平嶋彰彦のエッセイ「東京ラビリンス」のあとさき

その37 四谷荒木町 — 策の井の故事と花街への変貌

文・写真 平嶋彰彦

 四谷は四谷御門(JR四ツ谷駅付近)から西側の一帯、甲州街道(国道20号)の大木戸付近までをいう(註1)。四谷荒木町は、大木戸から600メートルほど東側で、甲州街道の北側にある。昨年(2024)12月、この町とその周辺をいつもの仲間たちと歩いてまわった。最初に訪れたのは2014年7月だから10年ぶりになる。私は荒木町の名前すら知らなかったのだが、オイルショックのあった1970年代のころまでは、人形町・新橋・赤坂・神楽坂などとならび称される都内でも指折りの花街として賑わっていたとのこと(註2)。今回の連載で掲載している写真(ph1~20)は、この2回の街歩きで撮影したものである。

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ph1 策(むち)の池(津の守弁財天)に下りる階段。モンマルトルの坂と呼ばれている。荒木町10。2014.7.19

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ph2 策の池に下りるもうひとつの階段。こちらは登れずの階段の呼び名。荒木町10。2024.12.10

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ph3 策の池から金丸稲荷に通じる石畳の坂道。荒木町10。2024.12.10

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ph4 策の池。津の守弁財天。津の守は江戸時代の松平摂津守。荒木町はその上屋敷跡。荒木町10。2024.12.10

 四谷の地名由来は諸説あり明確でないようだが、甲州街道の両側に四つの谷があったことに因むという一説がある。荒木町のあたりも、やはり丘陵と谷間が入り組んだ地形になっている。すり鉢のような斜面を下りていくと、その底にあたる部分に策の池(むちのいけ)と呼ばれる小さな池があり、傍らに「津の守弁財天」という小詞がまつられている(ph4)。
 「津の守」は摂津守で、江戸時代に松平摂津守の上屋敷があった。徳川幕府が倒れると、屋敷地は明治政府に収公されるが、その後も地元の人たちは摂津の摂を省き、その跡地を単に津の守と呼んだというのである(註3)。
 弁財天は、貧困を救い財物を与える天女で、七福神の一人とされる。安芸の宮島・琵琶湖の竹生島・相模の江の島が有名だが、その多くは水辺に祀られる(註4)。津の守の津は用例として港をさすことが多いが、そのほかに水の湧き出るところ、すなわち泉や井戸という意味もある。また大阪は水の都ともされるが、津国(つのくに)は摂津国の古称でもあった(註5)。早いはなしが、津の守というのは、水辺を守護する女神なのである。
 荒木町(松平摂津守上屋敷跡)の東側に津の守坂がある。この坂の南端、甲州街道に近い部分は、先手組の屋敷地になっていて、荒木横丁と呼ばれた。現在の荒木町が成立するのは1872(明治5)年で、町域の約8割を摂津守上屋敷が占めていた。先手組の屋敷地は約2割で、荒木横丁はその一部分に過ぎないのだが、その荒木横丁の荒木が採用されて荒木町の町名がつけられた(註6)。では荒木横丁の由来は何なのかというと、荒木は新木(あらき)の転訛だという。この辺りでは多くの植木屋が店をかまえ、武家屋敷を相手に庭木を売っていたのである。近在より集めた樹木を植え替え、その木ぶりを整えていたという(註7)。

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ph5 料亭雪村。策の池のすぐ傍。荒木町10。2014.7.19

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ph6 柳新町通り入口。正面はかき氷のRyanで、右側の路地は車力門通りに通じている。荒木町7。2024.12.10

 津の国弁財天をまつる笞の池については、戸田茂睡の『紫の一本』に、次のような謂われがあったと書かれている(註8)。

 策の井、四ツ谷伊賀町の先にあり、今尾張の摂津守殿屋敷の内にあり、東照宮御鷹野へ成らせられし時、爰に名水あるよし聞し召、御尋なされ水をめし上られ、御鷹の策よごれたるを、御あらはせなされ候故といふ、

「策の井」の「井」は井戸で、湧水の泉をいう(註9)。四ツ谷伊賀町は現在の新宿区若葉2丁目・須賀町・三栄町のあたりをいう(註10)。「今」は『紫の一本』の書かれた1682(天和2)年ごろ。尾張の摂津守殿というのは松平摂津守義行で御三家のひとつ尾張藩主徳川光友の次男である。
 1680(延宝8)年、四代将軍家綱が病死すると、その後を弟の綱吉が継いだ。『御当代記』は『紫の一本』と同じ戸田茂睡の著作である。そのなかに、綱吉は血筋という点で申し分ないが、「天下を治させ給ふべき御器量なし」とみられた。そのため「有須川の皇子(後西天皇の御子)を御養子と申おろし、しばらく将軍に仰ぎ奉り国政を執行、其後有須川殿より尾張の中将か摂津守へ天下をゆづらせ申、天下大平にして御代万代のはかり事をなすべき心入の所」云々という記述がある。
 「尾張の中将」は徳川光友の長男綱誠、「摂津守」は次男義行。「心入」は考え方、目論見のことで、この箇所の主語が誰なのかはっきりしないが、松平摂津守義行は将軍職を嘱望される人物だったのである。あいにく家綱の病状が急速に悪化したため、計画は実行されることなく、綱吉が将軍職に就いた。翌1681(天和元)年、摂津守義行は信濃高井藩主となり、1700(元禄13)年には美濃高須藩主に国替えとなった(註11)。その上屋敷が現在の四谷荒木町にあったのである。
 東照宮はいわずと知れた徳川家康のことで、御鷹野は鷹を使って山野で鳥獣をとる鷹狩をいう(註12)。家康が鷹狩を好んだことは仁科邦男の『伊勢屋 稲荷に 犬の糞』に詳しい。仁科によれば、鷹狩はただの趣味や娯楽とはちがう。「鷹はだれでも持つことができなかった。その土地の支配者のみが鷹をもち、鷹狩をすることができた。最も多くの鷹を持つ者が、その時代の権力者だった」と指摘しているのが見落とせない。(註13)。
 「御鷹の策」の「策」はむちと読み、鞭または笞とも字を宛てる。ふつうには馬などを打ち、前に駆り立てるもので、竹や革でつくった細長い杖のことである(註14)。しかしながら、鷹狩のどのような場面で策をどのように使うのだろうか。
 インターネットで検索すると、鷹狩の装束をした徳川家康像が二基あり、その一基は駿府城本丸跡に、もう一基は江戸東京博物館の庭園に立っている(註15)。どちらの家康像も、左手の拳に鷹をのせ、右手には細長い棒状の杖をにぎっている。近年に製作されたものだが、設置場所は公共機関だから、彫刻家はそれなりの時代考証を踏んでいるとみられる。だとすれば、おそらく、この杖が「御鷹の策」なのである。
 さらに検索を続けると、鷹狩の道具の一つに鞭のような形をした策(ぶち)があり、それで鷹の羽の手入れや獲物を獲って汚れた鷹の口元を拭うのだという。銀座長州屋(日本刀専門店)のHPに載る「鷹匠道具図刀掛」の解説である(註16)。『紫の一本』のいう「御鷹の策」はこれにちがいない。また、この解説記事は、先の仁科邦男の指摘を裏付けるように、家康は征夷大将軍となり江戸幕府を開いた翌年の1604(慶長9)年、突然有力大名にたいし鷹狩禁止令を発布し、さらに1612年には公家による鷹狩をも禁止し、鷹狩の独占化を図ったとも書いている。
 鷹狩が権力者の特権だったといえば、時代はさかのぼるが、桓武天皇は鷹狩を好み、青年時代から数えの68歳になるまで続けたという。天皇は御所南殿に鷹司から鷹を呼びよせ、自ら犬や小鳥などの生肉を与えたり、手のうえにとまらせ、くちばしや足の爪を削って形を整えたりしたともいうのである(註17)。
 鷹狩の鷹を飼うのが最高権力者の特権であるなら、おそらく「御鷹の策」も同じように権力の象徴として、天下国家を統治する指揮棒にも擬えられたのである。また徳川家康の肖像が鷹狩姿で造形された趣意もそこにあったのではないかと思われる。
 逆にいえば、鷹狩の汚れは治世の汚れに通じるとの見立ても成り立つ。物の汚れは水で洗えばきれいになる。しかし、治世の汚れは目には見えにくい。それが祟りをなし、さまざま災厄をもたらす。わが国古来の禊や禊祓いの儀礼はその安全対策ともいえる。「御鷹の策のよごれ」についていえば、これを洗い落とす水は、『紫の一本』には「名水」と書かれているが、その土地の、すなわち四谷に暮らす人々が崇める清らかな湧き水が最もふさわしかったのである。

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ph7 杉大門通り。居酒屋駒忠。木彫りの熊と観葉植物の鉢。舟町3。2024.12.10

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ph8 柳新町通り。居酒屋おく谷。シダを植え込んだ杉玉ふうの飾り。荒木町8。2024.12.10

 『御当代記』の1685(貞享2)年12月13日の条に、鷹狩にまつわる興味深い記事がある。(註18)
 去る12月8日、「御鷹を鶴に合」せる行事があった。その翌日、鷹匠の間宮左衛門は「精進落とし」として、鷹に「生鳥をあげ」た。その行為が幕府から咎められ、身柄預かりに処された、というのである。
 「御鷹を鶴に合」せるというのは、「鶴御成」と称し、将軍が自ら出馬し、鷹狩により鶴を狩ることをさす。このとき、将軍は鷹を拳のうえにのせ、鶴が羽根をひろげ、地上を離れる瞬間に合わせ、鷹を放ったのである。捕獲した鶴は、将軍が江戸城に帰還のあと、美しく化粧を施し、東海道を京都まで運び、禁裏に献上された。この鶴をどうしたかというと、正月三が日に天皇の召上る御吸物に供したというのである。(註19)。
 五代綱吉の治世は生類憐みの令の悪法で知られる。茂睡は、このとき綱吉が自ら「御鷹を鶴に合」せたかどうかを書き洩らしている。しかし、「鶴御成」の行事はたとえどんな崩れた形であっても執り行われたものとみられる。「精進落とし」の精進とは、この場面では、鷹狩の主役を任された鷹の働きぶりをさす。精進は精進潔斎の意味で、鷹狩が国家行事としての神事に見立てられていたことを示唆する。
 古くから伝わる習俗では、祭礼に先立ちその関係者は、一定の期間をもうけ、身をきよめて不浄を避けた。それを物忌みとも精進潔斎とも呼んでいるが、その一つに飲食の制限があった(註20)。おそらく行事の当日まで、人と同様に、鷹にもエサの制限をしたのである。鷹にとって「鶴御成」は鷹狩のなかでも最重要の精進だった。その役割を立派に務めた精進落としの褒美が生鳥だったのである。生鳥はスズメやハトなど小型の野鳥だった。仁科邦男によれば、日ごろ鷹に与えていた餌は、野鳥ばかりでなく、犬の生肉が少なくなかったという(註21)。
 生鳥を与えることが咎められた理由は、いうまでもなく、生類憐みの令に抵触したからである。犬を打ったり虐めたりするのはもちろん、生きた魚鳥を売買することまで禁じられ、諸人こぞって迷惑を蒙る理不尽がまかり通っていたのである。
 身柄預かりに処された鷹匠間宮左衛門の言い分。「無念ニて御座候、いか様、上意の趣ハ御尤至極ニ候、先例悪敷(あしき)とのさた」。無念で仕方ないが、上意とあれば、良いも悪いもなく、逆らうことはできない、というわけである。
 しかしながら、「鶴御成」は東照宮とも権現様とも仰ぎ奉る家康公いらいの伝統的な行事である。当代の綱吉はそれを顧みることなく、「先例悪敷とのさた」と否定した。「さた」は行間の意味を汲んで、暗愚のきわみと読み解くべきと思われる。

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ph9 ビルの谷間で花を咲かせるムクゲ。荒木町12。2024.7.19

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ph10 車力門通り。青森PR居酒屋りんごの花。荒木町11-7。2024.12.10

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ph11 柳新町通り。焼肉店など飲食店が軒をつらねる。荒木町7-11。2024.12.10

 川添登の『東京の原風景—都市と田園の交流』によれば、徳川幕府が崩壊すると。それに伴って、大名屋敷の庭園の多くも荒廃の一途をたどった。1867(慶応3)年の大政奉還にさいして、大名たちは自分たちの住む上屋敷を除き、中屋敷や下屋敷などの拝領地を収公させられた。しかし、それを受け取った明治政府も、その取扱いをもてあましたあげく、たいていは二束三文で払い下げることになった。いっぽうの大名たちは大名たちで、上屋敷さえも維持できなくなるものが少なくなかったという(註22)。
 そうした文明開花の時代背景のなかで、四谷荒木町が変貌していくようすが、『東京名所図会』に生々しく記録されている。初出は『臨時増刊 風俗画報』で、1903(明治36)年の発行である(註23)。
 松平摂津守の屋敷跡に滝があり、かつてはこれを津守の瀑(たき)と呼んでいた。その後、滝は撤去されてしまい、その跡に石垣が築かれている。石垣には小さな流れがあり「廃池」(荒れはてた池)に注いでいる。策の井はこの「廃池」から数間(一間は約1.82メートル)の距離にあるという。
 ということは、そのころの策の池(策の井)は、現在とはようすがちがって、もっと広かったか、あるいは外にも池があった可能性もある。それもそうだが、その水を近所の人たちが利用しているらしく、傍らには猿頰桶(汲みだし桶)が置かれていた、とも書いている。

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ph12 柳新町通りから車力門通りに抜ける路地、左側のランプの家には御子柴苑の表札。荒木町7。2024.12.10

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ph13  車力門通り。金丸稲荷の付近。突き当りは甲州街道(新宿通り)。荒木町6。2024.12.10

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ph14 杉大門通りの柳新町通りへの出入口付近。荒木町1-47。2024.12.10

 明治八九(1875、6)年の頃は。池の周囲は遍く茶店にて。桜花満開の候涼月清風の際は。池の周囲は。絃歌沸くが如くなりしことは。記者の記憶するところなり。此処は四谷公園の予定地なれども。今は何等の経営を為さず。

 大名屋敷が奉還されてわずか数年後のことである。池の周囲には多くの茶店が建ちならび、春の花見や秋の月見には三味線の音が沸くがごとし、というから花街として生まれ変わったのである。茶店を開くには土地を手に入れる必要がある。主人のいなくなった摂津守屋敷跡は荒れるに任せる状態だった。そこを業者たちが二束三文で払い下げるか借りるかしたものとみられる。
 『東京名所図会』はそれに続けて、ここは四谷公園の予定地に指定されているが、いまもなお手つかずのままだと書いている。いまというのは、先にも書いたように、同書が発行された1907年のころ。さらに続けて、旧池辺の外側には、人家が相連り、なかには劇場あり、茶店あり、料理店あり、幼稚園ありという具合で、一つの市街を成している、とも書いている。詳しいことは分からないが、現在の荒木町の街並みは、そのころに原形が求められるのではないかと考えられる。
 荒木町(松平摂津守下屋敷跡)を公園化する計画があったことは、『東京の原風景』でも取り上げられている。同書によれば、明治政府と東京府は、東京を近代国家の首都にふさわしい都市に改造し、欧米なみの公園をつくろうとした。
 1873(明治6)年に、浅草・上野・芝・深川・飛鳥山の5カ所を公園化することを決定し、さらに1889(明治22)年になると、府内49カ所を公園化する決定をした。松平摂津守の上屋敷跡もその候補地の一つで、そこに四ツ谷公園がつくられるはずだったのである。ところが明治30年代までに実現したのはわずか11カ所で、四ツ谷公園を含めその外の38カ所は、計画だけで陽の目を見ることがなかった。
 公園が計画された候補地の多くは『江戸名所図会』で絵図に描かれた遊園地や、大名屋敷だった。実現できた公園のうち、欧米なみの首都にふさわしい近代公園といえるのは日比谷公園だけで、そのほかは園内が有料地になっていて、人家がぎっしり建ちならぶなど、その実態はお粗末なかぎりだった。その結果、江戸の庶民が親しんだ遊園地は公園として保存できず、消え去るにまかせることになった。というのである(註24)。

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ph15 須賀神社(須賀町5-6)からみた北東方向の景観。2024.12.10

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ph16 崖上の住宅街と崖下の法蔵寺墓地。若葉1-1-6。2024.12.10

 以下は、連載その35でも取りあげた永井荷風の『つゆのあとさき』からの引用である(註25)。小説の初出は関東大震災から8年後の1931(昭和6)年。復興する東京の光と影を描いた作品であるが、そのなかで荒木町が取り上げられている。

 「君江さん。(中略)話をしてすぐ別れてもいいから、ちょっとつき合ってくれ。僕はそんな無理なことは決して言わない。(中略)この近辺はいけないのか。荒木町か、それとも牛込はどうだ。」と矢田は君江の手を握って動かない。

 主人公の君江は銀座にあるカフェ・ドンファンの女給。矢田はその常連客。「この近辺」は四谷見附。君江の住まいは市谷本村町。近くに陸軍士官学校があった。店のひけた帰りがけ、矢田に誘われる場面である。「荒木町か、それとも牛込は」の「牛込」は牛込御門西側の神楽坂のこと。このあと、君江は誘われるがまま、神楽坂の待合にむかうのだが、二人のやりとりから、荒木町が山手随一とされた神楽坂とならぶ花街だったことがうかがえる(註26)。
 荷風は大久保余丁町(現在の新宿区余丁町14-3)に1908(明治41)年から1918(大正7)年まで住んでいた。『矢はずぐさ』は1916年に書かれた随筆で、「過ぎつる年わが大久保の家にありける八重といふ妓の事」を綴ったものである(註27)。この随筆にも荒木町が出てくる。

 八重その年二月の頃より(中略)一時(ひとしきり)山下町の妓家をたたみ(中略)四谷荒木町に隠れ住みけるなり。わが家やとは市ヶ谷や谷町の窪地を隔てしのみなれば日ごと二階なるわが書斎に来りて(後略)

「その年」は1914(大正3)年。八重は荷風の二度目の結婚相手で、本名は内田八重。山下町は現在の銀座5、6丁目付近。八重(八重次)は新橋に妓籍をおき、傍ら日本舞踊の師匠も兼ねていた(註28)。荒木町は荷風の家から南東わずか1キロ足らずの距離である。八重は荒木町の寓居から日ごと荷風の書斎を訪れたと書いているが、荷風もまた荒木町へ足繁く通ったにちがいない。
 二人はこの年の8月に結婚する。しかし半年後の翌1915年2月、八重は置手紙を残し、余丁町の家を出ていってしまう。「八重何が故に我家を去れるか。われまた何が故におの後を追はざりしや」と書いているから、荷風は結婚生活の破綻は八重に非があると思っていなかったようにみられる。

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ph17 於岩稲荷田宮神社。『東海道四谷怪談』のお岩さまをまつる。左門町17。2014.12.10

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ph18 於岩稲荷田宮神社(ph17)の向かいが楊運寺。その境内にも於岩稲荷神社がある。左門町18-18。2024.12.10

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ph19 竹と金属の垣根。山茶花の散る石畳。左門町18。2024.12.10

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ph20 建物が取り壊された更地。トンネル栽培の野菜畑。左門町8。2024.12.10

 荷風が『断腸亭日乗』をつけはじめたのは1917年9月16日である。「日乗」は日記のこと。「断腸亭」は荷風の別号であるが、大久保余丁町の旧宅を改築して建てた離れの呼び名でもある。工事は八重との結婚が破綻した翌年の1916年に行われた。『断腸亭日乗』(1926年9月26日)によれば、「大久保の旧居には秋海棠(しゅうかいどう)が多かりし故、顔して断腸亭となせし」とのこと。「顔して」は文学的に粉飾しての意味である(註29)。
 秋海棠については、「mkbkc’s diary(みやぎ教育文化センター 日記・ブログ)」に目の覚めるような解説がある(註30)。
 「秋海棠」には「相思草」「断腸花」という別名がある。これは中国の伝説に由来するらしい。伝説にはいくつかの異伝があるが、いずれも共通して、相思相愛の男性と引き離された女性が断腸の思いで男性の帰りを待つ、というのである。伝説にある男と女を入れ替えてみれば、荷風と八重の恋物語に当てはまりはしないだろうか。帰りを待つのは荷風である。

 八重去つてよりわれ復(また)肴饌(こうせん)のことを云々せず。机上の花瓶永(とこしな)へにまた花なし

 「肴饌」は食べ物。旧宅の庭には菜園があり、フキ・セリ・タデ・ネギ・イチゴ・ショウガ・ウド・イモ・ユリ・シソ・サンショ・クコなどの野菜類を植えていた。八重はそれを摘んでは調味し食膳に飾った。いまやそれもかなわない、というのである。
 これに続いて「永へに花なし」とある。荷風は空の花瓶を断腸の想いで眺めている。では「花」とはどんな花々のことをさすのだろうか。『断腸亭日乗』にしたがえば、大久保余丁町の旧居には秋海棠が多くあった。シュウカイドウは秋に咲くカイドウの種類で、開花時期は8月から10月である。新婚生活の秋、八重は旧居の庭に咲く秋海棠を摘んで、「机上の花瓶」に生けることをしなかっただろうか。

註1 『日本歴史地名大系13 東京の地名』「新宿区」(平凡社)
註2 『四谷散歩―その歴史と文化』(安本直弘、みくに書房、1989)。早稲田学院同窓会HP。【思い出】「四谷荒木町は花柳界だった」16期 鈴木洋一 | 早稲田大学高等学院同窓会
註3 『江戸切絵図』「千駄ヶ谷・鮫が橋・四ツ谷絵図」(尾張屋板、1850) 〔江戸切絵図〕 四ツ谷絵図 – 国立国会図書館デジタルコレクション 。『東京名所図会 四谷区・牛込区之部』(睦書房、1969)。『精選版 日本国語大辞典』「津国」(小学館)
註4 『百科事典マイペディア』「弁財天」(平凡社) 弁財天(べんざいてん)とは? 意味や使い方 – コトバンク
註5 『精選版 日本国語大辞典』「津」「津国」(小学館)津(ツ)とは? 意味や使い方 – コトバンク津国(つのくに)とは? 意味や使い方 – コトバンク
註6 『東京名所図会 四谷区・牛込区之部』
註7 同上。「近在より樹木を…」は『続江戸砂子』からの引用。
註8 『紫の一本』「巻下 井」(『戸田茂睡全集』所収、国書刊行会、1915)。巻末の記述から、1682(天和二)年ごろの成立とみられる。
註9 『精選版日本国語大辞典』「井戸」(小学館)
註10 『日本歴史地名大系13 東京の地名』「新宿区」(平凡社)
註11 『御当代記』「一 申年 延宝八年」(戸田茂睡。東洋文庫、1998)。松平義行(まつだいら よしゆき)とは? 意味や使い方 – コトバンク松平義行 – Wikipedia高須藩(たかすはん)とは? 意味や使い方 – コトバンク高須(たかす)とは? 意味や使い方 – コトバンク
註12 『精選版 日本国語大辞典』「鷹野」(小学館)
註13 『伊勢屋 稲荷に 犬の糞―江戸の町は犬だらけ』「第三章 1 無類の鷹好き徳川家康」(仁科邦男、草思社、2016)。
註14 『精選版日本国語大辞典』「むち」(小学館)
註15 鷹狩の家康像 徳川家康公之像(駿府城本丸跡) | 静岡・浜松・伊豆情報局徳川家康公銅像(両国)|東京とりっぷ
註16 「鷹匠道具図刀掛」。日本刀販売専門店|東京|銀座長州屋 優品紹介 鷹匠道具図刀掛 解説
註17  『神道の成立』「三 神道の自覚過程 禁忌意識の変動」(高取正男、平凡選書、1979)
註18 『御当代記』「二 貞享二年十二月十三日」(戸田茂睡、東洋文庫、1998)
註19 『徳川制度(下)』「鷹の記」「「鶴御成」(編外)」(岩波文庫、2015)
註20 『精選版日本国語大辞典』「精進」(小学館)
註21 『伊勢屋 稲荷に 犬の糞』「第三章 1 無類の鷹好き徳川家康」
註22 『東京の原風景—都市と田園の交流』「二 庭園モザイク都市 明治の都市造形」(川添登、ちくま学芸文庫、1993)
註23 『東京名所図会 四谷区・牛込区之部』(睦書房1969)。原本は『臨時増刊 風俗画報 四谷区之部』(東洋堂、1903)。
註24 『東京の原風景—都市と田園の交流』「二 庭園モザイク都市 明治の都市造形」
註25 『つゆのあとさき』(永井荷風、岩波文庫、1987)。初出は1931(昭和6)年の中央公論。
註26 『改訂新版 世界大百科事典』「神楽坂」(平凡社)
註27 現地案内板「永井荷風旧居跡」(新宿区教育委員会)。『矢はずぐさ』(永井荷風、『荷風随筆集(下)』所収。岩波文庫、1986)。原典は1916(大正5)年の成立。
註28 内田八重は藤蔭静樹。日本舞踊藤蔭流の創始者。藤蔭静樹(ふじかげせいじゅ)とは? 意味や使い方 – コトバンク
註29 『摘録 断腸亭日乗(上)』「1926年9月26日」(永井荷風、ワイド版岩波文庫、1991)(『Wikipedia』「永井荷風 略年譜」。「永井荷風 ウィキペディア」の検索結果 – Yahoo!検索
註30 『mkbkc’s diary(みやぎ教育文化センター 日記・ブログ)』「季節のたより58 シュウカイドウ」季節のたより58 シュウカイドウ – mkbkc’s diary

(ひらしま あきひこ)

平嶋彰彦のエッセイ 「東京ラビリンス」のあとさき は隔月・奇数月14日に更新します。
次回は2025年7月14日です。

平嶋彰彦 HIRASHIMA Akihiko
1946年、千葉県館山市に生まれる。1965年、早稲田大学政治経済学部入学、写真部に所属。1969年、毎日新聞社入社、西部本社写真課に配属となる。1974年、東京本社出版写真部に転属し、主に『毎日グラフ』『サンデー毎日』『エコノミスト』など週刊誌の写真取材を担当。1986年、『昭和二十年東京地図』(文・西井一夫、写真・平嶋彰彦、筑摩書房)、翌1987年、『続・昭和二十年東京地図』刊行。1988年、右2書の掲載写真により世田谷美術館にて「平嶋彰彦写真展たたずむ町」。(作品は同美術館の所蔵となり、その後「ウナセラ・ディ・トーキョー」展(2005)および「東京スケイプinto the City」展(2018)に作者の一人として出品される)。1996年、出版制作部に転属。1999年、ビジュアル編集室に転属。2003年、『町の履歴書 神田を歩く』(文・森まゆみ、写真・平嶋彰彦、毎日新聞社)刊行。編集を担当した著書に『宮本常一 写真・日記集成』(宮本常一、上下巻別巻1、2005)。同書の制作行為に対して「第17回写真の会賞」(2005)。そのほかに、『パレスサイドビル物語』(毎日ビルディング編、2006)、『グレートジャーニー全記録』(上下巻、関野吉晴、2006)、『1960年代の東京 路面電車が走る水の都の記憶』(池田信、2008)、『宮本常一が撮った昭和の情景』(宮本常一、上下巻、2009)がある。2009年、毎日新聞社を退社。それ以降に編集した著書として『宮本常一日記 青春篇』(田村善次郎編、2012)、『桑原甲子雄写真集 私的昭和史』(上下巻、2013)。2011年、早稲田大学写真部時代の知人たちと「街歩きの会」をつくり、月一回のペースで都内各地をめぐり写真を撮り続ける。2020年6月で100回を数える。
2020年11月ときの忘れもので「平嶋彰彦写真展 — 東京ラビリンス」を開催。

●本日のお勧め作品は平嶋彰彦です。
tokyo_labyrinth_1平嶋彰彦ポートフォリオ『東京ラビリンス』
オリジナルプリント15点組
各作品に限定番号と作者自筆サイン入り
作者: 平嶋彰彦
監修: 大竹昭子
撮影: 1985年9月~1986年2月
制作: 2020年
プリント: 銀遊堂・比田井一良
技法: ゼラチンシルバープリント
用紙: バライタ紙
シートサイズ: 25.4×30.2cm
限定: 10部
発行日: 2020年10月30日
発行: ときの忘れもの
こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください。

●5月11日のブログで「中村哲医師とペシャワール会支援5月頒布会」を開催しています。
2a30b277-s今月の支援頒布作品は島州一、ブーランジェ、仙波均平です。
皆様のご参加とご支援をお願いします。
申し込み締め切りは5月20日19時です。


◆次回展覧会のお知らせ
魔法陣2「2025コレクション展3/駒井哲郎、菅井汲、池田満寿夫」
2025年5月21日(水)~5月24日(土)11:00-19:00
※前回展DMで予告していた日程から会期が変更となりました

●ときの忘れものの建築空間についてはWEBマガジン<コラージ2017年12月号18~24頁>に特集されています。
photo (9)〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS ときの忘れもの
TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531 
E-mail:info@tokinowasuremono.com 
http://www.tokinowasuremono.com/
営業時間=火曜~土曜の平日11時~19時。日・月・祝日は休廊。
JR及び南北線の駒込駅南口から約8分です。