「旅する人」と、旅をする
鏑木あづさ
彼との出会いから少なくとも、一年間はまとまった絵画が描けなかった。
関根伸夫(1942-2019)の学生時代の油彩を見て、よどみのない明るい色づかいに不意をつかれた。レゾネ『関根伸夫1968-1978』に掲載された、モノクロの小さな図版でしか知り得なかったこの頃の作品は、作家自身によって以下のように解説されていたからである(注1)。
〈鉱物〉シリーズ
1965年、美大3年。エロス、仏像シリーズが混然一体となって、深層心理的にポエジックに解釈され、黒い湖水ともいうべき暗黒と、そこに落ちていく形態どもの悲しげな表情が中心である。僕のなかでは一番内面的に沈殿した時期である。
〈体相学・切り売り〉シリーズ
1966年、美大3年の後半で斎藤義重氏に会い、抽象画の基礎知識を教え込まれた時期である。これを完成させたら絶対だ、と思い込んで自信があった〈鉱物〉シリーズを彼の理論に打ち負かされ、さんざんだった記憶がある。線を引けば、コレは具体的に描いている線か、抽象的線か、と問われ、線1本も引くことがためらわれた。作品が出来なくて、エイとばかりに「切り売りだ」とつけたのがこの〈切り売り〉シリーズであった。
若い頃の関根はフォートリエやタピエスを好んだと聞いていたためか、レゾネの図版では黒く太い輪郭線や荒い筆致が際立って見えた(注2)。しかし実際の作品ではまず、色彩が目に飛び込んでくる。詩的なタイトルをもつ作品《悪ふざけの後で》(1965)には、プルシアンブルーの胴体に白い斑点のある、毛虫のような形状が描かれている。この形象は以後も姿を変えて表されており、関根にとってオブセッショナルなモチーフであったことが見て取れる。背景にはキャンバスの地が透けるほど薄いプルシアンや黄、緑がにじんで層を成している。《鉱物シリーズ(レゾネNo. 15)》に描かれたウミウシを想起させる形状は、鮮やかなマゼンタで塗られている。そこから触手のようなものが伸び、黄みがかったゴールドの不定形な色面に囲まれている。
関根伸夫
《悪ふざけの後で》
1965
キャンバスに油彩
33.5×53.0cm
サインあり
関根伸夫
《鉱物シリーズ》(レゾネNo.15)
1965
キャンバスに油彩
51.5×75.0cm
〈体相学・切り売り〉シリーズと考えられる1966年の無題2点では、それまでに描かれてきたモチーフの形状がすっきりと整理されている(注3)。特徴的だった輪郭線はレゾネNo. 19では控えめになり、レゾネNo. 22では見られなくなる。色数やマチエールを抑えた画面は、ポップ・アートなどの影響でキャンバスに写真を投影、拡大し、これを平面的に描写した次のシリーズ〈消去〉(1967)を予感させる。
関根伸夫
《無題》(レゾネNo. 19)
1966
キャンバスに油彩
91.0×73.0cm
関根伸夫
《無題》(レゾネNo.22)
1966
キャンバスに油彩
65.0×80.0cm
文頭の関根のことばにある「彼」とは師、斎藤義重を指している(注4)。ここでの関根の略歴は、以下のように記されている。
関根伸夫(せきね・のぶお)
1942年埼玉県に生まれる。1968年多摩美術大学大学院油絵研究科修了(斎藤義重氏に師事)。卒業後、主要美術展で受賞。1960年代末から70年代に、日本美術界を席捲したアートムーブメントもの派の代表的作家として活動。とくに、1968年の第一回須磨離宮公園現代彫刻展での《位相―大地》はもの派の先駆的役割をはたしたばかりでなく、戦後日本美術の記念碑的作品と評され、海外でも広く知られている。[以下略]......
本展に出品された学生時代の4点からは、「感情的な、感性的な側面だけにたよって」、「内面を吐き出そうと」描いていた作品が斎藤との出会いによって変化し、関根が抽象を目指してイメージを排すことを模索した様子がうかがえる(注5)。代表作の印象が強すぎるために忘れてしまいそうになるが、関根はもともと絵画科出身で、予期せぬ経緯から彫刻を制作するに至るのであった。油彩を制作していた頃の関根は、どんな学生時代を過ごしていたのだろうか。初期の作品を手がかりに、当時を知る方々からお話をうかがう機会を得た。
関根の多摩美の同級生のひとりは1965年、3年のときに《悪ふざけの後で》や〈鉱物〉シリーズを見て、他の学生とは違うなにかを感じ、声をかけた。これがきっかけとなり親交を深めたふたりは、「似たような感性をもっていた」ことから共鳴し、互いの制作を助けあうようになる。彼らは4年で斎藤義重教室へと入り、斎藤の行く先々に「ぴったりとくっついて」は、芸術のみならず森羅万象にまつわる会話を交わしていた(注6)。
同じく同級生の二村裕子は、斎藤は着任当初からとにかく人気があり、教室を決める4年次には、ほとんどの学生が斎藤のクラスを選択したと記憶する。絵画科は1学年に100人近くが在籍していたこともあり、二村と関根はあまり接点がなかったが後年、関根が思い出に残る同級生として「版画の二村裕子さん。こんな暗い絵があるのかってくらい、印象に残る絵を描いていた」と語るのを読んで、驚いたという(注7)。
1級下の小林はくどうは3年のとき、4年の関根を誘って横浜六ツ川の斎藤の自宅を訪ねた。その日は夜半に斎藤宅を後にしてからも、興奮状態のままはくどうの下宿で朝まで語り合ったという。はくどうもまた、斎藤に作品をコテンパンに評された経験から、造形に対する考えを手探りしていたひとりだった。意気投合したふたりは1967年の二人展「個展個展」(椿近代画廊)を手始めに多くの発表を行い、斎藤が推薦する若手として注目されるようになる。彼らの関心は次第にそれぞれに移っていくが、交流は富士見町アトリエ、Bゼミへとつづいていく(注8)。
この頃の敏感な学生たちは皆、1950年代末には “[戦前期に発展した]日本の抽象絵画の草分け”として唯一無二の存在であった斎藤へ関心を抱いていたようだ。関根は高校2年のときに『みづゑ』でフォートリエを語る斎藤のエッセイの明晰さに感銘を受け、将来教えを請うことを真剣に考えていた(注9)。後にその願いが通じたかのように斎藤が多摩美に着任するが、二村によれば当時、現役の作家が大学教員になるのは、センセーショナルなできごとだったようである。
また彼らは日頃から、画廊めぐりのほかにも「題名のない音楽会」や草月アート・センターなどの催しを観覧していた。アンフォルメルの時代を抜け、反芸術の傾向を強めた読売アンデパンダンが中止された1964年は、過渡期ゆえの停滞感があったのかもしれない。はくどうは1964年11月に見たマース・カニングハム・ダンス・カンパニーの来日公演が、後に斎藤教室の学生たちが合評会などでハプニングを行う契機となったかもしれないという。
先の同級生は、かつて関根が蛍光灯をこすって光らせるハプニングを演じたことを覚えている。関根は大学院で〈消去〉シリーズを制作していた1967年、都電の吊革に洗濯物を干すハプニングなどに参加したと語っている(注10)。絵画の制作とハプニングの相関はすぐには見出せないが、はくどうによれば斎藤の下ではさまざまな表現が矛盾なく受け入れられ、彼らがこれまでとは異なる表現を試みるための場がひらかれたという。そして先の同級生は「この頃、どこかで『“前衛”を超えよう』という意識があったかもしれない」と振り返る。
関根ははくどうを通じて学校や学年を問わず多くの交流を持ち、なかには活動の場を海外へと広げる仲間もいた。ふたりはいつも見送り役だったが、関根は空港で「自分もいつかは海外へ行くんだ」と豪語していたようである。多摩美術大学は1969年1月、全学封鎖となる。斎藤は学外で講座を持ったが、これ以後、多摩美の教壇に立つことはなかった。彼らが大学に入る時期が少しでも違っていたら、すべてが今とは変わっていたかもしれない。
当時の仲間たちは、関根の学生時代を知りたいのなら、斎藤について語らなければならない、と口をそろえる。関根自身もまた斎藤からの影響について、くり返し述べている。斎藤の指導はなにかを教え、評価するのではなく、彼らが求めるものや可能性を、対話を通じて「自ら明らかにさせる」のだという(注11)。学生たちが斎藤へ関心を寄せたのは、はくどうのことばを借りれば「これまでの先生たちは、画面の中の造形でしかアドバイスしてくれなかった」からであり、先の同級生によれば「斎藤さんが来てから皆、自分で考えて作品をつくるようになった」のだ。だから関根(や彼ら)の作品は、短期間でめまぐるしく変わっていった。
しかし斎藤は、学生たちに与えただけではない。先の同級生は、「斎藤さんも、若い人たちから吸収したと思う。一方通行ではなかったから、よかったのではないか」と回想する。たしかに斎藤は教育について、学生と教員というより“絵を描く仲間”の関係で、自分もまた彼らから多くを学んでいる、という趣旨のコメントをしている。そして晩年の聞き取りでは、「私は[若い人と接する機会が増えた]50歳から発展してきたと思う」とのことばを遺している(注12)。
斎藤が彼らから得たもののひとつはおそらく、自身の原点への、ある意味での向き合い方のようなものではないか。1973年、斎藤は東京画廊の依頼で、〈カラカラ〉、〈トロウッド〉、〈ゼロイスト〉など、この頃には失われていた1930年代後半から1950年代前半の作品21点の再制作を行い、実質的な回顧展となる連続個展を開催した。現在、私たちが美術館で見る斎藤の戦前戦後期の作品は、作家と作家の下で学んだ小清水漸、成田克彦、本田眞吾、関根伸夫らによって、このとき再制作されたものである(注13)。
再制作の意義はいくつかの論考にあるとおり、戦前の斎藤が当時の前衛の影響を超えることを目指したアクチュアリティを、美術が根底から問い直された1970年代に招喚したことにある(注14)。だがそれは、斎藤の動機のすべてになり得るだろうか。当初は乗り気でなかったという再制作は、斎藤が助手を務めた卒業生たちとともに、当時の自身を追体験したことを意味している。そしてこの再制作は、後に斎藤が次なるシリーズ〈反対象〉(1976-)であらたな起点に立つきっかけとなる。
話を関根に戻せば彼は戦後の「“前衛” を超え」て、パラダイムシフトと目される作品を制作した。そして偶然とはいえ協働した仲間たちから、それから「しばらくは自分の作品がつくれなかった」と言わしめた(注15)。学生時代の仲間たちとの活動や、師である斎藤義重の歩みを重ねてみることで、関根の初期の制作とその後の展開について考えるための、さらなる視座がもたらされる。そしてそれは本展のタイトル「旅する人」に隠されたもうひとつの旅、いわば時空を超える旅のはじまりでもある。




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本稿の執筆にあたっては二村裕子氏、小林はくどう氏、そしてご関係者様から多くのご教示を賜りました。記して謝意を表します。
注1:『関根伸夫1968-1978』ゆりあ・ぺむぺる、1978年
注2:関根伸夫オーラル・ヒストリー、梅津元、加治屋健司、鏑木あづさによるインタヴュー、2014年4月24日、日本美術オーラル・ヒストリー・アーカイヴ(www.oralhistory.org)
注3:埼玉県立近代美術館・常設展示プログラム「アーティスト・プロジェクト 関根伸夫《位相―大地》が生まれるまで」2005年11月2日-2006年1月29日(企画:梅津元)では、今回の出品作品のうち《悪ふざけの後で》を除く3点その他、関根の学生時代の油彩やドローイングなどが展示された。ここでは無題(レゾネNo.22)は〈消去〉シリーズとされているが、本稿ではレゾネや今回の展示にもとづき、〈体相学・切り売り〉シリーズとした。なお会期中は関根によるアーティスト・トークも行われたが、本稿では参照していない。
注4:関根伸夫『風景の指輪』図書新聞、2006年
注5:斎藤義重・関根伸夫 談「関根伸夫の道程を振り返って」『関根伸夫後援会会報』1号、1978年4月、pp. 1-8。この会の事務局長は、綿貫不二夫氏が務めていた。
注6:関根伸夫の同級生へのインタビュー、2023年2月16日。本稿の関根伸夫の同級生による発言はすべてこのインタビューによる。
注7:関根伸夫・吉澤美香 談「アーティストの世界とは?(特集1 卒業生対談)」『たまびnews多摩美術大学広報』5号、1994年4月、pp. 2-5。関根はインテリアデザイナーの三橋いく代とともに、絵画科出身で絵を続けている同級生として二村を挙げている。二村は学生時代、ベーコンを彷彿とさせる暗い絵を描いていた。また斎藤義重と二村は、それほどのつきあいはなかったという。二村裕子への電話インタビュー、2023年2月28日および4月7日。本稿の二村による発言はすべてこのインタビューによる。
注8:小林はくどうへの電話インタビュー、2023年3月22日。本稿のはくどうによる発言はすべてこのインタビューによる。初期の発表をともにした関根とはくどうの関係についてはこれまであまり触れられることがなかったが、今回その重要性を認識した。本稿ではすべてを記すことができなかったため、別の機会にあらためて検討したい。
注9:斎藤義重「伝統の終焉(特集 フォートリエ)」『みづゑ』658号、1960年2月、pp. 23-24。なお“日本の抽象絵画の草分け”との言は、瀧口修造「斎藤義重(現代作家小論)」『美術手帖』137号、1958年2月による。
注10:注2に同じ。本稿で触れる余裕はないが、いわゆるもの派とされる作家たちとハプニング、パフォーマンスのかかわりについては、今後検証がなされるされるべきだろう。
注11:関根伸夫「ゼロイスト随聞記 この大いなる〈空洞〉(特集 斎藤義重)」『美術手帖』371号、1973年9月、pp. 74-83。タイトルは禅僧道元の言行録『正法眼蔵随聞記』によるものだろう。
注12:斎藤義重 談「義重独言 教育ということ(特集 斎藤義重)」『美術手帖』371号、1973年9月、pp. 90-91および斎藤義重 談(聞き手:長門佐希)「教育者として(聞き書き 斎藤義重)」『斎藤義重文庫』神奈川県立近代美術館、2004年、pp. 15-20
注13:斎藤の再制作については小清水漸「反語法と隠喩に支持されて」『美術手帖』668号、1993年4月、pp. 108-115などに詳しい。小清水を中心にほかにも数名が携わったようだが、先の同級生は、一度に皆で集まって制作したわけではないため、誰がどの程度かかわったかはよくわからないという。なお関根らは、これより前から斎藤の助手を務めていた。
注14:中原佑介[無題]『斎藤義重』東京画廊、1973年(「斎藤義重1936→1973」展を機に出版された作品集)および千葉成夫「斎藤義重論 再制作の今日性と歴史性」『斎藤義重展』東京国立近代美術館、1978年、pp. 14-21
注15:「小清水漸氏へのアンケート」『《位相―大地》の考古学』西宮市大谷記念美術館、1996年。ここでは吉田克朗も、ほぼ同様の発言をしている。
(かぶらぎ あづさ)
●「関根伸夫展―旅する人」
会期:2023年1月20日[金]~2月4日[土]
『関根伸夫展―旅する人』カタログ
発行日:2023年1月20日
発行:ときの忘れもの
図版:22点
執筆:関根伸夫「<発想>について」(1976年執筆)
編集:尾立麗子
デザイン:岡本一宣デザイン事務所
体裁:25.6×17.1cm、32頁、
日本語・英語併記
価格:880円(税込)+送料250円
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■鏑木あづさ
1974年東京都生まれ。司書、アーキビスト。2000年より東京都現代美術館、埼玉県立近代美術館などに勤務し、美術の資料にまつわる業務に携わる。企画に「大竹伸朗選出図書全景 1955-2006」(東京都現代美術館、2006)、「DECODE / 出来事と美術―ポスト工業化社会の美術」の資料展示(埼玉県立近代美術館、2019)など。最近の仕事に『中原佑介美術批評選集』全12巻(現代企画室+BankART出版、2011~刊行中)、「〈資料〉がひらく新しい世界ー資料もまた物質である」『artscape』2019年6月15日号、「美術評論家連盟資料について」『美術評論家連盟会報』20号(2019)など。
*画廊亭主敬白
本日5月13日は関根伸夫先生の命日です(2019年5月13日没)。
現代版画センター時代から長年ご指導をいただきましたが、今年一月ときの忘れものとしては初めての関根先生の個展「関根伸夫展ー旅する人」を開催しました。
今まで余り公開されてこなかった多摩美の学生時代の作品を展示し、それをご覧になった鏑木あづさ先生に展覧会レビューを執筆していただきました。
鏑木先生には以前、梅津元先生とともに「関根伸夫資料をめぐって」をご寄稿いただいていますので併せてお読みください。
鏑木あづさ「関根伸夫資料をめぐって」第1回
梅津元「関根伸夫資料をめぐって」第2回
鏑木あづさ「関根伸夫資料をめぐって」第3回
鏑木あづさ「関根伸夫資料をめぐって」第4回
梅津元「関根伸夫資料をめぐって」第5回
鏑木あづさ「関根伸夫資料をめぐって」第6回
ときの忘れものでは今後も継続的に関根先生の作品を時代を追ってご紹介してまいります。
鏑木あづさ
彼との出会いから少なくとも、一年間はまとまった絵画が描けなかった。
関根伸夫(1942-2019)の学生時代の油彩を見て、よどみのない明るい色づかいに不意をつかれた。レゾネ『関根伸夫1968-1978』に掲載された、モノクロの小さな図版でしか知り得なかったこの頃の作品は、作家自身によって以下のように解説されていたからである(注1)。
〈鉱物〉シリーズ
1965年、美大3年。エロス、仏像シリーズが混然一体となって、深層心理的にポエジックに解釈され、黒い湖水ともいうべき暗黒と、そこに落ちていく形態どもの悲しげな表情が中心である。僕のなかでは一番内面的に沈殿した時期である。
〈体相学・切り売り〉シリーズ
1966年、美大3年の後半で斎藤義重氏に会い、抽象画の基礎知識を教え込まれた時期である。これを完成させたら絶対だ、と思い込んで自信があった〈鉱物〉シリーズを彼の理論に打ち負かされ、さんざんだった記憶がある。線を引けば、コレは具体的に描いている線か、抽象的線か、と問われ、線1本も引くことがためらわれた。作品が出来なくて、エイとばかりに「切り売りだ」とつけたのがこの〈切り売り〉シリーズであった。
若い頃の関根はフォートリエやタピエスを好んだと聞いていたためか、レゾネの図版では黒く太い輪郭線や荒い筆致が際立って見えた(注2)。しかし実際の作品ではまず、色彩が目に飛び込んでくる。詩的なタイトルをもつ作品《悪ふざけの後で》(1965)には、プルシアンブルーの胴体に白い斑点のある、毛虫のような形状が描かれている。この形象は以後も姿を変えて表されており、関根にとってオブセッショナルなモチーフであったことが見て取れる。背景にはキャンバスの地が透けるほど薄いプルシアンや黄、緑がにじんで層を成している。《鉱物シリーズ(レゾネNo. 15)》に描かれたウミウシを想起させる形状は、鮮やかなマゼンタで塗られている。そこから触手のようなものが伸び、黄みがかったゴールドの不定形な色面に囲まれている。
関根伸夫《悪ふざけの後で》
1965
キャンバスに油彩
33.5×53.0cm
サインあり
関根伸夫《鉱物シリーズ》(レゾネNo.15)
1965
キャンバスに油彩
51.5×75.0cm
〈体相学・切り売り〉シリーズと考えられる1966年の無題2点では、それまでに描かれてきたモチーフの形状がすっきりと整理されている(注3)。特徴的だった輪郭線はレゾネNo. 19では控えめになり、レゾネNo. 22では見られなくなる。色数やマチエールを抑えた画面は、ポップ・アートなどの影響でキャンバスに写真を投影、拡大し、これを平面的に描写した次のシリーズ〈消去〉(1967)を予感させる。
関根伸夫《無題》(レゾネNo. 19)
1966
キャンバスに油彩
91.0×73.0cm
関根伸夫《無題》(レゾネNo.22)
1966
キャンバスに油彩
65.0×80.0cm
文頭の関根のことばにある「彼」とは師、斎藤義重を指している(注4)。ここでの関根の略歴は、以下のように記されている。
関根伸夫(せきね・のぶお)
1942年埼玉県に生まれる。1968年多摩美術大学大学院油絵研究科修了(斎藤義重氏に師事)。卒業後、主要美術展で受賞。1960年代末から70年代に、日本美術界を席捲したアートムーブメントもの派の代表的作家として活動。とくに、1968年の第一回須磨離宮公園現代彫刻展での《位相―大地》はもの派の先駆的役割をはたしたばかりでなく、戦後日本美術の記念碑的作品と評され、海外でも広く知られている。[以下略]......
本展に出品された学生時代の4点からは、「感情的な、感性的な側面だけにたよって」、「内面を吐き出そうと」描いていた作品が斎藤との出会いによって変化し、関根が抽象を目指してイメージを排すことを模索した様子がうかがえる(注5)。代表作の印象が強すぎるために忘れてしまいそうになるが、関根はもともと絵画科出身で、予期せぬ経緯から彫刻を制作するに至るのであった。油彩を制作していた頃の関根は、どんな学生時代を過ごしていたのだろうか。初期の作品を手がかりに、当時を知る方々からお話をうかがう機会を得た。
関根の多摩美の同級生のひとりは1965年、3年のときに《悪ふざけの後で》や〈鉱物〉シリーズを見て、他の学生とは違うなにかを感じ、声をかけた。これがきっかけとなり親交を深めたふたりは、「似たような感性をもっていた」ことから共鳴し、互いの制作を助けあうようになる。彼らは4年で斎藤義重教室へと入り、斎藤の行く先々に「ぴったりとくっついて」は、芸術のみならず森羅万象にまつわる会話を交わしていた(注6)。
同じく同級生の二村裕子は、斎藤は着任当初からとにかく人気があり、教室を決める4年次には、ほとんどの学生が斎藤のクラスを選択したと記憶する。絵画科は1学年に100人近くが在籍していたこともあり、二村と関根はあまり接点がなかったが後年、関根が思い出に残る同級生として「版画の二村裕子さん。こんな暗い絵があるのかってくらい、印象に残る絵を描いていた」と語るのを読んで、驚いたという(注7)。
1級下の小林はくどうは3年のとき、4年の関根を誘って横浜六ツ川の斎藤の自宅を訪ねた。その日は夜半に斎藤宅を後にしてからも、興奮状態のままはくどうの下宿で朝まで語り合ったという。はくどうもまた、斎藤に作品をコテンパンに評された経験から、造形に対する考えを手探りしていたひとりだった。意気投合したふたりは1967年の二人展「個展個展」(椿近代画廊)を手始めに多くの発表を行い、斎藤が推薦する若手として注目されるようになる。彼らの関心は次第にそれぞれに移っていくが、交流は富士見町アトリエ、Bゼミへとつづいていく(注8)。
この頃の敏感な学生たちは皆、1950年代末には “[戦前期に発展した]日本の抽象絵画の草分け”として唯一無二の存在であった斎藤へ関心を抱いていたようだ。関根は高校2年のときに『みづゑ』でフォートリエを語る斎藤のエッセイの明晰さに感銘を受け、将来教えを請うことを真剣に考えていた(注9)。後にその願いが通じたかのように斎藤が多摩美に着任するが、二村によれば当時、現役の作家が大学教員になるのは、センセーショナルなできごとだったようである。
また彼らは日頃から、画廊めぐりのほかにも「題名のない音楽会」や草月アート・センターなどの催しを観覧していた。アンフォルメルの時代を抜け、反芸術の傾向を強めた読売アンデパンダンが中止された1964年は、過渡期ゆえの停滞感があったのかもしれない。はくどうは1964年11月に見たマース・カニングハム・ダンス・カンパニーの来日公演が、後に斎藤教室の学生たちが合評会などでハプニングを行う契機となったかもしれないという。
先の同級生は、かつて関根が蛍光灯をこすって光らせるハプニングを演じたことを覚えている。関根は大学院で〈消去〉シリーズを制作していた1967年、都電の吊革に洗濯物を干すハプニングなどに参加したと語っている(注10)。絵画の制作とハプニングの相関はすぐには見出せないが、はくどうによれば斎藤の下ではさまざまな表現が矛盾なく受け入れられ、彼らがこれまでとは異なる表現を試みるための場がひらかれたという。そして先の同級生は「この頃、どこかで『“前衛”を超えよう』という意識があったかもしれない」と振り返る。
関根ははくどうを通じて学校や学年を問わず多くの交流を持ち、なかには活動の場を海外へと広げる仲間もいた。ふたりはいつも見送り役だったが、関根は空港で「自分もいつかは海外へ行くんだ」と豪語していたようである。多摩美術大学は1969年1月、全学封鎖となる。斎藤は学外で講座を持ったが、これ以後、多摩美の教壇に立つことはなかった。彼らが大学に入る時期が少しでも違っていたら、すべてが今とは変わっていたかもしれない。
当時の仲間たちは、関根の学生時代を知りたいのなら、斎藤について語らなければならない、と口をそろえる。関根自身もまた斎藤からの影響について、くり返し述べている。斎藤の指導はなにかを教え、評価するのではなく、彼らが求めるものや可能性を、対話を通じて「自ら明らかにさせる」のだという(注11)。学生たちが斎藤へ関心を寄せたのは、はくどうのことばを借りれば「これまでの先生たちは、画面の中の造形でしかアドバイスしてくれなかった」からであり、先の同級生によれば「斎藤さんが来てから皆、自分で考えて作品をつくるようになった」のだ。だから関根(や彼ら)の作品は、短期間でめまぐるしく変わっていった。
しかし斎藤は、学生たちに与えただけではない。先の同級生は、「斎藤さんも、若い人たちから吸収したと思う。一方通行ではなかったから、よかったのではないか」と回想する。たしかに斎藤は教育について、学生と教員というより“絵を描く仲間”の関係で、自分もまた彼らから多くを学んでいる、という趣旨のコメントをしている。そして晩年の聞き取りでは、「私は[若い人と接する機会が増えた]50歳から発展してきたと思う」とのことばを遺している(注12)。
斎藤が彼らから得たもののひとつはおそらく、自身の原点への、ある意味での向き合い方のようなものではないか。1973年、斎藤は東京画廊の依頼で、〈カラカラ〉、〈トロウッド〉、〈ゼロイスト〉など、この頃には失われていた1930年代後半から1950年代前半の作品21点の再制作を行い、実質的な回顧展となる連続個展を開催した。現在、私たちが美術館で見る斎藤の戦前戦後期の作品は、作家と作家の下で学んだ小清水漸、成田克彦、本田眞吾、関根伸夫らによって、このとき再制作されたものである(注13)。
再制作の意義はいくつかの論考にあるとおり、戦前の斎藤が当時の前衛の影響を超えることを目指したアクチュアリティを、美術が根底から問い直された1970年代に招喚したことにある(注14)。だがそれは、斎藤の動機のすべてになり得るだろうか。当初は乗り気でなかったという再制作は、斎藤が助手を務めた卒業生たちとともに、当時の自身を追体験したことを意味している。そしてこの再制作は、後に斎藤が次なるシリーズ〈反対象〉(1976-)であらたな起点に立つきっかけとなる。
話を関根に戻せば彼は戦後の「“前衛” を超え」て、パラダイムシフトと目される作品を制作した。そして偶然とはいえ協働した仲間たちから、それから「しばらくは自分の作品がつくれなかった」と言わしめた(注15)。学生時代の仲間たちとの活動や、師である斎藤義重の歩みを重ねてみることで、関根の初期の制作とその後の展開について考えるための、さらなる視座がもたらされる。そしてそれは本展のタイトル「旅する人」に隠されたもうひとつの旅、いわば時空を超える旅のはじまりでもある。




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本稿の執筆にあたっては二村裕子氏、小林はくどう氏、そしてご関係者様から多くのご教示を賜りました。記して謝意を表します。
注1:『関根伸夫1968-1978』ゆりあ・ぺむぺる、1978年
注2:関根伸夫オーラル・ヒストリー、梅津元、加治屋健司、鏑木あづさによるインタヴュー、2014年4月24日、日本美術オーラル・ヒストリー・アーカイヴ(www.oralhistory.org)
注3:埼玉県立近代美術館・常設展示プログラム「アーティスト・プロジェクト 関根伸夫《位相―大地》が生まれるまで」2005年11月2日-2006年1月29日(企画:梅津元)では、今回の出品作品のうち《悪ふざけの後で》を除く3点その他、関根の学生時代の油彩やドローイングなどが展示された。ここでは無題(レゾネNo.22)は〈消去〉シリーズとされているが、本稿ではレゾネや今回の展示にもとづき、〈体相学・切り売り〉シリーズとした。なお会期中は関根によるアーティスト・トークも行われたが、本稿では参照していない。
注4:関根伸夫『風景の指輪』図書新聞、2006年
注5:斎藤義重・関根伸夫 談「関根伸夫の道程を振り返って」『関根伸夫後援会会報』1号、1978年4月、pp. 1-8。この会の事務局長は、綿貫不二夫氏が務めていた。
注6:関根伸夫の同級生へのインタビュー、2023年2月16日。本稿の関根伸夫の同級生による発言はすべてこのインタビューによる。
注7:関根伸夫・吉澤美香 談「アーティストの世界とは?(特集1 卒業生対談)」『たまびnews多摩美術大学広報』5号、1994年4月、pp. 2-5。関根はインテリアデザイナーの三橋いく代とともに、絵画科出身で絵を続けている同級生として二村を挙げている。二村は学生時代、ベーコンを彷彿とさせる暗い絵を描いていた。また斎藤義重と二村は、それほどのつきあいはなかったという。二村裕子への電話インタビュー、2023年2月28日および4月7日。本稿の二村による発言はすべてこのインタビューによる。
注8:小林はくどうへの電話インタビュー、2023年3月22日。本稿のはくどうによる発言はすべてこのインタビューによる。初期の発表をともにした関根とはくどうの関係についてはこれまであまり触れられることがなかったが、今回その重要性を認識した。本稿ではすべてを記すことができなかったため、別の機会にあらためて検討したい。
注9:斎藤義重「伝統の終焉(特集 フォートリエ)」『みづゑ』658号、1960年2月、pp. 23-24。なお“日本の抽象絵画の草分け”との言は、瀧口修造「斎藤義重(現代作家小論)」『美術手帖』137号、1958年2月による。
注10:注2に同じ。本稿で触れる余裕はないが、いわゆるもの派とされる作家たちとハプニング、パフォーマンスのかかわりについては、今後検証がなされるされるべきだろう。
注11:関根伸夫「ゼロイスト随聞記 この大いなる〈空洞〉(特集 斎藤義重)」『美術手帖』371号、1973年9月、pp. 74-83。タイトルは禅僧道元の言行録『正法眼蔵随聞記』によるものだろう。
注12:斎藤義重 談「義重独言 教育ということ(特集 斎藤義重)」『美術手帖』371号、1973年9月、pp. 90-91および斎藤義重 談(聞き手:長門佐希)「教育者として(聞き書き 斎藤義重)」『斎藤義重文庫』神奈川県立近代美術館、2004年、pp. 15-20
注13:斎藤の再制作については小清水漸「反語法と隠喩に支持されて」『美術手帖』668号、1993年4月、pp. 108-115などに詳しい。小清水を中心にほかにも数名が携わったようだが、先の同級生は、一度に皆で集まって制作したわけではないため、誰がどの程度かかわったかはよくわからないという。なお関根らは、これより前から斎藤の助手を務めていた。
注14:中原佑介[無題]『斎藤義重』東京画廊、1973年(「斎藤義重1936→1973」展を機に出版された作品集)および千葉成夫「斎藤義重論 再制作の今日性と歴史性」『斎藤義重展』東京国立近代美術館、1978年、pp. 14-21
注15:「小清水漸氏へのアンケート」『《位相―大地》の考古学』西宮市大谷記念美術館、1996年。ここでは吉田克朗も、ほぼ同様の発言をしている。
(かぶらぎ あづさ)
●「関根伸夫展―旅する人」
会期:2023年1月20日[金]~2月4日[土]
『関根伸夫展―旅する人』カタログ発行日:2023年1月20日
発行:ときの忘れもの
図版:22点
執筆:関根伸夫「<発想>について」(1976年執筆)
編集:尾立麗子
デザイン:岡本一宣デザイン事務所
体裁:25.6×17.1cm、32頁、
日本語・英語併記
価格:880円(税込)+送料250円
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■鏑木あづさ
1974年東京都生まれ。司書、アーキビスト。2000年より東京都現代美術館、埼玉県立近代美術館などに勤務し、美術の資料にまつわる業務に携わる。企画に「大竹伸朗選出図書全景 1955-2006」(東京都現代美術館、2006)、「DECODE / 出来事と美術―ポスト工業化社会の美術」の資料展示(埼玉県立近代美術館、2019)など。最近の仕事に『中原佑介美術批評選集』全12巻(現代企画室+BankART出版、2011~刊行中)、「〈資料〉がひらく新しい世界ー資料もまた物質である」『artscape』2019年6月15日号、「美術評論家連盟資料について」『美術評論家連盟会報』20号(2019)など。
*画廊亭主敬白
本日5月13日は関根伸夫先生の命日です(2019年5月13日没)。
現代版画センター時代から長年ご指導をいただきましたが、今年一月ときの忘れものとしては初めての関根先生の個展「関根伸夫展ー旅する人」を開催しました。
今まで余り公開されてこなかった多摩美の学生時代の作品を展示し、それをご覧になった鏑木あづさ先生に展覧会レビューを執筆していただきました。
鏑木先生には以前、梅津元先生とともに「関根伸夫資料をめぐって」をご寄稿いただいていますので併せてお読みください。
鏑木あづさ「関根伸夫資料をめぐって」第1回
梅津元「関根伸夫資料をめぐって」第2回
鏑木あづさ「関根伸夫資料をめぐって」第3回
鏑木あづさ「関根伸夫資料をめぐって」第4回
梅津元「関根伸夫資料をめぐって」第5回
鏑木あづさ「関根伸夫資料をめぐって」第6回
ときの忘れものでは今後も継続的に関根先生の作品を時代を追ってご紹介してまいります。
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