栗田秀法「現代版画の散歩道」

第16回 宮脇愛子


無題》 1980年 エッチング

 宮脇愛子の名を広く知らしめたのは、ワイヤーをしなやかに展開させる立体造形「うつろひ」シリーズである。群馬県立近代美術館の作品が有名だが、奈義町現代美術館の作品も筆者の記憶に深く残っている。作者によれば、このシリーズの端緒には「虚空に線を描くかのように、のびのびとした自由な魂-中国語でいう「気」を表わしたいと願った」ことがあったという。宮脇の版画作品には、この立体造形に直接結びつく、「うつろひ」と題された一連のシルクスクリーン作品がある。その伸びやかな描線からは空中に存在する不可視の精気のはたらきのようなものが確かに感じられよう。

 不可視の存在の喚起に関して別の手法から模索されたのが、宮脇の一連の銅版画作品である。この大ぶりの銅版画《無題》は1980年に刊行された現代版画センターのエディション作品で、同じ年には主に小品6点組の「宮脇愛子銅版画集」もエディションされており、小説家・辻邦生が序文を寄せている。辻が宮脇の夫・磯崎新の設計の山荘で夏を過ごすようになるのは1976年のことだが、その前年には宮脇が装丁を手がけたことでも注目される、辻の『背教者ユリアヌス』が出版されている。その特装版の装丁は「書物の辺縁を炎が舐めてできた焼け焦げが唯一のモチーフになっている」(辻)というユニークなもので、装丁者自らの言葉によれば「古い羊皮紙の焼け穴の奥に、ユリアヌスの横顔が浮びあがる。」というイメージに端を発したものだった。ここで注目しておきたいのは、この特装版に付された彼女の小品の銅版画である。

 この1975年の銅版画は、宮脇愛子の版画における造形語彙の構築的な側面を強く示している。不規則な多角形の立方体が、レンガ積みよろしく積み上がり、画面中央に垂直で硬質な門構えのような構造体として立ち上がっている。このシャープで概念的な表現は、彫刻家としての当時の幾何学的・構造的な関心を反映したものであろうか。他方、刻線は網目のようにも見えるが、目を凝らすと、個々のセルが喚起する立体感が紙片に凹凸の揺らぎと複雑な表情を与えていることがわかる。

 対して1980年の《無題》では、同じ網目状の語彙を用いながらも、刻線を極限まで高密度化させ、その密度の濃淡から明暗のグラデーションが生まれている。画面全体は、極めて細かく不規則な、ひび割れや網目状の線描で埋め尽くされており、個々の網目は細胞、皮膚、地表のひび割れ、あるいは網膜のようにも見えるが、線の肥痩によって画面全体に微妙な肌理(テクスチャ―)の効果が生じている。線描が濃密に描かれている部分は暗く(影)なり、線描が希薄で、下地の白い紙が見えている部分は明るく(光)見える。この明暗のコントラストによって、作品の中央に縦長の、濃い黒の不定形の形状が浮かび上がっている。下方から立ち上がる雲と上方から垂れ下がる雲が今まさに結合した瞬間が描かれているようにも見える。本作品は宮脇愛子の彫刻作品「うつろひ」にも見られる、連続性や時間の流れといったテーマを、平面上で追求した一連の作品群に位置付けられるものである。辻邦生が宮脇の銅版画を「無限の情感のヴァリエーションを一つの鏡に映したごとき」と評したのは、この鏡が単なる反映ではなく、情感の生成そのものを促す場であるからである。詩的で瞑想的な抽象世界に現出した情感や光の移ろいを目を凝らしてぜひ感じ取ってほしい。

 私事になるが、辻邦生氏は恩師の辻佐保子先生のご主人であり、大学三年生の時の名古屋からの研究室実習旅行の最中に皆で高輪のご自宅に伺い、お会いしたことがある。奥様の客人をもてなすべく、自ら手料理を振る舞っていただいて下さった思い出が懐かしい。残念ながらそれ以降お目に掛かる機会に恵まれなかったが、毎夏、軽井沢アスカ山荘を舞台にして、磯崎夫妻、辻夫妻の間でじつに濃密な会話がなされたであろうことに思いをいたしつつ、今回、辻邦生と宮脇愛子の共創関係の一端に触れることができたことは大きな喜びであった。

(くりた ひでのり)

●栗田秀法先生による連載「現代版画の散歩道」は毎月25日の更新です。次回12月25日を予定しています。どうぞお楽しみに。

栗田秀法
1963年愛知県生まれ。 1986年名古屋大学文学部哲学科(美学美術史専攻)卒業。1989年名古屋大学大学院文学研究科哲学専攻(美学美術史専門)博士後期課程中途退学。 愛知県美術館主任学芸員、名古屋芸術大学美術学部准教授、名古屋大学大学院人文学研究科教授を経て、現在、跡見学園女子大学文学部教授、名古屋大学名誉教授。博士(文学)。専門はフランス近代美術史、日本近現代美術史、美術館学。
著書、論文:『プッサンにおける語りと寓意』(三元社、2014)、編著『現代博物館学入門』(ミネルヴァ書房、2019)、共編訳『アンドレ・フェリビアン「王立絵画彫刻アカデミー講演録」註解』(中央公論美術出版、2025)、「戦後の国際版画展黎明期の二つの版画展と日本の版画家たち」『名古屋芸術大学研究紀要』37(2016)など。
展覧会:「没後50年 ボナール展」(1997年、愛知県美術館、Bunkamura ザ・ミュージアム)、「フランス国立図書館特別協力 プッサンとラファエッロ 借用と創造の秘密」(1999年、愛知県美術館、足利市立美術館)、「大英博物館所蔵フランス素描展」(2002年、国立西洋美術館、愛知県美術館)など

宮脇愛子  Aiko MIYAWAKI
1929年東京生まれ。1952年日本女子大学文学部史学科卒業。阿部展也斎藤義重に師事。1957-66年欧米各地に滞在し、制作活動を行なう。真鍮、石、ガラスを用いた立体作品のほか油彩や墨絵を制作。代表的な彫刻作品《うつろひ》は、モンジュイック・オリンピック広場(バルセロナ)、ラ・デファンス(パリ)、奈義町現代美術館など世界各地にコレクションされている。1998年神奈川県立近代美術館で回顧展、国内外で多数開催。晩年は車椅子での不自由な闘病生活にもかかわらず創作意欲は衰えず、油彩や ドローイングを制作し続けた。2014年8月20日84歳で永逝。
宮脇のシルクスクリーンや銅版画からは繊細で静かな華やかさが漂う。マン・レイが撮影したモナリザのポーズの若き日の宮脇の肖像写真は、夫君の磯崎新のデザインでシルクスクリーンのポスターになった。しなやかな金属ワイヤによる[うつろい]がもたらす軽やかで爽やかな空間のゆらぎは、宮脇の独創で、自然と人間の感性が共鳴する新たな現代美術の可能性を人々に訴えかけている。

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◆「作品集/塩見允枝子×フルクサス」刊行記念展
会期:2025年11月26日(水)~12月20日(土)11:00-19:00 日曜・月曜・祝日休廊
※11月28日(金)、29日(土)16~17時30分の間はイベント参加者以外はご入場いただけませんのでご留意ください。

●ときの忘れものの建築は阿部勤先生の設計です。
建築空間についてはWEBマガジン<コラージ2017年12月号18~24頁>に特集されています。
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