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植田実のエッセイ 本との関係3

高橋睦郎の「友達」

 『高橋睦郎のFriends Index友達の作り方』(マガジンハウス 1993)のなかで、高橋が西部版『毎日中学生新聞』の詩の欄に投稿していた頃のことを書いている。その後は「短歌、俳句、作文の欄でも入賞が続き、三年に進級する頃には西日本の少年文壇のちょっとした星だった」。週に数通は来ていたというファン・レターのなかに大人の文字の葉書があり、差出人は、山口県萩市明倫小学校柳井正一。生徒ではなく先生で、彼は上記の新聞などで目をつけた少年たちと連絡をとり、西日本少年文壇の同人誌を作ろうとしていた。それは1952年の大晦日に実現した。40ページの『でるた』という冊子である。そこに作品を寄せている「俊秀たち」を、高橋は「アトランダムに名前を挙げれば、日野孝之、八尋舜右、植田実、小田亨・・・」と10人ばかりを列挙し、「八尋舜右氏は現在朝日新聞社図書出版室長、植田実氏は建築評論家、・・・」といま知られる消息が紹介されている。
 それによると私の作品も載ったらしい同人誌『でるた』は、手元にないばかりか、そんな冊子がつくられたこと自体まるで記憶にない。しかし、柳井正一先生から私にも来た葉書や手紙は残っている。小倉高校に入学した年、その春の運動会に先生は私を訪ねてきた。坊主頭に白鉢巻の私と並んだ写真もある。『でるた』第1号刊行後、柳井先生は強度の神経衰弱に羅り他界した、と高橋は伝えている。
 彼の本によってここまで記憶を探ってきたところで、私はすっかり忘れ果てていたことに思い当たった。現代詩の入門書などに接してはじめて詩を書きはじめたつもりでいたのだが、じつは中学1年の頃から、まぁいかにも中学生らしい詩を書きはじめ、高橋と同じように西部版『毎日中学生新聞』に投稿していたのである。(今回、資料を探していたら、中学時代の詩をまとめた手書き詩集『クレヨンの匂い』という小冊子が出てきたのでそのことを知ったのだ。ある作品には「中毎に掲載」などの但し書きが付いている。清書してしばらく放っておいたのを、高校2年の終わりにあとがきを書き、表紙を付けている。表紙の文字に、その頃は花森安治にイカレていたことがうかがえる)。
高橋の名は同じ欄で知っていたに違いない。ただ彼とは直接手紙をやりとりしたことはなく、いわゆるペン・フレンドは、高橋が「俊秀たち」のなかに名を挙げている小田亨である。前回に触れた、寺山の『忘れた領分』の存在を訴えたのはこの人である。長く音信が絶えていたが、そのときの新聞記事で、現在はたしか静岡あたりに住んでいることをはじめて知った。
 小田とは中学高校時代に会うことがあったのか定かでないが、大学に入って親交を深めた。彼は他の大学に行っていたのだが、受験時代を通過して、お互いに訪ねあえる余裕がはじめてできたのだろう、とにかくよく会った。ボート池で遊んだり、新宿で飲んだり。前回にも触れた「ガラスの髭」にも彼は入会し、一緒に『忘れた領分』を読む仲となる。高橋睦郎とは彼がその前からとくに親しく、上記の本によれば「まるで恋文のような手紙をやりとり」していた。この頃、詩を書いたノートを貸し借りし合う習慣があり、小田がそうして高橋のノートを丸写しした(あるいは編集して書き写した)ものを私が借り受け、手書きでコピーのコピーをした『高橋睦郎詩集』が手元にある。約100頁、80篇近くが万年筆で丁寧に書き写されている。いまの私よりきれいな筆蹟だ。小田が高橋の高校時代からの詩をノートに書き写し、私がさらにそれをなぞったのはともに大学に入った年。つまり中学高校での縁が大学時代に本格化したといえる。
 しかし私の大学生活は1年目の夏に中断する。母の病いが重く、見舞に小倉に戻ったのだが、いつ深刻な事態になるか分からないという医者の見立てで、東京に帰れなくなってしまったのだ。これでは死を待っているみたいだと、病床の母を励まし東京の家に帰りつくや否や電報が届き、またとんぼ返りする破目になった。結局、大学を1年休学し、一年下のクラスで授業を受けることになる。
 高橋とはじめて会って言葉を交わしたのはずっと後である。もちろん彼はすでに高名な詩人であった。その後、何度か会うことがあったが、例の手書きの『高橋睦郎詩集』を見せてサインを乞うたときがある。苦笑とも困惑ともみえる表情をにじませながら、しかし真剣に書いてくれた名と日付は、私が彼の手書き詩集をつくった日からちょうど30年後になっている。『現代詩文庫19 高橋睦郎詩集』(思潮社 1969)には「初期詩篇から 1953-1959」として9篇が収録されているが、うち2篇は、多少手を加えてはあるものの、この手書き詩集から選ばれている。当時はもちろん、彼のきらめくような言葉にこちらはなす術もなかった気持だったか、今あらためて読み返してみると、この人はやはり書く必要があって詩を書いていたのだとしみじみ思う。
 前回に触れた寺山修司との出会いからはじまる、こうした一切が大学1年の夏までに起こった。面会謝絶となった寺山とはそれきりで、後年、渋谷の食べもの屋で近くの席にいた「天井桟敷」の主宰としての彼を見掛けたりするが声はかけなかった。当然、彼のほうは私を覚えていなかっただろう。それはその当時私がむしろ唐十郎の「状況劇場」に共感が傾いていた(それは現在に至ってもいる)こととも重なっている。しかし私の姪はいつのまにか「天井桟敷」の衣装担当になっており、海外公演にもついていった。そのような形で彼への関心はいつもどこかで繋ってはいたのである。
 前回にも参照した年譜は『寺山修司全詩歌句』(思潮社 1986)に併載されているものだが、これによると「チェホフ祭」で短歌研究新人賞を受賞した際、「自作の俳句を短歌にアレンジしたことと、俳句の中村草田男、西東三鬼、秋元不死男の影響が強かったために俳壇で問題となる」とある。この問題はその後も彼につきまとう。ようするに真似ごとに終始したという寺山像がくりかえし、さまざまな論者によって描かれる。だが私の実感からすれば、そうした局面にこそ彼の天才の資質が否応なく見られ、それに圧倒されていたのである。俳句でも詩でも小説でも映画でも、接したもの全てに彼の言葉はたちまち染まっていく。その自然体ともいえる同化のなかに彼独自の世界がすでに確立されている。ものを創る人間にはこうした資質が備わっていなければならないのだと、私は自分を見限ったにちがいない。なかでも俳句・短歌には誰がなんと言おうと寺山のエッセンスそのものがあると私は勝手に思っている。結局「チェホフ祭」を書いたハイティーンの寺山をさいごまで私は追いつづけたのだった。

2006.7.28 植田 実


 

『高橋睦郎詩集』手書きの表紙と本文の一部
発行日:1955年7月3日
サイズほか:21.0×15.0cm、100頁


『クレヨンの匂い』手書きの表紙
発行日:1953年2月24日
サイズほか:17.5×13.0cm、54頁























植田実のエッセイ



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