栗田秀法「現代版画の散歩道」
第13回 藤江民
画面は大きく左右下辺の三つの部分で構成され、それぞれで目を引くのは鋭く張りの刻線による、草の茎が萌え出ているかのような表現である。それぞれの部分には柔らかい薄い地が配され、その上に様々な形象が複雑に重ねあわされている。画面の骨格を形成しているのは、画面を上下に横切る二つの導線で、左側では片ぼかしのある山状の記号が連なり、ゲジゲジのような形象の連なりに続いている。右側では逆に上部にゲジゲジが置かれ、その下には二股に分かれた山型の記号的な形象が続きている。画面下部には水平方向に山状の記号が数多く並び、下辺中央やや左に置かれた矩形には五つの短い矢印が向かっている。画面左手中央から右下にかけては六つの柔らかな円形の形態が連なっている。画面左手中央には多数の短い平行線が併置されひとつの区画を作り、そこからは一本の茎が生え、上部には種のような形委が見出される。その右手には三つの穂のような形象が置かれ、規則的な律動を作り出している。画面右手中ほどには、小さな弓型の記号的な形象が円形の区画が生み出されている。画面中央には4本の茎状のものが生え、その先端には円形の花のような形象が載っている。その他には、各所に種子状の刻点が配されている。全体としては地と図が部分的に反転する、複雑で多義的な抽象とも具象ともつかぬ絵画平面が現出している。
藤江民は、1970年代半ばに具象的なリトグラフ版画で頭角を現したが、その後画面に筆触を取り入れ、1980年前後に筆触のみで構成される落ち着きある表現世界を確立していった。2メートルを超える大型の絵画やインスタレーションを続けるかたわらで、版画作品も数多く残している。それらの作品に共通してうかがえるのは、伸びやかでダイナミックな筆触と鮮やかな色彩である。当初は版を転写するという手法が用いられていたが、90年代からは直接支持体に描く手法に発展した。抽象表現主義第二世代の女性画家ジョアン・ミッチェルとも比較がなされるが、宇宙開闢のビックバンのごとき迫力はカンディンスキーの初期のコンポジション連作が放つエネルギーを感じさせるものがある。ただし、ロシアの抽象画家の終末論的な世界と、萌え出る植物のように生命感が横溢する藤江の世界は対照的である。
藤江は多色のリトグラフやシルクスクリーンにおいて真骨頂を発揮すると言ってよいのだが、90年代から単色の銅版画も試みている。その頃の銅版画には、色彩版画と同様のダイナミズムを単色で実現しようとする意欲がうかがえるが、2010年代からはニードルの刻線を基調にした銅版画を制作するようになった。本作品もその延長上にある作品である。ここで想い起されるのがカンディンスキーの12点組の版画集「小さな世界」(1922)である。この版画集は、木版画、石版画、銅版画各四点で構成されたもので、各版種にふさわしい表現が様々に探求されている。銅版画ではドライポイントの技法が用いられ、刻線のみで構成された繊細で落ち着いた世界が現出している。藤江の作品では多様な技法が用いられて画面に複雑さが増しているが、銅版画らしい表現世界となっている。
藤江民というと、自らも出品した「’86富山の美術」の大浦作品をめぐって起きた騒動に連動して起きた図録の焚書事件に際して表現の自由のために戦い続けた作家としても知られている。筆者はあいちトリエンナーレ2019「表現の不自由展・その後」を会期の二日目に観覧することができた(会場は四日目から閉鎖され、会期末に限定公開)。それまで美術家・藤江民の存在を必ずしも十分に知っていたわけではなかったが、展示室の冒頭部に展示された藤江作品と焼却の憂き目にあった図録の記憶が鮮明に残っている。2023年にはときの忘れものの「小石川植物祭2023/命名~牧野富太郎へのオマージュ」に新作を出品している。次なる作品も楽しみに待ちたい。
(くりた ひでのり)
●栗田秀法先生による連載「現代版画の散歩道」は毎月25日の更新です。次回は7月25日を予定しています。どうぞお楽しみに。
■栗田秀法
1963年愛知県生まれ。 1986年名古屋大学文学部哲学科(美学美術史専攻)卒業。1989年名古屋大学大学院文学研究科哲学専攻(美学美術史専門)博士後期課程中途退学。 愛知県美術館主任学芸員、名古屋芸術大学美術学部准教授、名古屋大学大学院人文学研究科教授を経て、現在、跡見学園女子大学文学部教授、名古屋大学名誉教授。博士(文学)。専門はフランス近代美術史、日本近現代美術史、美術館学。
著書、論文:『プッサンにおける語りと寓意』(三元社、2014)、編著『現代博物館学入門』(ミネルヴァ書房、2019)、共編訳『アンドレ・フェリビアン「王立絵画彫刻アカデミー講演録」註解』(中央公論美術出版、2025)、「戦後の国際版画展黎明期の二つの版画展と日本の版画家たち」『名古屋芸術大学研究紀要』37(2016)など。
展覧会:「没後50年 ボナール展」(1997年、愛知県美術館、Bunkamura ザ・ミュージアム)、「フランス国立図書館特別協力 プッサンとラファエッロ 借用と創造の秘密」(1999年、愛知県美術館、足利市立美術館)、「大英博物館所蔵フランス素描展」(2002年、国立西洋美術館、愛知県美術館)など
■藤江民 Tami FUJIE
富山県に生まれる。1972年明治大学文学部(1973年卒業)在学中に東京版画研究所で刷師・女屋勘左衛門からリトグラフの指導を受ける。1975年第43回日本版画協会展で新人賞を受賞、同年白樺画廊で初個展を開催する。フィルムに描いた原画を転写した亜鉛版をリトグラフの版にする手法を用いて、スピード感のある抽象作品を制作。1977年までは版画(リトグラフ)による発表が多かったが、並行して、フィルムに描画したインクや絵具を紙に写し取るモノタイプも制作している。 1978年に富山に帰郷、以降の発表は和紙にオリジナル手法で制作した絵画、キャンバスに描いた絵画の発表を続ける。東京・村松画廊、ギャラリー手、ギャラリーなつか、ギャラリートキ、福井・アートサイト、富山・ギャラリーナウ、マイルストーンアートワークスなどで個展開催。1978年第12回日本国際美術展、「81富山の美術」展(富山県立近代美術館、84,86.88.90,91年にも出品)、2000年「とやま 版―越中版画から現代の版表現まで」(富山県民会館)、2013年太閤山アートビエンナーレ2013などに出品。 自作については<大判の雲肌麻紙に油絵具のタッチを写し取り、あるいは和紙の表面を剥がしさらに描きます。画面の大きさのなか身体的な強い圧力により絵具を和紙に滲みこませ、和紙を剥がした部分は薄く光を透かします。絵画は大部分で予測不可能に進行していきます。驚きと新鮮さとともに様々な方向に意識を展開させてくれる絵画を求めています。>と述べている。
●本日のお勧め作品は藤江民です。
《ウラガエル 割絵「23-ケ」 <立て絵>》
2023
タイル 和釉薬 アクリル板 木
30×30×90cm
サインあり
※タイル作品4枚1組のみ
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※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください。
●関連おすすめ情報

版画専門誌『版画芸術』No.208が刊行され、特集「女性版画家のパイオニアたち」が組まれています。ときの忘れものでもおなじみの藤江民先生、南桂子先生、内間俊子先生、柳澤紀子先生などが紹介されています。ぜひお手にとってごらんください。
発行:阿部出版株式会社
価格:2,750円(税込み)
*画廊亭主敬白
ことさら大きな文字で「画廊亭主敬白」としたのは、今後のブログ更新についてお知らせしたいことがあるからです。
来月7月2日(偶然ですが、亭主の80歳の誕生日です)にときの忘れもののサイトが一新され新しく生まれ変わります、と言っても亭主は機械音痴でどう変わるのかまったく知りません。
担当の井戸沼紀美が一年くらい前から作業しているので、相当激変するらしい。
さて、このブログは毎日零時に更新してきました。今後もそれは変更ないようですが、「画廊亭主敬白」に関しては更新は零時ではなく、かなり遅く毎日昼過ぎになります。
つまり、このページの更新は午前零時ですが、どうでもいい画廊亭主敬白は、午後になります。
もし(そうはいらっしゃらないと思いますが)毎日午前零時過ぎにこのブログをお読みの方は、それから半日経った午後にも再度覗いて欲しいと願う次第です。
本日の栗田先生の論考「現代版画の散歩道」第13回は、亭主にとって長年時代をともにした同志ともいうべき藤江民先生です。藤江三兄妹(藤江秀一、藤江和子、藤江民さん)については、日を改めて書きたいと思います。
◆「開廊30周年記念 塩見允枝子×フルクサス from 塩見コレクション」
Part 1 2025年6月5日(木)~6月14日(土)
Part 2 2025年6月18日(水)~6月28日(土)
※6月17日(火)に展示替え、日・月・祝日休廊
ときの忘れものは開廊30周年を迎えました。記念展として「塩見允枝子×フルクサス from 塩見コレクション」展を開催しています。
●松本莞『父、松本竣介』
2025年6月8日東京新聞に<昭和初期から戦後活躍 早世の洋画家 松本竣介の生き様 新宿在住次男・莞さん 逸話まとめ出版>という大きな記事が掲載されました。
また『美術手帖』2025年7月号にも中島美緒さんの書評「家庭から見た戦時の画家の姿」が掲載されています。
ときの忘れものは松本竣介の作品を多数所蔵しています。
松本莞さんのサインカード付『父、松本竣介』(みすず書房刊)を特別頒布するとともに、年間を通して竣介関連の展示、ギャラリートーク他を開催してまいります。詳細は1月18日ブログをお読みください。
今まで開催してきた「松本竣介展」のカタログ5冊も併せてご購読ください。
著者・松本莞
『父、松本竣介』
発行:みすず書房
判型:A5変判(200×148mm)・上製
頁数:368頁+カラー口絵16頁
定価:4,400円(税込)+梱包送料650円
●ときの忘れものの建築空間(設計:阿部勤)についてはWEBマガジン<コラージ2017年12月号18~24頁>に特集されています。
〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS
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http://www.tokinowasuremono.com/
営業時間=火曜~土曜の平日11時~19時。日・月・祝日は原則として休廊ですが、企画によっては開廊、営業しています。
JR及び南北線の駒込駅南口から約8分です。

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