ガウディの街バルセロナより
その9 毎年車で地球を1周走行
丹下敏明
1年間遊学のつもりでスペインに渡ったのが71年。それからは色々な事をしたが、その中でも70年代後半から80年代前半は滅茶な旅行を重ねていた。当時はLCCなどなく、学生連盟のようなところがチャーター便を確保して、これが夏のヴァカンスやクリスマス休暇に安い便を出していた他は、正規の料金はとても学生の身分では出せるような値段ではなかった。そこで、もっぱら車で動いていた。何年かは年間4万キロを以上を走っていた。ということは地球を1周するという事になる。当時は雑誌に原稿を送っていたのでその取材や、本の執筆のための取材もあったのでスペイン国中、そして周辺の国々をぐるぐる回るという馬鹿げた時期があった。もちろん、宿泊はキャンプ場だった。
その間、色々なものを見て回ったけどもプレ・ロマネスク建築が非常に面白いと思った。ロマネスクがインターナショナルなスタイルなのに対し、プレ・ロマネスクという一群の教会は非常にローカル色豊かで、イベリア半島の多岐、複雑に重なり合った歴史と重なっているようだった。もちろん様式というものは確立されておらず、支配者の伝統を継承したことは勿論の事、その土地の風土を反映、何よりもスペイン統一以前に辿り着いた聖職者や建設者が土地に根強く蔓延っている土着の宗教を利用しながらキリスト教を広め、またその土地の建築のスタイルを踏襲し、あるいは土地の材料を使って小さな教会堂を建設している。
スペイン全国でほぼ原形をとどめているプレ・ロマネスクの教会堂は両手で数えられるほどの数しかないが、それでも他のヨーロッパの国々ではほとんどプレ・ロマネスク時代の教会堂は、その後ロマネスクに改装されたり、果てはゴシックに潰されて、柱頭やアーチが残されている場合もあるが、それもごくまれだ。
イベリア半島でキリスト教が公認されたのは311年だったが、409年に東ゲルマン諸族が半島に入り、507年には西ゴート王国が建設された。711年半島はイスラムの支配下に置かれ、キリスト教徒にレコンキスタが進むが半島の南は何世紀も異教徒の支配下にあったため、プレ・ロマネスク教会は半島の北部に広がっている。イスラム教徒は異教徒に対しては寛大であったにもかかわらず、現存するのもそのせいで半島の北部に分散している。
プレ・ロマネスク建築はスペインでは西ゴート王国時代(6世紀から11世紀)に建設されたもの、そしてイスラム教徒侵入後にも改宗せず居残ったキリスト教徒が残したもの(711年のイベリア半島の侵入後11世紀末まで)。そして、カンタブリア海沿岸のアストゥリアス地方で、おそらく一人の天才的な建築家が登場して残したアストゥリアス建築(9~10世紀)に分類される。
西ゴード建築の代表的な遺構、サン・ホアン・デ・バーニョス(San Juan de Banos, Venta de Banos, Palencia)はこのうちでも私が最初に見学した教会堂だった。それは1971年の8月の事だったが、この時はマドリッドから電車で辿り着いた。電車を降りても駅には誰もいなかったのを覚えている。村も何か閑散としていて何もない。目的の教会堂はさらに駅から2キロほどのところにあって、行政上はベンタ・デ・バーニョス市に属しているが、バーニョス・デ・セラート(Banos de Cerrato)という名前の集落にあり、この村のさらにベンタ・デ・バーニョスとは反対の外れにある事が分かった。こちらもバーニョスという名前が付いているが、この辺りはどうやら古代ローマ以前から知られている温泉が出る場所という事でこのバーニョスという名前が付いている。しかし、温泉らしいものは今では枯れているようだった。

1971年8月最初に訪れたサン・フアン・デ・バーニョの教会堂全景

同・内陣
サン・ホアン・デ・バーニョスの教会堂はレケスウィント(スペイン語名はRecesvinto, 在位653~672年)王によって、661年に建設が命じられた事が内陣上部に現存する銘板にラテン語で刻まれている事から、これが創建が唯一分かっている西ゴード教会となっている。西ゴード王国の首都はトレドだったが、伝説によるとレケスウィントは戦火を逃れここをよく訪れ、湧き出る水で一時の休息をとったとされている。堂は大きさにばらつきのある切り石積みで、形式的には3身廊のバシリカ形式の平面となっている。西ゴート建築の特徴である馬蹄形アーチが正面入り口に使われて、祭壇も共通の特徴である方形プランとなっている。この堂は1897年に国宝に指定され保存されているが、その後の発掘調査が行われて、内陣部分に3つの方形の祭壇が孤立して並んでいたことが分かり、さらに身廊を囲むようにポルチコが外側にある2つの祭壇から正面を囲むようにあった事が分かり、創建当初はかなり特徴のあるプランであった事が分かっている。

マドリッド国立考古学博物館蔵のレケスウインの王冠

サン・フアン・デ・バーニョスの現況のプラン

寸法は古代ローマに倣っているらしい

外観のアクソメ図

下から見上げたアクソメ図

発掘後に判明した建設当初のプラン

教会堂プラン。左が1903年に最初に大規模な修復が行われた時のもの。
2番目がその後の発掘調査から判別したプラン。他は研究者たちが提示するプラン
現在の外観は小さな開口が側廊側に空いているが、中央身廊部は透かし彫りの入った細長く、上部が半円になっている開口が開けられている。上部の半円部分も実は馬蹄形アーチになっている。この馬蹄形のアーチは正面入り口にも使われている。アーチの曲率は様々で、実測した限りでは添付の絵のような曲率になっている。これは明らかにその後半島を制覇するイスラム教徒が使った馬蹄形アーチの曲率とは違っている。フリーズには複数のパターンの植物模様のラインが入り、柱頭は古代ローマのものも代用して混在している。天井は切妻の木組み天井となっている。床は石盤で不動沈下があったのだろう、現在では石がさらに重ねて積み置かれてている。

目隠し窓の上部にも馬蹄形アーチが認められる

馬蹄形アーチの曲率
71年当時は入場者も少なかったのだろうが、見学には鍵を持っている人をまず探し、小銭を渡して入れてもらい、暗い堂内はフイルムカメラではどうしてもピントが合わなかった。そして若干測量して、家に帰るとこれをA3のトレペとロットリングを使って記録に残した。

フリーズなどに付けられている植物模様から取られたパターン

目隠し窓を外からと内から見る

2006年3月12日撮影の内陣

同・外観
(写真・図版は全て筆者)
(たんげとしあき)
■丹下敏明(たんげとしあき)
1971年 名城大学建築学部卒業、6月スペインに渡る
1974年 コロニア・グエルの地下聖堂実測図面製作 (カタルーニャ建築家協会・歴史アーカイヴ局の依頼)
1974~82年 Salvador Tarrago建築事務所勤務
1984~2022年 磯崎新のパラウ・サン・ジョルディの設計チームに参加。以降パラフォイスの体育館, ラ・コルーニャ人体博物館, ビルバオのIsozaki Atea , バルセロナのCaixaForum, ブラーネスのIlla de Blanes計画, バルセロナのビジネス・パークD38、マドリッドのHotel Puerta America, カイロのエジプト国立文明博物館計画(現在進行中)などに参加
1989年 名古屋デザイン博「ガウディの城」コミッショナー
1990年 大丸「ガウディ展」企画 (全国4店で開催)
1994年~2002年 ガウディ・研究センター理事
2002年 「ガウディとセラミック」展 (バルセロナ・アパレハドール協会展示会場)
2014年以降 World Gaudi Congress常任委員
2018年 モデルニスモの生理学展(サン・ジョアン・デスピ)
2019年 ジョセップ・マリア・ジュジョール生誕140周年国際会議参加
主な著書
『スペインの旅』実業之日本社(1976年)、『ガウディの生涯』彰国社(1978年)、『スペイン建築史』相模書房(1979年)、『ポルトガル』実業之日本社(1982年)、『モダニズム幻想の建築』講談社(1983年、共著)、『現代建築を担う海外の建築家101人』鹿島出版会(1984年、共著)、『我が街バルセローナ』TOTO出版(1991年)、『世界の建築家581人』TOTO出版(1995年、共著)、『建築家人名事典』三交社(1997年)、『美術館の再生』鹿島出版会(2001年、共著)、『ガウディとはだれか』王国社(2004年、共著)、『ガウディ建築案内』平凡社(2014年)、『新版 建築家人名辞典 西欧歴史建築編』三交社(2022年)など
・丹下敏明のエッセイ「ガウディの街バルセロナより」は隔月・奇数月16日の更新です。次回は2023年9月16日です。どうぞお楽しみに。
●ときの忘れものは2017年に青山から〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS に移転しました。阿部勤が設計した個人住宅だった空間で企画展の開催、版画のエディション、美術書の編集等を行なっています(WEBマガジン コラージ2017年12月号18~24頁の特集参照)。
JR及び南北線の駒込駅南口から徒歩約8分です。
TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531
E-mail:info@tokinowasuremono.com
http://www.tokinowasuremono.com/
営業時間=火曜~土曜の平日11時~19時。*日・月・祝日は休廊
その9 毎年車で地球を1周走行
丹下敏明
1年間遊学のつもりでスペインに渡ったのが71年。それからは色々な事をしたが、その中でも70年代後半から80年代前半は滅茶な旅行を重ねていた。当時はLCCなどなく、学生連盟のようなところがチャーター便を確保して、これが夏のヴァカンスやクリスマス休暇に安い便を出していた他は、正規の料金はとても学生の身分では出せるような値段ではなかった。そこで、もっぱら車で動いていた。何年かは年間4万キロを以上を走っていた。ということは地球を1周するという事になる。当時は雑誌に原稿を送っていたのでその取材や、本の執筆のための取材もあったのでスペイン国中、そして周辺の国々をぐるぐる回るという馬鹿げた時期があった。もちろん、宿泊はキャンプ場だった。
その間、色々なものを見て回ったけどもプレ・ロマネスク建築が非常に面白いと思った。ロマネスクがインターナショナルなスタイルなのに対し、プレ・ロマネスクという一群の教会は非常にローカル色豊かで、イベリア半島の多岐、複雑に重なり合った歴史と重なっているようだった。もちろん様式というものは確立されておらず、支配者の伝統を継承したことは勿論の事、その土地の風土を反映、何よりもスペイン統一以前に辿り着いた聖職者や建設者が土地に根強く蔓延っている土着の宗教を利用しながらキリスト教を広め、またその土地の建築のスタイルを踏襲し、あるいは土地の材料を使って小さな教会堂を建設している。
スペイン全国でほぼ原形をとどめているプレ・ロマネスクの教会堂は両手で数えられるほどの数しかないが、それでも他のヨーロッパの国々ではほとんどプレ・ロマネスク時代の教会堂は、その後ロマネスクに改装されたり、果てはゴシックに潰されて、柱頭やアーチが残されている場合もあるが、それもごくまれだ。
イベリア半島でキリスト教が公認されたのは311年だったが、409年に東ゲルマン諸族が半島に入り、507年には西ゴート王国が建設された。711年半島はイスラムの支配下に置かれ、キリスト教徒にレコンキスタが進むが半島の南は何世紀も異教徒の支配下にあったため、プレ・ロマネスク教会は半島の北部に広がっている。イスラム教徒は異教徒に対しては寛大であったにもかかわらず、現存するのもそのせいで半島の北部に分散している。
プレ・ロマネスク建築はスペインでは西ゴート王国時代(6世紀から11世紀)に建設されたもの、そしてイスラム教徒侵入後にも改宗せず居残ったキリスト教徒が残したもの(711年のイベリア半島の侵入後11世紀末まで)。そして、カンタブリア海沿岸のアストゥリアス地方で、おそらく一人の天才的な建築家が登場して残したアストゥリアス建築(9~10世紀)に分類される。
西ゴード建築の代表的な遺構、サン・ホアン・デ・バーニョス(San Juan de Banos, Venta de Banos, Palencia)はこのうちでも私が最初に見学した教会堂だった。それは1971年の8月の事だったが、この時はマドリッドから電車で辿り着いた。電車を降りても駅には誰もいなかったのを覚えている。村も何か閑散としていて何もない。目的の教会堂はさらに駅から2キロほどのところにあって、行政上はベンタ・デ・バーニョス市に属しているが、バーニョス・デ・セラート(Banos de Cerrato)という名前の集落にあり、この村のさらにベンタ・デ・バーニョスとは反対の外れにある事が分かった。こちらもバーニョスという名前が付いているが、この辺りはどうやら古代ローマ以前から知られている温泉が出る場所という事でこのバーニョスという名前が付いている。しかし、温泉らしいものは今では枯れているようだった。

1971年8月最初に訪れたサン・フアン・デ・バーニョの教会堂全景

同・内陣
サン・ホアン・デ・バーニョスの教会堂はレケスウィント(スペイン語名はRecesvinto, 在位653~672年)王によって、661年に建設が命じられた事が内陣上部に現存する銘板にラテン語で刻まれている事から、これが創建が唯一分かっている西ゴード教会となっている。西ゴード王国の首都はトレドだったが、伝説によるとレケスウィントは戦火を逃れここをよく訪れ、湧き出る水で一時の休息をとったとされている。堂は大きさにばらつきのある切り石積みで、形式的には3身廊のバシリカ形式の平面となっている。西ゴート建築の特徴である馬蹄形アーチが正面入り口に使われて、祭壇も共通の特徴である方形プランとなっている。この堂は1897年に国宝に指定され保存されているが、その後の発掘調査が行われて、内陣部分に3つの方形の祭壇が孤立して並んでいたことが分かり、さらに身廊を囲むようにポルチコが外側にある2つの祭壇から正面を囲むようにあった事が分かり、創建当初はかなり特徴のあるプランであった事が分かっている。

マドリッド国立考古学博物館蔵のレケスウインの王冠

サン・フアン・デ・バーニョスの現況のプラン

寸法は古代ローマに倣っているらしい

外観のアクソメ図

下から見上げたアクソメ図

発掘後に判明した建設当初のプラン

教会堂プラン。左が1903年に最初に大規模な修復が行われた時のもの。
2番目がその後の発掘調査から判別したプラン。他は研究者たちが提示するプラン
現在の外観は小さな開口が側廊側に空いているが、中央身廊部は透かし彫りの入った細長く、上部が半円になっている開口が開けられている。上部の半円部分も実は馬蹄形アーチになっている。この馬蹄形のアーチは正面入り口にも使われている。アーチの曲率は様々で、実測した限りでは添付の絵のような曲率になっている。これは明らかにその後半島を制覇するイスラム教徒が使った馬蹄形アーチの曲率とは違っている。フリーズには複数のパターンの植物模様のラインが入り、柱頭は古代ローマのものも代用して混在している。天井は切妻の木組み天井となっている。床は石盤で不動沈下があったのだろう、現在では石がさらに重ねて積み置かれてている。

目隠し窓の上部にも馬蹄形アーチが認められる

馬蹄形アーチの曲率
71年当時は入場者も少なかったのだろうが、見学には鍵を持っている人をまず探し、小銭を渡して入れてもらい、暗い堂内はフイルムカメラではどうしてもピントが合わなかった。そして若干測量して、家に帰るとこれをA3のトレペとロットリングを使って記録に残した。

フリーズなどに付けられている植物模様から取られたパターン

目隠し窓を外からと内から見る

2006年3月12日撮影の内陣

同・外観
(写真・図版は全て筆者)
(たんげとしあき)
■丹下敏明(たんげとしあき)
1971年 名城大学建築学部卒業、6月スペインに渡る
1974年 コロニア・グエルの地下聖堂実測図面製作 (カタルーニャ建築家協会・歴史アーカイヴ局の依頼)
1974~82年 Salvador Tarrago建築事務所勤務
1984~2022年 磯崎新のパラウ・サン・ジョルディの設計チームに参加。以降パラフォイスの体育館, ラ・コルーニャ人体博物館, ビルバオのIsozaki Atea , バルセロナのCaixaForum, ブラーネスのIlla de Blanes計画, バルセロナのビジネス・パークD38、マドリッドのHotel Puerta America, カイロのエジプト国立文明博物館計画(現在進行中)などに参加
1989年 名古屋デザイン博「ガウディの城」コミッショナー
1990年 大丸「ガウディ展」企画 (全国4店で開催)
1994年~2002年 ガウディ・研究センター理事
2002年 「ガウディとセラミック」展 (バルセロナ・アパレハドール協会展示会場)
2014年以降 World Gaudi Congress常任委員
2018年 モデルニスモの生理学展(サン・ジョアン・デスピ)
2019年 ジョセップ・マリア・ジュジョール生誕140周年国際会議参加
主な著書
『スペインの旅』実業之日本社(1976年)、『ガウディの生涯』彰国社(1978年)、『スペイン建築史』相模書房(1979年)、『ポルトガル』実業之日本社(1982年)、『モダニズム幻想の建築』講談社(1983年、共著)、『現代建築を担う海外の建築家101人』鹿島出版会(1984年、共著)、『我が街バルセローナ』TOTO出版(1991年)、『世界の建築家581人』TOTO出版(1995年、共著)、『建築家人名事典』三交社(1997年)、『美術館の再生』鹿島出版会(2001年、共著)、『ガウディとはだれか』王国社(2004年、共著)、『ガウディ建築案内』平凡社(2014年)、『新版 建築家人名辞典 西欧歴史建築編』三交社(2022年)など
・丹下敏明のエッセイ「ガウディの街バルセロナより」は隔月・奇数月16日の更新です。次回は2023年9月16日です。どうぞお楽しみに。
●ときの忘れものは2017年に青山から〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS に移転しました。阿部勤が設計した個人住宅だった空間で企画展の開催、版画のエディション、美術書の編集等を行なっています(WEBマガジン コラージ2017年12月号18~24頁の特集参照)。
JR及び南北線の駒込駅南口から徒歩約8分です。
TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531
E-mail:info@tokinowasuremono.com
http://www.tokinowasuremono.com/
営業時間=火曜~土曜の平日11時~19時。*日・月・祝日は休廊
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