栗田秀法「現代版画の散歩道」

第15回 野田哲也

野田哲也 《日記 1970524日》
1970年 木版・シルクスクリーン
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 「絵日記」の版画家として知られる野田哲也は、1970年前半に渡米し、滞在中に出会った光景を題材に約30点の《日記》シリーズを制作した。本作もその一つである。当時のアメリカでは、ベトナム戦争の長期化に抗議する反戦運動が全土に広がり、とりわけニューヨークは主要なデモや集会の拠点となっていた。徴兵制への不満、公民権運動や女性解放運動、ゲイ解放運動などが連携するなか、街頭は多様な人々の声が交錯する場となっていた。野田はそのような社会状況の中で、個人のまなざしがとらえた一場面を作品として定着させている。

 画面中央には、制帽をかぶった二人の男性が描かれている。制服姿であることから警察官か軍人とみられるが、彼らを取り囲む人々の表情には怒号や暴力の気配はない。対話や説得の場面のようにも見え、画面右奥には穏やかな表情を見せる人物も確認できる。野田は、社会的緊張のただなかにおける人々の表情や姿勢を、記録写真的ではなく、構成された画面として表している。

 人物群は黒と褐色の階調によって背景から際立ち、上部には灰青色の空が広がる。野田は写真の平板さを避けるため、木版とシルクスクリーンを併用し、わずかな色面の重なりと階調の変化によって奥行きと明暗の対比を生み出している。これにより、撮影された一瞬の光景が、作者の選択と操作を経た構成的な画面として再構成されている。

 野田は写真を単なる記録の手段ではなく、制作の素材として用いた。彼は次のように述べている。「レンズは自分の意識が作用しないところまで写し出してしまう。だから、写真を使って自分の好む作品を成立させるためには、ときには不要な部分を消したり、必要なものを描きたしたりして、料理をしなければならなくなってくるわけ」。この発言に見られるように、彼にとって写真はそのまま再現する対象ではなく、取捨選択や加工を通して新たな表現を導く素材であった。

 当時はまだデジタル加工が普及しておらず、写真に手を加えるには複雑な工程を必要とした。撮影した写真を投影紙(プロジェクション・ペーパー)に焼き付け、加筆や修正を施したのち、それをもとに謄写原紙製版機で孔版の原版を作る。完成したシルクスクリーン1版に加え、木版2版を用いて色面と階調を補い、手作業で摺り重ねることで画面が構成されている。

 野田は東京藝術大学大学院修了後に木版画の制作を本格化し、1967年に孔版を併用する《絵日記》を制作した。翌1968年の東京国際版画ビエンナーレでは、婚約記念の家族写真を題材とした《日記 1968年8月22日》《日記 1968年9月11日》で28歳にして国際大賞を受賞した。その後も、日常の断片を「日記」として版に刻み続け、写真を媒介とする記録と記憶の関係を探求している。

 2014年には大英博物館、2020年にはシカゴ美術館で大規模な個展が開催され、近年ではその制作方法と主題が、現代の映像文化とも響き合うものとして再評価されている。とくにSNS、なかでもInstagramなどの写真共有メディアの普及により、個人の日常を視覚的に記録・発信する行為が一般化したことで、野田の《日記》シリーズは新たな文脈で受容されつつある。

 野田の作品は、写真がもつ客観的な記録性に作家自身の感情や経験の層を重ねることで、出来事を単なる記録としてではなく、再び立ち上がる「記憶の現在」として提示している。冷静な観察と手作業による介入のあいだに、客観と主観、過去と現在が結びついている点に、このシリーズの独自性がある。

※作者による制作プロセスの映像はコチラ

(くりた ひでのり)

●栗田秀法先生による連載「現代版画の散歩道」は毎月25日の更新です。次回11月25日を予定しています。どうぞお楽しみに。

栗田秀法
1963年愛知県生まれ。 1986年名古屋大学文学部哲学科(美学美術史専攻)卒業。1989年名古屋大学大学院文学研究科哲学専攻(美学美術史専門)博士後期課程中途退学。 愛知県美術館主任学芸員、名古屋芸術大学美術学部准教授、名古屋大学大学院人文学研究科教授を経て、現在、跡見学園女子大学文学部教授、名古屋大学名誉教授。博士(文学)。専門はフランス近代美術史、日本近現代美術史、美術館学。
著書、論文:『プッサンにおける語りと寓意』(三元社、2014)、編著『現代博物館学入門』(ミネルヴァ書房、2019)、共編訳『アンドレ・フェリビアン「王立絵画彫刻アカデミー講演録」註解』(中央公論美術出版、2025)、「戦後の国際版画展黎明期の二つの版画展と日本の版画家たち」『名古屋芸術大学研究紀要』37(2016)など。
展覧会:「没後50年 ボナール展」(1997年、愛知県美術館、Bunkamura ザ・ミュージアム)、「フランス国立図書館特別協力 プッサンとラファエッロ 借用と創造の秘密」(1999年、愛知県美術館、足利市立美術館)、「大英博物館所蔵フランス素描展」(2002年、国立西洋美術館、愛知県美術館)など

野田哲也 Tetsuya NODA
1940年熊本県生まれ。野田哲也のライフワークである「日記」シリーズは、1968年の第6回東京国際版画ビエンナーレ展で国際大賞を受賞するなど、その始まりから高い評価を受けています。作家自身が撮影した写真を使い、主にシルクスクリーンと木版の併用技法により作家の日常を淡々と綴っているこの大連作は、見るものにあらためて生きることとはどういうことかを考えさせます。題名は全て「日記」の日付になっていて、作家自身の家族や知人の肖像、旅や日常的な光景などが記録されています。
東京芸術大学美術学部油絵科卒業。以後、クラコウ国際版画ビエンナーレ、リュブリアナ国際版画ビエンナーレ、ノルウェー国際版画ビエンナーレ、イギリス国際版画ビエンナーレ、リュブリアナ国際版画ビエンナーレなど各国際展で軒並み受賞。日本を代表する版画作家として活躍を続けています。

ときの忘れものは今年もアート台北Art Taipei 2025佐藤研吾さんと参加出展します。
会期:2025年10月23日~10月27日(10月23日はプレビュー)
会場:Taipei World Trade Center Exhibition Hall 1
ときの忘れものブース番号:B29
公式サイト: https://art-taipei.com/
出品作家:靉嘔安藤忠雄佐藤研吾仁添まりな釣光穂出展内容の概要は10月13日ブログをご参照ください。
会場では、作家の佐藤研吾
さんと、松下、陣野、津田がお待ちしております。

「久保貞次郎 コレクションのすすめ 受け継がれるおもい」
会期:2025年10月25日(土)~11月1(土) *会期中無休
会場:ストライプハウスギャラリー
主催:久保貞次郎の会
「久保貞次郎の会」は跡見短大の教え子たちが発起人となり、その功績と精神を後世に伝えることを目的に、2018 年に発足いたしました。ときの忘れものの綿貫令子(跡見出身)も参加しており、久保先生の多面的な活動を紹介する活動を展開しています。2022 年からは毎年テーマを設け、東京・六本木のストライプハウスギャラリーにて展覧会を開催しています。2025 年は「教師・久保貞次郎のおもい」を追求します。跡見短大での教育活動に光をあて、学生たちに向けられた久保先生のまなざしや思想を、当時の思い出やコレクションを通して振り返ります。ぜひご高覧のほどお願いいたします。

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●ときの忘れものの建築空間(阿部勤 設計)についてはWEBマガジン<コラージ2017年12月号18~24頁>に特集されています。
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