資生堂は10日、2025年12月期の連結最終損益(国際会計基準)が520億円の赤字(前期は108億円の赤字)になる見通しだと発表した。60億円の黒字としていた従来予想を下方修正し、一転赤字となる。会計基準や決算期の変更を考慮せず比べると01年3月期の450億円の赤字を超え過去最大になる。米国事業での468億円の減損損失が響く。
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資生堂は2030中期経営戦略のもと、企業使命BEAUTY INNOVATIONS FOR A BETTER WORLDの実現に向け、当社の企業活動から生み出される文化資産や美術品などのコレクションをより多くの国内外の方々に発信するため、アート支援活動は銀座の「資生堂ギャラリー」に集約します。
これに伴い、資生堂アートハウスは2026年上期の展覧会をもって、6月末に閉館します。

1872年(明治5年)創業の日本を代表する化粧品会社・資生堂が苦戦している。
亭主は1990年代に足掛け6年かけて『資生堂ギャラリー七十五年史 1919-1994』の編纂事業に携わっていたので、ある意味社員の皆さん並みに資生堂の歴史には詳しくなってしまった。

本日は資生堂ギャラリーと縁のあった弁護士・正木ひろし(1896年〈明治29年〉9月29日 – 1975年〈昭和50年〉12月6日)の命日です。
没後50年にあたります。
正木ひろしは第二次世界大戦前より軍国主義批判を繰り広げ、戦時中には官憲による拷問を告発した首なし事件で有名となった。戦後も多くの反権力裁判、冤罪裁判に関与した。1953年に発生した八海事件の弁護を担当。同事件についての著書『裁判官』はベストセラーとなり、『真昼の暗黒』という題名で映画化もされた。その正木が主催した展覧会をご紹介します。

第七回失明勇士に感謝する素人美術展覧會
(だいななかいしつめいゆうしにかんしゃするしろうとびじゅつてんらんかい)
【主催】「近きより」社(正木ひろし)
【会場】資生堂ギャラリー
【会期】1944年(昭和19)12月5日~12月7日
【作家・概要】「十二月の五・六・七日の三日間、銀座資生堂ギャラリーで失明勇士への感謝の志を表わす第七回目の素人美術展覧会が開かれます。第一回は昭和十三年、それから毎年一回ずつ開き既に昨年までに五百二十六点、金八千円以上の献金を致しましたが、もとより本会の意味は、献金の高は第二義的なもので、第一の目的は、我々素人が人一倍に眼の恩恵に浴しているにつけ、それと反対に、この戦争で失明された同胞のあることを想起しそれらの犠牲者のお陰で我々が今日、視力の悦びを確保されている原理を実践し、以って同胞一体の倫理の開明に資せんとするものなることは、毎回本誌で宣言している通りであります。年を追うて戦争が苛烈になって来ましたので、毎年毎年、『今年は中止のやむなきに至るのではないか』との危惧の念を抱き、本年の如きは、責任者である私も、殆ど望みをかけていなかったのですが幸いにして東京大空襲は未だ来らず、第七回を開催することが出来るのは、偏に国防の任にある皇軍将兵の血闘と、銃後の国民の精励の賜に他ならず、意を強うするに足るのであります。しかし、国民の生活が日増しに不自由、不便、多忙を加え、それに資材労力の不足が甚だしいので、果たして作品が集まる否やを気づかっていましたところ、事実はその杞憂を裏切り、既に続々と出品の申し込みがあり、資生堂ギャラリーをいっぱいにする自信はついたのであります。もっとも本年のギャラリーは衝立がなくなったので、壁面が狭くなりましたので、出品数の減少と壁面の減少とが平衡を保ち、昨年度の如く、何回にもわたる掛け換えや、陳列不能の如き失礼をする恐れがなくてすみそうなのは主催として誠に救われたような感がするのであります」(近きより一一月号)。
正木旲(ひろし)の個人雑誌『近きより』は「官や軍の横暴、無知、恥知らずを非難するに当って、ヒューマニティというかわりに、『大御心』と書き、悪虐、非人道というべきところを『正忠・不臣』と置きかえた。そのためにかなり大胆な時局評ができた。(中略)当時、『近きより』を毎号読んでいた人たちは、私のレトリックを知っていたので、私は相当自由に、思うことを読者に伝えることができたのである。個人雑誌の特権だといってもいいだろう」(『正木ひろし著作集 第五巻』三〇四~三〇五頁)と、後年正木が回想しているように、鋭く時局を批判し続けた正木旲(ひろし)にとって、この展覧会の持つ意味は決して少なくはなかったろう。一九四一(昭和一六)年の第四回展以来毎年資生堂で開催(4110F、4210G、4312H)してきたが、ギャラリーがこの月で閉鎖され、戦局も激化の一方でついにこれが最後となった。本展の開催には正木の友人である三昧堂書店主の堀越震六が第一回から最終回まで終始献身的な助力を惜しまなかった。
海軍軍人佐野万吉(彫刻)、金沢地裁所長小泉英一(日本画)、名古屋の公証人田中貞吉(日本画)、大審院勤務松本倉太郎(彫刻)、東京控訴院勤務小熊忠一、逓信省官吏漆畑広作(水彩)、静岡地裁所長上田操、土井晩翠・八重夫妻、ニギニギ亭檜渡元吉、電通社長光永真三(俳画)、院展同人佐々木永秀(書)、芝浦製作所重役藤井隣次(篆刻)、大木卓、銀座屋主人吾妻貞勝(書)、画家柳瀬正夢(画陶器)、鈴木国久(パステル)、牧師福島重義(色紙)、石原房雄、津島晃雄(油絵)、今井嘉幸(日本画)、正木旲(ひろし)など、二十二名の作品百五点が出品された。
売上げは二千六百八十五円五十銭。経費七百二十九円七十五銭を差し引いた純益金千九百五十五円七十五銭を海陸両方に等分し、「失明勇士への慰問金」として各九百七十七円八十八銭ずつを献金した。
柳瀬正夢は、新興美術運動に参加、『無産者新聞』や『赤旗』に漫画や挿絵を描き直接労働者に働きかけ、日本プロレタリア美術史に大きな足跡を残した洋画家。一九三二(昭和七)年には治安維持法違反で検挙され拷問に遭っている。今回正木の呼びかけに応じて陶器自画の帯止めを出品、岩波書店主の岩波茂雄がそれを購入している。柳瀬は翌年(一九四五)五月、新宿駅で空襲に遭い死去した。
【典拠】近きより一一月号、同一二月号(ただし両号とも復刻版より引用)、美術一〇・一一月号(予告)
*失明勇士慰問素人美術展=美術一〇・一一月号(予告)
【文献】『近きより』全五巻(復刻版) 旺文社文庫 一九七九年、『正木ひろし著作集』全六巻 三省堂 一九八三年
【関連】コラム「正木ひろしと『近きより』」
*『資生堂ギャラリー七十五年史 1919~1994』270ページより
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いまでこそ資生堂は世界的な大企業ですが、戦前は規模も小さく、関東大震災、昭和大恐慌、太平洋戦争の荒波をもろに受け幾度も経営危機に陥っています。化粧品製造は平和の時代でこその産業で、戦争中に香水などは商売にならない。勧奨退職と召集令状で社員は激減し、作る商品さえなく、ついには身売り話がでていた戦争末期にもかかわらず、資生堂は1944年12月末までギャラリーを閉鎖せず、年間80回もの展覧会を開催していました。美術団体は解散させられ、画材とて不足する時代、他にそんな企業、画廊はほとんどありませんでした。
もう一つ戦時中の展覧会を挙げるならば松本竣介、靉光ら当時の若い前衛作家たちの「第三回新人畫會展(昭和19年9月12日~14日)でしょう、企業メセナの先駆といわれるだけのことはあります。

裁判官_トリミングver
正木ひろし『裁判官』(光文社・カッパブックス、1955年、表紙写真:福原義春
正木ひろしと福原義春さんとの数奇なめぐりあわせについては別のブログに書きました。

◆「作品集/塩見允枝子×フルクサス」刊行記念展
会期:2025年11月26日(水)~12月20日(土)11:00-19:00 日曜・月曜・祝日休廊

●ときの忘れものの建築は阿部勤先生の設計です。
建築空間についてはWEBマガジン<コラージ2017年12月号18~24頁>に特集されています。
〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS
TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531 E-mail:info@tokinowasuremono.com 
http://www.tokinowasuremono.com/
営業時間=火曜~土曜の平日11時~19時。日・月・祝日は休廊。
JR及び南北線の駒込駅南口から約8分です。