第5回 瑛九の源泉-父・杉田直

 前回紹介した杉田正臣と瑛九(本名:杉田秀夫)の父、杉田直は宮崎市で眼科医をしていた。正臣が受け継いだ杉田眼科医院を開院したのは、直である。杉田家には正臣、秀夫(瑛九)のほかに、5人の姉妹がいる。7人兄弟姉妹の父である直は、一番下の杉がまだ1歳の頃に妻の雪を病気で亡くした。いつもは家族や身の回りに起こったことなどを日記に書き留める直が、しばらく休むくらい杉田家にとって激震の出来事であった。7人の子どもを抱えた直は、未だ幼い秀夫や杉の子育てのこともあり再婚をしている。新しい母になじめない秀夫に対し随分と心をくだく様子が日記にも出てくる。

実母雪との最後の撮影

杉田家家族写真(新しい母栄とともに)_前列左から2番目が瑛九、その後ろが父直

 宮崎県立図書館には杉田正臣が寄贈した「杉田文庫」が所蔵されている。それらの中には瑛九の手紙や蔵書も含まれているが、直が書いていた日記も収められている。宮崎県立美術館で2021年に生誕110年記念瑛九展を開催した際、県立図書館でも杉田文庫を中心とした小企画展が開催されていた。その時に直の日記が一部公開されていた。しっかりとした仕立ての日記帳には、来訪者があればその記録、時には瑛九の体調や共に行った先など、中身を少し見るだけでも、とてもまめな性格の持ち主であったであろうということがわかる。(さすがに手に取って見ることはできなかったが、開いて展示してあるページを見る限り、3~4行とはいえ細かく書いてあった。)瑛九を散歩に連れて行ったり、買い物に連れて行ったりしたことも書いてあるし、体調が悪いときはその時の体温なども記録してある。日記なので年月日もはっきりしている。(瑛九も手帳を持っていたが、どこでも自由にメモをするタイプの書き方で、日記のようなものはほとんどなく、いつのことかもわからないものが多い。)杉田家だけではなく、当時の宮崎の様子を知るのにも大変貴重な資料となっている。展示では、瑛九が父に連れられていった洋品店などの地図なども展示されていた。その時にそのページが展示されていたわけではないが、直の日記で一番印象的なのは瑛九が結婚する際のものである。宮崎神宮を参拝し、結婚式を行ったと記されている。瑛九と谷口ミヤ子が結婚式を挙げた際、参列は両家の近親者数名であり、花嫁はモンペ姿、花婿は仕事着のままだったという。本当に形式的なものであった。直はミヤ子に対し、「あなたが、抱いている爆弾がいつ爆発するかわからないような秀夫と結婚して下さることは父親として心からうれしく、深く感謝いたします。しかし、秀夫は普通の者とはちがって芸術に進むという大きな問題をもっていますので、いつかは一緒にやって行けない時が来るかも知れません。もしもそんな時が来たならば、いつでもかまいませんから別れて下さい。」と伝えたという。確かに二人の結婚には反対の意見があったのだが、式当日に別れてもよいと言われるとはミヤ子も思ってもみなかったことであろう。父としては、子も案じ、その伴侶に関しても行く末を案じていたということなのだろうが、ある種、衝撃的な言葉である。

 前回、瑛九がエスペラントや「静坐」など兄のやっていることを後追いしていた話を書いたが、杉田家が文化人が集う家であったのは、父の存在が大きい。直は俳人としても活動しており、その俳号を「作郎」という。自伝によると尾崎紅葉らの秋声会に入って句作を始め、その後「ホトトギス」に投句するようになったという。宮崎では「初音会」という俳句の会を結成、新聞の俳句欄を担当して新人発掘に努め、河東碧梧桐、荻原井泉水らとの交流もあった。杉田家には直を訪ねてくる文化人が多かった。種田山頭火もその一人であった。1930年に托鉢僧姿の種田山頭火が杉田家を訪れた際のことは、「夜は作郎宅で句会、したたか飲んだ。しゃべりすぎた。作郎氏とは今度はとても面接の機があるまいと思っていたのに、ひょっこり旅から帰られたのである。予想したような老紳士だった。二時近くまで二人で過ごした。」(種田山頭火「あの山越えて」より)と山頭火の日記に書かれている。作郎は、遠くから訪ねてくる客があれば、必ず屋敷に迎え、句会を開催していたという。その度に同志が集まり、にぎやかな句会が繰り広げられていたのであろう。幼かった瑛九らは、訪ねてきた俳人が玄関に置いている下駄を何度ものぞきにいったらしいが、さすがに句会や宴席に子供たちが呼ばれることはなかったのであろう。めったに見ることができない来客を気にする子供たちの様子が目に浮かぶ。気になって仕方がないのだ。

 瑛九がいろいろな方面に興味を持つことが出来たのは、父である直を柱とする杉田家のこういった家風が起因していることと思う。杉田直が亡くなったのは1960年。奇しくも息子である瑛九が亡くなった年と同じである。

(こばやし みき)

●杉田直(すぎたなお)
生没年:1869年~1960年
宮崎市の眼科医。県の医師会長などを歴任。俳句に造詣が深く、新俳句の普及に努めた。1955年宮崎県文化賞受賞。

小林美紀(こばやし みき)
1970年、宮崎県生まれ。1994年、宮崎大学教育学部中学校教員養成課程美術科を卒業。宮崎県内で中学校の美術科教師として教壇に立つ。2005年~2012年、宮崎県立美術館学芸課に配属。瑛九展示室、「生誕100年記念瑛九展」等を担当。2012年~2019年、宮崎大学教育学部附属中学校などでの勤務を経て、再び宮崎県立美術館に配属、今に至る。

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「西田考作さんを偲んで、西田画廊旧蔵ポスター展」
会期:2025年11月5日(水)~15日(土) *日曜・月曜・祝日は休廊
主催・会場:ときの忘れもの
出品作品:荒木経惟、磯崎新、大竹伸朗、加納光於、桑原甲子雄、田名網敬一、福田繁雄、森村泰昌、
アンディ・ウォーホル、トニ―・クラッグ、パウル・クレー、アドルフ・ゴットリーブ、
フランク・ステラ、セバスチャン、サム・フランシス、ヨーゼフ・ボイス、
ジャクソン・ポロック、ロバート・ラウシェンバーグ、マーク・ロスコ、ジョアン・ミロ、他
*生前の西田考作さんの開廊直前インタビュー録(1982年)を11月6日ブログに掲載しました。
坂上しのぶさんの論考「バイヤーズと西田考作」を11月12日と、13日の二回にわけて掲載します。

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●ときの忘れものの建築空間(阿部勤 設計)についてはWEBマガジン<コラージ2017年12月号18~24頁>に特集されています。
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営業時間=火曜~土曜の平日11時~19時。日・月・祝日は休廊。
JR及び南北線の駒込駅南口から約8分です。 photo (1)

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