画廊主のエッセイ
このコ-ナ-では、画廊の亭主が新聞や雑誌などに依頼されて執筆したエッセイを再録します。

幻の画廊

綿貫不二夫 1995年
『ギンザアバウト』1995年・ザ・ギンザ発行に掲載。

名前を「画廊アルファ」といった。今となってはまるで白日夢のようだが、忘れ難い記憶を残しながらあっという間に消えてしまった画廊である。昭和54年 9月、六丁目の小松ストアビルにオープンしたが、開廊記念展が坂田一男回顧展で、これが凄かった。坂田は知る人ぞ知る抽象画の先駆者である。大正10年パリに留学、レジェの研究所では彼のかわりに指導したという。帰国後は故郷岡山県に籠り画壇とは一切縁を絶ち昭和31年に没した。生涯独身、水害でアトリエが水浸しになるなどで、残された絵は極めて少ない。私も倉敷の大原美術館などで数点を見ただけだった。生前は全く知られることのなかったこの坂田の代表作がずらり並んだのである。つづいて翌10月には難波田龍起展が開かれた。初日の夕刻、誠実で義理がたいこの画家は友人の葬儀に出席し、そのお清めの席をなかなか抜け出せず、自分のパーティに大遅刻し、集まった客をやきもきさせたが、これも素晴らしい個展だった。ところがこの直後、画廊は突然閉店してしまった。僅か数か月の短命だったが、坂田と難波田という日本を代表する抽象画家の文献には必ずこの幻の画廊の名が載っている。

 このような画廊もあれば、長い歴史を誇る画廊も銀座には多い。昨年七十五周年を迎えた資生堂ギャラリーが最も古く、大正 8年12月、七丁目のザ・ギンザの地に開設された。この辺りは昔竹川町といった。百二十年前の明治 8年10月、竹川町十二番地で日本最初の洋画展を国沢新九郎が開いたというから、画廊の街銀座の発祥の地といってもいいかも知れない。95年美術手帖年鑑によれば現在三百十二軒の画廊が銀座にある。75年版では百三十一軒だからこの二十年間で倍以上に増えたわけだ。さらに十年溯り64年版には四十八軒が載っている。そのうち今も健在なのは資生堂、日動画廊、兜屋画廊など三十軒、消えていった画廊も無数にある。

『ギンザアバウト』1995年・ザ・ギンザ発行に掲載。

 この本は資生堂のザ・ギンザの20周年記念出版として刊行された。副題に<銀座あれこれ・エッセイ53篇 銀座あちこち・写真46点>とある通り、銀座に関するエッセイ集である。私は当時、資生堂ギャラリー史の編集に携わっていたので、必然的に銀座の画廊のことは調べつくしたといっていい。そんなわけでおはちが回ってきたようだ。主な共同執筆者は、芦原義信、コシノジュンコ、高梨豊、大内順子、林真理子、松永真、今野雄二、武田花、原由美子、荒木経惟、玉木正之、樋口修吉、泉麻人、大宅映子、坂田栄一郎、田村隆一、村松友視、ホンマタカシ、諸井薫、椎名誠、土屋耕一、稲越功一、柏木博、横須賀功光、深井晃子、宋左近、鳥居ユキ、福原義春、小池一子、藤森照信、布施英利、他。<


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