2026.3.14

平嶋彰彦のエッセイ「東京ラビリンス」のあとさき その40

門前仲町—大横川のさくら並木

文・写真 平嶋彰彦

 昨年の3月27日、門前仲町の街歩きをした。天候次第であてにならないが、上手くすれば大横川のサクラが見れるという目論見だった。出かけてみると、2分咲きか3分咲きか、満開には何日か早かったが、逆に人出も多くなく、のんびりした気分で花見を楽しめた。
 サクラ並木があるのは、越中島連絡橋から東冨橋までの1キロあまりの川沿いで、大小のサクラクルーズの遊覧船が行き交う。サクラの種類はソメイヨシノだから、戦前なのか戦後なのか分からないが、どちらにせよ近代になってからの植樹とみられる(ph39)。


ph1 隅田川に架かる永代橋。大島川水門テラス連絡橋(永代1-7-15)からの眺め。2025.3.27


ph2 大島川水門をくぐり大横川に入るサクラクルーズの遊覧船。永代1-7-152025.3.27


ph3 大島川児童公園からみた大横川の下流の景観。対岸は物流会社ヤマタネの倉庫(越中島1-1-1)。奥は佃島の高層マンション。2025.3.27


ph4 越中島橋付近のサクラ。奥は遊歩道とヤマタネビル(越中島1-2-1)。2025.3.27

 越中島連絡橋のすぐ近くに大島川水門がある。そこが大横川と隅田川との合流点で、土手の上に立つと、北側に永代橋がのぞめる(ph1)。サクラクルーズの遊覧船もこの水門をくぐって大横川に出入りするである(ph2)。ところで、川の名は大横川なのに、水門の名はどうして大島川水門なのだろうか。
 東京都建設局のHPをみると、「大島川水門は大横川と隅田川の合流地点に位置し、周辺地域を水害から守るための防潮水門」で、「通常は江東内部河川への船の出入口として、閉鎖時には防潮堤として機能する」と説明しているが、呼称の由緒については一言も触れていない。(註1)。
 大横川は本所と深川(墨田区と江東区)を流れる全長6.5キロあまりの人工河川である。北十間川から吾妻橋3丁目付近で分岐し、南方向に流れ、その途中、竪川・小名木川・仙台堀川と交差し、木場5丁目(東冨橋)で南から西へ方向転換し、そのまま流れて、永代1丁目で隅田川に注ぐ。本所と深川は利根川水系の河口に形成されたデルタ地帯で、その排水と物資流通の舟運を目的に、江戸時代の万治年間(165861)から開削工事が進められた(註2)。
 大横川の名は、江戸城からみて、ヨコ方向に流れていることに因むという。堅川はタテ(縦)川。なるほど、江戸城からみれば、タテ方向に流れている(註3)。とはいっても、大横川の木場から下流は、サクラクルーズのコースもそのなかに含まれるが、ヨコではなく、タテに流れている。
 大横川の木場5丁目(東冨橋)から下流は、かつては大横川ではなく、大島川と呼ばれていた。大島川水門ができたのは1958(昭和33)年で、そこは大島川が隅田川と合流する地点だから、大島川水門と名づけられた。ところが、1964(昭和39)年の河川法改正により、北十間川からの分岐点から隅田川との合流点までを、ひっくるめて大横川と呼ぶようになった。しかし、どういうわけなのか、水門の名は改称することもせず、もとのまま残したのである(註4


ph5 お江戸深川さくらまつりの提灯。牡丹2-11付近。2025.3.27


ph6 石川橋をわたる買い物帰りのお年寄り。奥は門前仲町22025.3.27


ph7 サクラクルーズの遊覧船。牡丹2-11付近。2025.3.272025.3.27

 
ph8 サクラクルーズの遊覧船。巴橋から。奥は富岡12025.3.27


ph9  サクラクルーズの遊覧船。巴橋から。奥は東冨橋。大横川は北十間川から分岐すると南へ流れ、この橋までくると、西へ方向転換し、隅田川に合流する。2025.3.27

 本所と深川(墨田区と江東区)は隅田川の東岸に位置する。深川の北側(内陸側)に隣接するのが本所である。本所の中世までの景観について、戸田茂睡が『紫の一本』で下記のように書いている(註5)。徳川家康の関東入府は1580(天正18)年。この江戸街めぐりの紀行本の執筆は1683(天和3年)。本所は家康の関東入府以降に開発された新興地で、それまでの河川下流のデルタ地帯に特有だった景観は、むかし話になりつつあった。

 いほ埼とハ今の中の郷のあたりとぞ、昔は本所入海にて塩干ニハ、洲崎五百ありし故、五百崎と云しといへり、万葉集ニハ廬埼とも書り、猶尋へし、
 光俊卿のうた、
   いほ埼や角田河原に日は暮ぬ関屋の里に宿やからまし

 言い伝えによれば、かつて本所のあたりは入江の海で、干潮になると、洲崎が数多く姿を現すことから、「五百崎(イホザキ)」と呼ばれた。洲崎は州が河海に長く突出た地先の岬のことである。「庵崎(イホザキ)」とはどこかといえば、「今の中の郷のあたり」だという。その中心地が中之郷元町(明治の旧地名)で、浅草の隅田川をはさんだ対岸、現在地名でいうと、吾妻橋1丁目から2丁目、東駒形3丁目のあたりのことになる。吾妻橋1丁目には墨田区役所がある(註6)。
 光俊卿は藤原光俊。順徳天皇に近侍した公家で、歌人としても知られる。承久の乱(1221・承久3年)で罪に問われ、筑紫に配流。赦されて1235(嘉禎元)年右大弁となるが、翌年出家した(註7)。「いほ埼や角田河原に」の歌は、1256(康元)年、常陸鹿島神宮に詣でたときに詠んだもので、次の詞書がついていた(註8)。

 此のわたりのかみのかたに、河のはたにつきて里のあるをたづぬれば、せき屋のさとと申す、まへには海、ふねもおほくとまりたり。

 「此のわたり」は隅田川の渡し。現在の白髭橋が架かる橋場付近。『江戸方角安見図鑑』(1680・延宝8年)をみると、「角田川のわたし」「此辺はしばと云」と記され、渡し船と都鳥の絵が添えられている(註9)。「せき屋(関屋)」は、それより2キロほど上流で、北千住の京成線関屋駅と東武線牛田駅のあたりのことである。「まへには海、ふねもおほくとまりたり」というから、そのころは江戸湾最奥の港町だったことになる。(註10)。
 吾妻橋の南東約2キロに吾嬬神社(立花1丁目)がある。「吾嬬(吾妻)」は言うまでもなく我が妻の意で、祭神は日本武尊の妻の弟橘姫命。社伝によれば、日本武尊の東征の折、相模から上総に渡ろうとして嵐に遭った。このとき、海神の怒りを鎮めるため、弟橘姫は自らその犠牲となり入水した。彼女の着衣が漂着したのが現在の社地で、そのころは浮き洲だったという(註11)。同種の伝説は東京湾岸沿いの各所に分布する。この浮き洲も歌に詠まれた庵崎(五百崎)のひとつで、中世のころまでは、このあたりが海岸線だったとみられる。
 吾嬬神社があるのは北十間川の川辺で、川を挟んだ南側が亀戸である。伝承によれば、その昔は亀島と呼ばれる海中の島で、のちに陸続きになり亀村と呼ばれるようになった。あるいは亀ケ井と呼ぶ名井があり、この地の古称である亀島とまざり亀井戸になった、ともいわれる(註12)。


ph10 大島川西支川。巽橋から福島橋方面をみた40年前の景色。(左)永代1,(右)永代21985。(ポートフォリオ「東京ラビリンス」05


ph11 大島川西支川。巽橋から福島橋方面をみた現在の景色。(左)永代1,(右)永代22025.3.27

 本所が入江だったとすれば、深川はその南側に隣接するから、なおさら陸地が少なかったと推測される。先にも書いたが、大横川が南から西へと方向転換するのが木場5丁目。その対岸には、明治時代に根岸から移ってきた洲崎遊郭があった(註13)。洲崎は元禄年間(16881704)の埋立地だというから、中世にはやはり五百崎と呼ばれる洲崎か浮き島の一つだったのである(註14)。
 『東京ラビリンス』(ポートフォリオ)に大島川西支川の街並みを撮った写真がある(ph10)。大島川西支川は大横川(大島川)と仙台堀川を南北に結ぶ運河で、大島川水門ちかくの巽橋から福島橋(永代通り)をみた景観であるが、川の左側が永代1丁目、右側が永代2丁目である。永代の地名はかここが永代島と呼ばれる砂州だったことからつけられた(註15)。
 永代島の面積はおよそ65千坪。そこに富岡八幡宮と別当の永代寺が創建されたのは1624(寛永元)年。神社と寺の敷地が2万坪あまりを占めた。富岡八幡の門前を東西にかようのが永代通り。西側へ1キロほど歩くと永代橋。江戸から永代島に江戸にわたる橋である。最初の橋梁は1698(元禄11)年に架けられた(註16)。
 『東京ラビリンス』の写真は1985(昭和60)年の撮影。あれから40年がたつ。同じ場所を撮ったのがph11である。
 家は一軒のこらず建て変わっている。むかしはどの家も二階建で、一階部分を川の中に張り出させ、別棟で高床式の小屋を作っていた。納屋か作業場と思われるが、そこには船に乗り降りする出入口もあったはずで、宮本常一の言葉を借りれば、街並みは川に向かい合っていたのである(註17)。
 現在はほとんどの家が建て替えをし、小屋がなくなったかわりに、三階建て以上の高さになっている。川辺にはコンクリートの岸壁がつくられ、地上部分は金属製のフェンスで囲われている。だからといって、街並みが川に背を向けてしまったわけでもない。画面の奥、永代通りにかかる福島橋の下には屋形船が停泊し、手前には係留の設備があるから、いまでも川は船溜まりとして機能しているのである。
 写真をよくみると、フェンスと家の間に空き地がある。おそらく、川幅を削ったのである。そこにさまざまな樹木が植えられている。この植栽はかつて下町のそこかしこで見られた格子戸を連想させずにはおかない。サクラは大木になるから、無理な気もするが、もう少し空間的な余裕があれば、大横川の川辺のように、見事に成長したサクラの花見を楽しむことも夢ではなかったかもしれない。


ph12 壁面を赤く塗った家。大島川西支川東側の通り。永代2-52025.3.27


ph13 古石場親水公園。古石場橋付近。牡丹2-1-1。幕府の石置場があったところ。また岡場所があったとも。2025.3.27


ph14 関東大震災と東京大空襲の受難者慰霊塔。傍らに永代2丁目南町会の災害協力隊倉庫。永代2-192025.3.27


ph15 寿司店水喜の軒先に飾られたサクラの生け花。富岡1-1-112025.3.27

1 建設局HP「大島川水門」大島川水門|水門・排水機場(イメージマップ)|東京都建設局
2 『図説 江戸・東京の川と水辺の辞典』「江戸・東京全河川解説 墨田・江東区の水系」(編集・鈴木理生、柏書房、2003
3 同上「大横川」
4 同上「大島川」
5 『紫の一本 上巻』「川は/隅田川」(『戸田茂睡全集』所収、国書刊行会、1915)。同書は1683(天和3)年の作品。その当時、本所も深川も開発され、市街地化していたとみられる。戸田茂睡全集 – 国立国会図書館デジタルコレクション (ndl.go.jp)
引用文には「万葉集ニハ廬埼(イホサキ)とも書り」とある。これは、おそらく、「真土山夕越え行きて廬前の角田川原に独りかも寝む」(巻3-298)の歌をさす(『万葉集(一)』、新日本古典文学大系1,岩波書店、1999)。しかし、この歌に詠まれる「真土山」「廬前(イホサキ)」「角田川原」は、武蔵・下総の地名をいうのではなく、和歌山県橋本市隅田町の地名とするのが、古くから定説になっていた。茂睡が歌の引用を控え、「猶尋へし」と書くに留めたのは、そのためと思われる。
6 『精選版 日本国語大辞典』「洲崎」(小学館)。州崎(すさき)とは? 意味や使い方 – コトバンク。『日本歴史地名大系13 東京の地名』「墨田区 中之郷元町」(平凡社、2002)。中之郷元町(なかのごうもとまち)とは? 意味や使い方 – コトバンク
7 『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』(講談社)。藤原光俊(ふじわらの みつとし)とは? 意味や使い方 – コトバンク      
8 『日本歴史地名大系13 東京の地名』「墨田区 庵崎」(平凡社、200庵崎(いおさき)とは? 意味や使い方 – コトバンク
9 『江戸方角安見図鑑』「丗五 三谷、角田川」(1680・延宝8年)。江戸方角安見圖鑑 2巻 [1] – 国立国会図書館デジタルコレクション
10 牛田には牛田圦(うしだいり)と呼ばれる農業用水があった。牛田駅|東武鉄道公式サイト。「圦」は、水の出入りを調節する水路や池などの堤にうめた樋(とい)圦(イリ)とは? 意味や使い方 – コトバンク。茂睡は「隅田川」の條の別の箇所では「関屋」を「堰や」と書いている。これは灌漑用の水路に堰を設けて、用水を調節す設備とみられる。ということは、鎌倉時代のころには、北千住の隅田川沿いの一帯は水田として開発され、それを営む農家の集落が形成されていたことになる。
しかも「まへには海、ふねもおほくとまりたり」とある。だとすれば、このあたりまで海が喰い込んでいて、遠方からの船舶でにぎわう港湾として発展していたのである。
11 吾嬬神社境内掲示の社伝。吾嬬神社|墨田区立花の神社
12 『精選版 日本語大辞典』「亀戸・亀井戸」(小学館)。『日本大百科全書(ニッポニカ)』「亀戸」(小学館)。亀戸(カメイド)とは? 意味や使い方 – コトバンク
13 平嶋彰彦のエッセイ「東京ラビリンス」のあとさき その18(後編) | ブログ | ときの忘れもの
14 『精選版 日本国語大辞典』「洲崎」 州崎(すさき)とは? 意味や使い方 – コトバンク
15 『図説 江戸・東京の川と水辺の辞典』「江戸・東京全河川解説 墨田・江東区の水系」/ 「高野山真言宗大栄山永代寺縁起」(『猫の足あと』「大栄山永代寺」所収)。永代寺|江東区富岡にある高野山真言宗寺院。「深川の開発と支配」(江東区江戸深川資料館)。7989_資料館ノート09.pdf
16 「深川の開発と支配」(江東区江戸深川資料館)
17 『宮本常一が撮った昭和の情景 上巻』「昭和38年 柳井」(毎日新聞社、2009

(ひらしま あきひこ)

 平嶋彰彦のエッセイ「東京ラビリンス」のあとさき は隔月・奇数月14日に更新します。次回の予定は2026年5月14日です。どうぞお楽しみに。

■平嶋彰彦 HIRASHIMA Akihiko
1946年、千葉県館山市に生まれる。1965年、早稲田大学政治経済学部入学、写真部に所属。1969年、毎日新聞社入社、西部本社写真課に配属となる。1974年、東京本社出版写真部に転属し、主に『毎日グラフ』『サンデー毎日』『エコノミスト』など週刊誌の写真取材を担当。1986年、『昭和二十年東京地図』(文・西井一夫、写真・平嶋彰彦、筑摩書房)、翌1987年、『続・昭和二十年東京地図』刊行。1988年、右2書の掲載写真により世田谷美術館にて「平嶋彰彦写真展たたずむ町」。(作品は同美術館の所蔵となり、その後「ウナセラ・ディ・トーキョー」展(2005)および「東京スケイプinto the City」展(2018)に作者の一人として出品される)。1996年、出版制作部に転属。1999年、ビジュアル編集室に転属。2003年、『町の履歴書 神田を歩く』(文・森まゆみ、写真・平嶋彰彦、毎日新聞社)刊行。
編集を担当した著書に『宮本常一 写真・日記集成』(宮本常一、上下巻別巻1、2005)。同書の制作行為に対して「第17回写真の会賞(2005)」を受賞。そのほかに、『パレスサイドビル物語』(毎日ビルディング編、2006)、『グレートジャーニー全記録』(上下巻、関野吉晴、2006)、『1960年代の東京 路面電車が走る水の都の記憶』(池田信、2008)、『宮本常一が撮った昭和の情景』(宮本常一、上下巻、2009)がある。2009年、毎日新聞社を退社。それ以降に編集した著書として『宮本常一日記 青春篇』(田村善次郎編、2012)、『桑原甲子雄写真集 私的昭和史』(上下巻、2013)。2011年、早稲田大学写真部時代の知人たちと「街歩きの会」をつくり、月一回のペースで都内各地をめぐり写真を撮り続ける。2020年6月で100回を数える。
2020年11月ときの忘れもので「平嶋彰彦写真展 — 東京ラビリンス」を、2023年11月「平嶋彰彦写真展―東京ラビリンス/カラー」(監修:大竹昭子)を開催。

 

◆ときの忘れものは、アートフェア東京2026 へ出展します。

TOKYO ART BEATでも<ときの忘れものは、内間安瑆・内間俊子の作品、瑛九のフォト・デッサンなど戦後美術史における重要作家を取り上げる>と注目されています。
会期=2026年3月13日(金)~3月15日(日)
会場=東京国際フォーラム ホールE/ロビーギャラリー
(〒100-0005 東京都千代田区丸の内3丁目5番1号)
ときの忘れものブース番号= N009
出品作家=安藤忠雄、磯崎新、内間安瑆、内間俊子、瑛九、倉俣史朗、佐藤研吾、塩見允枝子、瀧口修造、松本竣介

*アートフェア東京2026 公式サイト https://artfairtokyo.com/

<重要なお知らせ>
アートフェア東京2026出展のため、
ときの忘れものは、2026年3月13日(金)~3月16日(月)は臨時休廊いたします。
スタッフはアートフェア東京の会場(東京国際フォーラム)におります。

●ときの忘れものの建築空間(阿部勤 設計)についてはWEBマガジン<コラージ2017年12月号18~24頁>に特集されています。
〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS ときの忘れもの
TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531 
E-mail:info@tokinowasuremono.com
営業時間=火曜~土曜の平日11時~19時。日・月・祝日は休廊。
JR及び南北線の駒込駅南口から約8分です。

 

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