
森下慶三 Keizo MORISHITA
"MILANO 8-12"
1979年 アクリル・キャンバス
73.0×91.0cm(30号) サインあり
イタリアで活躍した画家の森下慶三さんがミラノの自宅で不慮の事故で亡くなったのは2003年4月5日、まだ59歳の若さでした。
1944年に北九州で生まれ、1963年19歳で奨学金を得てイタリアのミラノへ渡った森下さんはミラノの国立ブレラ美術専門学校彫刻科でマリノ・マリーニに学びます(1968年に彫刻学科を卒業)。在学中にサン・フェレーデ賞展に招かれ受賞し、スタジオ・マルコーニで個展を開催したというのだから、その天才ぶりがわかるでしょう。当時、スタジオ・マルコーニはイタリアきっての大画廊でした。
日本に帰ってきて個展を開いたときにお会いしました。口数少なく、好漢という言葉がぴったりの人でした。
1990年のイタリアで開催されたサッカーのワールドカップの公式ポスターの画家の一人だったといえば、いかに早くからイタリア美術界に認められたかおわかりになるでしょう。
しかし、今の日本で森下慶三と言っても知る人は少ない。ファンとしては憤懣やるかたない。
そのうち、小さな展覧会を開きたいのですが・・・(山ほどとは言わないが、個展をやるくらいの点数は在庫しています)。
「優れたものはほっておいても必ず評価される、なんてのは嘘です。誰かが、これは美しい、大切なものなのだと言い続けなければ、あっという間に忘れ去られ、<なかった>ことになってしまいます。」
高村光太郎記念会事務局長で『高村光太郎全集』の編纂にあたった北川太一先生の言葉です。
毎年4月2日(高村光太郎の命日)に連翹忌という光太郎を偲ぶ会が開かれます。

今年も日比谷公園の松本楼で第67回連翹忌に社長と出席してまいりました。
私たちは光太郎に会ったことはありませんが、北川太一先生(1925年3月28日 - 2020年1月12日)の縁で、第40回くらいから毎年参加させていただいています。
67回ともなると光太郎を直接知るかたの出席はほとんどなくなりましたが、北川先生が繋いだ縁で全国から光太郎ファンが大勢参加されます。
壇上で挨拶しているのは俳優の渡辺えりさん、山形の田舎の教師だったお父さんが大の光太郎ファンだったとか、毎年お父様とお二人で出席されていましたが、昨年お亡くなりになり、今年はえりさんお一人でした。しかし光太郎を語って尽きることなく、この日のハイライトでした。

話変わって、先日ブログで社長の「五十の手習い」と題して、ン十年通っている池袋のルリユール工房の展覧会をご案内しました。

年中無休のこのブログですが、ときどきネタが切れてしまい、苦し紛れの穴埋め記事だったのですが、ありがたいことに、わざわざ見に行って下さる方もいて恐縮と感謝の気持ちでいっぱいです。ありがとうございました。
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