丹下敏明のエッセイ「ガウディの街バルセロナより」
その16 私のサグラダ・ファミリア教会との出逢い
丹下敏明
今は取り壊されてしまったが、サグラダ・ファミリアの裏側にポツンと建っていた建設委員会の事務所があった。これは見学者の入口とは違っていて、門柱には着工年の1882年が刻まれていた。手前にちょっとした空き地があって、そこで働いている設計チームの乗ってくる車の駐車場の代わりになっていた。その中には、ルノー7(シエテ)がいつも停まっていた。この車はルノー・サンクのスペイン版で、車体が後ろにトランクを付け足した結構スペインでは人気のあった車だった。この車のオーナーに会うためにしばしばこの事務所を訪ねた。当時は主任建築家がボネット・ガリ(Lluis Bonet i Gari, 1893-1993年)とプーチ・イ・ボアダ(Isidre Puig I Boada, 1891-1987年だった。

サグラダ・ファミリア教会にあった現場事務所(左手の建物。1972年年1月28日撮影)

かつての工事関係者入口にある門柱には着工年の1882の数字が刻まれている(1972年1月14日撮影)

当時の建築の責任者プーチ(左)とボネット
サグラダ・ファミリア教会はスペイン戦争時、1936年7月20日に焼き討ちの被害にあって工房から、地下聖堂にある着工に尽力したボケベージャやガウディの墓が荒らされた。その後1940年に戦争で破壊された状況を説明するための展覧会が企画され、カタログまで印刷されたが、戦後の世相を考えて没になった。実質的に建設再開したのは1949年で、戦前にできていた交差廊南面の大窓が設営される。しかし、修復工事は1951年着工で、イギリスの銀行に避難させていた莫大な寄付金を使って進められていた。本格的な建設続行着工にこぎつけたのは1954年だった。この時、ガウディが建設した誕生のファサードの反対側の苦難のファサードの基礎の掘削工事が着工され、本格的な建設の続行が開始された。

工事中の苦難のファサードの地上部分(1974年9月30日)
この間、戦争で破壊され大破した石膏模型を繋ぎ合わせ、ガウディの設計意図を再現し、建設続行のための準備をしていた。紙はすべて燃えてしまったので、手掛かりとなるのは弟子たちの記憶と、この石膏模型の残骸だけだった。
この建設続行のための石膏模型の整理、修復に直接かかわった人たちの中に、ボネット・イ・ガリとプーチ・イ・ボアダがいた。この一部は1962年に地下にできたミュージアムに一部展示され一般公開されるようになり、模型工房の裏側にはスチールの棚がぎっしりあり、一部は分類、一部は未分類のまま膨大な数の石膏の破片が並んでいた。全ての破片が見つかるわけでもなく、形の全体が見えるばあい、不足の部分は新たに石膏で作られ、これらが継ぎ合わされた。しかし、ガウディの日々新たな模型を作っていったわけなので、どれがガウディによって最後に作られたのかを見極めるのは相当な時間を費やしたはずだ。

石材が山積みされていたアプス部分(1974年11月)

ガウディが刻んだであろう石がまだ積まれないまま、そこら中にあった(1974年11月)

アプスの尖塔のために削られていたもののアプスと誕生の門が今だ繋がれていなかったために地上に残されたまま残っていた(1974年11月)
それに従い図面も相当の数が書かれた。その頃の資料からボネット・イ・ガリのドラフトマンのベレンゲールという人が描きあげている。ボネット・イ・ガリと働いていたベレンゲールというのは優秀なドラフトマンで、サグラダ・ファミリア教会関係の図面だけではなく、他にもカサ・バトリョの完璧な図面のコレクションを残している。
さて、私がサグラダ・ファミリアの現場事務所にたびたび通うようになったのは、プーチ・イ・ボアダが建築家協会の支援を得てコロニア・グエルの研究をしていて、その時に必要となった図面起こしを担当したからだ。プーチ・イ・ボアダはすでにあのカテナリー模型の写真を分析していて、それをもとにして図面を描いていた。彼の説明ではガウディはほぼ4つの案を作っていたという事だ。そして最終案を立面図化していたのだが、ガウディが実現した地下聖堂部分で寸法関係で明解にしたいという事で建築家協会に援助を求めたのだった。その仕事を建築家協会のアーカイブ部門のタラゴ経由でもらったという事だ。タラゴはその当時ガウディ友の会の書記長をしていた人で、その関係で彼は私の事を知っていた。

コロニア・グエルの地下聖堂測量時に使った平面図コピー

コロニア・グエルの地下聖堂測量時に使った横断面図コピー
しかし、こちらは測量機械など持っているわけではなく、巻き尺しか持っていないという始末だった。私の作業がどう役に立ったのか全く分からないがプーチ・イ・ボアダの研究は一冊の本に纏められ、1976年にLumenというバルセロナの出版社から出されている。この本に出ている断面図の裏側とかポーティコ部分の断面はその時起こされた図面である。
この作業中はカサ・ミラの近くにあった自宅を訪ねたが、それが終わってからもプーチ・イ・ボアダがサグラダ・ファミリア教会に遊びに来いという事で何度も行ったことがある。当時はガウディの作った石膏模型の修復作業というのはあまり見なかったが、やはり石膏を使ったかなり大きな模型をいくつも作っていて、かなりの職人も作業をしていた。この間現場を見せてもらい、塔の足場を命綱はもちろんヘルメットも付けずに登ったりした。ボネット・イ・ガリさんは当時かなりコミュニケーションが難しかったが、プーチ・イ・ボアダさんはお元気で色々な事を話してくれた中で、65年に進歩派の文化人やアーティストの建設続行運動にたいし、あれがあったから我々は逆に団結でき、続行しようという勇気が沸いたと語ってくれた。しかし、同時に私たちはガウディではないです。と正直な心のうちも話してくれた。

誕生のファサードに続く身廊の大窓(1974年11月)

建設中の鐘塔先端のピナクルに登る(1976年4月)

ピナクルが載せられ、これに作業員が張り付いている(1976年4月)

工事中のピナクルの高さからガウディ製作の誕生のファサードのピナクルを見る(1976年4月)

苦難のファサードには作業用に作られていた石膏模型が置かれていた(1974年11月)
そんな頃78年に”海外の日本人”というフジテレビ系の仙台放送制作の番組に取り上げられるようになり取材をされた、大まかなストーリーはガウディを見るためにスペインに来てそのまま移住したというのがメインのテーマだったのだが、ガウディはどういう歴史的なルーツで建築を作っていったのかという話に発展して、ピレネー山脈のロマネスク建築なども取材した。
番組は結構視聴率があがったらしく、放映後も何かと取材記者とコンタクトを取っているうちに、仙台放送の開業記念に合わせて桜を寄贈するという話が出た。プーチ・イ・ボアダもこれに賛同してくれたのだが、ヨーロッパでは禁止されている5種類の菌が日本ではほぼ見つかるので、厚生省での植物検査が必要で、これに引っかかるという事が分かりこのプロジェクトは流れてしまう。その頃、私の意識の中には敷地内に桜の木を植えて、建設続行に反対する意思があったのかもしれない。

ヴォールトの部分が地上でプレファブ化されて作られていた(1974年11月)

身廊の建設が進み、現場事務所が邪魔になってきた(1985年2月)

2002年まではまだ石膏職人が模型の製作に関わっていた(2002年1月27日)

現在の模型工房は3Dプリンターが活躍している(2023年12月6日)
(プーチは写真撮影嫌いで3番は彼からもらったもので以外は筆者撮影)
■丹下敏明 (たんげとしあき)
1971年 名城大学建築学部卒業、6月スペインに渡る
1974年 コロニア・グエルの地下聖堂実測図面製作 (カタルーニャ建築家協会・歴史アーカイヴ局の依頼)
1974~82年 Salvador Tarrago建築事務所勤務
1984年以降 磯崎新のパラウ・サン・ジョルディの設計チームに参加。以降パラフォイスの体育館, ラ・コルーニャ人体博物館, ビルバオのIsozaki Atea , バルセロナのCaixaForum, ブラーネスのIlla de Blanes計画, バルセロナのビジネス・パークD38、マドリッドのHotel Puerta America, カイロのエジプト国立文明博物館計画 (現在進行中) などに参加
1989年 名古屋デザイン博「ガウディの城」コミッショナー
1990年 大丸「ガウディ展」企画 (全国4店で開催)
1994年~2002年 ガウディ・研究センター理事
2002年 「ガウディとセラミック」展 (バルセロナ・アパレハドール協会展示場)
2014年以降 World Gaudi Congress常任委員
2018年 モデルニスモの生理学展 (サン・ジョアン・デスピCan Negreにて)
2019年 ジョセップ・マリア・ジュジョール生誕140周年国際会議参加
主な著書
『スペインの旅』実業之日本社 (1976年)、『ガウディの生涯』彰国社 (1978年)、『スペイン建築史』相模書房 (1979年)、『ポルトガル』実業之日本社 (1982年)、『モダニズム幻想の建築』講談社 (1983年、共著)、『現代建築を担う海外の建築家101人』鹿島出版会 (1984年、共著)、『我が街バルセローナ』TOTO出版(1991年)、『世界の建築家581人』TOTO出版 (1995年、共著)、『建築家人名事典』三交社 (1997年)、『美術館の再生』鹿島出版会(2001年、共著)、『ガウディとはだれか』王国社 (2004年、共著)、『ガウディ建築案内』平凡社(2014年)、『新版 建築家人名辞典 西欧歴史建築編』三交社 (2022年)、『バルセロナのモデルニスモ建築・アート案内』Kindle版 (2024 年)、Walking with Gaudi Kindle版 (2024 年)、ガウディの最大の傑作と言われるサグラダ・ファミリア教会はどのようにして作られたか:本当に傑作なのかKindle版 (2024 年)など
・丹下敏明のエッセイ「ガウディの街バルセロナより」は隔月・奇数月16日の更新です。次回は2024年11月16日です。どうぞお楽しみに。
●本日のお勧め作品は、細江英公です。
"Sagrada Familia 203"
1975年
ヴィンテージ・ゼラチンシルバープリント
イメージサイズ:44.9×44.6cm
シートサイズ:60.6×50.7cm
サインあり
作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください。
●ときの忘れものの建築は阿部勤先生の設計です。
建築空間についてはWEBマガジン<コラージ2017年12月号18~24頁>に特集されています。
〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS
TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531 E-mail:info@tokinowasuremono.com
http://www.tokinowasuremono.com/
営業時間=火曜~土曜の平日11時~19時。日・月・祝日は休廊。
JR及び南北線の駒込駅南口から約8分です。

その16 私のサグラダ・ファミリア教会との出逢い
丹下敏明
今は取り壊されてしまったが、サグラダ・ファミリアの裏側にポツンと建っていた建設委員会の事務所があった。これは見学者の入口とは違っていて、門柱には着工年の1882年が刻まれていた。手前にちょっとした空き地があって、そこで働いている設計チームの乗ってくる車の駐車場の代わりになっていた。その中には、ルノー7(シエテ)がいつも停まっていた。この車はルノー・サンクのスペイン版で、車体が後ろにトランクを付け足した結構スペインでは人気のあった車だった。この車のオーナーに会うためにしばしばこの事務所を訪ねた。当時は主任建築家がボネット・ガリ(Lluis Bonet i Gari, 1893-1993年)とプーチ・イ・ボアダ(Isidre Puig I Boada, 1891-1987年だった。

サグラダ・ファミリア教会にあった現場事務所(左手の建物。1972年年1月28日撮影)

かつての工事関係者入口にある門柱には着工年の1882の数字が刻まれている(1972年1月14日撮影)

当時の建築の責任者プーチ(左)とボネット
サグラダ・ファミリア教会はスペイン戦争時、1936年7月20日に焼き討ちの被害にあって工房から、地下聖堂にある着工に尽力したボケベージャやガウディの墓が荒らされた。その後1940年に戦争で破壊された状況を説明するための展覧会が企画され、カタログまで印刷されたが、戦後の世相を考えて没になった。実質的に建設再開したのは1949年で、戦前にできていた交差廊南面の大窓が設営される。しかし、修復工事は1951年着工で、イギリスの銀行に避難させていた莫大な寄付金を使って進められていた。本格的な建設続行着工にこぎつけたのは1954年だった。この時、ガウディが建設した誕生のファサードの反対側の苦難のファサードの基礎の掘削工事が着工され、本格的な建設の続行が開始された。

工事中の苦難のファサードの地上部分(1974年9月30日)
この間、戦争で破壊され大破した石膏模型を繋ぎ合わせ、ガウディの設計意図を再現し、建設続行のための準備をしていた。紙はすべて燃えてしまったので、手掛かりとなるのは弟子たちの記憶と、この石膏模型の残骸だけだった。
この建設続行のための石膏模型の整理、修復に直接かかわった人たちの中に、ボネット・イ・ガリとプーチ・イ・ボアダがいた。この一部は1962年に地下にできたミュージアムに一部展示され一般公開されるようになり、模型工房の裏側にはスチールの棚がぎっしりあり、一部は分類、一部は未分類のまま膨大な数の石膏の破片が並んでいた。全ての破片が見つかるわけでもなく、形の全体が見えるばあい、不足の部分は新たに石膏で作られ、これらが継ぎ合わされた。しかし、ガウディの日々新たな模型を作っていったわけなので、どれがガウディによって最後に作られたのかを見極めるのは相当な時間を費やしたはずだ。

石材が山積みされていたアプス部分(1974年11月)

ガウディが刻んだであろう石がまだ積まれないまま、そこら中にあった(1974年11月)

アプスの尖塔のために削られていたもののアプスと誕生の門が今だ繋がれていなかったために地上に残されたまま残っていた(1974年11月)
それに従い図面も相当の数が書かれた。その頃の資料からボネット・イ・ガリのドラフトマンのベレンゲールという人が描きあげている。ボネット・イ・ガリと働いていたベレンゲールというのは優秀なドラフトマンで、サグラダ・ファミリア教会関係の図面だけではなく、他にもカサ・バトリョの完璧な図面のコレクションを残している。
さて、私がサグラダ・ファミリアの現場事務所にたびたび通うようになったのは、プーチ・イ・ボアダが建築家協会の支援を得てコロニア・グエルの研究をしていて、その時に必要となった図面起こしを担当したからだ。プーチ・イ・ボアダはすでにあのカテナリー模型の写真を分析していて、それをもとにして図面を描いていた。彼の説明ではガウディはほぼ4つの案を作っていたという事だ。そして最終案を立面図化していたのだが、ガウディが実現した地下聖堂部分で寸法関係で明解にしたいという事で建築家協会に援助を求めたのだった。その仕事を建築家協会のアーカイブ部門のタラゴ経由でもらったという事だ。タラゴはその当時ガウディ友の会の書記長をしていた人で、その関係で彼は私の事を知っていた。

コロニア・グエルの地下聖堂測量時に使った平面図コピー

コロニア・グエルの地下聖堂測量時に使った横断面図コピー
しかし、こちらは測量機械など持っているわけではなく、巻き尺しか持っていないという始末だった。私の作業がどう役に立ったのか全く分からないがプーチ・イ・ボアダの研究は一冊の本に纏められ、1976年にLumenというバルセロナの出版社から出されている。この本に出ている断面図の裏側とかポーティコ部分の断面はその時起こされた図面である。
この作業中はカサ・ミラの近くにあった自宅を訪ねたが、それが終わってからもプーチ・イ・ボアダがサグラダ・ファミリア教会に遊びに来いという事で何度も行ったことがある。当時はガウディの作った石膏模型の修復作業というのはあまり見なかったが、やはり石膏を使ったかなり大きな模型をいくつも作っていて、かなりの職人も作業をしていた。この間現場を見せてもらい、塔の足場を命綱はもちろんヘルメットも付けずに登ったりした。ボネット・イ・ガリさんは当時かなりコミュニケーションが難しかったが、プーチ・イ・ボアダさんはお元気で色々な事を話してくれた中で、65年に進歩派の文化人やアーティストの建設続行運動にたいし、あれがあったから我々は逆に団結でき、続行しようという勇気が沸いたと語ってくれた。しかし、同時に私たちはガウディではないです。と正直な心のうちも話してくれた。

誕生のファサードに続く身廊の大窓(1974年11月)

建設中の鐘塔先端のピナクルに登る(1976年4月)

ピナクルが載せられ、これに作業員が張り付いている(1976年4月)

工事中のピナクルの高さからガウディ製作の誕生のファサードのピナクルを見る(1976年4月)

苦難のファサードには作業用に作られていた石膏模型が置かれていた(1974年11月)
そんな頃78年に”海外の日本人”というフジテレビ系の仙台放送制作の番組に取り上げられるようになり取材をされた、大まかなストーリーはガウディを見るためにスペインに来てそのまま移住したというのがメインのテーマだったのだが、ガウディはどういう歴史的なルーツで建築を作っていったのかという話に発展して、ピレネー山脈のロマネスク建築なども取材した。
番組は結構視聴率があがったらしく、放映後も何かと取材記者とコンタクトを取っているうちに、仙台放送の開業記念に合わせて桜を寄贈するという話が出た。プーチ・イ・ボアダもこれに賛同してくれたのだが、ヨーロッパでは禁止されている5種類の菌が日本ではほぼ見つかるので、厚生省での植物検査が必要で、これに引っかかるという事が分かりこのプロジェクトは流れてしまう。その頃、私の意識の中には敷地内に桜の木を植えて、建設続行に反対する意思があったのかもしれない。

ヴォールトの部分が地上でプレファブ化されて作られていた(1974年11月)

身廊の建設が進み、現場事務所が邪魔になってきた(1985年2月)

2002年まではまだ石膏職人が模型の製作に関わっていた(2002年1月27日)

現在の模型工房は3Dプリンターが活躍している(2023年12月6日)
(プーチは写真撮影嫌いで3番は彼からもらったもので以外は筆者撮影)
■丹下敏明 (たんげとしあき)
1971年 名城大学建築学部卒業、6月スペインに渡る
1974年 コロニア・グエルの地下聖堂実測図面製作 (カタルーニャ建築家協会・歴史アーカイヴ局の依頼)
1974~82年 Salvador Tarrago建築事務所勤務
1984年以降 磯崎新のパラウ・サン・ジョルディの設計チームに参加。以降パラフォイスの体育館, ラ・コルーニャ人体博物館, ビルバオのIsozaki Atea , バルセロナのCaixaForum, ブラーネスのIlla de Blanes計画, バルセロナのビジネス・パークD38、マドリッドのHotel Puerta America, カイロのエジプト国立文明博物館計画 (現在進行中) などに参加
1989年 名古屋デザイン博「ガウディの城」コミッショナー
1990年 大丸「ガウディ展」企画 (全国4店で開催)
1994年~2002年 ガウディ・研究センター理事
2002年 「ガウディとセラミック」展 (バルセロナ・アパレハドール協会展示場)
2014年以降 World Gaudi Congress常任委員
2018年 モデルニスモの生理学展 (サン・ジョアン・デスピCan Negreにて)
2019年 ジョセップ・マリア・ジュジョール生誕140周年国際会議参加
主な著書
『スペインの旅』実業之日本社 (1976年)、『ガウディの生涯』彰国社 (1978年)、『スペイン建築史』相模書房 (1979年)、『ポルトガル』実業之日本社 (1982年)、『モダニズム幻想の建築』講談社 (1983年、共著)、『現代建築を担う海外の建築家101人』鹿島出版会 (1984年、共著)、『我が街バルセローナ』TOTO出版(1991年)、『世界の建築家581人』TOTO出版 (1995年、共著)、『建築家人名事典』三交社 (1997年)、『美術館の再生』鹿島出版会(2001年、共著)、『ガウディとはだれか』王国社 (2004年、共著)、『ガウディ建築案内』平凡社(2014年)、『新版 建築家人名辞典 西欧歴史建築編』三交社 (2022年)、『バルセロナのモデルニスモ建築・アート案内』Kindle版 (2024 年)、Walking with Gaudi Kindle版 (2024 年)、ガウディの最大の傑作と言われるサグラダ・ファミリア教会はどのようにして作られたか:本当に傑作なのかKindle版 (2024 年)など
・丹下敏明のエッセイ「ガウディの街バルセロナより」は隔月・奇数月16日の更新です。次回は2024年11月16日です。どうぞお楽しみに。
●本日のお勧め作品は、細江英公です。
"Sagrada Familia 203"1975年
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イメージサイズ:44.9×44.6cm
シートサイズ:60.6×50.7cm
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●ときの忘れものの建築は阿部勤先生の設計です。
建築空間についてはWEBマガジン<コラージ2017年12月号18~24頁>に特集されています。
〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS
TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531 E-mail:info@tokinowasuremono.com
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営業時間=火曜~土曜の平日11時~19時。日・月・祝日は休廊。
JR及び南北線の駒込駅南口から約8分です。

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