丹下敏明のエッセイ「ガウディの街バルセロナより」
その23 ガウディを知るためのヒント②
ガウディは本当に敬虔なカトリックだったのか
先回のガウディの宗教心についての続きを話したい。1901年、パルマのカテドラルの司教カンピンス(Pere Joan Campins i Barceló, 1859-1915)がガウディを訪れ、司教を驚かせたのはガウディの典礼式についての見解と豊かな知識だった。これでカンピンス司教はすっかりガウディの事を信頼してしまう。1884年に31歳でサグラダ・ファミリア教会の建築家として任命された時は、「カフェ・ペラヨ」という教会を罵倒したりする進歩的な文化人が集まる場所に出入りしていたガウディだった。学校でも宗教関係の科目はいつも落第点すれすれだった事を考えると、この4半世紀の間にガウディは確実に知識を蓄積していたということだろうか。

A. マジョルカ島パルマのカテドラル司教カンピンスの肖像

B. カフェ・ペラヨの広告

C. カンピンス司教がガウディを訪ねた時のサグラダ・ファミリア

D. 1902年8月13日、ガウディは模型を携えパルマへ

E. 改装後のパルマのカテドラルの身廊を祭壇側から見る
パルマのカンピンス司教がガウディを訪れた前年の2月24日には、ソーシャル・ネット・ワーキングに力を入れていた若年のガウディが参加していた「カタルーニャ科学遊覧協会」の会員たちがサグラダ・ファミリアを訪れている。この時、ガウディは50人ほど集まった会員たちの前で4時間にわたって自分が今建設しようとしている聖堂の構想の全貌を会員たちに向かって熱弁を振るっている。これは文化人や社会的地位のある会員たちの集まりであるので、会員たちを通じてこの聖堂がバルセロナの新しいモニュメントとして市民にも伝えられる絶好のチャンスだった。

F. カタルーニャ科学遊覧協会のあった事務所(その後改名)
しかし、これはガウディが敬虔なカトリックになったという事とは違うのではないか。「聖ヨセフ信者協会」を1866年設立し、贖罪の教会をバルセロナに建設しようとして奔走した、ボカベージャ(Josep Maria Bocabella, 1815-92年, San Cugat del Vallès)はすでに他界していた、次いで娘婿(Josep Maria Dalmasas, 1843-93年)が建設を続行していたが、彼も、更に娘も相次いで他界してしまう。

G. 発起人ボカベージャのポートレート

H. ボカベージャが没した年のサグラダ・ファミリアの現場
民間のプロジェクトとして立ち上げていたプロジェクトでその首謀者、後継者が続々と死んでしまうとサグラダ・ファミリア教会の利権自体があいまいになってしまう。そこでバルセロナ司教カタラ(Jaume Català i Albosa, 1835-99年)は1895年7月20日、建設委員会というものを組織する。メンバーは司教が任命する聖職者や知識人、経済界の人物によって組織されることになり、これにより「サグラダ・ファミリア」の施主が再び明快になった。そしてもちろん施主である建設委員会はガウディへの聖堂建築続行を改めて依頼している。
ダルマッサス生存中には、敷地の所有権が司教座に移されていたが、設立された建設委員会から資金援助があったわけでもなく、司教座はほぼ所有権を主張しただけだった。
つまり、ガウディは実質的に92年以降、施主不在でプログラムの製作、果ては更に後年になっては資金調達すら自分でやらなくてはならなくなってしまう。ガウディは原案の3身廊形式から5身廊形式に1885年に拡張している。その後1890年にはラテン十字の交差廊を更に伸ばして、敷地一杯を使おうと変更している。そして1906年には更に敷地をはみ出して正面入り口へのアクセスを設計している。

I. ガウディが1902年に描いた全体像のスケッチ
いずれもこれは建築上の話だが、イエスの生涯を3つのトピックスとして分け、誕生、苦難、栄光という3つのファサードを設け、それぞれの逸話を彫刻で建築に張り付けた。そして身廊内部の柱にはそれぞれ聖人の名前を与え、建築の各部位をイコノグラフィー化しプログラムを組み立てている。このこと自体建築家がするべき範囲を超えた回答をガウディは出している。それは何故かと言えば施主が実質的に不在で、自らがプログラムを組み立てざるを得なかったからだ。
このためにガウディは聖書を読み、この回答を得るために教義を研究しなければならなかった。ガウディは子供の頃から関心の無かった宗教の知識を学んでいかなくてはならなかった。これが4半世紀の間にガウディの聖書や教理についての知識を深めることの原因だったのではないか。聖職ににあるカンピンスさえ驚かせた。しかし、これをガウディが敬虔な信者であると安易に結び付けているのはどうだろうか。
初代のガウディの伝記作家となったラフォイス(Josep Francesc Ràfols i Fontanals, 1889-1965年)はサグラダ・ファミリアの工房に出入りし、特に1914年から16年まではドラフトマンとして工房で働いていた。そして、ガウディの晩年には膨大な図面やスケッチ、膨大な石膏模型などのアーカイブを整理したりしていた。その関係でガウディ没にすぐさま伝記をまとめることが出来た。この本は唯一、ガウディの残した一次資料を駆使し、著書によって膨大な写真も撮られた。幸か不幸か、そのためにスペイン戦争でこの工房が焼き討ちにあって、全ての紙が焼失し、石膏模型はバラバラに壊されてしまった。しかしネガは1936年7月19日の惨事にはサグラダ・ファミリアの工房に保存されていなかったのでこれを逃れることが出来た。

J. スペイン戦争で壊された模型の残骸
この写真が貴重な資料となったのは言うまでもない。没ガウディのサグラダ・ファミリアの建設に携わったのはドメネク・スグラーニェス(Domènec Sugrañes/Sugranyes i Gras, 1878-1939年)、フランセスク・キンターナ(Francesc de Paula Quintana i Vidal (Barcelona, 1892-1966) だったが、スペイン戦争時にはキンターナが健在で、世情が落ち着いた時に始められた作業はこの壊された石膏模型の修復だった。

K. 後年修復された聖器室の模型(黒い部分がオリジナル)
この作業は膨大な欠片を分類し、これを繋ぎ合わせるという考古学者がやる発掘から出た陶器片を繋ぎ合わせるほどの厄介な作業だった。これにラフォイスが撮らせた写真が役に立ったのは言うまでもない。
修復した石膏模型から弟子たちは図面を起こし、没ガウディの建設が続行された。

L. ガウディによって考えられた部位の名称

M. 1974年に弟子のボネットらによって描かれた縦断面図
ガウディは敬虔な教徒だと刻印を押しているのは80年代に建設を再開させた建築家たち(Isidre Puig i Boada(1891-1987年), Lluís Bonet i Garí, 1893-1993年)も含め、皆キリスト教徒だった。
(たんげ としあき)
(A, D, E, F, G, J, Kは筆者撮影)
■丹下敏明 (たんげ としあき)
1971年 名城大学建築学部卒業、6月スペインに渡る
1974年 コロニア・グエルの地下聖堂実測図面製作 (カタルーニャ建築家協会・歴史アーカイヴ局の依頼)
1974~82年 Salvador Tarrago建築事務所勤務
1984年以降 磯崎新のパラウ・サン・ジョルディの設計チームに参加。以降パラフォイスの体育館, ラ・コルーニャ人体博物館, ビルバオのIsozaki Atea , バルセロナのCaixaForum, ブラーネスのIlla de Blanes計画, バルセロナのビジネス・パークD38、マドリッドのHotel Puerta America, カイロのエジプト国立文明博物館計画 (現在進行中) などに参加
1989年 名古屋デザイン博「ガウディの城」コミッショナー
1990年 大丸「ガウディ展」企画 (全国4店で開催)
1994年~2002年 ガウディ・研究センター理事
2002年 「ガウディとセラミック」展 (バルセロナ・アパレハドール協会展示場)
2014年以降 World Gaudi Congress常任委員
2018年 モデルニスモの生理学展 (サン・ジョアン・デスピCan Negreにて)
2019年 ジョセップ・マリア・ジュジョール生誕140周年国際会議参加
主な著書
『スペインの旅』実業之日本社 (1976年)、『ガウディの生涯』彰国社 (1978年)、『スペイン建築史』相模書房 (1979年)、『ポルトガル』実業之日本社 (1982年)、『モダニズム幻想の建築』講談社 (1983年、共著)、『現代建築を担う海外の建築家101人』鹿島出版会 (1984年、共著)、『我が街バルセローナ』TOTO出版(1991年)、『世界の建築家581人』TOTO出版 (1995年、共著)、『建築家人名事典』三交社 (1997年)、『美術館の再生』鹿島出版会(2001年、共著)、『ガウディとはだれか』王国社 (2004年、共著)、『ガウディ建築案内』平凡社(2014年)、『新版 建築家人名辞典 西欧歴史建築編』三交社 (2022年)、『バルセロナのモデルニスモ建築・アート案内』Kindle版 (2024 年)、Walking with Gaudi Kindle版 (2024 年)、ガウディの最大の傑作と言われるサグラダ・ファミリア教会はどのようにして作られたか:本当に傑作なのかKindle版 (2024 年)など
・丹下敏明のエッセイ「ガウディの街バルセロナより」は隔月・奇数月16日の更新です。次回第24回は2026年3月16日の予定です。
◆Tricolore 2026/藤江民・谷川桐子・釣光穂
会期:2026年1月9日(金)―1月24日(土) 11:00-19:00 ※日・月・祝日休廊
2010年から開催しているシリーズ企画「Tricolore展」は、ときの忘れものが選ぶ作家3名の展覧会です。
6回目となる本展は、女性アーティストの藤江民・谷川桐子・釣光穂の作品をご紹介します。
版画家・藤江民は、版画だけなく、オリジナル手法で制作した大作の油絵や、タイルの作品「割絵」などを出品します。
谷川桐子は、油彩で緻密に描いた砂利や地面の上にハイヒールやブラジャーなどを描いた作品を制作しています。
陶芸家・釣光穂は手びねりという陶芸の技法で、まるで編み物で編んだようなオブジェを制作しています。
三者三様のユニークな作品をご覧いください。
◆「綿貫不二夫 12作家の版画制作を語る半世紀 第1回オノサト・トシノブ 聞き手/三上豊」
開催日時:2026年1月24日(土)12時~(要予約)
会場:ときの忘れもの
私たちが現在までにエディションした約1000種類の中から、オノサト・トシノブ、菅井汲、内間安瑆、ジョナス・メカス、元永定正、アンディ・ウォーホル、宮脇愛子、草間彌生、靉嘔、磯崎新、安藤忠雄、関根伸夫の12点を選び、12作家とどうのように関わり、エディション作品をつくってきたかを公開で語ることとなりました。聞き手は現代版画センターを知る編集者の三上豊氏にお願いしました。
毎月1回、第4土曜日の12時から開催します(要予約)。
どなたでも参加できますが、事前予約制とします。
参加費:1,000円(資料代を含む)
参加ご希望の方は、お名前(フルネーム)、ご連絡先(住所)を明記の上、メールにてお申込みください。
会場の都合で(狭いので)定員は5名とします。

オノサト・トシノブ Toshinobu ONOSATO
《Ce 1》
1974年
シルクスクリーン(刷り:岡部徳三)
Image size: 21.8×27.1cm
Sheet size: 28.1×33.2cm
Ed.200 サインあり
*現代版画センターエディションNo.1
*オノサトのレゾネ98番ではタイトルが「G.H.C.5」(Gendai Hanga Centerの略)となっている
(『ONOSATO オノサト・トシノブ版画目録 1958-1989』ART SPACE 1989年刊)
■三上 豊(みかみ ゆたか)
1951年東京都に生まれる。11年間の『美術手帖』編集部勤務をへて、スカイドア、小学館等の美術図書を手掛け、2020年まで和光大学教授。現在フリーの編集者、東京文化財研究所客員研究員。主に日本近現代美術のドキュメンテーションについて研究。『ときわ画廊 1964-1998』、『秋山画廊 1963-1970』、『紙片現代美術史』等を編集・発行。
~~~~~~~~~~
●ときの忘れものの建築空間(阿部勤 設計)についてはWEBマガジン<コラージ2017年12月号18~24頁>に特集されています。
〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS ときの忘れもの
TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531
E-mail:info@tokinowasuremono.com
営業時間=火曜~土曜の平日11時~19時。日・月・祝日は休廊。
JR及び南北線の駒込駅南口から約8分です。



コメント