展示した。理工学部の先輩たちの発案だというが、どこかバラック建築の雰囲気があり、展示方法として斬新に思われた。
このときの展示作業は遅れにおくれ、夜中の2時か3時になってようやく片づいた。すると誰がいいだしたのか、これから箱根へ行こうということになった。福田君のブルーバードに宇野君と私、その他にたぶん3人、男ばかりがすし詰め状態で乗り込んだ。東名高速道路を厚木で降りたあと、国道1号(旧東海道)を上っていくと、富士山はあいにく雲がかかっていたが、白々と明けていく周りの山々の稜線が目にしみて心地よかった。たわいないといえばたわいない。しかし、なつかしい。街歩きの仲間の原風景である。

ph13 JR恵比寿駅前。丸物の魚を売るえびすストアーの魚きよ。恵比寿1-8。2023.01.13

ph14 広尾商店街。右の2軒は店を閉じている。広尾5-17。2023.01.13

ph15 明治通り。流行のアイスクリーム店。恵比寿1-6。2023.01.13

ph16 渋谷橋西詰。飲食店が集合する恵比寿横丁。恵比寿1-7。2023.01.13
1853(嘉永6)年の『江戸切絵図』「東都青山絵図」をみると、画面左端に北西から南東に流れる渋谷川と、「宮益町」から「道玄坂」に通じる大山道を確認することができる。大山道が渋谷川と交差する地点に架かるのが宮益橋である。現在の渋谷駅の位置はそのすぐ南側で、線路のすぐ傍をそのころは渋谷川が流れていたのである(註17)。
宮益坂は「宮益町」と書かれているから、町屋が軒を連ねていたのかもしれない。この町が道玄坂町や広尾町と一緒に、村方支配から町奉行支配に編入されたのは、1713(正徳3)年のことだという(註18)。しかし、現在の渋谷駅を中心とした渋谷川の周辺は「百姓地」「畑」「田」と記され、緑色(山林・土手・馬場・植溜等)に塗られているから、どこの田舎にもあるような田園風景が広がっていたとみられる。
葛飾北斎の『富岳三十六景』に「隠田の水車」があり、そこには穀物の袋を背負う男女の姿が描き込まれている(註19)。水車は隠田川(渋谷川)に設けられたもので、隠田(隠田村)は現在の原宿あたりの旧地名である。渋谷の一帯はもともと水利の不便なところで、玉川上水が出来てからは、それを分水し農業用水に転用するようになったが、耕地の生産性は低く、下々田・下々畑が多かったということである。(註20)
今回の街歩きは、先に述べたように、渋谷川に沿って渋谷駅から天現寺橋(広尾)まで歩いた。天現寺橋は渋谷区と港区の境目である。ここまでが渋谷区で、渋谷川と呼んでいるが、それより下流の港区では一般的に古川と呼ばれてきた。天現寺橋から下流は首都高速2号目黒線・都心環状線の高架が川面に覆い被さっている。
ところで古川には新堀川という川名もある。これは1667(寛文7)年と1675(延宝3)年、掘削工事をして、河口の金杉橋から一之橋(麻布十番)付近まで、舟が通えるように川幅を拡げたのが異称の由来だという(註21)
私の妻の実家は芝1丁目で、すぐ近くに古川に架かる金杉橋があった。大学2年のころ、1年足らずだったが、その家に下宿した(註22)。妻はあれが自分の不幸の始まりだというが、いまさらあとの祭りである。第一京浜(旧東海道)を隔てた向かいが新堀の商店街で、その一画に金春湯という銭湯があった。新堀は新堀川のことであるが、明治の旧町名である芝新堀町の略称でもあった。
その金春湯で、私と同年配の父親が子どもに、体をきれいに洗ってから湯舟に浸かることを教える場面を何度も目にした。東京は田舎と違って、他人の目を気にしない。といっても、言わずものがなで、それなりの常識が息づいているのである。地方出身の知らない者同士が穏やかに暮らすための累積した知恵だろう。私にはカルチャーショックだった。

ph17 木造アパート前の路地に造られた花園。広尾1-4。2023.01.13

ph18 一戸建て住宅の裏庭に咲いたアロエの花。広尾1-4。2023.01.13

ph19 庚申橋から見た渋谷川の上流方向の街並み。東3。2023.01.13

ph20 庚申橋供養塔。青面金剛神の踏みつける三猿の下部に寄進者と村名を刻む。渋谷ばかりでない。寄進者は都内の広範囲におよぶ。東3-17。2023.01.13
私は20年ほど前から習志市の役場近くのマンションに住んでいる。一階で10畳ばかりの小さな庭がついている。正面はヒイラギの生垣になっているが、左右は金網のフェンスだけでなにもない。部屋のなかが通りから丸見えである。これはなんとなく落ち着かない。かといって、露骨な目隠しもしたくなかった。
そこで、フェンスにハゴロモジャスミンとクレマチスを這わせ、キンカン・イチジク・サンショウ・ニオイバンマツリ・サザンカなどの果樹や花木を植えてみた。さらに、ベランダにはプランターや鉢に植えた花をならべることにした。そうすれば、東京下町の裏通りや路地でよく見かける軒先の花園のようになる気がしたのである。
専用の庭といっても、私の勝手気ままな改造だから、周りとの違和感は否めない。苦情が出たらどうしようと、びくびくしていたが、そんなこともなかった。「きれいにしていますね、楽しませてもらっていますよ」とほめてくれる人もいれば、「イチジクの実が割れかかっていますよ」と心配してくれる人もいる。
そればかりでない。マンションではイヌもネコも禁止だが、私の家ではネコを飼っている。出窓を開けて置くと、「あら、ナミちゃん、何してるの」といって、ネコに話しかけてくる人がいる。飼っているのがバレバレなのは承知の上だが、名前まで知っているのはなぜなのか腑に落ちない。壁に耳あり障子に目ありであっても、見て見ぬふりをしているに違いない。
近所の一戸建てにネコ好きの年寄り夫婦がいて、「野良ネコのいない町は、人間にとっても住みにくい」を持論に、ネコを何匹も飼うだけでなく、町内を徘徊する野良ネコの食事から避妊の世話までしている。
大規模な都市再開発のあとには、タテとヨコに体積を肥大化させたビルが林立する。そしてそれまでそこにあった猥雑で怪しげな裏通りや路地を容赦なく淘汰していく。合理性と利便性の名目のもとに街並みは浄化されてすっかりきれいになる。その銅貨の半面では、野良ネコがわがもの顔で暮らしていける安全地帯が消失していくのである。
【註】
註1 平嶋彰彦のエッセイ「東京ラビリンス」のあとさき : ギャラリー ときの忘れもの (livedoor.jp)
註2 東急百貨店本店 きょう閉店 再開発で 跡地に36階建て複合施設 | NHK | 東京都
註3 連載その5のph1を参照。のんべい横町と宮下公園の間に、コンクリの排出口が見える。これが宇田川で、右側の流れが隠田川。写真は1961年11月、池田信の撮影。その現在の姿がph5である。平嶋彰彦のエッセイ「東京ラビリンス」のあとさき その5 : ギャラリー ときの忘れもの (livedoor.jp)
註4 『日本歴史地名大系13 、東京都の地名』「渋谷区」(平凡社、2002)
註5 同上。『図説 江戸・東京の川と水辺の事典』「江戸東京全河川解説」(鈴木理生編著、柏書房、2003)
註6 並木橋駅 - Wikipedia
註7 『昭和二十年東京地図』(文・西井一夫、筑摩書房、1986)
註8 現地案内板「鎌倉道」(渋谷区教育委員会)
註9 重要文化財 旧朝倉家住宅 | 渋谷区公式サイト (city.shibuya.tokyo.jp)。現地案内板「猿楽塚」(渋谷区教育委員会)
註10 目黒の坂 目切坂:目黒区公式ホームページ (city.meguro.tokyo.jp)
註11 社伝は境内案内板による。
註12 『吾妻鏡(一)』「巻五 文治元年」(岩波文庫、1939)。『源平盛衰記』「勢巻 第四十六 土佐坊上洛」(国民文庫刊行会、1910)
註13 『大日本地誌大系(七)新編武蔵風土記稿 第一巻』「巻之十 豊島郡之二 中豊沢村」(雄山閣、1996)。『新訂 江戸名所図会3 巻之三・天璣之部』「渋谷八幡宮」「金王麿影堂」(ちくま学芸文庫、1996)
註14 『日本歴史地名大系13 、東京都の地名』「渋谷区」(平凡社、2002)
註15 矢倉沢往還(やぐらさわおうかん)とは? 意味や使い方 - コトバンク (kotobank.jp)
註16 御殿場線(ごてんばせん)とは? 意味や使い方 - コトバンク (kotobank.jp)。『三四郎』(夏目漱石、岩波文庫、1990)
註17 『江戸切絵図』「東都青山絵図」(尾張屋板、1853・嘉永6年)〔江戸切絵図〕 青山渋谷絵図 - 国立国会図書館デジタルコレクション (ndl.go.jp)
註18 『日本歴史地名大系13 、東京都の地名』「渋谷区」(平凡社、2002)
註19 『富岳三十六景』「十一 隠田の水車」(葛飾北斎。富岳三十六景 : 葛飾北斎傑作 - 国立国会図書館デジタルコレクション (ndl.go.jp)
註20 『日本歴史地名大系13 、東京都の地名』「渋谷区」(平凡社、2002)
註21 『図説 江戸・東京の川と水辺の事典』「江戸東京全河川解説」(鈴木理生編著、柏書房、2003)
註22 新連載・平嶋彰彦のエッセイ 「東京ラビリンス」のあとさき : ギャラリー ときの忘れもの (livedoor.jp)
(ひらしま あきひこ)
・おまけ


平嶋先生から届いた写真です。画像はクリックで拡大します。
・ 平嶋彰彦のエッセイ 「東京ラビリンス」のあとさき は隔月・奇数月14日に更新します。
次回は2023年5月14日です。
■平嶋彰彦 HIRASHIMA Akihiko
1946年、千葉県館山市に生まれる。1965年、早稲田大学政治経済学部入学、写真部に所属。1969年、毎日新聞社入社、西部本社写真課に配属となる。1974年、東京本社出版写真部に転属し、主に『毎日グラフ』『サンデー毎日』『エコノミスト』など週刊誌の写真取材を担当。1986年、『昭和二十年東京地図』(文・西井一夫、写真・平嶋彰彦、筑摩書房)、翌1987年、『続・昭和二十年東京地図』刊行。1988年、右2書の掲載写真により世田谷美術館にて「平嶋彰彦写真展たたずむ町」。(作品は同美術館の所蔵となり、その後「ウナセラ・ディ・トーキョー」展(2005)および「東京スケイプinto the City」展(2018)に作者の一人として出品される)。1996年、出版制作部に転属。1999年、ビジュアル編集室に転属。2003年、『町の履歴書 神田を歩く』(文・森まゆみ、写真・平嶋彰彦、毎日新聞社)刊行。編集を担当した著書に『宮本常一 写真・日記集成』(宮本常一、上下巻別巻1、2005)。同書の制作行為に対して「第17回写真の会賞」(2005)。そのほかに、『パレスサイドビル物語』(毎日ビルディング編、2006)、『グレートジャーニー全記録』(上下巻、関野吉晴、2006)、『1960年代の東京 路面電車が走る水の都の記憶』(池田信、2008)、『宮本常一が撮った昭和の情景』(宮本常一、上下巻、2009)がある。2009年、毎日新聞社を退社。それ以降に編集した著書として『宮本常一日記 青春篇』(田村善次郎編、2012)、『桑原甲子雄写真集 私的昭和史』(上下巻、2013)。2011年、早稲田大学写真部時代の知人たちと「街歩きの会」をつくり、月一回のペースで都内各地をめぐり写真を撮り続ける。2020年6月で100回を数える。
2020年11月ときの忘れもので「平嶋彰彦写真展 — 東京ラビリンス」を開催。
●本日のお勧め作品は平嶋彰彦です。
平嶋彰彦
《高田馬場一丁目(諏訪町)賄付き下宿日本館》
1985.9-1986.2(Printed in 2020)
ゼラチンシルバープリント
シートサイズ:25.4x30.2cm
Ed.10
サインあり
こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください。
●ときの忘れものは2017年に青山から〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS に移転しました。阿部勤が設計した個人住宅だった空間で企画展の開催、版画のエディション、美術書の編集等を行なっています(WEBマガジン コラージ2017年12月号18~24頁の特集参照)。
JR及び南北線の駒込駅南口から徒歩約8分です。
TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531
E-mail:info@tokinowasuremono.com
http://www.tokinowasuremono.com/
営業時間=火曜~土曜の平日11時~19時。*日・月・祝日は休廊
その24 渋谷—駅周辺の再開発と渋谷川沿いの景色
文・写真 平嶋彰彦
前回にも書いた大学写真部の旧友たちと、昨年の12月9日と今年の1月13日、渋谷を歩いた(註1)。
12月9日の待ち合わせ場所は渋谷駅のハチ公前。最初に渋谷ヒカリエの11階から渋谷駅周辺の再開発現場を展望。それがph1~ph3の写真である。ph4は4階にある庭園でのスナップ。ph5は宮益坂から見た渋谷川上流方向の跡地。
それより、渋谷センター街を抜け、再開発のため近々閉店するという東急百貨店本店と併設のBunkamura(文化村)を一目見たあと、その南側の斜面にある道玄坂のラブホテル街と百軒店商店街を歩いてまわった(註2)。さらに駅南側の再開発のようすをのぞいてから、渋谷川に沿って並木橋まで歩く予定だったが、あちこちで道草をすることが多く、途中で陽が落ちてしまった。
そんなことから、歩き損なった渋谷川の部分は、目的地を並木橋から天現寺橋付近までに延長し、年の明けた1月13日に改めて歩いてみることになった。ph6~ph20は、その日にスナップした渋谷駅周辺と渋谷川沿いの街並みである。

ph1 渋谷駅の再開発工事。渋谷ヒカリエ11Fから。正面手前は銀座線渋谷駅。その奥がJR渋谷駅で、渋谷スクランブルスクエア中央棟と西棟が2027年に開業する予定。駅地下にはいまも渋谷川が流れる。2022.12.09

ph2 渋谷ヒカリエ11Fからガラス越しに見た渋谷の眺望。右は渋谷スクランブルスクエア東棟。その左は渋谷ストリーム。2022.12.09

ph3 渋谷ヒカリエ4Fから見た駅南側の再開発。画面中央は首都高速3号渋谷線。その左奥に稲荷橋があり、渋谷川はそれより下流は地上を流れる。2022.12.09

ph4 渋谷ヒカリエ4Fの庭園。ベンチで寄り添うカップル。ベンチの上から写真を撮る人。2022.12.09
渋谷は周りを丘陵に囲まれた谷間にある。その中央を南北に流れていたのが渋谷川である。1885(明治18)年、その流路に沿って日本鉄道品川赤羽線(現JR山手線・同赤羽線)が敷設され、渋谷停車場(現渋谷駅)ができた。渋谷川の渋谷駅より上流は1964(昭和39)年の東京オリンピックまでに埋め立てられた。上流には隠田川と宇田川(河骨川)二つの流れがあり、渋谷駅北側の宮下公園南側で合流していた(ph5)(註3)。
渋谷川の川名はこの合流点から天現寺橋までの通称である。江戸時代の渋谷は上渋谷村・中渋谷村・下渋谷村に分れていた。渋谷駅の辺りは中渋谷村で、天現寺橋の架かる広尾のあたりは下渋谷村に属していた(註4)。上流の一つ隠田川は、神宮前公園(神宮前6丁目)から宮益坂までの流域が上渋谷村に属していた。もう一方の宇田川は、現在の宇田川町の中央を東南方向に流れていた。その流路跡が井の頭通りになるが、この宇田川町の一帯もやはり上渋谷村の内だった(註5)。
渋谷は街歩きの会でこれまでも何度か歩いている。
最初に歩いたのは2013年だった。メンバーの一人福田和久君の話では、渋谷は渋谷駅を中心にした大規模な再開発計画が進行中で、これから10数年をかけて、大きく変貌しようとしている。この年の3月15日には、その計画の一つとして、東急東横線の渋谷駅から代官山までの線路が地上から地下に切り換えられる、というのである。そこで、まず1月18日に宇田川町と道玄坂あたりの繁華街を歩いたあと、翌月の13日、東横線に沿って代官山から渋谷までを歩くことになった。
福田君は大学写真部の1年後輩である。彼は神宮前2丁目で生まれ育ち、いまもそこに住んでいる。子どものころは、すぐ近くを渋谷川(隠田川)が流れていた。しかも勤め先の音楽会社は自宅から歩いてせいぜい10分のところにあった。
そもそも私たちが街歩きを始めたのは、2011年に彼が定年退職したのがきっかけだった。彼と同期の宇野敏雄君によると、本人はこれから暇になるから街歩きをするつもりだということである。宇野君と3年後輩の柏木久育君と私は、大学を卒業した後も、月に一度は顔をあわせる間柄で、それぞれ街歩きを続けていた。
それなら、いっそのこと、4人で街歩きを始めたらどうだろう、と提案してみた。多久彰紀君や伊勢淳二君も同じ年回りだから、いずれ近いうちに暇になる。誘ってみれば、彼らも乗ってくるに違いない。というようなことで、4人が6人になり、やがて菊池武範さん、鈴木淑子さん、笹井温迪君も加わり、会員は9人になった。
私たちの会は誰が中心でもなければ、規約のようなものもない。街歩きの探索地はみんなで相談し、いまは案内役と下見役を、都心の近くに住む宇野・福田・柏木の3君が引き受けているが、もとは祭礼の頭屋や念仏講の寄合いのように持ち回りにしていた。当日は、12時に集合し、4時間ほど歩く。そのあとは飲み会。コロナ渦のいまは1時間か1時間半に自粛しているが、ふだんは街歩きより長くなる。

ph5 宮益坂下から見た渋谷川の流路跡。正面奥は宮下公園。その手前で隠田川と宇田川が合流し、それより下流を渋谷川と呼んだ。2022.12.09

ph6 渋谷駅ハチ公前広場。正月だからか、大黒さまが祀られている。2023.01.13

ph7 蕎麦屋の壁の落書きと選挙ポスター。鶯谷1-6。2023.01.13

ph8 マンション排気口の芸術作品。八幡通り。東1-31。2023.01.13
渋谷駅から明治通りを恵比寿方向へ500mほど歩くと並木橋交差点がある。並木橋は渋谷川に架かる橋である。この橋の傍にはかつて東横線の並木橋駅があった。駅は1945(昭和20)年の空襲で焼失、翌年に廃止されたというが、2013年には橋の西詰傍にプラットホームの側壁がまだ残っていた(註6)。
現在は橋の上に立つと、川の奥に渋谷スクランブルスクエアと渋谷ストリームがそびえたつ(ph9)。1985年の『昭和二十年東京地図』の取材でも、この橋の上から写真を撮ったことがある(註7)。そのときは気づきもしなかったが、橋の東側の一画に、鎌倉街道の案内板があると福田君がいう(註8)。
この右手の細い道を、古くから鎌倉街道と呼び、源氏が鎌倉に幕府を開いて以来、東日本の各地に設けた軍道のひとつといわれています。/ここから西へ行くと、渋谷川を渡っをのぼり、猿楽塚の二つの築山の間を抜けて目黒川にくだり、さらに多摩川を渡って神奈川県に入ります。/また東に進むと、青山学院の付近を通り、千駄ヶ谷方面に達し、さらに東北地方に向かっていたといわれています。/大永四年(一五二四)に、相模の北条軍がこの鎌倉道を通って江戸に攻めのぼり、そのときの戦火が渋谷地域にもおよび金王八幡宮付近にあった城郭が焼失と伝えられています。
並木橋から「西へ行くと」、「東へ進むと」と書かれているが、この道筋は現在の八幡通りに大略は相当するものとみられる。
八幡通りを西へ向かうと、代官山駅の西側で山手通りと交差する。はす向かいに重要文化財の旧朝倉家住宅がある。その北西側に隣接するのが、上記の案内板にある「猿楽塚」である(註9)。「二つの築山の間を抜けて目黒川にくだり」というのは、旧朝倉邸南側の道幅の狭い坂道のことで、目切坂と呼ばれている(註10)。坂を下りていくと、目黒川が北西から南東方向に流れていて、下流方向に歩いていくと、まもなく東横線中目黒駅に出る。
いっぽう、並木橋から八幡通りを東へ向かうと、左手に金王八幡神社がみえてくる。境内に案内板があり、言い伝えによれば、1092(寛治6)年、渋谷氏の祖河崎高家の創建。その子重家が鎌倉街道沿いの要衝であるこの地に居城。それ以来、渋谷氏の氏神として尊崇されてきたという。金王は重家の子の渋谷金王丸常光のことで、のちの土佐坊昌俊だという(註11)。昌俊は頼朝の命を受け、義経を京都堀川の宿所に急襲するが、敗れて六条川原で斬首されたとされる(註12)。
金王八幡神社の社伝は「疑ふへき事多し」と『新編武蔵風土記稿』は書き、『江戸名所図会』も家系図と「違へり」と書いている(註13)。しかし、創建縁起の信憑性はともかく、中世には渋谷が相模(神奈川県)と武蔵(東京都)を結ぶ鎌倉街道の要衝の一つであり、当時の渋谷の中心地が現在の金王八幡のあたりだったことは間違いなさそうに思われる。
鎌倉時代には相模の中心地は鎌倉だった。戦国時代に北條(後北条)氏が本拠にしたのは小田原である。1524年の合戦では、北条軍は小田原を発ち、「この鎌倉道を通って江戸に」攻めのぼったものと思われる。明治時代になると、相模の中心は横浜になった。相模(神奈川県)の政治経済の中心地は時代によって変遷するが、東急東横線は、中世以来の鎌倉街道を鉄道により再編した近代的輸送路とみられなくもない。

ph9 並木橋から見た渋谷川の上流方向。奥は渋谷ストリームと渋谷スクランブルスクエア。渋谷3。2023.01.13

ph10 明治通り。都バス東2丁目停留所に貼られた化粧品ポスター。2023.01.13

ph11 明治通り。都バス東2丁目停留所とガラス張りのビル。東2-27。2023.01.13

ph12 明治通り。信号待ちの学校帰りの小学生。広尾1-8。2023.01.13
渋谷は東京の都心から首都高速道路で東名高速道路に向かう途中にある。
首都高は渋谷駅の南側を東西に通じているが、その高架下を走るのが国道246号線である(ph3)。駅の北側には宮益坂から道玄坂へ向かう道があり、道玄坂の西側で国道246号に合流している。これが大山道である。大山は伊勢原の大山阿夫利神社のことで、江戸時代にはその参詣路になっていて、矢倉沢往還とも呼ばれた(註14)。
矢倉沢は南足柄市矢倉沢のことである。大山道は伊勢原の西にも通じていて、秦野から矢倉沢を経由して足柄峠を越えて御殿場へぬけ、その先の吉原で旧東海道に合流していた。国道246号と道筋は必ずしも一致しないが、東海道の補完的な役割を担うという点では、矢倉沢往還はその前身といっていいかもしれない(註15)。
ちなみに、国道246号は伊勢原から先は箱根・足柄峠を迂回してJR御殿場線に併行する道筋で、沼津で国道1号(旧東海道)に合流する。1934(昭和9)年、丹那トンネルが開通するが、それまで東海道本線は御殿場線の軌道を走っていた。『三四郎』の主人公小川三四郎が、郷里の熊本から上京したのも現在の御殿場線である(註16)。
箱根といえば、大学4年のとき、開通して間もない東名高速道路を走って、富士山を見に行ったことがある。早稲田祭になると、政経学部の大教室に建築用の鉄パイプを組み、写真パネルを展示した。理工学部の先輩たちの発案だというが、どこかバラック建築の雰囲気があり、展示方法として斬新に思われた。
このときの展示作業は遅れにおくれ、夜中の2時か3時になってようやく片づいた。すると誰がいいだしたのか、これから箱根へ行こうということになった。福田君のブルーバードに宇野君と私、その他にたぶん3人、男ばかりがすし詰め状態で乗り込んだ。東名高速道路を厚木で降りたあと、国道1号(旧東海道)を上っていくと、富士山はあいにく雲がかかっていたが、白々と明けていく周りの山々の稜線が目にしみて心地よかった。たわいないといえばたわいない。しかし、なつかしい。街歩きの仲間の原風景である。

ph13 JR恵比寿駅前。丸物の魚を売るえびすストアーの魚きよ。恵比寿1-8。2023.01.13

ph14 広尾商店街。右の2軒は店を閉じている。広尾5-17。2023.01.13

ph15 明治通り。流行のアイスクリーム店。恵比寿1-6。2023.01.13

ph16 渋谷橋西詰。飲食店が集合する恵比寿横丁。恵比寿1-7。2023.01.13
1853(嘉永6)年の『江戸切絵図』「東都青山絵図」をみると、画面左端に北西から南東に流れる渋谷川と、「宮益町」から「道玄坂」に通じる大山道を確認することができる。大山道が渋谷川と交差する地点に架かるのが宮益橋である。現在の渋谷駅の位置はそのすぐ南側で、線路のすぐ傍をそのころは渋谷川が流れていたのである(註17)。
宮益坂は「宮益町」と書かれているから、町屋が軒を連ねていたのかもしれない。この町が道玄坂町や広尾町と一緒に、村方支配から町奉行支配に編入されたのは、1713(正徳3)年のことだという(註18)。しかし、現在の渋谷駅を中心とした渋谷川の周辺は「百姓地」「畑」「田」と記され、緑色(山林・土手・馬場・植溜等)に塗られているから、どこの田舎にもあるような田園風景が広がっていたとみられる。
葛飾北斎の『富岳三十六景』に「隠田の水車」があり、そこには穀物の袋を背負う男女の姿が描き込まれている(註19)。水車は隠田川(渋谷川)に設けられたもので、隠田(隠田村)は現在の原宿あたりの旧地名である。渋谷の一帯はもともと水利の不便なところで、玉川上水が出来てからは、それを分水し農業用水に転用するようになったが、耕地の生産性は低く、下々田・下々畑が多かったということである。(註20)
今回の街歩きは、先に述べたように、渋谷川に沿って渋谷駅から天現寺橋(広尾)まで歩いた。天現寺橋は渋谷区と港区の境目である。ここまでが渋谷区で、渋谷川と呼んでいるが、それより下流の港区では一般的に古川と呼ばれてきた。天現寺橋から下流は首都高速2号目黒線・都心環状線の高架が川面に覆い被さっている。
ところで古川には新堀川という川名もある。これは1667(寛文7)年と1675(延宝3)年、掘削工事をして、河口の金杉橋から一之橋(麻布十番)付近まで、舟が通えるように川幅を拡げたのが異称の由来だという(註21)
私の妻の実家は芝1丁目で、すぐ近くに古川に架かる金杉橋があった。大学2年のころ、1年足らずだったが、その家に下宿した(註22)。妻はあれが自分の不幸の始まりだというが、いまさらあとの祭りである。第一京浜(旧東海道)を隔てた向かいが新堀の商店街で、その一画に金春湯という銭湯があった。新堀は新堀川のことであるが、明治の旧町名である芝新堀町の略称でもあった。
その金春湯で、私と同年配の父親が子どもに、体をきれいに洗ってから湯舟に浸かることを教える場面を何度も目にした。東京は田舎と違って、他人の目を気にしない。といっても、言わずものがなで、それなりの常識が息づいているのである。地方出身の知らない者同士が穏やかに暮らすための累積した知恵だろう。私にはカルチャーショックだった。

ph17 木造アパート前の路地に造られた花園。広尾1-4。2023.01.13

ph18 一戸建て住宅の裏庭に咲いたアロエの花。広尾1-4。2023.01.13

ph19 庚申橋から見た渋谷川の上流方向の街並み。東3。2023.01.13

ph20 庚申橋供養塔。青面金剛神の踏みつける三猿の下部に寄進者と村名を刻む。渋谷ばかりでない。寄進者は都内の広範囲におよぶ。東3-17。2023.01.13
私は20年ほど前から習志市の役場近くのマンションに住んでいる。一階で10畳ばかりの小さな庭がついている。正面はヒイラギの生垣になっているが、左右は金網のフェンスだけでなにもない。部屋のなかが通りから丸見えである。これはなんとなく落ち着かない。かといって、露骨な目隠しもしたくなかった。
そこで、フェンスにハゴロモジャスミンとクレマチスを這わせ、キンカン・イチジク・サンショウ・ニオイバンマツリ・サザンカなどの果樹や花木を植えてみた。さらに、ベランダにはプランターや鉢に植えた花をならべることにした。そうすれば、東京下町の裏通りや路地でよく見かける軒先の花園のようになる気がしたのである。
専用の庭といっても、私の勝手気ままな改造だから、周りとの違和感は否めない。苦情が出たらどうしようと、びくびくしていたが、そんなこともなかった。「きれいにしていますね、楽しませてもらっていますよ」とほめてくれる人もいれば、「イチジクの実が割れかかっていますよ」と心配してくれる人もいる。
そればかりでない。マンションではイヌもネコも禁止だが、私の家ではネコを飼っている。出窓を開けて置くと、「あら、ナミちゃん、何してるの」といって、ネコに話しかけてくる人がいる。飼っているのがバレバレなのは承知の上だが、名前まで知っているのはなぜなのか腑に落ちない。壁に耳あり障子に目ありであっても、見て見ぬふりをしているに違いない。
近所の一戸建てにネコ好きの年寄り夫婦がいて、「野良ネコのいない町は、人間にとっても住みにくい」を持論に、ネコを何匹も飼うだけでなく、町内を徘徊する野良ネコの食事から避妊の世話までしている。
大規模な都市再開発のあとには、タテとヨコに体積を肥大化させたビルが林立する。そしてそれまでそこにあった猥雑で怪しげな裏通りや路地を容赦なく淘汰していく。合理性と利便性の名目のもとに街並みは浄化されてすっかりきれいになる。その銅貨の半面では、野良ネコがわがもの顔で暮らしていける安全地帯が消失していくのである。
【註】
註1 平嶋彰彦のエッセイ「東京ラビリンス」のあとさき : ギャラリー ときの忘れもの (livedoor.jp)
註2 東急百貨店本店 きょう閉店 再開発で 跡地に36階建て複合施設 | NHK | 東京都
註3 連載その5のph1を参照。のんべい横町と宮下公園の間に、コンクリの排出口が見える。これが宇田川で、右側の流れが隠田川。写真は1961年11月、池田信の撮影。その現在の姿がph5である。平嶋彰彦のエッセイ「東京ラビリンス」のあとさき その5 : ギャラリー ときの忘れもの (livedoor.jp)
註4 『日本歴史地名大系13 、東京都の地名』「渋谷区」(平凡社、2002)
註5 同上。『図説 江戸・東京の川と水辺の事典』「江戸東京全河川解説」(鈴木理生編著、柏書房、2003)
註6 並木橋駅 - Wikipedia
註7 『昭和二十年東京地図』(文・西井一夫、筑摩書房、1986)
註8 現地案内板「鎌倉道」(渋谷区教育委員会)
註9 重要文化財 旧朝倉家住宅 | 渋谷区公式サイト (city.shibuya.tokyo.jp)。現地案内板「猿楽塚」(渋谷区教育委員会)
註10 目黒の坂 目切坂:目黒区公式ホームページ (city.meguro.tokyo.jp)
註11 社伝は境内案内板による。
註12 『吾妻鏡(一)』「巻五 文治元年」(岩波文庫、1939)。『源平盛衰記』「勢巻 第四十六 土佐坊上洛」(国民文庫刊行会、1910)
註13 『大日本地誌大系(七)新編武蔵風土記稿 第一巻』「巻之十 豊島郡之二 中豊沢村」(雄山閣、1996)。『新訂 江戸名所図会3 巻之三・天璣之部』「渋谷八幡宮」「金王麿影堂」(ちくま学芸文庫、1996)
註14 『日本歴史地名大系13 、東京都の地名』「渋谷区」(平凡社、2002)
註15 矢倉沢往還(やぐらさわおうかん)とは? 意味や使い方 - コトバンク (kotobank.jp)
註16 御殿場線(ごてんばせん)とは? 意味や使い方 - コトバンク (kotobank.jp)。『三四郎』(夏目漱石、岩波文庫、1990)
註17 『江戸切絵図』「東都青山絵図」(尾張屋板、1853・嘉永6年)〔江戸切絵図〕 青山渋谷絵図 - 国立国会図書館デジタルコレクション (ndl.go.jp)
註18 『日本歴史地名大系13 、東京都の地名』「渋谷区」(平凡社、2002)
註19 『富岳三十六景』「十一 隠田の水車」(葛飾北斎。富岳三十六景 : 葛飾北斎傑作 - 国立国会図書館デジタルコレクション (ndl.go.jp)
註20 『日本歴史地名大系13 、東京都の地名』「渋谷区」(平凡社、2002)
註21 『図説 江戸・東京の川と水辺の事典』「江戸東京全河川解説」(鈴木理生編著、柏書房、2003)
註22 新連載・平嶋彰彦のエッセイ 「東京ラビリンス」のあとさき : ギャラリー ときの忘れもの (livedoor.jp)
(ひらしま あきひこ)
・おまけ


平嶋先生から届いた写真です。画像はクリックで拡大します。
・ 平嶋彰彦のエッセイ 「東京ラビリンス」のあとさき は隔月・奇数月14日に更新します。
次回は2023年5月14日です。
■平嶋彰彦 HIRASHIMA Akihiko
1946年、千葉県館山市に生まれる。1965年、早稲田大学政治経済学部入学、写真部に所属。1969年、毎日新聞社入社、西部本社写真課に配属となる。1974年、東京本社出版写真部に転属し、主に『毎日グラフ』『サンデー毎日』『エコノミスト』など週刊誌の写真取材を担当。1986年、『昭和二十年東京地図』(文・西井一夫、写真・平嶋彰彦、筑摩書房)、翌1987年、『続・昭和二十年東京地図』刊行。1988年、右2書の掲載写真により世田谷美術館にて「平嶋彰彦写真展たたずむ町」。(作品は同美術館の所蔵となり、その後「ウナセラ・ディ・トーキョー」展(2005)および「東京スケイプinto the City」展(2018)に作者の一人として出品される)。1996年、出版制作部に転属。1999年、ビジュアル編集室に転属。2003年、『町の履歴書 神田を歩く』(文・森まゆみ、写真・平嶋彰彦、毎日新聞社)刊行。編集を担当した著書に『宮本常一 写真・日記集成』(宮本常一、上下巻別巻1、2005)。同書の制作行為に対して「第17回写真の会賞」(2005)。そのほかに、『パレスサイドビル物語』(毎日ビルディング編、2006)、『グレートジャーニー全記録』(上下巻、関野吉晴、2006)、『1960年代の東京 路面電車が走る水の都の記憶』(池田信、2008)、『宮本常一が撮った昭和の情景』(宮本常一、上下巻、2009)がある。2009年、毎日新聞社を退社。それ以降に編集した著書として『宮本常一日記 青春篇』(田村善次郎編、2012)、『桑原甲子雄写真集 私的昭和史』(上下巻、2013)。2011年、早稲田大学写真部時代の知人たちと「街歩きの会」をつくり、月一回のペースで都内各地をめぐり写真を撮り続ける。2020年6月で100回を数える。
2020年11月ときの忘れもので「平嶋彰彦写真展 — 東京ラビリンス」を開催。
●本日のお勧め作品は平嶋彰彦です。
平嶋彰彦《高田馬場一丁目(諏訪町)賄付き下宿日本館》
1985.9-1986.2(Printed in 2020)
ゼラチンシルバープリント
シートサイズ:25.4x30.2cm
Ed.10
サインあり
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※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください。
●ときの忘れものは2017年に青山から〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS に移転しました。阿部勤が設計した個人住宅だった空間で企画展の開催、版画のエディション、美術書の編集等を行なっています(WEBマガジン コラージ2017年12月号18~24頁の特集参照)。
JR及び南北線の駒込駅南口から徒歩約8分です。
TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531
E-mail:info@tokinowasuremono.com
http://www.tokinowasuremono.com/
営業時間=火曜~土曜の平日11時~19時。*日・月・祝日は休廊
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