ガウディの街バルセロナより
その7 磯崎さんとの出会い
丹下敏明
今でも忘れられないが、1984年1月2日に磯崎さんから突然電話をもらった。もちろん我々の世代でもアイドル的な存在だったので、そんな人から電話をもらったのでとても驚いた。それ以前に話をしたことも面識もなかったのでただ驚くばかりだった。私の大学では福岡のシティー銀行を訪れていた「設計」の教授がカリキュラムで、そのスライドを講義で学生に見せ、熱い講義をしてくれたことが今も記憶に残っている。
しかし、最近手紙を整理していたら、それ以前にも磯崎アトリエから連絡をもらっていた事が分かった。それは1978年に磯崎さんの監修で六耀社から出された『ガウディ全作品』の出版に当たり、磯崎さんがバルセロナを訪れ、取材をするのでアテンドをして欲しいという内容の秘書の網谷さんからの手紙だった。しかし、手紙は速達で出されていたものの、手紙を受け取った時点で磯崎さんはすでにバルセロナを去っていた。網谷さんは私の電話番号を探したのだろうが、電話番号が見つからなかった。それもそのはず、当時家には電話はなかった。当時のスペインでは電話の回線数が著しく少なく、電話局に申し込んでも番号をもらうには約1年はかかっていた。当時は日本との連絡はもっぱら手紙でやっていた。
1984年頃の私は長年仕事をしていた地元の建築家サルバドール・タラゴの事務所を辞めて、自分の道を開こうとしていた時期だった。
磯崎さんはその前年の夏に、バルセロナ市から招待されて´92年オリンピックの主幹施設の設計コンペに参加して、1月6日にコンペ案をプレゼンするためにバルセロナに来るということで、その手伝いをしてくれないかというものだった。
プレゼンの前日に着いた磯崎さんは、小さなバッグとトランク大の木の箱を2つ持参していた。この箱が模型だったとわかったのは翌日で、模型は3つに分解されて、2つのトランクの様に作られていた。
´92年オリンピックの主幹施設というのは、1992年にバルセロナ市はオリンピックを招致しようとしていたので、その為にはIOCが提案している基準の施設を建設しなければならなかった。当時のバルセロナには1929年に建設され、1936年にオリンピックで使われるはずであったスタジアムが廃墟化していたがあった。しかし、1936年のオリンピックはヒトラーによってベルリンに強引に持っていかれて、バルセロナでは実際には開催されなかったので幻のスタジアムであった。他にはオリンピックに使えるような施設は市にはほとんど何もなく、強力な対抗馬のパリにはそこそこの施設はあったので、それに勝つにはどうしても施設の建設が必要だった。市役所は国際コンペを開いてこれに応じようとしていた。コンペには6チームの建築家が招待された。
コンペで提案されていた敷地は市内にあるモンジュイックの山の中腹にあるスタジアムを中心に考えられていた。スタジアムは市民のメモリーのなかに生きているとし、このファサードを補修して残し、IOCが要求する収容人員(6万2千人)を確保し、国内の各フェデレーションが要求する競技面の規格をクリアするために改装が必要だった。そして、その周辺に室内競技場、プレス・センター(現在体育大学)を新たに提案するというものだった。モンジュイックはモデルニスモ時期に大量の石が切り出され、現在のバルセロナの街の姿を作ったが、1929年万博の時に街に近い部分はフォレスティエの弟子によって手が加えられていたものの、スタジアムの周辺も含めてまだまだ都市計画上は開発途上という感じであった。
モンジュイックで一番よく知られているイヴェントにはバイクの48時間耐久レースがあり、モンジュイックを一周できる道路は完備している。この一部を利用してコンパクトにオリンピック主幹施設をまとめるというのが市役所のアイディアで、全体をオリンピック・リング(l’Anella Olímpica de Montjuïch)と呼んでいた。
さて、コンペの結果はスタジアムの増改築はイタリアのグレゴッティ(Vittorio Gregotti, 1927~2020年)と地元のコレア=ミラの事務所(Federico Correa, 1924~2020年、Alfons Milà, 1924~2009年)が共同で作業、プレス・センターはやはり地元のリカルド・ボフィール(Ricardo Bofill, 1939~2022年)、全体のレイアウトはコレア=ミラ、そして室内競技場(その後パラウ・サン・ジョルディと命名される)は磯崎さんが担当するということになった。オリンピック・リング全体を複数の建築家に振り分けて担当させるという結果になった。その一つの理由は地元の建築家に華を持たせながらも、外国の建築家に依頼することで、その国のIOC委員の票を得ようという政治的な企みがあった。ドイツのスポーツ施設専門の建築家の案は不評で落ちているが、マドリッドの建築家も外されている。
磯崎さんには発表直後に電話でその旨を伝え、2月5日には再訪。この時には宮脇愛子さん、そして藤江秀一さんも同行した。その時は全体のレイアウトを選ばれた4チームの間で協議し、それぞれの施設のサイトを決め、それぞれの担当する部分の設計に入る準備を開始できる状況にもっていくのが目的だった。これで市役所側は実績を作り、候補地としてIOCから好印象を得て、第25回夏季オリンピックの候補地として票集めを始めようという事だ。
実は磯崎さんが提出したコンペ案はカタルーニャ語で書かれていた。しかし、マドリッドの建築家は後にプリッツカー賞を受賞するラファエル・モネオ(Rafael Moneo, 1937年生まれ)と、その師であるサエンス・デ・オイサ(Francisco Javier Sáenz de Oiza, 1918~2000年)という近代建築の父と評価される建築家のチームであったが落選している。オリンピック開催しようという時、カタルーニャではマドリッドで開催するのなら反対だ、だけれどバルセロナで開催するなら応援するという特別な国民感情を磯崎さんはちゃんと読み取っての事だった。

1. 磯崎新アトリエ・コンペ案

2. リカルド・ボフィール・コンペ案

3. 同全体模型

4. グレゴッティ・コンペ案

5. サエンス・デ・オイサ+ラファエル・モネオ案

6. 同模型

7. コレア=ミラ案

8. 1984年3月に開かれたミーティング(右から磯崎、市長、グレゴッティ、ボフィール)

9. ほぼ全体計画がまとまった1984年10月時のコレア=ミラの全体模型

10. パラウ・サン・ジョジョルディ1984年12月の模型
(たんげとしあき)
■丹下敏明(たんげとしあき)
1971年 名城大学建築学部卒業、6月スペインに渡る
1974年 コロニア・グエルの地下聖堂実測図面製作 (カタルーニャ建築家協会・歴史アーカイヴ局の依頼)
1974~82年 Salvador Tarrago建築事務所勤務
1984~2022年 磯崎新のパラウ・サン・ジョルディの設計チームに参加。以降パラフォイスの体育館, ラ・コルーニャ人体博物館, ビルバオのIsozaki Atea , バルセロナのCaixaForum, ブラーネスのIlla de Blanes計画, バルセロナのビジネス・パークD38、マドリッドのHotel Puerta America, カイロのエジプト国立文明博物館計画(現在進行中)などに参加
1989年 名古屋デザイン博「ガウディの城」コミッショナー
1990年 大丸「ガウディ展」企画 (全国4店で開催)
1994年~2002年 ガウディ・研究センター理事
2002年 「ガウディとセラミック」展 (バルセロナ・アパレハドール協会展示会場)
2014年以降 World Gaudi Congress常任委員
2018年 モデルニスモの生理学展(サン・ジョアン・デスピ)
2019年 ジョセップ・マリア・ジュジョール生誕140周年国際会議参加
主な著書
『スペインの旅』実業之日本社(1976年)、『ガウディの生涯』彰国社(1978年)、『スペイン建築史』相模書房(1979年)、『ポルトガル』実業之日本社(1982年)、『モダニズム幻想の建築』講談社(1983年、共著)、『現代建築を担う海外の建築家101人』鹿島出版会(1984年、共著)、『我が街バルセローナ』TOTO出版(1991年)、『世界の建築家581人』TOTO出版(1995年、共著)、『建築家人名事典』三交社(1997年)、『美術館の再生』鹿島出版会(2001年、共著)、『ガウディとはだれか』王国社(2004年、共著)、『ガウディ建築案内』平凡社(2014年)、『新版 建築家人名辞典 西欧歴史建築編』三交社(2022年)など
・丹下敏明のエッセイ「ガウディの街バルセロナより」は隔月・奇数月16日の更新です。次回は2023年5月16日です。どうぞお楽しみに。
●本日のお勧め作品は磯崎新です。

磯崎新
「Palau d'Esports Sant Jordi Barcelonaより”Preliminary studies”(初期スケッチ)」
1983年
シルクスクリーン(刷り:石田了一)
イメージサイズ:56.0x55.4cm
シートサイズ:60.3x88.7cm
Ed.25
サインあり
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※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください。
●ときの忘れものは2017年に青山から〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS に移転しました。阿部勤が設計した個人住宅だった空間で企画展の開催、版画のエディション、美術書の編集等を行なっています(WEBマガジン コラージ2017年12月号18~24頁の特集参照)。
JR及び南北線の駒込駅南口から徒歩約8分です。
TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531
E-mail:info@tokinowasuremono.com
http://www.tokinowasuremono.com/
営業時間=火曜~土曜の平日11時~19時。*日・月・祝日は休廊
その7 磯崎さんとの出会い
丹下敏明
今でも忘れられないが、1984年1月2日に磯崎さんから突然電話をもらった。もちろん我々の世代でもアイドル的な存在だったので、そんな人から電話をもらったのでとても驚いた。それ以前に話をしたことも面識もなかったのでただ驚くばかりだった。私の大学では福岡のシティー銀行を訪れていた「設計」の教授がカリキュラムで、そのスライドを講義で学生に見せ、熱い講義をしてくれたことが今も記憶に残っている。
しかし、最近手紙を整理していたら、それ以前にも磯崎アトリエから連絡をもらっていた事が分かった。それは1978年に磯崎さんの監修で六耀社から出された『ガウディ全作品』の出版に当たり、磯崎さんがバルセロナを訪れ、取材をするのでアテンドをして欲しいという内容の秘書の網谷さんからの手紙だった。しかし、手紙は速達で出されていたものの、手紙を受け取った時点で磯崎さんはすでにバルセロナを去っていた。網谷さんは私の電話番号を探したのだろうが、電話番号が見つからなかった。それもそのはず、当時家には電話はなかった。当時のスペインでは電話の回線数が著しく少なく、電話局に申し込んでも番号をもらうには約1年はかかっていた。当時は日本との連絡はもっぱら手紙でやっていた。
1984年頃の私は長年仕事をしていた地元の建築家サルバドール・タラゴの事務所を辞めて、自分の道を開こうとしていた時期だった。
磯崎さんはその前年の夏に、バルセロナ市から招待されて´92年オリンピックの主幹施設の設計コンペに参加して、1月6日にコンペ案をプレゼンするためにバルセロナに来るということで、その手伝いをしてくれないかというものだった。
プレゼンの前日に着いた磯崎さんは、小さなバッグとトランク大の木の箱を2つ持参していた。この箱が模型だったとわかったのは翌日で、模型は3つに分解されて、2つのトランクの様に作られていた。
´92年オリンピックの主幹施設というのは、1992年にバルセロナ市はオリンピックを招致しようとしていたので、その為にはIOCが提案している基準の施設を建設しなければならなかった。当時のバルセロナには1929年に建設され、1936年にオリンピックで使われるはずであったスタジアムが廃墟化していたがあった。しかし、1936年のオリンピックはヒトラーによってベルリンに強引に持っていかれて、バルセロナでは実際には開催されなかったので幻のスタジアムであった。他にはオリンピックに使えるような施設は市にはほとんど何もなく、強力な対抗馬のパリにはそこそこの施設はあったので、それに勝つにはどうしても施設の建設が必要だった。市役所は国際コンペを開いてこれに応じようとしていた。コンペには6チームの建築家が招待された。
コンペで提案されていた敷地は市内にあるモンジュイックの山の中腹にあるスタジアムを中心に考えられていた。スタジアムは市民のメモリーのなかに生きているとし、このファサードを補修して残し、IOCが要求する収容人員(6万2千人)を確保し、国内の各フェデレーションが要求する競技面の規格をクリアするために改装が必要だった。そして、その周辺に室内競技場、プレス・センター(現在体育大学)を新たに提案するというものだった。モンジュイックはモデルニスモ時期に大量の石が切り出され、現在のバルセロナの街の姿を作ったが、1929年万博の時に街に近い部分はフォレスティエの弟子によって手が加えられていたものの、スタジアムの周辺も含めてまだまだ都市計画上は開発途上という感じであった。
モンジュイックで一番よく知られているイヴェントにはバイクの48時間耐久レースがあり、モンジュイックを一周できる道路は完備している。この一部を利用してコンパクトにオリンピック主幹施設をまとめるというのが市役所のアイディアで、全体をオリンピック・リング(l’Anella Olímpica de Montjuïch)と呼んでいた。
さて、コンペの結果はスタジアムの増改築はイタリアのグレゴッティ(Vittorio Gregotti, 1927~2020年)と地元のコレア=ミラの事務所(Federico Correa, 1924~2020年、Alfons Milà, 1924~2009年)が共同で作業、プレス・センターはやはり地元のリカルド・ボフィール(Ricardo Bofill, 1939~2022年)、全体のレイアウトはコレア=ミラ、そして室内競技場(その後パラウ・サン・ジョルディと命名される)は磯崎さんが担当するということになった。オリンピック・リング全体を複数の建築家に振り分けて担当させるという結果になった。その一つの理由は地元の建築家に華を持たせながらも、外国の建築家に依頼することで、その国のIOC委員の票を得ようという政治的な企みがあった。ドイツのスポーツ施設専門の建築家の案は不評で落ちているが、マドリッドの建築家も外されている。
磯崎さんには発表直後に電話でその旨を伝え、2月5日には再訪。この時には宮脇愛子さん、そして藤江秀一さんも同行した。その時は全体のレイアウトを選ばれた4チームの間で協議し、それぞれの施設のサイトを決め、それぞれの担当する部分の設計に入る準備を開始できる状況にもっていくのが目的だった。これで市役所側は実績を作り、候補地としてIOCから好印象を得て、第25回夏季オリンピックの候補地として票集めを始めようという事だ。
実は磯崎さんが提出したコンペ案はカタルーニャ語で書かれていた。しかし、マドリッドの建築家は後にプリッツカー賞を受賞するラファエル・モネオ(Rafael Moneo, 1937年生まれ)と、その師であるサエンス・デ・オイサ(Francisco Javier Sáenz de Oiza, 1918~2000年)という近代建築の父と評価される建築家のチームであったが落選している。オリンピック開催しようという時、カタルーニャではマドリッドで開催するのなら反対だ、だけれどバルセロナで開催するなら応援するという特別な国民感情を磯崎さんはちゃんと読み取っての事だった。

1. 磯崎新アトリエ・コンペ案

2. リカルド・ボフィール・コンペ案

3. 同全体模型

4. グレゴッティ・コンペ案

5. サエンス・デ・オイサ+ラファエル・モネオ案

6. 同模型

7. コレア=ミラ案

8. 1984年3月に開かれたミーティング(右から磯崎、市長、グレゴッティ、ボフィール)

9. ほぼ全体計画がまとまった1984年10月時のコレア=ミラの全体模型

10. パラウ・サン・ジョジョルディ1984年12月の模型
(たんげとしあき)
■丹下敏明(たんげとしあき)
1971年 名城大学建築学部卒業、6月スペインに渡る
1974年 コロニア・グエルの地下聖堂実測図面製作 (カタルーニャ建築家協会・歴史アーカイヴ局の依頼)
1974~82年 Salvador Tarrago建築事務所勤務
1984~2022年 磯崎新のパラウ・サン・ジョルディの設計チームに参加。以降パラフォイスの体育館, ラ・コルーニャ人体博物館, ビルバオのIsozaki Atea , バルセロナのCaixaForum, ブラーネスのIlla de Blanes計画, バルセロナのビジネス・パークD38、マドリッドのHotel Puerta America, カイロのエジプト国立文明博物館計画(現在進行中)などに参加
1989年 名古屋デザイン博「ガウディの城」コミッショナー
1990年 大丸「ガウディ展」企画 (全国4店で開催)
1994年~2002年 ガウディ・研究センター理事
2002年 「ガウディとセラミック」展 (バルセロナ・アパレハドール協会展示会場)
2014年以降 World Gaudi Congress常任委員
2018年 モデルニスモの生理学展(サン・ジョアン・デスピ)
2019年 ジョセップ・マリア・ジュジョール生誕140周年国際会議参加
主な著書
『スペインの旅』実業之日本社(1976年)、『ガウディの生涯』彰国社(1978年)、『スペイン建築史』相模書房(1979年)、『ポルトガル』実業之日本社(1982年)、『モダニズム幻想の建築』講談社(1983年、共著)、『現代建築を担う海外の建築家101人』鹿島出版会(1984年、共著)、『我が街バルセローナ』TOTO出版(1991年)、『世界の建築家581人』TOTO出版(1995年、共著)、『建築家人名事典』三交社(1997年)、『美術館の再生』鹿島出版会(2001年、共著)、『ガウディとはだれか』王国社(2004年、共著)、『ガウディ建築案内』平凡社(2014年)、『新版 建築家人名辞典 西欧歴史建築編』三交社(2022年)など
・丹下敏明のエッセイ「ガウディの街バルセロナより」は隔月・奇数月16日の更新です。次回は2023年5月16日です。どうぞお楽しみに。
●本日のお勧め作品は磯崎新です。

磯崎新
「Palau d'Esports Sant Jordi Barcelonaより”Preliminary studies”(初期スケッチ)」
1983年
シルクスクリーン(刷り:石田了一)
イメージサイズ:56.0x55.4cm
シートサイズ:60.3x88.7cm
Ed.25
サインあり
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※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください。
●ときの忘れものは2017年に青山から〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS に移転しました。阿部勤が設計した個人住宅だった空間で企画展の開催、版画のエディション、美術書の編集等を行なっています(WEBマガジン コラージ2017年12月号18~24頁の特集参照)。
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