平嶋彰彦のエッセイ「東京ラビリンス」のあとさき
その33 三河島—関東大震災後の世相と少年少女たち
文・写真 平嶋彰彦
三河島を最初に訪れたのは大学4年(1968・昭和43年)の夏である。きっかけはマンガ雑誌『ガロ』増刊号「つげ義春特集号』に掲載された『ねじ式』だった。(註1)。
発売されて何日目だったか、宇野敏雄が「これ見ましたか。凄いですよ」といって見せてくれた。宇野は大学写真部の1年後輩で、退職後に始めた街歩きのメンバーの一人。
ページを開いたとたん興奮した。たまたま映画『野いちご』(監督 イングマール・ベルイマン)を見たばかりだった(註2)。『ねじ式』の脈略のない物語の展開は、『野いちご』の冒頭に描かれる主人公の悪夢を彷彿させた。『野いちご』はベルイマンの代表作とされるが、つげ義春の『ねじ式』はそれを凌駕しているように思われた。
『ねじ式』の舞台になっているのは、鄙びた漁村であると同時に近代的な都市でもあるという非現実的で奇妙な空間である。宇野は伊豆の下田で育ち、私は房総の館山で育った。そのせいもあり、浜辺の光景は幻想の世界とはいいながら、いつかどこかで見たなつかしさを覚えた。あれこれ話していると、つげ義春の投影とみられる少年がさまよい歩くこのようなイメージの街は東京のなかにある、それが三河島だということである。
そんなことから、彼に誘われるような恰好で、二度だったか三度だったか、三河島の界隈を歩いて写真を撮ったことがある。その年の9月に『早慶写真展』があり、私の記憶に間違いがなければ、彼が三河島で撮影した作品は『異邦』と題した早稲田大学写真部による共同制作の中核の一つになった(註3)。
私が三河島のどこをどう歩いたか、また私自身がなにを撮ったのかは、はっきりしない。馬鹿なことをしたと思うが、大学を卒業したとき、それまでのフィルムとプリントは残らず焼いてしまったからである。

ph1 荒川西中央通りから入った路地。最近に新築したり改築したりした家屋もあるが、戦前につくられた街並みだという。荒川4-52。2010.01.26

ph2 二階建ての4軒長屋。南千住6-22。2010.01.26

ph3 尾竹橋通り。藍染川通りと交錯する花の木交差点。通りの東側に花の木橋の橋脚が残されている。荒川5-12。2010.01.26

ph4 保育園からわが子を自転車で送り迎えするお母さん。荒川1-23。2010.01.26
ph5 第三桜湯。千住間道から入った裏通り。近くに大聖寺がある。荒川1-21。2010.01.26
三河島は荒川区の中部を指す旧地名だが、JR常磐線三河島駅付近一帯の通称にもなっている(註4)。二度目に三河島を訪れたのは1985年の『昭和二十年東京地図』のときだった。編集と取材は西井一夫。『カメラ毎日』の最後をつとめた編集長で、同誌が休刊になったあと、『毎日グラフ』編集部に転属したばかりだった。
西井が自分の眼で確かめようとしたのは都営三河島アパート。彼が畏敬してやまない写真作家が荒木経惟だった。荒木の出世作となった『さっちん』は、1963年から1964年にかけてこのアパートに足を運び、奔放に遊ぶ子どもたちの姿を切りとった作品集である。
都営三河島アパート(府営三河島アパートメント)の竣工は1932年である。後述するように、ここは不良住宅として悪名の高かった千戸長屋のあった場所である。築50年以上の建造物だから、老朽化していたということかもしれない。コの字型にならぶ鉄筋コンクリート三階建の6棟はすでに取り壊され、都営荒川七丁目仲道アパートに建て替わっていた(ph6)。
荒木経惟の写真作家としての才能を最初に発見したのは桑原甲子雄である。桑原は写真雑誌の編集長をいくつも歴任するかたわら、写真評論家として筆を振るった人だが、そのころは『カメラ芸術』(東京中日新聞社)の編集長をつとめていた(註5)。いっぽう、荒木は、電通の写真室に勤めながら、あちこちの写真雑誌で「月例(写真)の賞金稼ぎ」をしていた。「二重応募もへっちゃら」だったというから、簡単にいえば、アマチュア写真界のやんちゃものだったのである。
その荒木が『カメラ芸術』の月例写真に作品を持ち込んだ。すると編集長の桑原は写真をみるなり、あちこちの「写真雑誌にパラパラ出」すのはやめて、「この子どもの写真、うちでまとめて、発表してみないか」と口説いた。そして、作品は『カメラ芸術』1964年4月号に『マー坊』のタイトルで口絵8ページをつかって掲載された。『さっちん』は『マー坊』を再構成したもので、第一回太陽賞の発表があったのはその年の6月だった(註6)。

ph6 都営荒川七丁目仲道アパート。1978年の竣工。このあたりに荒木経惟が『さっちん』を撮った都営三河島アパートがあった。荒川7-8。2010.01.26

ph7 町屋斎場。前身は小塚原火葬場(現在の南千住2丁目)。1887年、周辺が市街化したことから日暮里に移転する、2年後には町屋にも火葬場ができた。1904年、2つの火葬場が合併し、現在の町屋斎場が設立された。町屋1-23-4。2010.01.26

ph8 都電荒川線町屋駅前。京成町屋駅から。都電線路の右が町屋1丁目。左が荒川7丁目。2016.11.14
桑原甲子雄が荒木の写真にこだわったのは、写真表現の評価とは別に、もう一つ理由があったとみられる。というのも、桑原はアマチュア写真家時代の1935年から1937年にかけて三河島と町屋を何度か訪れて写真に撮っている。
『私的昭和史 桑原甲子雄写真集』上下巻(毎日新聞社、2013)は写真家の伊藤愼一と私が編集したものである。上巻には三河島と町屋の写真9カットを収録しているが、そのうちの8カットは子どもを中心にした街頭スナップである(註7)。桑原自身はこの一連の作品を「三河島・町屋こどもシリーズ」と呼んでいた(註8)。おそらく、三河島アパートで撮影した作品を持ち込んできた荒木経惟に、自分の若き日の姿を重ね合わせたに違いないのである。
「三河島・町屋こどもシリーズ」の1カットがph9である。撮影は1937年で、場所は三河島町7丁目(現在の荒川7丁目)。画面手前に半纏をまとった髭の男と学生服の男の子がいる。二人ともカメラ目線である。怪訝な表情をしているのは、桑原がいつもの着流しの格好でやってきて、懐からライカを取りだしたからだろう。写真を撮られるのを嫌がっているわけでもない。撮る者と撮られる者の関係が揺れ動いている。街頭スナップの微妙な瞬間といってもいい。
男の右側に幟のついた箱があり、その正面に描かれているのはお伽噺の桃太郎の鬼退治である。男の子が手にしているのはおしゃぶりコンブだろう。すると、半纏の男は紙芝居屋か、そうでなければ飴屋なのである。
紙芝居は子供相手の飴売行商の手段として盛んになった。この形式の紙芝居の歴史は意外に浅く、1930年ごろに考案されたものだという(註9)。つまり、紙芝居は銀座通りを歩くモガ・モボ(モダンガール・モダンボーイ)とほぼ同時代の新しい風俗なのである。
紙芝居を演じるのは橋の上である。横に大八車が置かれ、欄干には蒲団らしきものを干している。橋が架かるのは藍染川で、谷田川とも呼ばれた。
「ときの忘れもの」から遠くない駒込の染井霊園が水源で、それより現在の北区と豊島区の境、さらに台東区と文京区の境を流れ、上野不忍池に注いでいたが、大雨が降ると谷中・千駄木一帯で氾濫をくりかえした。上流の駒込・田端は明治の後半に鉄道駅が開業するにともない市街化が進行していたから、流れてくるのは生活排水の混入した汚水である。
東京府はその氾濫対策として、バイパス排水路を開削して、西日暮里から三河島(北豊島郡。現在の荒川区)へ迂回させ、荒川(現在の隅田川)に放流するようにした。完成したのは1918(大正7)年だという(註10)。三河島汚水処理場が完成するのは関東大震災のあった1923年で、それ以降は藍染川の下水はこの汚水処理場で浄化したうえで、荒川に放流することになった(ph11~ph13)。

ph9 桑原甲子雄の作品。1937年の撮影で、場所は三河島町7(現在の荒川7)。『私的昭和史—桑原甲子雄写真集』からの転載。桑原によるこの作品のキャプションは以下の通り。「三河島というところは町をあるいていて、ふしぎと私の肌になじむところがあった。町の感触というのは、どんなに平凡などこにでもある町のようにおもえても、一つ一つやはり何処か異っていた」
この桑原の作品は鈴木理生編著の『図説 江戸・東京の川と水辺の事典』にも掲載されていて、本文には「この水路は今ではすべて暗渠化されているが、それまでは沖積低地の蓋のない下水道として特異な景観だった」とある(註11)。
分かりにくい書き方をしているが、私なりに解釈すれば、例えどのような細民街であろうと、蓋のないような下水道は常識的に考えられない、身も蓋もない言い方をすれば、藍染川の岸辺に暮らす人々をないがしろにした東京府の姿勢が明らかにみられる、という意味になる。
藍染川の左側に湾曲しながら奥に向かうのは京成電鉄の高架で、遠くにそれをくぐって姿をみせた路面電車は、王子電車(現在の都電荒川線)である。したがって、画面左側の高架は現在の町屋駅のあたりと比定することができる。
高架下には物干し竿が立ちならび、二階にあたる部分には手すりがついている。そこを勝手に住居として占拠しているに違いない。その手前は材木置場になっている。橋の上の大八車は材木を運ぶためのもので、これも憶測になるが、藍染川の対岸には材木屋が店舗を構えているのである。
桑原甲子男は、おそらく同じ日と思われるが、町屋駅のプラットホームから俯瞰した街並みも写真に撮っている(註12)。駅のどのへんか特定できないが、写されているのは長屋で、桑原自身による作品のキャプションには「水上長屋といった光景」とある。洗濯物で満艦飾の長屋は高床式になっていて、中庭のようにみえるのは地面ではなく水面である。その一画に人工の島をつくり、鉢植えの樹木や草花をならべている。
長屋を高床式に建築しているのは、このあたりが水はけの悪い湿地帯で、水に浸かるのが常態化していたからにちがいない。京成電鉄の線路と駅舎が高架の上に設けられているのもおそらく同じ理由ではなかったかと推測される。
桑原は「三河島・町屋こどもシリーズ」の1カットのキャプションに「このあたりは「スラム」といわれたが、下谷、浅草にもそういう所はのべつにあった」と書いている(註13)。「のべつ」はむやみやたらにということだが、三河島・町屋に江戸時代から「スラム街」(細民街)があったわけではない。『新編荒川区史』を読むと、「スラム街」の発生とその背景について、次のように解説している(註14)。
三河島の千軒長屋は大正七年にでき上り、忽ち大きな細民街となり、字治郎田・中道・釜坪一帯にわたり八百十戸の長屋が棟を連ね、字前沼には二百戸の集団が、字辻元には九十戸の集団ができて、不良住宅地域という芳しからぬ地区を形成した。
南千住や三河島・日暮里といった地区は市内にかせぎに出かける便がよくて、しかも市内をすれすれにはずれていて、市内としての禁令にひっかからないという好条件があり、貧困者の集団地区を作りあげるようになっていき、大正の中頃から大震災頃にかけてかなりのスラム街を形成していったのである。
当時ここに住む人々の主な職業は屑やのほか、日雇い・たちん坊(車のあとを押す人)・よかよか飴売りなど様々の職業のものが入り交じっていたという。
大正七年は1918年。「市内」は東京市内のこと。この当時、三河島は南千住・日暮里と共に東京府北豊島郡に属していた。荒川区として東京市に編入されるのは1932年である(註15)。
関東大震災が発生したのは1923年で、三河島に千軒(千戸)長屋ができてから5年後である。大震災のあと、「スラム街」の人口は激増することになった。浅草・下谷方面で被災した貧困者たちが近接地域に避難先を求める一方、工場の郊外進出にともなう流入人口が増加したからである(註16)。
それでは不良住宅の形成される場所にはどのような特徴があるのか。『新編荒川区史』は「低地で湿地、窪地、袋地、日のあたらぬ土地あるいは鉄道線路や電車線路の附近、墓地火葬場の周囲、大工場附近、河川埋立地など」をあげている。
見落とせないのは、続けて、「当時発行された「細民の東京」は、この頃の千軒長屋などのこういった地区の状況をきわめて克明に描写している」と述べている点である(註17)。
今和次郎が編纂した『新版大東京案内』のなかに「細民の東京」という一章がある。この記事もそうだが、内容の重複する箇所がほかにもあり、『新編荒川区史』が「細民の東京」を参考に記事を書いているのは明らかである。すなわち、「当時発行された「細民の東京」」とは、この『新版大東京案内』(中央公論社、1929)にほかならない(註18)。

ph10 花の木橋。藍染川に架かっていた橋の一つ。藍染川はすべて暗渠になり、「藍染川通り」の名前だけが残る。荒川5-12。2016.11.14

ph11 旧三河島汚水処分場。ポンプ場施設の外観。東京市区改正事業の一環として、米元晋一(東京市技師)を中心に建設が進められ、1922年に運用を開始、1999年に稼働を停止した。荒川8-25-1。2016.11.14

ph12 旧三河島汚水処分場。ポンプ場施設の地下水道。東西二つの沈砂池から引き入れた下水が合流する付近。荒川8-25-1。2016.11.14

ph13 旧三河島汚水処分場。地下水道の阻水扉。荒川8-25-1。2016.11.14
桑原甲子雄は1930年代に、荒木経惟は1960年代に、それぞれ子供たちに焦点をあて、三河島の細民街を写したことは、先に述べた通りである。『新版大東京案内』の「細民の東京」には「千戸長屋の通路」の写真があり、「子供たちは無心に遊んでいる」とキャプションがついている。ちなみに、それ以外にも三河島の千戸長屋の写真が3点、また南千住や日暮里の不良住宅の写真3点が掲載されている。いずれも『東京府郡部(隣接五郡)集団不良住宅地区図集』(東京府学務部社会課編、1928)からの転載である(註19)。
「細民の東京」の本文に眼を転じると、無心に遊んでいると写真キャプションに書かれたその子供たちへの次のような注目すべき言及がある。
こゝで序(つい)でに浮浪者に就(つい)て少しばかり触れて置こう。(中略)一例を浅草公園に取つてみれば、此処だけでも、五百人乃至六百人の浮浪者が巣を喰つてゐるのである。(中略)即ちこれ等の人間たちは、細民窟の中にも住めなくなつたこの世のあぶれ者、ぐれ者なのである。(中略)
なほ、このぐれ仲間に、不良少年少女は混ざつていることを忘れてはならない。浅草公園内外だけにもつねに百人はゐると言われてゐる。彼等は天性の不良性を持つものが多く、生活のためには手段を選ばず、悪事に掛けてはその方法を選ばないという連中である。都会生活に取つて、社会公民に取つて、最も恐るべき最も、憂ふべき存在である。
浮浪者を「細民窟の中にも住めなくなつたこの世のあぶれ者、ぐれ者」だと書いている。『新版大東京案内』はこの引用文の前段で、東京府下の細民街を調査した統計を考察すると、16歳から30歳までの働き盛りの世代がいちじるしく少なく、年齢構成がいびつになっていると指摘している(註20)。それでは、働き盛りの男と女はどこへいったのか。流出先は彼ら彼女たちのかつて居住した東京市内であるのは想像にかたくない。そのうちの少なからぬ部分が、あぶれたりぐれたりして、浮浪者に身を落としたのではないか、と示唆しているのである。
浅草公園を一例にあげれば、そこだけでも500人から600人の浮浪者がたむろしていて、そのなかには不良少年少女がつねに100人は混ざっている。「天性の不良性」云々という表現の是非はさておき、不良少年少女の問題は世間の眼からも行政の立場からも「最も恐るべき最も、憂ふべき存在」として、指を咥えて見過ごすことできなくなっていた。
細民街の不良住宅と不健全な生活実態の改善は東京府の緊急課題となり、1927年に実態調査が行われ、そのさいに撮影された写真を収録したのが、先に書いた『東京府郡部(隣接五郡)集団不良住宅地区図集』である。この実態調査を踏まえた住環境の改善策の目玉として、三河島町には耐震大火を兼備した鉄筋コンクリート三階建て府営三河島アパートが計画された。
このコの字6棟のアパートは、先に書いたよう、1932年に完成した。『新版大東京案内』の刊行はそれより3年前になるわけだが、同書は「細民東京」の附記として、その設計図を紹介し、「これが出来れば帝都の不名誉なる名物、千戸長屋やトンネル長屋は一掃される筈であるが、第二の三河島、第三の旭館が出現しなければ幸いである」と懸念を示している(註21)。
今和次郎は『震災バラックの思い出』のなかで、都市を人間の身体に擬えて、路次(路地)は都市の心臓であり、血管でもあるとも、あるいは内臓であるとも書いている(註22)。
都会の路次の裏には、これまでもほんとうの都会生活の心臓となり、血管となっていると思える、人生に戦う気力を与えるような存在の姿がみられたのでした。銀座通りがはなやかに栄えていくためには、このような家々の存在が都会の路次の裏に、永久に、善良な一般の人々の目からさえぎられて営まれているのでした。
心臓や血管の不全は人間の死に直結する危険性がある。しかし、内臓器官というのは自分の身体のうちにありながら、自分の思い通りにはならない自立した存在でもある。「人生に戦う気力を与えるような存在」とは、路地裏にすむ人々の持って生まれた精神性のことで、関東大震で罹災するとすぐさま、ありあわせの資材で避難小屋(震災バラック)を苦もなく作りあげてしまう本能的な気骨を指している。
都市における路地の存在を重要視する点では、今和次郎の都市像は永井荷風のそれとよく似ていることを、長谷川堯が『都市廻廊』のなかで指摘している(註23)。
永井荷風の『日和下駄』は関東大震災の10年前に書かれた随筆である。路地は荷風の文学に欠かせない舞台装置だった。改めて読み返してみると、荷風は「路地」の一章を設け、そのなかで、路地の空間は表通りに住めない人々が「大道と大道との間」に、彼らの生活に「適当」するように、彼ら自身の手で作り出したものである。したがって、「路地は公然市政によって経営されたものではない。都市の面目体裁品格とは全然関係なき別天地である」と主張している(註24)。
府営三河島アパートの建設計画について、『新版大東京案内』が懸念を示したのは、三河島の路地裏にも現存する「人生に戦う気力を与えるような存在の姿」を配慮する努力を東京府が怠っているとみたからではないだろうか。
浅草公園の界隈にたむろする不良少年少女を中心に、関東大震災後の浅草の風俗を描いた小説に川端康成の『浅草紅団』がある(註25)。川端康成の浅草をみる眼差しには、『新版大東京案内』の細民街を見る眼差しと共振するものが強く感じられる。
今和次郎編纂の『新版大東京案内』は、先にも書いたように、1929年12月に刊行された。『浅草紅団』の初出は『東京朝日新聞』(夕刊)で、1929年12月12日より翌年2月16日まで37回連載。単行本化されたのは翌1930年で、装丁は吉田謙吉である(註26)。それまでにも吉田は『感情装飾』(1924年)と『伊豆の踊子』(1926年)を手がけている。詳しいことは分からないが、両者の間には小説家と装丁家の枠を超えた関係性があったのではないかとみられる(註27)。
吉田謙吉は今和次郎と同じ東京美術学校図案科の卒で10年後輩である。1930年に刊行された『モデルノロヂオ(考現学)』は今和次郎と吉田謙吉の共編になっている(註28)。『新版大東京案内』が刊行されたのはその1年前の12月で、『浅草紅団』の新聞連載と重なっている。『新版大東京案内』は今和次郎の編纂とあるのみだが、取材から執筆さらに編集という制作過程には、同書の解説で松山巌が指摘しているように、吉田謙吉を含めた「バラック装飾社」や「考現学」の同人たちが関与していたのは、いうまでもない気がする(註29)。

ph14 三河島稲荷神社。神木の大欅。樹齢650年といわれ、切株だけが残されている。荒川3-65-9。2024.04.25

ph15 泊船軒。内陣格天井の「花鳥風月画」。臨済宗妙心寺派の寺院で、関東大震災のあと、湯島の妻恋から移転してきた。荒川7-17-2。2016.11.14

ph16 浄正寺。境内に咲いていた牡丹。荒川3-53-1。2024.04.25
ph17 浄正寺。三河島事故慰霊碑。事故は1962年、国鉄常磐線三河島駅構内で発生。死者160人、負傷者296人におよぶ大惨事となった。荒川3-53-1。2024.04.25

ph18 三河島駅。通過する電車は常磐線特急ひたち。西日暮里1。2024.04.25

ph19 都電荒川線荒川7丁目駅付近の踏切。荒川7。2016.11.14
今和次郎は関東大震災直後の1923年9月20日から10月13日にかけて、カメラを手に、上野公園を手始めに、日比谷公園・芝愛宕下、赤坂溜池、丸ノ内などを歩いてまわり、被災地に造られたバラック建築を写真に記録している。
今和次郎がフィールドワークの記録手段として、写真を用いるようになったのはもっと古く、1920年に行った青森・岩手の民家調査のころからと思われる。そのことを知ったのは、写真誌『グラフィカ』第3号の巻頭特集「今和次郎写真帖 震災バラック+民家、欧州視察」(2009)である(註30)。同誌の責任編集者は伊藤愼一。毎日新聞社写真部の後輩である。彼とは現役カメラマンのころから浅からぬ縁がある。先にも書いたが、『私的昭和史 桑原甲子雄写真集』(上下巻、毎日新聞社)は伊藤と私の二人で編集した。
今和次郎が震災バラックを撮った写真は、工学院大学図書館に所蔵されている。「今和次郎写真帖」(「震災バラック写真帖」)というのは、密着プリント(4×6.5センチのベスト判フィルム)を貼り付けたもので、伊藤の分析によると、今和次郎の撮影と特定される写真が73点。大坪重周(バラック装飾社の同人)が撮影したものが17点、そのほかの11点が収められている。
写真はベスト判の密着プリントで、『グラフィカ』はA4サイズである。ただ紹介するだけなら、いくらもページはいらない。採算もなにも度外視して、なんと観音開き2箇所を含め39ページも費やしている。伊藤愼一は何を伝えたかったのか。以下は彼による解説文の一節(註31)。
思考と観察の繰り返しによって体得されてきた個人的な視座と一個の人間としての興味によって切り取られた写真、それゆえに今和次郎の著作を読み、今和次郎の施策や人柄について知ることで、この写真を見ることのおもしろさや読みとれることは増す。
そして今和次郎の内面で行われている把握、解体、構築という過程と、それを経て立体化していく人の行為の描出に驚く。
写真から起こしたとみられるデッサンも何点か掲載されている。東京美術学校の図案科卒だから上手なのはあたりまえだが、レントゲン写真を見るような衝撃がある。もしフィルムが遺されているなら、私自身の手でプリントしてみたくなる誘惑に駆られる。
今和次郎は1930年に欧米視察をするが、伊藤の記事にしたがえば、ベルリンでライカを手に入れると、ベルリン(デサウ バウハウス・動物圓)・ローマ(井戸)・パリ(アパート)など行く先々で写真を撮っている。空間の切りとり方は憎たらしいほど手際がいい。ライカの開発は5年前。ライカ1台で家が建つといわれた時代である。写真にたいする関心が通り一遍でなかったことがうかがわれる。

ph20 尾竹橋通り。居酒屋の店先を開店前に箒で掃く。東日暮里6-6。2024.04.25

ph21 平野彫刻研究所。能・歌舞伎や仏像を題材にした極彩色木彫の販売をしている。西日暮里5-5。2024.04.25

ph22 日暮里中央通り。日暮里繊維街。生地織物を取り扱う約90店舗が軒を連ねる。ファッション・手芸・ものづくりを楽しむ人たちが材料を探しに訪れる。東日暮里6-44。2024.04.25

ph23 住宅兼作業場の小さな町工場。さまざまな機具や材料が整然とならび、工場主と思われる人が一人で黙々と作業を続けていた。荒川3-70。2024.04.25

ph24 企業の敷地内に祀られた稲荷社。この会社は工具を取り扱っていて、とくにネジメーカー向けの工具を多数在庫しているという。東日暮里6-27-7。2024.04.25

ph25 木造二階建ての長屋。建造された当初は、1階は仕事場か店舗、2階は住居として使われていたと思われる。路地に人の気配がないのがさびしい。奥にタワーマンション(アトランズタワー三河島)がそびえたつ。東日暮里6-32。2024.04.25
知らなかったことはほかにもある。それからしばらくして、大学写真部OB会から送られてきた会報を読んでいると、今和次郎が戦後のある時期、早稲田大学写真部の部長を務めていたと書いていた。初耳である。そもそも学生時代には今和次郎の名前すら知らなかった。執筆者は昨年亡くなった幹事長の白谷達也である。問い合わせると、残念というべきか、情けないというべきか、それ以上のことはなにも分からないという。
今和次郎が遺した研究資料は、「震災バラック写真帖」もその一つだが、工学院大学図書館に「今和次郎コレクション」として所蔵されている。
今和次郎の最後の職場となったのが工学院大学で、1961年から講師をつとめている。しかし今和次郎は佐藤功一(早稲田大学建築学科教授)と白茅会で知遇をえた縁から、1912年に早稲田大学に招かれると、1959年まで長年にわたって教鞭をとるかたわら、「考現学」さらには「生活学」の研究に半生をささげることになった(註32)。
そうであるにも拘わらず、今和次郎の研究資料の寄贈先はどうして早稲田ではなく工学院になったのか。綿貫不二夫がそのいきさつを「ときの忘れもの」のブログ連載「画廊亭主の徒然なる日々」(「文献資料~今和次郎コレクション、2007.12.8更新)に書いている。情けないのは何も学生の私たちばかりではなかったのである(註33)。
研究資料が今家から工学院大学に寄贈されたあと、綿貫不二夫が工学院八王子校舎に出向いて、段ボールのままうずたかく積まれていた資料の分類と整理を手助けしたことは、最近になって本人から聞いた。
「現代版画センター」(「ときの忘れもの」の前身)が倒産したころのエピソードだが、その冬の時代に綿貫不二夫・令子夫妻が精魂を傾けたのが『資生堂ギャラリー七十五年史 1919~1994』の編集と制作だった(註34)。
この原稿を書きながら、ようやく気づいたことがある。これまで不思議でならなかったのだが、あの徹底した資料採集の方法は、今和次郎が提唱した「考現学」で重要視される「一切しらべ」(悉皆調査)にほかならないのである。
【註】
註1 『ねじ式』。マンガ雑誌『ガロ』1968年6月号増刊号「つげ義春特集」の巻頭を飾る書き下ろし。
註2 『野いちご』。1957年製作のスウェーデン映画。監督はイングマール・ベルイマン。
註3 『早慶写真展」は早稲田大学と慶応大学の写真部(学生サークル)による恒例の合同写真展。このときは1968年9月24日から29日、銀座ニコンサロン(松島眼鏡店2階)で開催された。
註4 『精選版 日本国語大辞典』「三河島」(小学館)
註5 『私的昭和史 桑原甲子雄写真集』下巻「桑原甲子雄略年譜」(毎日新聞社、2013)
註6 『私的昭和史 桑原甲子雄写真集』下巻「異邦人の通り過ぎる眼差し」(荒木経惟)
註7 『私的昭和史 桑原甲子雄写真集』上巻「千住、三河島、町屋」
註8 『東京1934~1993』(桑原甲子雄、新潮社、1995)
註9 『改訂新版 世界大百科事典』「紙芝居」(平凡社)
註10 『カメラがとらえたあの日 あの場所』「第三章 (2)近代下水道施設と三河島町」(荒川区教育委員会、1922)。藍染川については、連載「その12 私の駒込名所図会(3)染井吉野と霜降・染井銀座(後編)」でも言及している。
註11 『図説 江戸・東京の川と水辺の事典』「第四章 江戸・東京の水系」(鈴木理生編著、柏書房、2003)
註12 『私的昭和史 桑原甲子雄写真集』上巻「千住、三河島、町屋」
註13 同上
註14 『新編荒川区史』下巻「第十章 第一節 要保護世帯増加の概況」(荒川区役所、1955)
註15 豊島区HP「区の歴史・年表」。区の歴史・年表|豊島区公式ホームページ (toshima.lg.jp)。『日本歴史地名大系13 東京都の地名』「荒川区」(平凡社、2002)。
註16 『新編荒川区史』下巻「第十章 第一節 要保護世帯増加の概況」。『日本歴史地名大系13 東京都の地名』「荒川区」。
註17 『新編荒川区史』下巻「第十章 第二節 不良住宅地区問題」
註18 『新版大東京案内』下巻「細民の東京 / その職業と収入は?」(今和次郎編纂、ちくま学術文庫、2001)。なお、同書の凡例に、「本書は『新版大東京案内』(昭和四年十二月、中央公論社刊)を底本とした」とある。
註19 『東京府郡部(隣接五郡)集団不良住宅地区図集』(東京府学務部社会課編、1928)。東京府郡部(隣接五郡)集団的不良住宅地区図集 - 国立国会図書館デジタルコレクション (ndl.go.jp)
註20 『新版大東京案内』下巻「細民の東京 / 細民の雑居ぶり、人口の消長」
註21 『新版大東京案内』下巻「細民の東京 / そのどん底生活ぶり」
註22 『震災バラックの思い出』は、『都市廻廊』「バラック」(長谷川堯、中公文庫、1985)の本文注釈によると、1923から翌年にかけて雑誌『住宅』に連載された。引用文は『今和次郎集4 住宅論』(ドメス出版、1971)。
註23 『都市廻廊』「バラック」(長谷川堯)
註24 『日和下駄』「第七 路地」(永井荷風、『荷風随筆集(下)』所収、岩波文庫、1986)
註25 『浅草紅団』(『浅草紅団』・[浅草祭]所収、川端康成、講談社文芸文庫、1996)
註26 「『浅草紅団の世界』(湯川節子、『東京都江戸東京博物館紀要』第5号所収、2015)
註27 「川端康成の初期の代表作『伊豆の踊子』はこの『感情装飾』刊行から2年後の1926年に発表されていますが、『伊豆の踊子』の単行本も吉田(謙吉)による装丁デザインです」川端康成『感情装飾』(精撰 名著復刻全集 近代文学館) | ころがろう書店 (stores.jp)。
川端康成が『改造』1930年10月号に寄せた「今和次郎、吉田謙吉両氏編著の『モデルノロヂオ』」という一文がある。川端康成はそのなかで「三四年まえに吉田謙吉氏の「考現学採集手帳以来、考現学に非常な興味をもっていた」云々と書いている(『今和次郎と考現学』(河出書房新社、2013)所収)。
註28 『モデルノロヂオ(考現学)』(共編 今和次郎・吉田謙吉、春陽堂、1930)
註29 『新版大東京案内』下巻「解説 ゴム長と笑を武器とした東京批評」(松山巌)
註30 「今和次郎写真帖 震災バラック+民家、欧州視察」(『グラフィカ』第3号所収、グラフィカ編集部、2009)。特集タイトルのなかにある「民家」とは、民家調査のことで、1920年に行った「青森 北津軽郡 村落状景」6カット、「盛岡市 下小路」4カットが掲載されている。
註31 同上
註32 『グラフィカ』第3号「略年譜」。『都市廻廊』「第二章」(長谷川堯、中公文庫、1985)。ちなみに佐藤功一は大隈記念講堂の設計者である。
註33 「文献資料~今和次郎コレクション(「画廊亭主の徒然なる日々」、2007.12.8)。文献資料~今和次郎コレクション : ギャラリー ときの忘れもの (livedoor.jp)
註34 『資生堂ギャラリー七十五年史キ919~1994』(監修 富山秀男、編集 資生堂企業文化部、制作 (有)ワタヌキ、求龍堂、1995)。ギャラリー ときの忘れもの | catalog detail (lib.net)
(ひらしま あきひこ)
・ 平嶋彰彦のエッセイ 「東京ラビリンス」のあとさき は隔月・奇数月14日に更新します。
次回は2024年11月14日です。
■平嶋彰彦 HIRASHIMA Akihiko
1946年、千葉県館山市に生まれる。1965年、早稲田大学政治経済学部入学、写真部に所属。1969年、毎日新聞社入社、西部本社写真課に配属となる。1974年、東京本社出版写真部に転属し、主に『毎日グラフ』『サンデー毎日』『エコノミスト』など週刊誌の写真取材を担当。1986年、『昭和二十年東京地図』(文・西井一夫、写真・平嶋彰彦、筑摩書房)、翌1987年、『続・昭和二十年東京地図』刊行。1988年、右2書の掲載写真により世田谷美術館にて「平嶋彰彦写真展たたずむ町」。(作品は同美術館の所蔵となり、その後「ウナセラ・ディ・トーキョー」展(2005)および「東京スケイプinto the City」展(2018)に作者の一人として出品される)。1996年、出版制作部に転属。1999年、ビジュアル編集室に転属。2003年、『町の履歴書 神田を歩く』(文・森まゆみ、写真・平嶋彰彦、毎日新聞社)刊行。編集を担当した著書に『宮本常一 写真・日記集成』(宮本常一、上下巻別巻1、2005)。同書の制作行為に対して「第17回写真の会賞」(2005)。そのほかに、『パレスサイドビル物語』(毎日ビルディング編、2006)、『グレートジャーニー全記録』(上下巻、関野吉晴、2006)、『1960年代の東京 路面電車が走る水の都の記憶』(池田信、2008)、『宮本常一が撮った昭和の情景』(宮本常一、上下巻、2009)がある。2009年、毎日新聞社を退社。それ以降に編集した著書として『宮本常一日記 青春篇』(田村善次郎編、2012)、『桑原甲子雄写真集 私的昭和史』(上下巻、2013)。2011年、早稲田大学写真部時代の知人たちと「街歩きの会」をつくり、月一回のペースで都内各地をめぐり写真を撮り続ける。2020年6月で100回を数える。
2020年11月ときの忘れもので「平嶋彰彦写真展 — 東京ラビリンス」を開催。
●本日のお勧め作品は平嶋彰彦です。
平嶋彰彦ポートフォリオ『東京ラビリンス』
オリジナルプリント15点組
各作品に限定番号と作者自筆サイン入り
作者: 平嶋彰彦
監修: 大竹昭子
撮影: 1985年9月~1986年2月
制作: 2020年
プリント: 銀遊堂・比田井一良
技法: ゼラチンシルバープリント
用紙: バライタ紙
シートサイズ: 25.4×30.2cm
限定: 10部
発行日: 2020年10月30日
発行: ときの忘れもの
こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください。
◆次回企画 松本竣介展
会期:2024年10月4日(金)~19日(土)11時~19時 ※日・月・祝日休廊
ギャラリートーク(抽選申込み、参加費1,000円)
※参加者は抽選となりますので、9月27日までにお申し込みください。
●10月5日(土)17時~18時半
講師:大谷省吾(東京国立近代美術館副館長)
●10月19日(土)17時~18時半
講師:弘中智子(板橋区立美術館学芸員)× 松本莞(竣介次男)
●ときの忘れものの建築空間についてはWEBマガジン<コラージ2017年12月号18~24頁>に特集されています。
〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS ときの忘れもの
TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531
E-mail:info@tokinowasuremono.com
http://www.tokinowasuremono.com/
営業時間=火曜~土曜の平日11時~19時。日・月・祝日は休廊。
JR及び南北線の駒込駅南口から約8分です。
その33 三河島—関東大震災後の世相と少年少女たち
文・写真 平嶋彰彦
三河島を最初に訪れたのは大学4年(1968・昭和43年)の夏である。きっかけはマンガ雑誌『ガロ』増刊号「つげ義春特集号』に掲載された『ねじ式』だった。(註1)。
発売されて何日目だったか、宇野敏雄が「これ見ましたか。凄いですよ」といって見せてくれた。宇野は大学写真部の1年後輩で、退職後に始めた街歩きのメンバーの一人。
ページを開いたとたん興奮した。たまたま映画『野いちご』(監督 イングマール・ベルイマン)を見たばかりだった(註2)。『ねじ式』の脈略のない物語の展開は、『野いちご』の冒頭に描かれる主人公の悪夢を彷彿させた。『野いちご』はベルイマンの代表作とされるが、つげ義春の『ねじ式』はそれを凌駕しているように思われた。
『ねじ式』の舞台になっているのは、鄙びた漁村であると同時に近代的な都市でもあるという非現実的で奇妙な空間である。宇野は伊豆の下田で育ち、私は房総の館山で育った。そのせいもあり、浜辺の光景は幻想の世界とはいいながら、いつかどこかで見たなつかしさを覚えた。あれこれ話していると、つげ義春の投影とみられる少年がさまよい歩くこのようなイメージの街は東京のなかにある、それが三河島だということである。
そんなことから、彼に誘われるような恰好で、二度だったか三度だったか、三河島の界隈を歩いて写真を撮ったことがある。その年の9月に『早慶写真展』があり、私の記憶に間違いがなければ、彼が三河島で撮影した作品は『異邦』と題した早稲田大学写真部による共同制作の中核の一つになった(註3)。
私が三河島のどこをどう歩いたか、また私自身がなにを撮ったのかは、はっきりしない。馬鹿なことをしたと思うが、大学を卒業したとき、それまでのフィルムとプリントは残らず焼いてしまったからである。

ph1 荒川西中央通りから入った路地。最近に新築したり改築したりした家屋もあるが、戦前につくられた街並みだという。荒川4-52。2010.01.26

ph2 二階建ての4軒長屋。南千住6-22。2010.01.26

ph3 尾竹橋通り。藍染川通りと交錯する花の木交差点。通りの東側に花の木橋の橋脚が残されている。荒川5-12。2010.01.26

ph4 保育園からわが子を自転車で送り迎えするお母さん。荒川1-23。2010.01.26
ph5 第三桜湯。千住間道から入った裏通り。近くに大聖寺がある。荒川1-21。2010.01.26
三河島は荒川区の中部を指す旧地名だが、JR常磐線三河島駅付近一帯の通称にもなっている(註4)。二度目に三河島を訪れたのは1985年の『昭和二十年東京地図』のときだった。編集と取材は西井一夫。『カメラ毎日』の最後をつとめた編集長で、同誌が休刊になったあと、『毎日グラフ』編集部に転属したばかりだった。
西井が自分の眼で確かめようとしたのは都営三河島アパート。彼が畏敬してやまない写真作家が荒木経惟だった。荒木の出世作となった『さっちん』は、1963年から1964年にかけてこのアパートに足を運び、奔放に遊ぶ子どもたちの姿を切りとった作品集である。
都営三河島アパート(府営三河島アパートメント)の竣工は1932年である。後述するように、ここは不良住宅として悪名の高かった千戸長屋のあった場所である。築50年以上の建造物だから、老朽化していたということかもしれない。コの字型にならぶ鉄筋コンクリート三階建の6棟はすでに取り壊され、都営荒川七丁目仲道アパートに建て替わっていた(ph6)。
荒木経惟の写真作家としての才能を最初に発見したのは桑原甲子雄である。桑原は写真雑誌の編集長をいくつも歴任するかたわら、写真評論家として筆を振るった人だが、そのころは『カメラ芸術』(東京中日新聞社)の編集長をつとめていた(註5)。いっぽう、荒木は、電通の写真室に勤めながら、あちこちの写真雑誌で「月例(写真)の賞金稼ぎ」をしていた。「二重応募もへっちゃら」だったというから、簡単にいえば、アマチュア写真界のやんちゃものだったのである。
その荒木が『カメラ芸術』の月例写真に作品を持ち込んだ。すると編集長の桑原は写真をみるなり、あちこちの「写真雑誌にパラパラ出」すのはやめて、「この子どもの写真、うちでまとめて、発表してみないか」と口説いた。そして、作品は『カメラ芸術』1964年4月号に『マー坊』のタイトルで口絵8ページをつかって掲載された。『さっちん』は『マー坊』を再構成したもので、第一回太陽賞の発表があったのはその年の6月だった(註6)。

ph6 都営荒川七丁目仲道アパート。1978年の竣工。このあたりに荒木経惟が『さっちん』を撮った都営三河島アパートがあった。荒川7-8。2010.01.26

ph7 町屋斎場。前身は小塚原火葬場(現在の南千住2丁目)。1887年、周辺が市街化したことから日暮里に移転する、2年後には町屋にも火葬場ができた。1904年、2つの火葬場が合併し、現在の町屋斎場が設立された。町屋1-23-4。2010.01.26

ph8 都電荒川線町屋駅前。京成町屋駅から。都電線路の右が町屋1丁目。左が荒川7丁目。2016.11.14
桑原甲子雄が荒木の写真にこだわったのは、写真表現の評価とは別に、もう一つ理由があったとみられる。というのも、桑原はアマチュア写真家時代の1935年から1937年にかけて三河島と町屋を何度か訪れて写真に撮っている。
『私的昭和史 桑原甲子雄写真集』上下巻(毎日新聞社、2013)は写真家の伊藤愼一と私が編集したものである。上巻には三河島と町屋の写真9カットを収録しているが、そのうちの8カットは子どもを中心にした街頭スナップである(註7)。桑原自身はこの一連の作品を「三河島・町屋こどもシリーズ」と呼んでいた(註8)。おそらく、三河島アパートで撮影した作品を持ち込んできた荒木経惟に、自分の若き日の姿を重ね合わせたに違いないのである。
「三河島・町屋こどもシリーズ」の1カットがph9である。撮影は1937年で、場所は三河島町7丁目(現在の荒川7丁目)。画面手前に半纏をまとった髭の男と学生服の男の子がいる。二人ともカメラ目線である。怪訝な表情をしているのは、桑原がいつもの着流しの格好でやってきて、懐からライカを取りだしたからだろう。写真を撮られるのを嫌がっているわけでもない。撮る者と撮られる者の関係が揺れ動いている。街頭スナップの微妙な瞬間といってもいい。
男の右側に幟のついた箱があり、その正面に描かれているのはお伽噺の桃太郎の鬼退治である。男の子が手にしているのはおしゃぶりコンブだろう。すると、半纏の男は紙芝居屋か、そうでなければ飴屋なのである。
紙芝居は子供相手の飴売行商の手段として盛んになった。この形式の紙芝居の歴史は意外に浅く、1930年ごろに考案されたものだという(註9)。つまり、紙芝居は銀座通りを歩くモガ・モボ(モダンガール・モダンボーイ)とほぼ同時代の新しい風俗なのである。
紙芝居を演じるのは橋の上である。横に大八車が置かれ、欄干には蒲団らしきものを干している。橋が架かるのは藍染川で、谷田川とも呼ばれた。
「ときの忘れもの」から遠くない駒込の染井霊園が水源で、それより現在の北区と豊島区の境、さらに台東区と文京区の境を流れ、上野不忍池に注いでいたが、大雨が降ると谷中・千駄木一帯で氾濫をくりかえした。上流の駒込・田端は明治の後半に鉄道駅が開業するにともない市街化が進行していたから、流れてくるのは生活排水の混入した汚水である。
東京府はその氾濫対策として、バイパス排水路を開削して、西日暮里から三河島(北豊島郡。現在の荒川区)へ迂回させ、荒川(現在の隅田川)に放流するようにした。完成したのは1918(大正7)年だという(註10)。三河島汚水処理場が完成するのは関東大震災のあった1923年で、それ以降は藍染川の下水はこの汚水処理場で浄化したうえで、荒川に放流することになった(ph11~ph13)。

ph9 桑原甲子雄の作品。1937年の撮影で、場所は三河島町7(現在の荒川7)。『私的昭和史—桑原甲子雄写真集』からの転載。桑原によるこの作品のキャプションは以下の通り。「三河島というところは町をあるいていて、ふしぎと私の肌になじむところがあった。町の感触というのは、どんなに平凡などこにでもある町のようにおもえても、一つ一つやはり何処か異っていた」
この桑原の作品は鈴木理生編著の『図説 江戸・東京の川と水辺の事典』にも掲載されていて、本文には「この水路は今ではすべて暗渠化されているが、それまでは沖積低地の蓋のない下水道として特異な景観だった」とある(註11)。
分かりにくい書き方をしているが、私なりに解釈すれば、例えどのような細民街であろうと、蓋のないような下水道は常識的に考えられない、身も蓋もない言い方をすれば、藍染川の岸辺に暮らす人々をないがしろにした東京府の姿勢が明らかにみられる、という意味になる。
藍染川の左側に湾曲しながら奥に向かうのは京成電鉄の高架で、遠くにそれをくぐって姿をみせた路面電車は、王子電車(現在の都電荒川線)である。したがって、画面左側の高架は現在の町屋駅のあたりと比定することができる。
高架下には物干し竿が立ちならび、二階にあたる部分には手すりがついている。そこを勝手に住居として占拠しているに違いない。その手前は材木置場になっている。橋の上の大八車は材木を運ぶためのもので、これも憶測になるが、藍染川の対岸には材木屋が店舗を構えているのである。
桑原甲子男は、おそらく同じ日と思われるが、町屋駅のプラットホームから俯瞰した街並みも写真に撮っている(註12)。駅のどのへんか特定できないが、写されているのは長屋で、桑原自身による作品のキャプションには「水上長屋といった光景」とある。洗濯物で満艦飾の長屋は高床式になっていて、中庭のようにみえるのは地面ではなく水面である。その一画に人工の島をつくり、鉢植えの樹木や草花をならべている。
長屋を高床式に建築しているのは、このあたりが水はけの悪い湿地帯で、水に浸かるのが常態化していたからにちがいない。京成電鉄の線路と駅舎が高架の上に設けられているのもおそらく同じ理由ではなかったかと推測される。
桑原は「三河島・町屋こどもシリーズ」の1カットのキャプションに「このあたりは「スラム」といわれたが、下谷、浅草にもそういう所はのべつにあった」と書いている(註13)。「のべつ」はむやみやたらにということだが、三河島・町屋に江戸時代から「スラム街」(細民街)があったわけではない。『新編荒川区史』を読むと、「スラム街」の発生とその背景について、次のように解説している(註14)。
三河島の千軒長屋は大正七年にでき上り、忽ち大きな細民街となり、字治郎田・中道・釜坪一帯にわたり八百十戸の長屋が棟を連ね、字前沼には二百戸の集団が、字辻元には九十戸の集団ができて、不良住宅地域という芳しからぬ地区を形成した。
南千住や三河島・日暮里といった地区は市内にかせぎに出かける便がよくて、しかも市内をすれすれにはずれていて、市内としての禁令にひっかからないという好条件があり、貧困者の集団地区を作りあげるようになっていき、大正の中頃から大震災頃にかけてかなりのスラム街を形成していったのである。
当時ここに住む人々の主な職業は屑やのほか、日雇い・たちん坊(車のあとを押す人)・よかよか飴売りなど様々の職業のものが入り交じっていたという。
大正七年は1918年。「市内」は東京市内のこと。この当時、三河島は南千住・日暮里と共に東京府北豊島郡に属していた。荒川区として東京市に編入されるのは1932年である(註15)。
関東大震災が発生したのは1923年で、三河島に千軒(千戸)長屋ができてから5年後である。大震災のあと、「スラム街」の人口は激増することになった。浅草・下谷方面で被災した貧困者たちが近接地域に避難先を求める一方、工場の郊外進出にともなう流入人口が増加したからである(註16)。
それでは不良住宅の形成される場所にはどのような特徴があるのか。『新編荒川区史』は「低地で湿地、窪地、袋地、日のあたらぬ土地あるいは鉄道線路や電車線路の附近、墓地火葬場の周囲、大工場附近、河川埋立地など」をあげている。
見落とせないのは、続けて、「当時発行された「細民の東京」は、この頃の千軒長屋などのこういった地区の状況をきわめて克明に描写している」と述べている点である(註17)。
今和次郎が編纂した『新版大東京案内』のなかに「細民の東京」という一章がある。この記事もそうだが、内容の重複する箇所がほかにもあり、『新編荒川区史』が「細民の東京」を参考に記事を書いているのは明らかである。すなわち、「当時発行された「細民の東京」」とは、この『新版大東京案内』(中央公論社、1929)にほかならない(註18)。

ph10 花の木橋。藍染川に架かっていた橋の一つ。藍染川はすべて暗渠になり、「藍染川通り」の名前だけが残る。荒川5-12。2016.11.14

ph11 旧三河島汚水処分場。ポンプ場施設の外観。東京市区改正事業の一環として、米元晋一(東京市技師)を中心に建設が進められ、1922年に運用を開始、1999年に稼働を停止した。荒川8-25-1。2016.11.14

ph12 旧三河島汚水処分場。ポンプ場施設の地下水道。東西二つの沈砂池から引き入れた下水が合流する付近。荒川8-25-1。2016.11.14

ph13 旧三河島汚水処分場。地下水道の阻水扉。荒川8-25-1。2016.11.14
桑原甲子雄は1930年代に、荒木経惟は1960年代に、それぞれ子供たちに焦点をあて、三河島の細民街を写したことは、先に述べた通りである。『新版大東京案内』の「細民の東京」には「千戸長屋の通路」の写真があり、「子供たちは無心に遊んでいる」とキャプションがついている。ちなみに、それ以外にも三河島の千戸長屋の写真が3点、また南千住や日暮里の不良住宅の写真3点が掲載されている。いずれも『東京府郡部(隣接五郡)集団不良住宅地区図集』(東京府学務部社会課編、1928)からの転載である(註19)。
「細民の東京」の本文に眼を転じると、無心に遊んでいると写真キャプションに書かれたその子供たちへの次のような注目すべき言及がある。
こゝで序(つい)でに浮浪者に就(つい)て少しばかり触れて置こう。(中略)一例を浅草公園に取つてみれば、此処だけでも、五百人乃至六百人の浮浪者が巣を喰つてゐるのである。(中略)即ちこれ等の人間たちは、細民窟の中にも住めなくなつたこの世のあぶれ者、ぐれ者なのである。(中略)
なほ、このぐれ仲間に、不良少年少女は混ざつていることを忘れてはならない。浅草公園内外だけにもつねに百人はゐると言われてゐる。彼等は天性の不良性を持つものが多く、生活のためには手段を選ばず、悪事に掛けてはその方法を選ばないという連中である。都会生活に取つて、社会公民に取つて、最も恐るべき最も、憂ふべき存在である。
浮浪者を「細民窟の中にも住めなくなつたこの世のあぶれ者、ぐれ者」だと書いている。『新版大東京案内』はこの引用文の前段で、東京府下の細民街を調査した統計を考察すると、16歳から30歳までの働き盛りの世代がいちじるしく少なく、年齢構成がいびつになっていると指摘している(註20)。それでは、働き盛りの男と女はどこへいったのか。流出先は彼ら彼女たちのかつて居住した東京市内であるのは想像にかたくない。そのうちの少なからぬ部分が、あぶれたりぐれたりして、浮浪者に身を落としたのではないか、と示唆しているのである。
浅草公園を一例にあげれば、そこだけでも500人から600人の浮浪者がたむろしていて、そのなかには不良少年少女がつねに100人は混ざっている。「天性の不良性」云々という表現の是非はさておき、不良少年少女の問題は世間の眼からも行政の立場からも「最も恐るべき最も、憂ふべき存在」として、指を咥えて見過ごすことできなくなっていた。
細民街の不良住宅と不健全な生活実態の改善は東京府の緊急課題となり、1927年に実態調査が行われ、そのさいに撮影された写真を収録したのが、先に書いた『東京府郡部(隣接五郡)集団不良住宅地区図集』である。この実態調査を踏まえた住環境の改善策の目玉として、三河島町には耐震大火を兼備した鉄筋コンクリート三階建て府営三河島アパートが計画された。
このコの字6棟のアパートは、先に書いたよう、1932年に完成した。『新版大東京案内』の刊行はそれより3年前になるわけだが、同書は「細民東京」の附記として、その設計図を紹介し、「これが出来れば帝都の不名誉なる名物、千戸長屋やトンネル長屋は一掃される筈であるが、第二の三河島、第三の旭館が出現しなければ幸いである」と懸念を示している(註21)。
今和次郎は『震災バラックの思い出』のなかで、都市を人間の身体に擬えて、路次(路地)は都市の心臓であり、血管でもあるとも、あるいは内臓であるとも書いている(註22)。
都会の路次の裏には、これまでもほんとうの都会生活の心臓となり、血管となっていると思える、人生に戦う気力を与えるような存在の姿がみられたのでした。銀座通りがはなやかに栄えていくためには、このような家々の存在が都会の路次の裏に、永久に、善良な一般の人々の目からさえぎられて営まれているのでした。
心臓や血管の不全は人間の死に直結する危険性がある。しかし、内臓器官というのは自分の身体のうちにありながら、自分の思い通りにはならない自立した存在でもある。「人生に戦う気力を与えるような存在」とは、路地裏にすむ人々の持って生まれた精神性のことで、関東大震で罹災するとすぐさま、ありあわせの資材で避難小屋(震災バラック)を苦もなく作りあげてしまう本能的な気骨を指している。
都市における路地の存在を重要視する点では、今和次郎の都市像は永井荷風のそれとよく似ていることを、長谷川堯が『都市廻廊』のなかで指摘している(註23)。
永井荷風の『日和下駄』は関東大震災の10年前に書かれた随筆である。路地は荷風の文学に欠かせない舞台装置だった。改めて読み返してみると、荷風は「路地」の一章を設け、そのなかで、路地の空間は表通りに住めない人々が「大道と大道との間」に、彼らの生活に「適当」するように、彼ら自身の手で作り出したものである。したがって、「路地は公然市政によって経営されたものではない。都市の面目体裁品格とは全然関係なき別天地である」と主張している(註24)。
府営三河島アパートの建設計画について、『新版大東京案内』が懸念を示したのは、三河島の路地裏にも現存する「人生に戦う気力を与えるような存在の姿」を配慮する努力を東京府が怠っているとみたからではないだろうか。
浅草公園の界隈にたむろする不良少年少女を中心に、関東大震災後の浅草の風俗を描いた小説に川端康成の『浅草紅団』がある(註25)。川端康成の浅草をみる眼差しには、『新版大東京案内』の細民街を見る眼差しと共振するものが強く感じられる。
今和次郎編纂の『新版大東京案内』は、先にも書いたように、1929年12月に刊行された。『浅草紅団』の初出は『東京朝日新聞』(夕刊)で、1929年12月12日より翌年2月16日まで37回連載。単行本化されたのは翌1930年で、装丁は吉田謙吉である(註26)。それまでにも吉田は『感情装飾』(1924年)と『伊豆の踊子』(1926年)を手がけている。詳しいことは分からないが、両者の間には小説家と装丁家の枠を超えた関係性があったのではないかとみられる(註27)。
吉田謙吉は今和次郎と同じ東京美術学校図案科の卒で10年後輩である。1930年に刊行された『モデルノロヂオ(考現学)』は今和次郎と吉田謙吉の共編になっている(註28)。『新版大東京案内』が刊行されたのはその1年前の12月で、『浅草紅団』の新聞連載と重なっている。『新版大東京案内』は今和次郎の編纂とあるのみだが、取材から執筆さらに編集という制作過程には、同書の解説で松山巌が指摘しているように、吉田謙吉を含めた「バラック装飾社」や「考現学」の同人たちが関与していたのは、いうまでもない気がする(註29)。

ph14 三河島稲荷神社。神木の大欅。樹齢650年といわれ、切株だけが残されている。荒川3-65-9。2024.04.25

ph15 泊船軒。内陣格天井の「花鳥風月画」。臨済宗妙心寺派の寺院で、関東大震災のあと、湯島の妻恋から移転してきた。荒川7-17-2。2016.11.14

ph16 浄正寺。境内に咲いていた牡丹。荒川3-53-1。2024.04.25
ph17 浄正寺。三河島事故慰霊碑。事故は1962年、国鉄常磐線三河島駅構内で発生。死者160人、負傷者296人におよぶ大惨事となった。荒川3-53-1。2024.04.25

ph18 三河島駅。通過する電車は常磐線特急ひたち。西日暮里1。2024.04.25

ph19 都電荒川線荒川7丁目駅付近の踏切。荒川7。2016.11.14
今和次郎は関東大震災直後の1923年9月20日から10月13日にかけて、カメラを手に、上野公園を手始めに、日比谷公園・芝愛宕下、赤坂溜池、丸ノ内などを歩いてまわり、被災地に造られたバラック建築を写真に記録している。
今和次郎がフィールドワークの記録手段として、写真を用いるようになったのはもっと古く、1920年に行った青森・岩手の民家調査のころからと思われる。そのことを知ったのは、写真誌『グラフィカ』第3号の巻頭特集「今和次郎写真帖 震災バラック+民家、欧州視察」(2009)である(註30)。同誌の責任編集者は伊藤愼一。毎日新聞社写真部の後輩である。彼とは現役カメラマンのころから浅からぬ縁がある。先にも書いたが、『私的昭和史 桑原甲子雄写真集』(上下巻、毎日新聞社)は伊藤と私の二人で編集した。
今和次郎が震災バラックを撮った写真は、工学院大学図書館に所蔵されている。「今和次郎写真帖」(「震災バラック写真帖」)というのは、密着プリント(4×6.5センチのベスト判フィルム)を貼り付けたもので、伊藤の分析によると、今和次郎の撮影と特定される写真が73点。大坪重周(バラック装飾社の同人)が撮影したものが17点、そのほかの11点が収められている。
写真はベスト判の密着プリントで、『グラフィカ』はA4サイズである。ただ紹介するだけなら、いくらもページはいらない。採算もなにも度外視して、なんと観音開き2箇所を含め39ページも費やしている。伊藤愼一は何を伝えたかったのか。以下は彼による解説文の一節(註31)。
思考と観察の繰り返しによって体得されてきた個人的な視座と一個の人間としての興味によって切り取られた写真、それゆえに今和次郎の著作を読み、今和次郎の施策や人柄について知ることで、この写真を見ることのおもしろさや読みとれることは増す。
そして今和次郎の内面で行われている把握、解体、構築という過程と、それを経て立体化していく人の行為の描出に驚く。
写真から起こしたとみられるデッサンも何点か掲載されている。東京美術学校の図案科卒だから上手なのはあたりまえだが、レントゲン写真を見るような衝撃がある。もしフィルムが遺されているなら、私自身の手でプリントしてみたくなる誘惑に駆られる。
今和次郎は1930年に欧米視察をするが、伊藤の記事にしたがえば、ベルリンでライカを手に入れると、ベルリン(デサウ バウハウス・動物圓)・ローマ(井戸)・パリ(アパート)など行く先々で写真を撮っている。空間の切りとり方は憎たらしいほど手際がいい。ライカの開発は5年前。ライカ1台で家が建つといわれた時代である。写真にたいする関心が通り一遍でなかったことがうかがわれる。

ph20 尾竹橋通り。居酒屋の店先を開店前に箒で掃く。東日暮里6-6。2024.04.25

ph21 平野彫刻研究所。能・歌舞伎や仏像を題材にした極彩色木彫の販売をしている。西日暮里5-5。2024.04.25

ph22 日暮里中央通り。日暮里繊維街。生地織物を取り扱う約90店舗が軒を連ねる。ファッション・手芸・ものづくりを楽しむ人たちが材料を探しに訪れる。東日暮里6-44。2024.04.25

ph23 住宅兼作業場の小さな町工場。さまざまな機具や材料が整然とならび、工場主と思われる人が一人で黙々と作業を続けていた。荒川3-70。2024.04.25

ph24 企業の敷地内に祀られた稲荷社。この会社は工具を取り扱っていて、とくにネジメーカー向けの工具を多数在庫しているという。東日暮里6-27-7。2024.04.25

ph25 木造二階建ての長屋。建造された当初は、1階は仕事場か店舗、2階は住居として使われていたと思われる。路地に人の気配がないのがさびしい。奥にタワーマンション(アトランズタワー三河島)がそびえたつ。東日暮里6-32。2024.04.25
知らなかったことはほかにもある。それからしばらくして、大学写真部OB会から送られてきた会報を読んでいると、今和次郎が戦後のある時期、早稲田大学写真部の部長を務めていたと書いていた。初耳である。そもそも学生時代には今和次郎の名前すら知らなかった。執筆者は昨年亡くなった幹事長の白谷達也である。問い合わせると、残念というべきか、情けないというべきか、それ以上のことはなにも分からないという。
今和次郎が遺した研究資料は、「震災バラック写真帖」もその一つだが、工学院大学図書館に「今和次郎コレクション」として所蔵されている。
今和次郎の最後の職場となったのが工学院大学で、1961年から講師をつとめている。しかし今和次郎は佐藤功一(早稲田大学建築学科教授)と白茅会で知遇をえた縁から、1912年に早稲田大学に招かれると、1959年まで長年にわたって教鞭をとるかたわら、「考現学」さらには「生活学」の研究に半生をささげることになった(註32)。
そうであるにも拘わらず、今和次郎の研究資料の寄贈先はどうして早稲田ではなく工学院になったのか。綿貫不二夫がそのいきさつを「ときの忘れもの」のブログ連載「画廊亭主の徒然なる日々」(「文献資料~今和次郎コレクション、2007.12.8更新)に書いている。情けないのは何も学生の私たちばかりではなかったのである(註33)。
研究資料が今家から工学院大学に寄贈されたあと、綿貫不二夫が工学院八王子校舎に出向いて、段ボールのままうずたかく積まれていた資料の分類と整理を手助けしたことは、最近になって本人から聞いた。
「現代版画センター」(「ときの忘れもの」の前身)が倒産したころのエピソードだが、その冬の時代に綿貫不二夫・令子夫妻が精魂を傾けたのが『資生堂ギャラリー七十五年史 1919~1994』の編集と制作だった(註34)。
この原稿を書きながら、ようやく気づいたことがある。これまで不思議でならなかったのだが、あの徹底した資料採集の方法は、今和次郎が提唱した「考現学」で重要視される「一切しらべ」(悉皆調査)にほかならないのである。
【註】
註1 『ねじ式』。マンガ雑誌『ガロ』1968年6月号増刊号「つげ義春特集」の巻頭を飾る書き下ろし。
註2 『野いちご』。1957年製作のスウェーデン映画。監督はイングマール・ベルイマン。
註3 『早慶写真展」は早稲田大学と慶応大学の写真部(学生サークル)による恒例の合同写真展。このときは1968年9月24日から29日、銀座ニコンサロン(松島眼鏡店2階)で開催された。
註4 『精選版 日本国語大辞典』「三河島」(小学館)
註5 『私的昭和史 桑原甲子雄写真集』下巻「桑原甲子雄略年譜」(毎日新聞社、2013)
註6 『私的昭和史 桑原甲子雄写真集』下巻「異邦人の通り過ぎる眼差し」(荒木経惟)
註7 『私的昭和史 桑原甲子雄写真集』上巻「千住、三河島、町屋」
註8 『東京1934~1993』(桑原甲子雄、新潮社、1995)
註9 『改訂新版 世界大百科事典』「紙芝居」(平凡社)
註10 『カメラがとらえたあの日 あの場所』「第三章 (2)近代下水道施設と三河島町」(荒川区教育委員会、1922)。藍染川については、連載「その12 私の駒込名所図会(3)染井吉野と霜降・染井銀座(後編)」でも言及している。
註11 『図説 江戸・東京の川と水辺の事典』「第四章 江戸・東京の水系」(鈴木理生編著、柏書房、2003)
註12 『私的昭和史 桑原甲子雄写真集』上巻「千住、三河島、町屋」
註13 同上
註14 『新編荒川区史』下巻「第十章 第一節 要保護世帯増加の概況」(荒川区役所、1955)
註15 豊島区HP「区の歴史・年表」。区の歴史・年表|豊島区公式ホームページ (toshima.lg.jp)。『日本歴史地名大系13 東京都の地名』「荒川区」(平凡社、2002)。
註16 『新編荒川区史』下巻「第十章 第一節 要保護世帯増加の概況」。『日本歴史地名大系13 東京都の地名』「荒川区」。
註17 『新編荒川区史』下巻「第十章 第二節 不良住宅地区問題」
註18 『新版大東京案内』下巻「細民の東京 / その職業と収入は?」(今和次郎編纂、ちくま学術文庫、2001)。なお、同書の凡例に、「本書は『新版大東京案内』(昭和四年十二月、中央公論社刊)を底本とした」とある。
註19 『東京府郡部(隣接五郡)集団不良住宅地区図集』(東京府学務部社会課編、1928)。東京府郡部(隣接五郡)集団的不良住宅地区図集 - 国立国会図書館デジタルコレクション (ndl.go.jp)
註20 『新版大東京案内』下巻「細民の東京 / 細民の雑居ぶり、人口の消長」
註21 『新版大東京案内』下巻「細民の東京 / そのどん底生活ぶり」
註22 『震災バラックの思い出』は、『都市廻廊』「バラック」(長谷川堯、中公文庫、1985)の本文注釈によると、1923から翌年にかけて雑誌『住宅』に連載された。引用文は『今和次郎集4 住宅論』(ドメス出版、1971)。
註23 『都市廻廊』「バラック」(長谷川堯)
註24 『日和下駄』「第七 路地」(永井荷風、『荷風随筆集(下)』所収、岩波文庫、1986)
註25 『浅草紅団』(『浅草紅団』・[浅草祭]所収、川端康成、講談社文芸文庫、1996)
註26 「『浅草紅団の世界』(湯川節子、『東京都江戸東京博物館紀要』第5号所収、2015)
註27 「川端康成の初期の代表作『伊豆の踊子』はこの『感情装飾』刊行から2年後の1926年に発表されていますが、『伊豆の踊子』の単行本も吉田(謙吉)による装丁デザインです」川端康成『感情装飾』(精撰 名著復刻全集 近代文学館) | ころがろう書店 (stores.jp)。
川端康成が『改造』1930年10月号に寄せた「今和次郎、吉田謙吉両氏編著の『モデルノロヂオ』」という一文がある。川端康成はそのなかで「三四年まえに吉田謙吉氏の「考現学採集手帳以来、考現学に非常な興味をもっていた」云々と書いている(『今和次郎と考現学』(河出書房新社、2013)所収)。
註28 『モデルノロヂオ(考現学)』(共編 今和次郎・吉田謙吉、春陽堂、1930)
註29 『新版大東京案内』下巻「解説 ゴム長と笑を武器とした東京批評」(松山巌)
註30 「今和次郎写真帖 震災バラック+民家、欧州視察」(『グラフィカ』第3号所収、グラフィカ編集部、2009)。特集タイトルのなかにある「民家」とは、民家調査のことで、1920年に行った「青森 北津軽郡 村落状景」6カット、「盛岡市 下小路」4カットが掲載されている。
註31 同上
註32 『グラフィカ』第3号「略年譜」。『都市廻廊』「第二章」(長谷川堯、中公文庫、1985)。ちなみに佐藤功一は大隈記念講堂の設計者である。
註33 「文献資料~今和次郎コレクション(「画廊亭主の徒然なる日々」、2007.12.8)。文献資料~今和次郎コレクション : ギャラリー ときの忘れもの (livedoor.jp)
註34 『資生堂ギャラリー七十五年史キ919~1994』(監修 富山秀男、編集 資生堂企業文化部、制作 (有)ワタヌキ、求龍堂、1995)。ギャラリー ときの忘れもの | catalog detail (lib.net)
(ひらしま あきひこ)
・ 平嶋彰彦のエッセイ 「東京ラビリンス」のあとさき は隔月・奇数月14日に更新します。
次回は2024年11月14日です。
■平嶋彰彦 HIRASHIMA Akihiko
1946年、千葉県館山市に生まれる。1965年、早稲田大学政治経済学部入学、写真部に所属。1969年、毎日新聞社入社、西部本社写真課に配属となる。1974年、東京本社出版写真部に転属し、主に『毎日グラフ』『サンデー毎日』『エコノミスト』など週刊誌の写真取材を担当。1986年、『昭和二十年東京地図』(文・西井一夫、写真・平嶋彰彦、筑摩書房)、翌1987年、『続・昭和二十年東京地図』刊行。1988年、右2書の掲載写真により世田谷美術館にて「平嶋彰彦写真展たたずむ町」。(作品は同美術館の所蔵となり、その後「ウナセラ・ディ・トーキョー」展(2005)および「東京スケイプinto the City」展(2018)に作者の一人として出品される)。1996年、出版制作部に転属。1999年、ビジュアル編集室に転属。2003年、『町の履歴書 神田を歩く』(文・森まゆみ、写真・平嶋彰彦、毎日新聞社)刊行。編集を担当した著書に『宮本常一 写真・日記集成』(宮本常一、上下巻別巻1、2005)。同書の制作行為に対して「第17回写真の会賞」(2005)。そのほかに、『パレスサイドビル物語』(毎日ビルディング編、2006)、『グレートジャーニー全記録』(上下巻、関野吉晴、2006)、『1960年代の東京 路面電車が走る水の都の記憶』(池田信、2008)、『宮本常一が撮った昭和の情景』(宮本常一、上下巻、2009)がある。2009年、毎日新聞社を退社。それ以降に編集した著書として『宮本常一日記 青春篇』(田村善次郎編、2012)、『桑原甲子雄写真集 私的昭和史』(上下巻、2013)。2011年、早稲田大学写真部時代の知人たちと「街歩きの会」をつくり、月一回のペースで都内各地をめぐり写真を撮り続ける。2020年6月で100回を数える。
2020年11月ときの忘れもので「平嶋彰彦写真展 — 東京ラビリンス」を開催。
●本日のお勧め作品は平嶋彰彦です。
平嶋彰彦ポートフォリオ『東京ラビリンス』オリジナルプリント15点組
各作品に限定番号と作者自筆サイン入り
作者: 平嶋彰彦
監修: 大竹昭子
撮影: 1985年9月~1986年2月
制作: 2020年
プリント: 銀遊堂・比田井一良
技法: ゼラチンシルバープリント
用紙: バライタ紙
シートサイズ: 25.4×30.2cm
限定: 10部
発行日: 2020年10月30日
発行: ときの忘れもの
こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください。
◆次回企画 松本竣介展
会期:2024年10月4日(金)~19日(土)11時~19時 ※日・月・祝日休廊
ギャラリートーク(抽選申込み、参加費1,000円)※参加者は抽選となりますので、9月27日までにお申し込みください。
●10月5日(土)17時~18時半
講師:大谷省吾(東京国立近代美術館副館長)
●10月19日(土)17時~18時半
講師:弘中智子(板橋区立美術館学芸員)× 松本莞(竣介次男)
●ときの忘れものの建築空間についてはWEBマガジン<コラージ2017年12月号18~24頁>に特集されています。
〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS ときの忘れものTEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531
E-mail:info@tokinowasuremono.com
http://www.tokinowasuremono.com/
営業時間=火曜~土曜の平日11時~19時。日・月・祝日は休廊。
JR及び南北線の駒込駅南口から約8分です。


コメント