平嶋彰彦のエッセイ「東京ラビリンス」のあとさき
その36 千鳥ヶ淵と新宿御苑 — ソメイヨシノをめぐって
文・写真 平嶋彰彦
昨年の東京のさくら開花宣言は3月29日だった。
この月の街歩きは3月28日。散策地は千鳥ヶ淵で、花見をかねていた。その2日前、幹事の福田和久君から次のようなメール。
「昨日は、桜はまだつぼみで人出もなく、殺風景な下見でした。28日は多分満開少しまえで、楽しみです」
つまり、馬鹿なはなしだが、開花宣言の1日前に花見をしたのである。
街歩きの当日。半蔵門前のサクラは何の種類だろうか、1分咲きか2分咲きだったが、サクラ並木の大半を占めるソメイヨシノは冬景色と少しも変わらなかった(ph1、ph2)。
あたりまえだが、開花宣言前に花見をしたのは、このとき以外、あとにもさきにもない。日程を遅らせればいいだけのことだが、9人もそろっての集団行動である。サクラが咲いていなければ、咲いていないなりの街歩きでもかまわない。そんな大胆な判断から、予定通りに千鳥ヶ淵を半蔵門から田安門まで歩いてまわった(ph1~ph10)。

ph1 半蔵門濠。千鳥ヶ淵公園。つぼみのままのサクラの木。半蔵門付近。2024.3.28

ph2 半蔵門濠。千鳥ヶ淵公園。1分咲きか2分咲きのサクラ。奥は半蔵門。2024.3.28

ph3 内堀通り。英国大使館。1891年、公使館前の道路にソメイヨシノを植えたのが千鳥ヶ淵のサクラの始めとされる。現在の建物は1929年の竣工。2024.3.28
千鳥ヶ淵は、竹橋の毎日新聞社から歩いて10分ほどの距離にある。サクラの季節が近づくと、気持ちが落ち着かなくなった。ガラス窓の向かいは紀伊国坂(代官町通り)で、サクラ並木になっている。近代美術館を横目に坂を上っていくと、煉瓦造りの旧近衛師団司令部庁舎がある。その先の土手に立つと千鳥ヶ淵が見下せる。
花見をするのはたいてい昼休みだった。内堀通りの英国大使館のあたりまで行って、引き返す。北の丸公園の歩道からながめる千鳥ヶ淵のサクラも好きだった。仕事が忙しくなければ、戦没者墓苑のある千鳥ヶ淵緑道を歩いて、九段下まで足をのばした。
めずらしく夜桜見物をしたこともある。このときは写真部(新聞本紙の取材部門)の岡崎一仁君たちと一緒だった。ところが出かけるとまもなく雨が降りはじめた。あきらめて帰ろうとすると、ホームレスの人たちから声をかけられた。雨宿りしていけ、というのである。
彼らはブルーシートを樹の枝に張り渡し、その下で酒を酌み交わしていた。関東大震災の直後、都心でみられた俄か作りのバラック建築と同じである。私たちは酒を充分すぎるほど持っていた。渡りに船とばかりに、彼らの宴会に加わらせてもらうことになった。

ph4 半蔵門濠。代官町通りの土手。菜の花が咲く。奥は永田町。2024.3.28

ph5 半蔵門濠。代官町通りの土手。1900年の築造。千鳥ヶ淵を二つに分断した。2024.3.28
千鳥ヶ淵は、半蔵門から九段下の田安門までの濠をさすが、1900(明治33)年に代官町通りの道筋を変更するにともない、土手を築いた(ph5)。そのため濠は分断され、現在は半蔵門から英国大使館前(代官町通り)までを半蔵門濠と呼んでいる(註1)。
太田道灌が江戸城を築いた1457(長禄元)年のころは、現在とは自然の趣きが異なり、江戸城の一帯は、丘陵と谷地が複雑に入り組んでいて、代官町付近には丘陵からの水をあつめた小河川の流れがあった。
1590(天正18)年、徳川家康が江戸城に入るが、家康にしたがう将兵は太田道灌の場合とは規模がちがったから、彼らを賄うに足る飲料水を確保することが緊急の課題になった。そこで、現在の乾門のあたりで川をせき止め、上水池として開発することになった。それが千鳥ヶ淵の起源だということである。さらに1653(承応2)年には、玉川上水が完成するが、この水も半蔵門の付近から千鳥ヶ淵に配水されていたという(註2)。
千鳥ヶ淵がサクラの名所になるのは、近代に入ってからである。
1881(明治14)年、東京市は英国公使館前と相談し、公使館前の道路(現在の内堀通り)にサクラの苗木を植えることにした(ph3)。サクラの品種はソメイヨシノで、書記官のアーネスト・サトウが手ずから植えたという。その後の1898年、駐日英国公使となったアーネスト・サトウは、数百本のソメイヨシノの苗木を東京市に寄贈した。その苗木は公使館の前ばかりでなく、現在の千鳥ヶ淵公園付近にも植えられた(註3)。
このサクラ並木は1920(大正9)年に東京府の天然記念物に指定された。樹齢は20年を過ぎている。ソメイヨシノは成長がはやく、15年ほどで花付きが良くなるというから、そのころには見事な花を咲かせていたのである。1923年に関東大震災が起きるが、その復興事業として、半蔵門から九段方面へ抜ける内堀通りがつくられた。それにともない、サクラの植樹も計画され、千鳥ヶ淵のサクラ並木は英国公使館前から田安門まで連なる現在のような姿に整えられた(註4)。
昨年歩いたとき、千鳥ヶ淵緑道ではサクラの幹に菰を巻くとか(ph9)、向かいの北の丸公園の土手ではサクラの木を伐採していた。どうしたのかと思って調べると、ソメイヨシノは成長が早いかわりに、寿命も60年から80年とほかのサクラよりも短い。病虫害の被害が発生しやすく、高齢化すると幹や枝が腐朽しやすい。それが欠点だという(註5)。

ph6 千鳥ヶ淵緑道。サクラ並木の若いカップル。2024.3.28

ph7 千鳥ヶ淵緑道。閑散としたボート乗り場。1950年にできた。奥は首都高都心環状線。2024.3.28

ph8 千鳥ヶ淵緑道。開花を始めたソメイヨシノの古木。2024.3.28
千鳥ヶ淵のつきあたりが田安門である。内堀通り(九段坂)を隔てた向かいに靖国神社がある(ph10)。その前身になる招魂社は1869(明治2)年に創建された。1879年に靖国神社と改称されるが、創建の当初から境内にはマツやウメとともにサクラが植えられた。サクラの品種は明確ではないようだが、その後、陸海軍の戦友会が盛んにサクラを献納したことから、千鳥ヶ淵よりいちはやく、明治20年代(1887~1896年)になると、サクラの名所として知られるようになった(註6)
サクラの開花宣言の標準木になっているソメイヨシノが靖国神社にある。もとは気象庁の庭で観測していたが、庁舎が移転することになり、1966年からは開花宣言の観測地を気象庁から靖国神社に変更したのだという(註7)。
田安門に立つと、九段坂の上り方向に常燈明台、その右に靖国神社の大鳥居がみえたが、開花宣言前の標準木をみる気にはならなかった。坂の下にはコンクリートのビルに瓦屋根をのせた九段会館。1934年につくられた旧軍人会館である。東日本大震災で大きな被害をうけたと聞いていたが、修復されて結婚式場やレストランなどの施設が営業を再開していた。
私が新聞社に勤めていたころ、屋上の庭園にビヤホールがあり、夏になると会社帰りの人たちでにぎわっていた。上ってみると、眼下にはハスの枯れ葉が覆う牛ヶ淵、その向こうにはサクラ並木に囲まれた武道館が眺められた。
武道館といえば、1966年にビートルズが来日し、その公演会場になった。あれは6月だったか7月だったか、肌寒い雨のふる日だった。田舎(館山)から上京してきた妹を出迎え武道館まで連れて行った。私が大学2年のとき、妹は高校2年だった。彼女は公演のチケットをラジオ番組の抽選に応募して運よく手に入れた。サクラ開花宣言の観測地点が気象庁から靖国神社に移ったその年の出来事になる。

ph9 千鳥ヶ淵緑道。サクラの木に害虫駆除の菰を巻いている。北の丸公園では木を伐採していた。2024.3.28

ph10 九段坂。正面は高燈籠(常燈明台)。右は開花宣言の標準木がある靖国神社。2024.3.28
サクラの開花宣言から8日後の4月6日、新宿に出かけた。
会社の上司だった仁科邦男さんから新宿御苑の観桜会に誘われたのである。毎年の恒例行事になっているが、ことしは亡くなった三輪晴美さんを偲ぶ会を兼ねている。平嶋さんは彼女の飲み仲間だから声をかけてみた、ということだった。
三輪さんが飲み仲間だったのは同じ職場(ビジュアル編集室)で働いていたからである。しかし、彼女との因縁はもっと前からで、仕事を組む機会が2度あった。どちらも私はカメラマンで、彼女は編集者だった。
最初は『養老天命反転地―荒川修作+マドリン・ギンズ:建築的実験』。2度目は『町の履歴書 神田を歩く』(文 森まゆみ、写真 平嶋彰彦)(註8)。
『養老天命反転地』は私の出版写真部時代になる。三輪さん(図書編集部)から撮影の申請をうけたあと、しばらくしても担当者が決まらなかった。荒川修作は現代美術それもダダイズムの第一人者である。企画書と参考資料を読めば、敬遠したくなるのは分からないでもなかった。とはいっても、職場長は私だった。そのままにしておけないから、自分で担当することにした。
『町の履歴書 神田を歩く』は、管理部門(出版制作部)から編集部門(ビジュアル編集室)に戻ってからの仕事だった。森まゆみさんとはかねてから東京をテーマにした企画を考えていた。まずは雑誌(『アミューズ』)に連載し、まとまったところで、そのつど書籍化する目論見だった。この企画の編集をしてくれたのが三輪さんだった。
彼女は荒川修作さんからも森まゆみさんからも信頼があつかった。飲み込みが早く、臨機応変に物事を処理できたからである。しかし、どういうわけか、締め切りを守らないという悪癖があった。そのため社内的な評判は、作家たちのそれとは反対に、のろまでやっかいな編集者とみられがちだった。
『養老天命反転地』から3年後、三輪さんは『ケルアック』(バリー・ギフォード、ローレンス・リー)を編集している(註9)。『ケルアック』はジャック・ケルアック。1950年代のアメリカで台頭したビート・ジェネレーション(ビートニク)の代表的な小説家。500ページにおよぶその評伝である。おそらく企画も彼女だったにちがいない。私が写真に興味をもつきっかけの1つは、ロバート・フランクの『アメリカ人』を学生時代にみたことだった。この写真集の解説を書いていたのがジャック・ケルアックなのである(註10)。
荒川修作の『養老天命反転地』は、作品の意図も背景も、にわか勉強では手に負えないしろものだった。しかも日帰り(工事中)と1泊2日(完成時)のあわただしい取材日程だった。それでも私なりの工夫はした。
肉眼のイメージに近づけるため、ふだん使っている35ミリカメラではなく、4×5の大型カメラで撮影すること。また画面構成にあたっても、垂直と水平を正確にとり、クローズアップでなければ、なるべく地平線を入れ込むこと、等々。撮影の対象は現代美術の前衛作品だが、写真は煎じ詰めれば複写である。記録写真の古臭い撮影方法に立ち帰るのが、理に適っているのではないか、と考えたのである。
三輪晴美さんは仕事仲間にとどまらず、気のおけない飲み友だちだった。にもかかわらず、職場でも酒の席でも、ダダイズムやビートニクを話題にすることは一度もなかった。彼女はロバート・フランクの写真をみたことがあったのだろうか。あるいはボブ・ディランの音楽に夢中になったことがあったのだろうか。いまさら聞いてみるわけにもいかない。それが口惜しい。彼女を偲ぶといっても、肝心なことがまったく分かっていないのである。

ph11 新宿御苑。満開のソメイヨシノと花見客。2024.4.6

ph12 新宿御苑。満開のソメイヨシノと花見客。2024.4.6

ph13 新宿御苑。満開のソメイヨシノと花見客。2024.4.6
会食は新宿通りの中華料理店。終えて、新宿御苑に向かった。
新宿御苑は八重桜の名所として知られる。先にも書いたように、開花宣言は3月29日。お目当ての八重桜はまだつぼみの状態だったが、ソメイヨシノは満開の花盛りだった。
御苑のソメイヨシノには期待していなかった。というよりもなにも知らなかった。ところが入口は黒山の人だかりになっていて、入園券を求める列が続いている。なぜこんな大騒ぎになっているのか。園内に入るとすぐに分かった。
ソメイヨシノは空に向かって思いのまま枝を伸ばしている。満開の花弁で彩られた屈託のない艶やかさは言葉にはしがたい。写真を撮るつもりはなかったが、見逃す手もない。リュックからカメラを取りだした(ph11~ph20)。
新宿御苑はいまならだれでもなかに入れて花見を楽しむことができる。一般公開されたのは、戦後の1949(昭和24)年である(註11)。これまでうっかりしていたが、「御苑」というからには、ふつうの公園ではなく、皇室の庭園なのである。
皇室庭園として新宿御苑が完成したのは1906(明治39)年。設計にはベルサイユ園芸学校教授アンリ・マルティネがフランスから招請され、監督を務めたのは我が国の造園家として名高い福羽逸人と市川之雄だった。いわば「和魂洋才」からなる西洋風の宮廷庭園なのである(註12)。
1917(大正6)年からは、新宿御苑で皇室主催の観桜会が行われるようになった。国際親善を目的とした行事で、もとは吹上御苑や浜離宮で催されていた。おそらく、近代国家の装いを整えたことを海外に示すため、会場を新宿御苑に移したものと思われる。1922年の観桜会には、英国のエドワード皇太子(後のエドワード8世)が招待され、裕仁皇太子(後の昭和天皇)と園内を歩く写真が残されている(註13)。
新宿御苑には約70種900本とも約65種1300本ともいわれるサクラが植えられている。観桜会で脚光を浴びたのは八重桜の一葉という品種だが、ソメイヨシノはその前座を演じる役者の一人に選ばれたものと思われる(註14)。

ph14 新宿所縁。メタセコイアのある広場。2024.4.6

ph15 新宿御苑。囲い地。何か育てているのである。2024.4.6

ph16 新宿御苑。新緑が目に鮮やかなケヤキ林。2024.4.6

ph17 新宿所縁。今を盛りに咲くハナニラ。2024.4.6
ソメイヨシノは、連載その12(前編)にも書いたが、オオシマザクラとエドヒガンの雑種である。人工交配なのか自然交配なのかはっきりしないようだが、ソメイヨシノが日本各地に広まるのは、幕末のころに染井の植木屋たちが販売を始めてからだという。染井は文京区駒込の地名で、「ときの忘れもの」から500メートルほどにある染井通りの近辺のことである。
川添登は『東京の原風景—都市と田園の交流』のなかでこう述べている(註15)。
桜は、古くから日本人に愛されていたばかりではない、欧米列強の包囲下に、日清・日露の戦役を戦いぬいていった軍国日本の黎明期としての明治に、これほどぴったりした花はなかったのである。
新宿御苑や靖国神社にかぎらない。明治政府は近代国家に見合う社会的環境を全国に整備していった。そのさいに、公共の場所にふさわしい花樹として選ばれたのがサクラで、その代表種がソメイヨシノだった。
明治時代になると、それまでの身分制度が廃止された。その代わりに、兵農分離もなくなり、国民皆兵を原則とする徴兵制度ができた。見方を逆にすれば、農民も町人も武士にさせられることになった。しかし、彼らの多くは国家のために命を犠牲にする覚悟が希薄だった。
ソメイヨシノは、先にも書いたように、接ぎ木で簡単に増やせるうえに、成長するのも早く、幼木のうちから花付きがよかった。そして咲くとなると大量の花をいっせいに咲かせる。しかも、散りぎわも見事で、いっせいに散った(註16)。「花々しく散る」という流布された物言いがある。「花」はサクラ、「散る」の主語は人である。軍国日本の国民精神を形成するにあたって、このソメイヨシノの外観の美しさと生態的な特徴が、武士道の象徴に見立てられたのである。

ph18 新宿御苑。園内には約70種900本とも約65種1300本ともいわれるサクラが植えられている。2024.4.6

ph19 新宿御苑。オオシマザクラ。ソメイヨシノはオオシマザクラとエドヒガンの雑種とされる。2024.4.6

ph20 新宿御苑。ソメイヨシノの古木。2024.4.6
軍(いくさ)におもむく時の三忘といふは、家をわすれ、妻子をわすれ、命をわするゝ、是を三忘と云、此三つをわすれざれば、戦場のはたらきかなふまじといへ共、(中略)その場にのぞんで何のやくにもたゝぬ事也、(中略)わすれんと思ふ心あらば猶わすられぬ事たるべし、我等事は、御静謐の御代に生れて、此年まで世のしづかなるにまかせて、いそがしき世のことをしらず、
戸田茂睡の『梨本書』からの引用である(註17)。茂睡は武士を辞めて、彼自身の言葉によれば「なま遁世者」になった。「御静謐の御代」は五代将軍綱吉の時代。「いそがしき世」とは関ヶ原の合戦や大阪の陣のあった家康の時代のことである。
武士が武士としての職務をまっとうするには、身を軽くする必要があった。家(父母)の恩を忘れ、妻子への愛情を忘れ、自らの命を忘れる。この三忘が武士に不可欠の倫理観とされた。しかし、忘れようとすれば、ぎゃくに想いを募らせるのが人間というものではないのか。そんな言いぐさは、命のやりとりをしたことのない儒学者や兵法家の机上の戯言で、いざいくさとなれば、なんの役にも立たない、と扱き下ろしているのである。
茂睡は、『梨本書』のなかで、「子たらんもの、父母の恩を第二とも第一とも思うべし」とも書いている。なぜなのか。「思ふにわが親の心、天照大神の御心とひとしき」だからである。「天照大神の御心」というのは「此日の本へ、御まごの瓊々杵尊(ににぎのみこと)を御下しなさ」れた、天孫降臨の神話をさす。このとき、アマテラスはニニギを「ふすまを以てつゝみ申た」のだが、その「つゝみ申た心」というのは、「わが親の心とひとしい」と彼なりに理解したのである。
「ふすま」とは、寝る時にからだの上にかける夜具のことである。『日本書紀』には真床追衾(まどこおうふすま)と書かれる(註18)。甲も乙もない庶民の出産に置きかえれば、母親の体内で胎児がくるまって眠る胞衣のことである。「ふすまを以てつゝみ申た心」とは仏教で説くところの慈悲心にほかならない。
戸田茂睡は武士から転位して「なま遁世者」に身をやつした。「なま遁世者」とは、路上をさまよう「No Direction Home」の乞食坊主のことである(註19)。今からおよそ300年前の封建時代のことになるが、戸田茂睡が選んだ第二の人生は、天命反転のダダイズムもしくはビートニクのように思われてならない。
(ひらしま あきひこ)
【註】
註1 『皇居外苑』「千鳥ケ淵」(環境庁) 千鳥ケ淵|皇居外苑|国民公園|環境省
註2 『千鳥ヶ淵環境再生プラン』「2.千鳥ヶ淵及び周辺の歴史、現状と課題」(環境省皇居外苑管理事務所、2013) untitled。(『図説 江戸・東京の川と水辺の事典』「第四章江戸東京の水系」(鈴木理生 編著、柏書房、2003)
註3 『千鳥ヶ淵環境再生プラン』「2.千鳥ヶ淵及び周辺の歴史、現状と課題」
註4 『千鳥ヶ淵環境再生プラン』。「2.千鳥ヶ淵及び周辺の歴史、現状と課題」。岡山理科大学旧植物生態研究室(波田研)ホームページ ソメイヨシノ
註5 「ソメイヨシノの性質と衰弱対策」(岐阜県森林研究所) ソメイヨシノの性質と衰弱対策(1)
註6 『千鳥ヶ淵環境再生プラン』。「2.千鳥ヶ淵及び周辺の歴史、現状と課題」
註7 「(気象庁)東京管区気象台 東京のさくら」 さくら豆知識
註8 『養老天命反転地―荒川修作+マドリン・ギンズ:建築的実験』、毎日新聞社、1995)。『町の履歴書 神田を歩く』(文 森まゆみ 写真 平嶋彰彦、毎日新聞社、2003)
註9 『ケルアック』(バリー・ギフォード ローレンス・リー、訳 青山南 堀雅久 中俣真知子 古屋美登里、毎日新聞社、1998)
註10 ロバート・フランクの『アメリカ人』は、「1958年にフランスで初版が発売され、59年にアメリカ版が刊行されて以降、くり返し再刊された」 『アメリカ人』ロバート・フランク – artscape。私の持っているのは、Grossman版(1969)。連載その35を参照のこと 。
註11~註14 『新宿御苑の歴史探訪』(新宿御苑) 【新宿御苑の歴史探訪】皇室行事「観桜会」 : 新宿御苑 | 一般財団法人国民公園協会。『国民公園及び戦没者墓苑』「[新宿御園] 圓内マップ」(環境庁) 園内マップ|新宿御苑|国民公園|環境省。『東京の地霊(ゲニウス・ウキ)』「7 幻と化した「新宿ヴェルサイユ宮殿」―造園家福羽逸人の構想と三代の聖域」(鈴木博之、ちくま文庫、2005)『改定新版 世界大百科事典』「新宿御苑」(田中正人、平凡社)新宿御苑(シンジュクギョエン)とは? 意味や使い方 - コトバンク
註15、註16 『東京の原風景—都市と田園の交流』「二 庭園モザイク都市―江戸から東京へ 明治の都市造形 ソメイヨシノ」(川添登、ちくま学芸文庫、1993)
註17 『梨本書』(戸田茂睡、『戸田茂睡全集』所収、国書刊行会、1915)。『梨本書』末尾に「元禄七甲戌年霜月日」とある。 戸田茂睡全集 (国書刊行会本) - 国立国会図書館デジタルコレクション
註18 なお、『日本書紀』本文には、「時に、高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)、真床追衾を以て、皇孫天津彦彦火瓊瓊杵尊に覆ひて、降りまさしむ」と書かれている(『日本書紀 上』「巻第二 神代下」、『日本古典文学大系67』所収、岩波書店、1967)。タカミムスヒはニニギの母方の祖父、アマテラスは父方の祖母。「産霊」の「むす」は生じる、「ひ」は霊威のこと(『精選版日本語大辞典』)。
註19 出家は僧侶になること。家を離れるのは社会からの離脱・追放を意味する。『No Direction Home: Bob Dylan』(監督 マーティン・スコセッシ、2005)は、ボブ・ディランの半生を描いたドキュメンタリー映画。「To be on your own With no direction home」は、ボブ・ディランの『Like a Rolling Stone』(1965)の一節。
・ 平嶋彰彦のエッセイ 「東京ラビリンス」のあとさき は隔月・奇数月14日に更新します。
次回は2025年5月14日です。
■平嶋彰彦 HIRASHIMA Akihiko
1946年、千葉県館山市に生まれる。1965年、早稲田大学政治経済学部入学、写真部に所属。1969年、毎日新聞社入社、西部本社写真課に配属となる。1974年、東京本社出版写真部に転属し、主に『毎日グラフ』『サンデー毎日』『エコノミスト』など週刊誌の写真取材を担当。1986年、『昭和二十年東京地図』(文・西井一夫、写真・平嶋彰彦、筑摩書房)、翌1987年、『続・昭和二十年東京地図』刊行。1988年、右2書の掲載写真により世田谷美術館にて「平嶋彰彦写真展たたずむ町」。(作品は同美術館の所蔵となり、その後「ウナセラ・ディ・トーキョー」展(2005)および「東京スケイプinto the City」展(2018)に作者の一人として出品される)。1996年、出版制作部に転属。1999年、ビジュアル編集室に転属。2003年、『町の履歴書 神田を歩く』(文・森まゆみ、写真・平嶋彰彦、毎日新聞社)刊行。編集を担当した著書に『宮本常一 写真・日記集成』(宮本常一、上下巻別巻1、2005)。同書の制作行為に対して「第17回写真の会賞」(2005)。そのほかに、『パレスサイドビル物語』(毎日ビルディング編、2006)、『グレートジャーニー全記録』(上下巻、関野吉晴、2006)、『1960年代の東京 路面電車が走る水の都の記憶』(池田信、2008)、『宮本常一が撮った昭和の情景』(宮本常一、上下巻、2009)がある。2009年、毎日新聞社を退社。それ以降に編集した著書として『宮本常一日記 青春篇』(田村善次郎編、2012)、『桑原甲子雄写真集 私的昭和史』(上下巻、2013)。2011年、早稲田大学写真部時代の知人たちと「街歩きの会」をつくり、月一回のペースで都内各地をめぐり写真を撮り続ける。2020年6月で100回を数える。
2020年11月ときの忘れもので「平嶋彰彦写真展 — 東京ラビリンス」を開催。
●本日のお勧め作品は平嶋彰彦です。
平嶋彰彦ポートフォリオ『東京ラビリンス』
オリジナルプリント15点組
各作品に限定番号と作者自筆サイン入り
作者: 平嶋彰彦
監修: 大竹昭子
撮影: 1985年9月~1986年2月
制作: 2020年
プリント: 銀遊堂・比田井一良
技法: ゼラチンシルバープリント
用紙: バライタ紙
シートサイズ: 25.4×30.2cm
限定: 10部
発行日: 2020年10月30日
発行: ときの忘れもの
こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください。
●ときの忘れものの建築空間についてはWEBマガジン<コラージ2017年12月号18~24頁>に特集されています。
〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS ときの忘れもの
TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531
E-mail:info@tokinowasuremono.com
http://www.tokinowasuremono.com/
営業時間=火曜~土曜の平日11時~19時。日・月・祝日は休廊。
JR及び南北線の駒込駅南口から約8分です。
その36 千鳥ヶ淵と新宿御苑 — ソメイヨシノをめぐって
文・写真 平嶋彰彦
昨年の東京のさくら開花宣言は3月29日だった。
この月の街歩きは3月28日。散策地は千鳥ヶ淵で、花見をかねていた。その2日前、幹事の福田和久君から次のようなメール。
「昨日は、桜はまだつぼみで人出もなく、殺風景な下見でした。28日は多分満開少しまえで、楽しみです」
つまり、馬鹿なはなしだが、開花宣言の1日前に花見をしたのである。
街歩きの当日。半蔵門前のサクラは何の種類だろうか、1分咲きか2分咲きだったが、サクラ並木の大半を占めるソメイヨシノは冬景色と少しも変わらなかった(ph1、ph2)。
あたりまえだが、開花宣言前に花見をしたのは、このとき以外、あとにもさきにもない。日程を遅らせればいいだけのことだが、9人もそろっての集団行動である。サクラが咲いていなければ、咲いていないなりの街歩きでもかまわない。そんな大胆な判断から、予定通りに千鳥ヶ淵を半蔵門から田安門まで歩いてまわった(ph1~ph10)。

ph1 半蔵門濠。千鳥ヶ淵公園。つぼみのままのサクラの木。半蔵門付近。2024.3.28

ph2 半蔵門濠。千鳥ヶ淵公園。1分咲きか2分咲きのサクラ。奥は半蔵門。2024.3.28

ph3 内堀通り。英国大使館。1891年、公使館前の道路にソメイヨシノを植えたのが千鳥ヶ淵のサクラの始めとされる。現在の建物は1929年の竣工。2024.3.28
千鳥ヶ淵は、竹橋の毎日新聞社から歩いて10分ほどの距離にある。サクラの季節が近づくと、気持ちが落ち着かなくなった。ガラス窓の向かいは紀伊国坂(代官町通り)で、サクラ並木になっている。近代美術館を横目に坂を上っていくと、煉瓦造りの旧近衛師団司令部庁舎がある。その先の土手に立つと千鳥ヶ淵が見下せる。
花見をするのはたいてい昼休みだった。内堀通りの英国大使館のあたりまで行って、引き返す。北の丸公園の歩道からながめる千鳥ヶ淵のサクラも好きだった。仕事が忙しくなければ、戦没者墓苑のある千鳥ヶ淵緑道を歩いて、九段下まで足をのばした。
めずらしく夜桜見物をしたこともある。このときは写真部(新聞本紙の取材部門)の岡崎一仁君たちと一緒だった。ところが出かけるとまもなく雨が降りはじめた。あきらめて帰ろうとすると、ホームレスの人たちから声をかけられた。雨宿りしていけ、というのである。
彼らはブルーシートを樹の枝に張り渡し、その下で酒を酌み交わしていた。関東大震災の直後、都心でみられた俄か作りのバラック建築と同じである。私たちは酒を充分すぎるほど持っていた。渡りに船とばかりに、彼らの宴会に加わらせてもらうことになった。

ph4 半蔵門濠。代官町通りの土手。菜の花が咲く。奥は永田町。2024.3.28

ph5 半蔵門濠。代官町通りの土手。1900年の築造。千鳥ヶ淵を二つに分断した。2024.3.28
千鳥ヶ淵は、半蔵門から九段下の田安門までの濠をさすが、1900(明治33)年に代官町通りの道筋を変更するにともない、土手を築いた(ph5)。そのため濠は分断され、現在は半蔵門から英国大使館前(代官町通り)までを半蔵門濠と呼んでいる(註1)。
太田道灌が江戸城を築いた1457(長禄元)年のころは、現在とは自然の趣きが異なり、江戸城の一帯は、丘陵と谷地が複雑に入り組んでいて、代官町付近には丘陵からの水をあつめた小河川の流れがあった。
1590(天正18)年、徳川家康が江戸城に入るが、家康にしたがう将兵は太田道灌の場合とは規模がちがったから、彼らを賄うに足る飲料水を確保することが緊急の課題になった。そこで、現在の乾門のあたりで川をせき止め、上水池として開発することになった。それが千鳥ヶ淵の起源だということである。さらに1653(承応2)年には、玉川上水が完成するが、この水も半蔵門の付近から千鳥ヶ淵に配水されていたという(註2)。
千鳥ヶ淵がサクラの名所になるのは、近代に入ってからである。
1881(明治14)年、東京市は英国公使館前と相談し、公使館前の道路(現在の内堀通り)にサクラの苗木を植えることにした(ph3)。サクラの品種はソメイヨシノで、書記官のアーネスト・サトウが手ずから植えたという。その後の1898年、駐日英国公使となったアーネスト・サトウは、数百本のソメイヨシノの苗木を東京市に寄贈した。その苗木は公使館の前ばかりでなく、現在の千鳥ヶ淵公園付近にも植えられた(註3)。
このサクラ並木は1920(大正9)年に東京府の天然記念物に指定された。樹齢は20年を過ぎている。ソメイヨシノは成長がはやく、15年ほどで花付きが良くなるというから、そのころには見事な花を咲かせていたのである。1923年に関東大震災が起きるが、その復興事業として、半蔵門から九段方面へ抜ける内堀通りがつくられた。それにともない、サクラの植樹も計画され、千鳥ヶ淵のサクラ並木は英国公使館前から田安門まで連なる現在のような姿に整えられた(註4)。
昨年歩いたとき、千鳥ヶ淵緑道ではサクラの幹に菰を巻くとか(ph9)、向かいの北の丸公園の土手ではサクラの木を伐採していた。どうしたのかと思って調べると、ソメイヨシノは成長が早いかわりに、寿命も60年から80年とほかのサクラよりも短い。病虫害の被害が発生しやすく、高齢化すると幹や枝が腐朽しやすい。それが欠点だという(註5)。

ph6 千鳥ヶ淵緑道。サクラ並木の若いカップル。2024.3.28

ph7 千鳥ヶ淵緑道。閑散としたボート乗り場。1950年にできた。奥は首都高都心環状線。2024.3.28

ph8 千鳥ヶ淵緑道。開花を始めたソメイヨシノの古木。2024.3.28
千鳥ヶ淵のつきあたりが田安門である。内堀通り(九段坂)を隔てた向かいに靖国神社がある(ph10)。その前身になる招魂社は1869(明治2)年に創建された。1879年に靖国神社と改称されるが、創建の当初から境内にはマツやウメとともにサクラが植えられた。サクラの品種は明確ではないようだが、その後、陸海軍の戦友会が盛んにサクラを献納したことから、千鳥ヶ淵よりいちはやく、明治20年代(1887~1896年)になると、サクラの名所として知られるようになった(註6)
サクラの開花宣言の標準木になっているソメイヨシノが靖国神社にある。もとは気象庁の庭で観測していたが、庁舎が移転することになり、1966年からは開花宣言の観測地を気象庁から靖国神社に変更したのだという(註7)。
田安門に立つと、九段坂の上り方向に常燈明台、その右に靖国神社の大鳥居がみえたが、開花宣言前の標準木をみる気にはならなかった。坂の下にはコンクリートのビルに瓦屋根をのせた九段会館。1934年につくられた旧軍人会館である。東日本大震災で大きな被害をうけたと聞いていたが、修復されて結婚式場やレストランなどの施設が営業を再開していた。
私が新聞社に勤めていたころ、屋上の庭園にビヤホールがあり、夏になると会社帰りの人たちでにぎわっていた。上ってみると、眼下にはハスの枯れ葉が覆う牛ヶ淵、その向こうにはサクラ並木に囲まれた武道館が眺められた。
武道館といえば、1966年にビートルズが来日し、その公演会場になった。あれは6月だったか7月だったか、肌寒い雨のふる日だった。田舎(館山)から上京してきた妹を出迎え武道館まで連れて行った。私が大学2年のとき、妹は高校2年だった。彼女は公演のチケットをラジオ番組の抽選に応募して運よく手に入れた。サクラ開花宣言の観測地点が気象庁から靖国神社に移ったその年の出来事になる。

ph9 千鳥ヶ淵緑道。サクラの木に害虫駆除の菰を巻いている。北の丸公園では木を伐採していた。2024.3.28

ph10 九段坂。正面は高燈籠(常燈明台)。右は開花宣言の標準木がある靖国神社。2024.3.28
サクラの開花宣言から8日後の4月6日、新宿に出かけた。
会社の上司だった仁科邦男さんから新宿御苑の観桜会に誘われたのである。毎年の恒例行事になっているが、ことしは亡くなった三輪晴美さんを偲ぶ会を兼ねている。平嶋さんは彼女の飲み仲間だから声をかけてみた、ということだった。
三輪さんが飲み仲間だったのは同じ職場(ビジュアル編集室)で働いていたからである。しかし、彼女との因縁はもっと前からで、仕事を組む機会が2度あった。どちらも私はカメラマンで、彼女は編集者だった。
最初は『養老天命反転地―荒川修作+マドリン・ギンズ:建築的実験』。2度目は『町の履歴書 神田を歩く』(文 森まゆみ、写真 平嶋彰彦)(註8)。
『養老天命反転地』は私の出版写真部時代になる。三輪さん(図書編集部)から撮影の申請をうけたあと、しばらくしても担当者が決まらなかった。荒川修作は現代美術それもダダイズムの第一人者である。企画書と参考資料を読めば、敬遠したくなるのは分からないでもなかった。とはいっても、職場長は私だった。そのままにしておけないから、自分で担当することにした。
『町の履歴書 神田を歩く』は、管理部門(出版制作部)から編集部門(ビジュアル編集室)に戻ってからの仕事だった。森まゆみさんとはかねてから東京をテーマにした企画を考えていた。まずは雑誌(『アミューズ』)に連載し、まとまったところで、そのつど書籍化する目論見だった。この企画の編集をしてくれたのが三輪さんだった。
彼女は荒川修作さんからも森まゆみさんからも信頼があつかった。飲み込みが早く、臨機応変に物事を処理できたからである。しかし、どういうわけか、締め切りを守らないという悪癖があった。そのため社内的な評判は、作家たちのそれとは反対に、のろまでやっかいな編集者とみられがちだった。
『養老天命反転地』から3年後、三輪さんは『ケルアック』(バリー・ギフォード、ローレンス・リー)を編集している(註9)。『ケルアック』はジャック・ケルアック。1950年代のアメリカで台頭したビート・ジェネレーション(ビートニク)の代表的な小説家。500ページにおよぶその評伝である。おそらく企画も彼女だったにちがいない。私が写真に興味をもつきっかけの1つは、ロバート・フランクの『アメリカ人』を学生時代にみたことだった。この写真集の解説を書いていたのがジャック・ケルアックなのである(註10)。
荒川修作の『養老天命反転地』は、作品の意図も背景も、にわか勉強では手に負えないしろものだった。しかも日帰り(工事中)と1泊2日(完成時)のあわただしい取材日程だった。それでも私なりの工夫はした。
肉眼のイメージに近づけるため、ふだん使っている35ミリカメラではなく、4×5の大型カメラで撮影すること。また画面構成にあたっても、垂直と水平を正確にとり、クローズアップでなければ、なるべく地平線を入れ込むこと、等々。撮影の対象は現代美術の前衛作品だが、写真は煎じ詰めれば複写である。記録写真の古臭い撮影方法に立ち帰るのが、理に適っているのではないか、と考えたのである。
三輪晴美さんは仕事仲間にとどまらず、気のおけない飲み友だちだった。にもかかわらず、職場でも酒の席でも、ダダイズムやビートニクを話題にすることは一度もなかった。彼女はロバート・フランクの写真をみたことがあったのだろうか。あるいはボブ・ディランの音楽に夢中になったことがあったのだろうか。いまさら聞いてみるわけにもいかない。それが口惜しい。彼女を偲ぶといっても、肝心なことがまったく分かっていないのである。

ph11 新宿御苑。満開のソメイヨシノと花見客。2024.4.6

ph12 新宿御苑。満開のソメイヨシノと花見客。2024.4.6

ph13 新宿御苑。満開のソメイヨシノと花見客。2024.4.6
会食は新宿通りの中華料理店。終えて、新宿御苑に向かった。
新宿御苑は八重桜の名所として知られる。先にも書いたように、開花宣言は3月29日。お目当ての八重桜はまだつぼみの状態だったが、ソメイヨシノは満開の花盛りだった。
御苑のソメイヨシノには期待していなかった。というよりもなにも知らなかった。ところが入口は黒山の人だかりになっていて、入園券を求める列が続いている。なぜこんな大騒ぎになっているのか。園内に入るとすぐに分かった。
ソメイヨシノは空に向かって思いのまま枝を伸ばしている。満開の花弁で彩られた屈託のない艶やかさは言葉にはしがたい。写真を撮るつもりはなかったが、見逃す手もない。リュックからカメラを取りだした(ph11~ph20)。
新宿御苑はいまならだれでもなかに入れて花見を楽しむことができる。一般公開されたのは、戦後の1949(昭和24)年である(註11)。これまでうっかりしていたが、「御苑」というからには、ふつうの公園ではなく、皇室の庭園なのである。
皇室庭園として新宿御苑が完成したのは1906(明治39)年。設計にはベルサイユ園芸学校教授アンリ・マルティネがフランスから招請され、監督を務めたのは我が国の造園家として名高い福羽逸人と市川之雄だった。いわば「和魂洋才」からなる西洋風の宮廷庭園なのである(註12)。
1917(大正6)年からは、新宿御苑で皇室主催の観桜会が行われるようになった。国際親善を目的とした行事で、もとは吹上御苑や浜離宮で催されていた。おそらく、近代国家の装いを整えたことを海外に示すため、会場を新宿御苑に移したものと思われる。1922年の観桜会には、英国のエドワード皇太子(後のエドワード8世)が招待され、裕仁皇太子(後の昭和天皇)と園内を歩く写真が残されている(註13)。
新宿御苑には約70種900本とも約65種1300本ともいわれるサクラが植えられている。観桜会で脚光を浴びたのは八重桜の一葉という品種だが、ソメイヨシノはその前座を演じる役者の一人に選ばれたものと思われる(註14)。

ph14 新宿所縁。メタセコイアのある広場。2024.4.6

ph15 新宿御苑。囲い地。何か育てているのである。2024.4.6

ph16 新宿御苑。新緑が目に鮮やかなケヤキ林。2024.4.6

ph17 新宿所縁。今を盛りに咲くハナニラ。2024.4.6
ソメイヨシノは、連載その12(前編)にも書いたが、オオシマザクラとエドヒガンの雑種である。人工交配なのか自然交配なのかはっきりしないようだが、ソメイヨシノが日本各地に広まるのは、幕末のころに染井の植木屋たちが販売を始めてからだという。染井は文京区駒込の地名で、「ときの忘れもの」から500メートルほどにある染井通りの近辺のことである。
川添登は『東京の原風景—都市と田園の交流』のなかでこう述べている(註15)。
桜は、古くから日本人に愛されていたばかりではない、欧米列強の包囲下に、日清・日露の戦役を戦いぬいていった軍国日本の黎明期としての明治に、これほどぴったりした花はなかったのである。
新宿御苑や靖国神社にかぎらない。明治政府は近代国家に見合う社会的環境を全国に整備していった。そのさいに、公共の場所にふさわしい花樹として選ばれたのがサクラで、その代表種がソメイヨシノだった。
明治時代になると、それまでの身分制度が廃止された。その代わりに、兵農分離もなくなり、国民皆兵を原則とする徴兵制度ができた。見方を逆にすれば、農民も町人も武士にさせられることになった。しかし、彼らの多くは国家のために命を犠牲にする覚悟が希薄だった。
ソメイヨシノは、先にも書いたように、接ぎ木で簡単に増やせるうえに、成長するのも早く、幼木のうちから花付きがよかった。そして咲くとなると大量の花をいっせいに咲かせる。しかも、散りぎわも見事で、いっせいに散った(註16)。「花々しく散る」という流布された物言いがある。「花」はサクラ、「散る」の主語は人である。軍国日本の国民精神を形成するにあたって、このソメイヨシノの外観の美しさと生態的な特徴が、武士道の象徴に見立てられたのである。

ph18 新宿御苑。園内には約70種900本とも約65種1300本ともいわれるサクラが植えられている。2024.4.6

ph19 新宿御苑。オオシマザクラ。ソメイヨシノはオオシマザクラとエドヒガンの雑種とされる。2024.4.6

ph20 新宿御苑。ソメイヨシノの古木。2024.4.6
軍(いくさ)におもむく時の三忘といふは、家をわすれ、妻子をわすれ、命をわするゝ、是を三忘と云、此三つをわすれざれば、戦場のはたらきかなふまじといへ共、(中略)その場にのぞんで何のやくにもたゝぬ事也、(中略)わすれんと思ふ心あらば猶わすられぬ事たるべし、我等事は、御静謐の御代に生れて、此年まで世のしづかなるにまかせて、いそがしき世のことをしらず、
戸田茂睡の『梨本書』からの引用である(註17)。茂睡は武士を辞めて、彼自身の言葉によれば「なま遁世者」になった。「御静謐の御代」は五代将軍綱吉の時代。「いそがしき世」とは関ヶ原の合戦や大阪の陣のあった家康の時代のことである。
武士が武士としての職務をまっとうするには、身を軽くする必要があった。家(父母)の恩を忘れ、妻子への愛情を忘れ、自らの命を忘れる。この三忘が武士に不可欠の倫理観とされた。しかし、忘れようとすれば、ぎゃくに想いを募らせるのが人間というものではないのか。そんな言いぐさは、命のやりとりをしたことのない儒学者や兵法家の机上の戯言で、いざいくさとなれば、なんの役にも立たない、と扱き下ろしているのである。
茂睡は、『梨本書』のなかで、「子たらんもの、父母の恩を第二とも第一とも思うべし」とも書いている。なぜなのか。「思ふにわが親の心、天照大神の御心とひとしき」だからである。「天照大神の御心」というのは「此日の本へ、御まごの瓊々杵尊(ににぎのみこと)を御下しなさ」れた、天孫降臨の神話をさす。このとき、アマテラスはニニギを「ふすまを以てつゝみ申た」のだが、その「つゝみ申た心」というのは、「わが親の心とひとしい」と彼なりに理解したのである。
「ふすま」とは、寝る時にからだの上にかける夜具のことである。『日本書紀』には真床追衾(まどこおうふすま)と書かれる(註18)。甲も乙もない庶民の出産に置きかえれば、母親の体内で胎児がくるまって眠る胞衣のことである。「ふすまを以てつゝみ申た心」とは仏教で説くところの慈悲心にほかならない。
戸田茂睡は武士から転位して「なま遁世者」に身をやつした。「なま遁世者」とは、路上をさまよう「No Direction Home」の乞食坊主のことである(註19)。今からおよそ300年前の封建時代のことになるが、戸田茂睡が選んだ第二の人生は、天命反転のダダイズムもしくはビートニクのように思われてならない。
(ひらしま あきひこ)
【註】
註1 『皇居外苑』「千鳥ケ淵」(環境庁) 千鳥ケ淵|皇居外苑|国民公園|環境省
註2 『千鳥ヶ淵環境再生プラン』「2.千鳥ヶ淵及び周辺の歴史、現状と課題」(環境省皇居外苑管理事務所、2013) untitled。(『図説 江戸・東京の川と水辺の事典』「第四章江戸東京の水系」(鈴木理生 編著、柏書房、2003)
註3 『千鳥ヶ淵環境再生プラン』「2.千鳥ヶ淵及び周辺の歴史、現状と課題」
註4 『千鳥ヶ淵環境再生プラン』。「2.千鳥ヶ淵及び周辺の歴史、現状と課題」。岡山理科大学旧植物生態研究室(波田研)ホームページ ソメイヨシノ
註5 「ソメイヨシノの性質と衰弱対策」(岐阜県森林研究所) ソメイヨシノの性質と衰弱対策(1)
註6 『千鳥ヶ淵環境再生プラン』。「2.千鳥ヶ淵及び周辺の歴史、現状と課題」
註7 「(気象庁)東京管区気象台 東京のさくら」 さくら豆知識
註8 『養老天命反転地―荒川修作+マドリン・ギンズ:建築的実験』、毎日新聞社、1995)。『町の履歴書 神田を歩く』(文 森まゆみ 写真 平嶋彰彦、毎日新聞社、2003)
註9 『ケルアック』(バリー・ギフォード ローレンス・リー、訳 青山南 堀雅久 中俣真知子 古屋美登里、毎日新聞社、1998)
註10 ロバート・フランクの『アメリカ人』は、「1958年にフランスで初版が発売され、59年にアメリカ版が刊行されて以降、くり返し再刊された」 『アメリカ人』ロバート・フランク – artscape。私の持っているのは、Grossman版(1969)。連載その35を参照のこと 。
註11~註14 『新宿御苑の歴史探訪』(新宿御苑) 【新宿御苑の歴史探訪】皇室行事「観桜会」 : 新宿御苑 | 一般財団法人国民公園協会。『国民公園及び戦没者墓苑』「[新宿御園] 圓内マップ」(環境庁) 園内マップ|新宿御苑|国民公園|環境省。『東京の地霊(ゲニウス・ウキ)』「7 幻と化した「新宿ヴェルサイユ宮殿」―造園家福羽逸人の構想と三代の聖域」(鈴木博之、ちくま文庫、2005)『改定新版 世界大百科事典』「新宿御苑」(田中正人、平凡社)新宿御苑(シンジュクギョエン)とは? 意味や使い方 - コトバンク
註15、註16 『東京の原風景—都市と田園の交流』「二 庭園モザイク都市―江戸から東京へ 明治の都市造形 ソメイヨシノ」(川添登、ちくま学芸文庫、1993)
註17 『梨本書』(戸田茂睡、『戸田茂睡全集』所収、国書刊行会、1915)。『梨本書』末尾に「元禄七甲戌年霜月日」とある。 戸田茂睡全集 (国書刊行会本) - 国立国会図書館デジタルコレクション
註18 なお、『日本書紀』本文には、「時に、高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)、真床追衾を以て、皇孫天津彦彦火瓊瓊杵尊に覆ひて、降りまさしむ」と書かれている(『日本書紀 上』「巻第二 神代下」、『日本古典文学大系67』所収、岩波書店、1967)。タカミムスヒはニニギの母方の祖父、アマテラスは父方の祖母。「産霊」の「むす」は生じる、「ひ」は霊威のこと(『精選版日本語大辞典』)。
註19 出家は僧侶になること。家を離れるのは社会からの離脱・追放を意味する。『No Direction Home: Bob Dylan』(監督 マーティン・スコセッシ、2005)は、ボブ・ディランの半生を描いたドキュメンタリー映画。「To be on your own With no direction home」は、ボブ・ディランの『Like a Rolling Stone』(1965)の一節。
・ 平嶋彰彦のエッセイ 「東京ラビリンス」のあとさき は隔月・奇数月14日に更新します。
次回は2025年5月14日です。
■平嶋彰彦 HIRASHIMA Akihiko
1946年、千葉県館山市に生まれる。1965年、早稲田大学政治経済学部入学、写真部に所属。1969年、毎日新聞社入社、西部本社写真課に配属となる。1974年、東京本社出版写真部に転属し、主に『毎日グラフ』『サンデー毎日』『エコノミスト』など週刊誌の写真取材を担当。1986年、『昭和二十年東京地図』(文・西井一夫、写真・平嶋彰彦、筑摩書房)、翌1987年、『続・昭和二十年東京地図』刊行。1988年、右2書の掲載写真により世田谷美術館にて「平嶋彰彦写真展たたずむ町」。(作品は同美術館の所蔵となり、その後「ウナセラ・ディ・トーキョー」展(2005)および「東京スケイプinto the City」展(2018)に作者の一人として出品される)。1996年、出版制作部に転属。1999年、ビジュアル編集室に転属。2003年、『町の履歴書 神田を歩く』(文・森まゆみ、写真・平嶋彰彦、毎日新聞社)刊行。編集を担当した著書に『宮本常一 写真・日記集成』(宮本常一、上下巻別巻1、2005)。同書の制作行為に対して「第17回写真の会賞」(2005)。そのほかに、『パレスサイドビル物語』(毎日ビルディング編、2006)、『グレートジャーニー全記録』(上下巻、関野吉晴、2006)、『1960年代の東京 路面電車が走る水の都の記憶』(池田信、2008)、『宮本常一が撮った昭和の情景』(宮本常一、上下巻、2009)がある。2009年、毎日新聞社を退社。それ以降に編集した著書として『宮本常一日記 青春篇』(田村善次郎編、2012)、『桑原甲子雄写真集 私的昭和史』(上下巻、2013)。2011年、早稲田大学写真部時代の知人たちと「街歩きの会」をつくり、月一回のペースで都内各地をめぐり写真を撮り続ける。2020年6月で100回を数える。
2020年11月ときの忘れもので「平嶋彰彦写真展 — 東京ラビリンス」を開催。
●本日のお勧め作品は平嶋彰彦です。
平嶋彰彦ポートフォリオ『東京ラビリンス』オリジナルプリント15点組
各作品に限定番号と作者自筆サイン入り
作者: 平嶋彰彦
監修: 大竹昭子
撮影: 1985年9月~1986年2月
制作: 2020年
プリント: 銀遊堂・比田井一良
技法: ゼラチンシルバープリント
用紙: バライタ紙
シートサイズ: 25.4×30.2cm
限定: 10部
発行日: 2020年10月30日
発行: ときの忘れもの
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※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください。
●ときの忘れものの建築空間についてはWEBマガジン<コラージ2017年12月号18~24頁>に特集されています。
〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS ときの忘れものTEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531
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