杣木浩一のエッセイ「宮脇愛子さんとの出会い」第12回

1.    宮脇愛子 1970年代傍系作品の魅力 いのち

 愛子さんの光と影を掬う白い網目レリーフ画。光の透過パイプ。積層割り板ガラス。空に架構されたステンレス鋼線。目と精神の媒体としてのマテリアル。
愛子さんの初期絵画における代表的な〈滴りの行列絵画シリーズ〉の営みをふしぎな生命(いのち)に喩えてコメントしている。

 

かれらの群れ 

「いつからはじまって、いつ終わるのか、わからない。
わずかにもとの形をとどめるにすぎないこの溶けかかったものたち。かれらの行列は、いつのまにか、少しずつ動きはじめる。
はじめの壁から、つぎの壁へ、生きもののように、かれらは重なりあい、もつれあいながら、はいまわる。
私は、ただ黙って、かれらのいのちの営みに手をかす。ときには、かれらの子どもを、小さいキャンバスの上に盗むこともあるが・・・。
その夜、ふたたび、かれらはよみがえり、さらに数を増す。
床につたわり、新しい壁へ、かれらの群れは、いつ果てるとも知れぬ行列に加わる。」
『朝日ジャーナル』1962年4月15日号

 また宮脇愛子はオスカー・ワイルド『獄中記』から「・・すべての美の背後には、かかれた格好や形はただそれの表現の様式にすぎないところの、ある精神がかくされていることを意識している。・・」を引用し、
 「・・不可視な、不可解な宇宙の神秘ともいえるものは、あらゆる現象の奥にひそんでいて、その姿を容易に現わしてはくれません。おそろしく柔軟で、自由な、無償の感覚のみが、その源にふれ得るはずであるのに、・・」とのべている。
『芸術新潮』1972年5月号
※太字は筆者による。

 1970年代はジョン・マクラッケンの〈曼陀羅〉図と同じく、宮脇愛子にも写経の境地で日々描いたという営みがあった。巻物サイズのロールキャンバスに、面相筆によって極細線の四角形、三角形を繋ぎ結晶増殖化する〈スクロール・ペインティング〉【図7】である。
また、割り板ガラスの積層、ずばりタイトルは〈メグ=割る〉である。割って積み上げることでガラスの流体性と結晶化を見せた。
 そして、自らの墓碑だという黒い二等辺三角の御影石に刻んだ〈Listen to your portrait〉も制作された。
 1960年代後半に極めた光の真鍮パイプから、さまざまなマテリアルへ触手を伸ばして結実した時期でもあった。
 1980年代初め〈うつろひ〉黎明のころだったか、愛子さんが「杣木君ねえ、芸術ってそんなに遠くにあるものじゃないのよ・・。」と語ったことがある。これはカルダー(1898-1976)のように針金ハンガーを吊るして遊んだマン・レイ(1890-1976)の心にも通じている。
 奇しくも1989年、パリ、デファンスの新凱旋門広場に〈うつろひ〉設置工事に行ったとき、目の前にはカルダーの赤いパブリック彫刻が据えられていた。

【図7】宮脇愛子 流動する結晶〈スクロール・ペインティング〉アクリル、キャンバス (1970年代)

 ミニマリズムの渦中を生きた上記アーチストたち3者3様の作品タイトルひとつを見てもすぐに了解できることだが、宮脇愛子の絵巻〈スクロール・ペインティング〉、彫刻〈うつろひ〉(1980~)。そして成田克彦の〈炭〉(1968~1970)、〈一遍上人絵伝-風景の陰〉(1985)、〈生命樹〉(1989)。ジョン・マクラッケンには、おおむね〈Untitled〉のはざまに現れる〈ショーグン〉(1965)〉、
〈ミクノス〉(1965)などは、いずれも窮屈なモダニズムアート批評の箍(タガ)からのがれ融通無碍に遊ぶ自由精神の顕れであろう。だから、3者の思考の深化が齎したこれらの多様な試みの時期を傍系として括るには少しとまどいがある。

Ⅱ 宮脇愛子の周知

 愛子さんが亡くなられてから、すでに11年経たが、あちこちで展覧会依頼の近況を聞くにつけ、生前からもそうであったが、日本よりむしろ海外のほうが世界の”Aiko Miyawaki”として認知されている。そうして宮脇愛子の生地、熱海には晩年の愛子さんのアシスタントを務め相続した松田昭一が㈱宮脇愛子アトリエを主宰し、作品と遺品、菩提寺墓碑を管理している。今後生じるであろう〈うつろひ〉の移設工事や修復にさいしても、彼が〈うつろひ〉エッセンスを知るから心配ない。
 また、パリにはピオトル・コワルスキー(1927-2004)のアシスタントを務め、海外の〈うつろひ〉設置に数多く参加した滝田順が在住し、目配りしてくれている。現職の営業を兼ねて訪日したおりには、熱海の宮脇愛子アトリエとも往来していると聞く。【図8-15】

【図8】熱海の宮脇愛子アトリエ資料展示室 (2016.9.16)

【図9】箱根彫刻の森美術館〈うつろひ〉移設工事を指揮する松田昭一・左 (2018.10.15)

【図10】箱根彫刻の森美術館カフェよりガラス越しの〈うつろひ〉(2018.10.15)

【図11】〈うつろひ〉夜間照明チェックする宮脇愛子Main Forum フランクフルト(2004.5)
Ⓒ羽根アーキテクツ

【図12】〈うつろひ〉指示する宮脇愛子Main Forum フランクフルト(2004.5)Ⓒ羽根アーキテクツ

【図13】〈うつろひ〉竣工 Main Forum フランクフルト(2004.5) Ⓒ松田昭一

【図14】(2018.11) 宮脇愛子アトリエ屋上で笙を奏でる宮田まゆみ。
熱海のつよい海風をものともしない笙の音が〈うつろひ〉の架かる空に響きわたった。
〈うつろひ〉を記念して、松田昭一がステンレスワイヤーを架構した。

【図15】愛子さんの眠る熱海、日蓮宗大乗寺本堂の豪壮な框(かまち)、愛子さんの父、荒木一作氏が寄贈したもの。檜の一木ものである! 黒漆塗り仕上げ。優に12m以上はあろうか。

 

Ⅲ 宮脇愛子「絵画」と「うつろひ」メンテナンス(2023~2025)

 しかし2019年からのコロナ禍は想像以上に恐ろしいものであった。災いは松田氏の身体を襲い長期休養を余儀なくされ、音信が途絶えたのだ。2023~2024年は、そのあおりを食らって喫緊の宮脇愛子作品修復作業が私に舞い込んだ。どうやって調べたのか、東京大学と画廊は、いずれもベイスギャラリー経由で私の居場所を探しあてた。
 まずは東京大学のワイヤー彫刻〈うつろひ〉修復依頼だった。【図23,25】そして取り扱い画廊からのF80網目画の修復相談、つづいて2024年末M25号 〈網目画〉、F30号〈雫画〉3点の修復依頼である。【図16~22】
絵画修復は「宮脇愛子 絵画1959-1964」展(原美術館/東京)1996における宮脇愛子さんとの修復問答を思い起こせばきっとできるだろうと踏んでいたのが甘かった。
しょっぱな入った修復相談はF80号、1960年ころの網目紋レリーフの白い画であった。画廊主が、保管していたタトウを開けてビックリ、作品を預かったときから状態が大きく悪化していたのである。なんと表面が溶けている!触ると絵の具がネバネバ指に引っ付くのである。本来の白い画面は無残にも黄色くなり、おまけに白い画面には黒い木炭で大きな✘バッテンが引かれているではないか。【図20】

【図16】[修復前] 雫画F30 下地にプルシャンブルーが認められたが退色し、ベニヤパネルのヤニが裏から白地に茶色く滲みでている。背面のベニヤが劣化し剥がれていた。

【図17】[修復後] 雫画F30 プルシャンブルー補填、雫列ツヤだし樹脂補填、ヤニ消し白化粧
ぬり施す。額劣化につきウレタン塗装。裏面ベニヤを透明ウレタン樹脂で固める

【図18】チタニウムホワイトにアイボリーブラックとイエローオーカーを1%。
柔らかい色調の白にする。

【図19】 (2023.6/3) 宮脇愛子絵画タトウを開く。空調耐火倉庫に保管していたという。

「なんだ、これは!」画面には黄色い油が浮き出ている。大理石の網目凹凸が溶けていた。こんな現象には私も初めて出くわした。あれこれ原因を推測したがさっぱり分からない。海外の美術館関係者が「いったい、何を塗ったのだ?」と画廊主に問うたという。私も同感であった。おそらく油絵制作で常用する画用油、いわゆる「乾性油」である「ポピーオイル」と「リンシードオイル」以外の何かを塗ったことによって悪さをしたに違いない。たとえば艶出し目的で、ぜったい乾かぬオリーブ油などを塗ってしまったら?もっての外である! けっして硬化しないオリーブ油は、愛子さん特有の大理石粉を練り込んだ分厚い岩肌にじわじわ染み、数年後には組成がゆるみ、溶解を誘発すると想像できる。

※    拙文を記している7月初め、『日本美術オーラル・ヒストリー・アーカイヴ』で偶然読んだ愛子さん晩年のことばに釘付けになった。たまプラーザ、ライフコミューンにおいて松田昭一、山口勝弘を交えての取材「宮脇愛子オーラル・ヒストリー」(2009.1.10)における愛子さんの下記発言カ所、太文字部分である。

インタヴュアー : 由本みどり、小勝禮子
書き起こし : 上原真依

小勝 : こちら (注:『ドキュメント』、p.28) にね、障壁画の模写をなさっている写真が。
宮脇 : 一応ね。でもね、日本画がどうも気に合わなくてね。オリーブの、オリーブって、油絵の方がなんか気に入っちゃって、そっちばかりやってたの。
由本 : それを同時になさっていた感じなんですか。
小勝 : ピアノを教えてらした頃、阿部展也さん(あべのぶや、1913-1971、本名・芳文)のアトリエにももうお通いになって。
宮脇 : そうなの。私は阿部展也先生の直弟子でした。とってもうるさい先生だったのでね。世界中の人たちとみんな知り合いでね。私、これ(『ドキュメント』pp.12-21)にも書いているけど、先生に伺えばたいてい知らないことがないくらい、歴史から何から現代から・・。
由本 : それは義理のお姉様の、神谷信子さん(かみやのぶこ、1914-1986、画家)からご紹介が?
宮脇 : そう、神谷信子さんがね。私、女子大を卒業するちょっと前に結婚しちゃったんですよ。
宮脇俊三さん(みやわきしゅんぞう、1926-2003編集者・作家)っていう人と。もう亡くなりましたけど。・・
小勝 : 鉄道紀行(『時刻表2万キロ』(河出書房新社、1978年)他、多数)で有名になられて。
宮脇 : もう亡くなっちゃいましたけどね。旅好きでね。小学校の時から一人で歩いちゃったんですって、日本中。
由本 : すみませんが、それでは宮脇姓になる前の姓は、何でしょうか。
宮脇 : 私、荒木っていうの。・・・・

※     太字は筆者による。

【図20】[修復前]網目画F80 (2023.6/3)タトウから出すと画面が溶け黄変していた!
いかに修復すべきか。

2009年、愛子さんの画用油とオリーブ油の混同は、愛子さんがインタヴューへ咄嗟に口をついて出た言葉に過ぎないのだが、たしかに、毎日ヨーグルトもロシア菌で漉し、パスタ好きの愛子さんはオリーブ油を常用してはいたが、しかし部外者がこの言葉を真に受けたとしたら、とんでもない結果を招くだろう。ギャラリー「せいほう」(2019.3)で見た、宮脇愛子晩年絵画の強いツヤが画用ニスによるものなのか気にはなっていたのだが。
 神谷信子、阿部展也ほか画家たちのなかにあって、1960年の網目画に食用オリーブ油の誤用などありえない話なのだ。1995年、熱海で発見された、すべての油絵はカラカラに硬化乾燥し、当時の画用油の瓶もゴロゴロ残っていたのだから。

 もうひとつの大問題は、網目画F80がタトウを開いたら白が黄変していたことである。【図20】
画用油リンシードは長期光に当てないと黄変する。タトウに入れたままで光に晒さなかったから、白い愛子さんの網目紋絵画は黄変したと思われる。空調の効いた耐火倉庫に後生大事にしまい込むのも考えものだ。
 それにしても、溶けてしまった表面をへたに触れば、繊細な網目凹凸レリーフが崩れてしまう。まったく、手も足も出せないとはこのことだった。しょうがないから、まずは一年間、触るのをやめた。イーゼルに設置して透明ビニルをかぶせて自然光に晒したのだ。冬の朝は氷点下になるこのアトリエで、ベトツキはやや解消したかに見えたが、年を越して夏を迎えると、ふたたびネットリ感が戻ってしまった。だが自然光に晒していたことで黄色はかなり引いてきた。白は徐々に回復し、ゆっくりではあるが改善の兆しは見えるようである。
 しかし、この調子で手をこまねいていたら何年先に乾くか埒が明かないから、当初からイメージしていたのだが、ポピー油でゆるく溶いたホワイトを塗布して浸透、硬化促進を試みたら効き目があった。1年後には指触乾燥した。それから木炭バッテンを消すための白い化粧塗りを施して、ようやく元の状態であろう姿に漕ぎつけ、2025年7月25日に納品できた。【図21.22】

【図21】[修復後]F80、フレーム(ウレタン塗布済み)を取り付ける。

 画廊主の話では、愛子さんの「網目画」がバーゼルアートフェアに展示され、MOMAコレクションの運びとなり、開封して見たら画面が溶解していた。「いったい、何を塗ったのか!」と詰問されたという。損害保険で切り抜けたものの、その後の作品自体の行方はわからないという。宮脇愛子絵画にこのような悲劇が起こりうるだろうことは覚悟しておかねばなるまい。

【図22】[修復後](2025.7) 表面の硬化、白の再現、フレーム塗装も完了。

2024年、駒場東大数理科学棟〈うつろひ〉と内壁のさび落とし

 見る影もなく煤けた空間になっていた。駒場東大〈うつろひ〉ステンレスワイヤー彫刻補修は遠い記憶を頼りに一から手探りで進められた。幸いにも彫刻〈うつろひ〉を構成している軽やかな8mm直径ステンレスワイヤーは自重よりバネ抗力が勝り、フォームにはなんら問題を生じていなかった。だから補修作業はおもに井の頭線から飛来して付着した錆び洗浄除去だった。〈うつろひ〉ワイヤーはヘアライン仕上げだが円周に沿って切ってあるから、スコッチタワシでの磨きにえらい時間を要した記憶があった。ワイヤー1本の長さは平均8mある。「駒場東大数理科学棟内庭」では7台の鉄製基盤に全9本のステンレスワイヤーが刺さっているので、ワイヤー円周の目に沿って8m x 9本 = 72m を一人ナイロンタワシで横方向に少しずつ磨いたとしたら途方もなく時間がかかる。しかし、ステンレスワイヤー表面は井の頭線からの貰い錆びだったので、ステンレスワイヤーへの浸食は無く、あっさり表面に付着しているだけだった。たくさん用意した#320,#400番目のスコッチタワシは使わなくて済んだ。はじめての試みであったが、ふだんウレタン塗装研磨で常用しているプラスチック用コンパウンド粗目、中目を布に付け円周ヘアライン構わず、縦方向にぐいぐい拭き上げて行った。プラスチック研磨剤なのでステンレスを傷つけること無く、半日でピカピカの表面がよみがえった。ついでに、ステンレス製銘板「うつろひ 宮脇愛子作東京大学医学部医学科1967年卒業 小高孝治氏寄贈 1995年11月1日」のサビもきれいに拭き上げた。
 しかし問題は『うつろひ』を囲う内壁もステンレスワイヤー以上に錆びで煤けていたことだ。そこで、内壁洗浄を提案した。東京大学には常駐の清掃業者がいるというので、彼らに立ち会ったのだが、家庭用の洗車機のようなものを持ってきた。これではパワー不足でお手上げだった。そこで20年来付き合いのある排水管洗浄業者の超高圧ジェッターが使えないかと閃いた。見積もりを取らせたら低価格で応じてくれたので実現が叶った。ジェッター2機2人工で予備日を含む2日工事になった。まあ、1995年から30年間付着したサビを洗い落としたので、あと5年は現状維持できるだろう。事務方は見違える仕上がりと低い価格が気に入ったのか、すぐに理科学棟エントランス側の壁全面、約30mのガラス清掃とモルタル壁洗浄を別途委託したようである。

【図23】〈うつろひ〉駒場東大数理科学棟内壁サビおとし、超高圧水で洗浄 (2024.5)

【図24】〈うつろひ〉(ワイヤー研磨、基盤塗装、内壁床高圧洗浄済後) 駒場東大数理科学棟

つづく
次回は12月8日に掲載します。

杣木浩一(そまき こういち)
1952年新潟県に生まれる。1979年東京造形大学絵画専攻卒業。1981年に東京造形大学聴講生として成田克彦に学び、1981~2014年に宮脇愛子アトリエ。2002~2005年東京造形大学非常勤講師。
1979年真和画廊(東京)での初個展から、1993年ギャラリーaM(東京)、2000年川崎IBM市民文化ギャラリー(神奈川)、2015年ベイスギャラリー(東京)など、現在までに20以上の個展を開催。
主なグループ展に2001年より現在まで定期開催中の「ABST」展、1980年「第13回日本国際美術展」(東京)、1985年「第3回釜山ビエンナーレ」(韓国)、1991年川崎市市民ミュージアム「色相の詩学」展(神奈川)、2003年カスヤの森現代美術館「宮脇愛子と若手アーチストたち」展(神奈川)、2018年池田記念美術館「八色の森の美術」展(新潟)、2024年「杣木浩一×宮脇愛子展」(ときの忘れもの)など。
制作依頼、収蔵は1984年 グラスアート赤坂、1986年 韓国々立現代美術館、2002 年グランボア千葉ウィングアリーナ、2013年B-tech Japan Bosendorfer他多数。

●本日のお勧め作品は宮脇愛子です。
宮脇愛子のオリジナル・ドローイングとシルクスクリーン入り小冊子、
『Hommage a Man Ray マン・レイへのオマージュ』(DVD付き)
宮脇愛子オマージュマン・レイ表紙『Hommage a Man Ray マン・レイへのオマージュ』
発行日:2010年9月28日
発行:ときの忘れもの
限定25部(番号・サイン入り)
著者:宮脇愛子、マン・レイ
写真:宮脇愛子、磯崎新
シルクスクリーン刷り:石田了一
デザイン:北澤敏彦
折本形式(蛇腹)、皮ケース入り、表裏各15ページ
サイズ:18.0×14.5cm


マンレイへのオマージュ正面1マンレイへのオマージュ正面2
・ 宮脇愛子オリジナルドローイング、自筆サイン入り
・ 宮脇愛子が1959年より2010年まで制作したドローイングより、シルクスクリーン13点を挿入
・ 磯崎新撮影「アトリエのマン・レイと宮脇愛子」カラー写真1点貼り込み
・ 宮脇愛子に贈られたマン・レイ作品の画像貼り込み(印刷)
・ マン・レイとの交流と、『うつろひ』への宮脇愛子インタビューDVD(約10分)付き

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※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください

西田考作さんを偲んで、西田画廊旧蔵ポスター展
会期:2025年11月5日(水)~15日(土) *日曜・月曜・祝日は休廊
会場:ときの忘れもの
出品作品:荒木経惟、磯崎新、大竹伸朗、加納光於、桑原甲子雄、田名網敬一、福田繁雄、森村泰昌、
アンディ・ウォーホル、トニ―・クラッグ、パウル・クレー、アドルフ・ゴットリーブ、
フランク・ステラ、セバスチャン、サム・フランシス、ヨーゼフ・ボイス、
ジャクソン・ポロック、ロバート・ラウシェンバーグ、マーク・ロスコ、ジョアン・ミロ、他
出品作品の詳細及び特別頒布価格はホームページに公開しています。
*生前の西田考作さんの開廊直前インタビュー録(1982年)を11月6日ブログに掲載しました。
坂上しのぶさんの論考「バイヤーズと西田考作」を11月12日と、13日の二回にわけて掲載します。

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●ときの忘れものの建築空間(阿部勤 設計)についてはWEBマガジン<コラージ2017年12月号18~24頁>に特集されています。
〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS ときの忘れもの
TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531 
E-mail:info@tokinowasuremono.com 
営業時間=火曜~土曜の平日11時~19時。日・月・祝日は休廊。
JR及び南北線の駒込駅南口から約8分です。
杣木浩一作品