ときの忘れもの ギャラリー 版画
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写真を買おう!! ときの忘れものフォトビューイング
第4回フォトビューイング 口上 原茂
2010年12月11日
「第4回 写真を買おう!! ときの忘れものフォトビューイング」には、写真家の風間健介さんをお招きいたします。


 風間さんの作品との出会いについては、おいおいご紹介させていただくつもりでおりますが、最初に、今回のビューイングで紹介させていただく「夕張」のシリーズの集大成というべき、写真集『夕張』(寿郎社、2005年)の「あとがき」を転載させていただきます。
 写真家風間健介の人となり、そしてその仕事を理解していただくのに一番ふさわしい文章かと思います。


 作品については、風間さんご自身のHPを見ていただくのが一番なのですが、その充実ぶりゆえにかなり入り組んだHPですので、取り急ぎ「夕張」関係の作品の掲載ページのURL http://kazama2.sakura.ne.jp/sakuhin.top.html を載せておきます。これらの作品を実際に手に取ってご覧いただき、作家の言葉をじかに聞くひとときを共にしていただければと願っています。

<以下転載>

「夕張」の名を初めて知ったのは二十一歳の時。
93人が亡くなった北炭夕張新坑ガス突出事故の時だった。
連日トップニュースで否が応でも、「夕張」と「炭鉱」という名前は耳に入った。
当時、私は東京でミュージシャンを撮るカメラマンをしていた。
死者の数や凄惨さにも驚いたが、夕張市民や北海道民とは違う思いもあった。
私が感じたのは戸惑いであった。
国内で石炭を掘っていた事実に対する素朴な驚きだった。
海外の露天掘りの石炭を輸入した方が、はるかに安く、
事故も起こらなかったろうに、、、。

私は高校生の頃から、ミュージシャンを撮っていて、
その道で生きて行くものだと思っていた。
しかし、ある日、それが急に何故か虚しいものに感じた。
カメラは立体空間を一瞬にして、正確に平面にしてくれる。
実物以上に美しく、かっこよい映像も作れる。
しかし、その便利な写真機材によって、
決まった被写体を撮ると言う行為が、喜びを感じさせない、
つまらないものに感じていたのだ。
そして、カメラを置いた。
生活費を稼ぐためだけにバイトをしたが、
1年間、何をやればよいのか、何のために生きていくのか悩みつづけた。
ある日、答えが急に浮かんだ。
「好きなことをやっていこう。たとえ食えなくても、バイトをすればよい。
自分の作品だけを作っていこう」
本当に馬鹿馬鹿しく、あっけなく、簡単な答えだった。
悩みつづけてた1年という時間が、凄まじく、もったいない時間に思えた。
そして、自分の映像を作るために放浪をした。
北海道も何度か訪れたが、海沿いの街が多く、「夕張」の名は忘れていた。

29歳の時、夕張に移り住んだ。
まさか、夕張に住むことになるとは、自分でも思わなかった。
当時はまだ、三菱南大夕張炭鉱が操業していたが、
炭鉱を撮るつもりで夕張に移り住んだわけではなかった。
いや、それどころか、炭鉱の写真は嫌いであった。
過去、炭鉱関係の写真というと粒子の粗いモノクロの写真が多かった。
それらは写真の良し悪しを別にしても、どれも同じような写真に見えた。
そこに自由は感じなかった。

写真は創作というより、記録に向いている部分が大きいと思う。
そして、被写体の持つ力による影響が強いと言えよう。
詫びや、寂びを愛する日本人にとって、産業が衰退し、
人々に捨てられた街の存在は安っぽい感傷ストーリーを思い浮かべさせ、
類型的な観点で好まれやすい。

「また悲惨な写真を撮りに来たのか」と市民に言われたこともある。
事故の時は報道関係者だけでなく、多くの人が絵になるものを求め
夕張に集まったという。写真そのものには罪はないのだが、
強い憤りを感じた。
閉山後の炭鉱建造物の表面は風化しており、絵になるもので
写真機材との相性も良く、誰でも簡単に絵になるものが写る。
しかし、私はそれらを撮るのは安易で情けないものに思え、
カメラを質屋に入れて、酒ばかり飲んでいた。

それでも、撮らなくても、炭鉱の建造物には惹かれた。
実際の炭鉱は知らないのだが、
炭鉱の風景はどこか懐かしく、心が落ちつく風景に感じられた。
炭鉱の建造物や炭住、街並みは日本の原風景のひとつとして、
日本人である私の肉体に刷り込まれていたのではないだろうか。

私の住む清湖町は炭鉱最盛期、1500人程が住んでいたが、
現在は6戸11人が暮らす静かな、小さな、町で番地もない。
清湖町に入るには清水沢ダムを渡らなければならない。
このダムの下には、操業中の北炭清水沢発電所があった(現在は解体途中)。
完成時、東洋一と言われた発電所の姿は生命力溢れるものだった。
私はこのダムから見る風景が気に入って清湖町に住んだ。
そして、炭鉱遺産の重要性を新聞等に書き出した。

私は作品しか作れない。いや、それ以前にほとんど撮っていなかったので、
当たり前だが、写真で食えない。
アルバイトもしていたが、冬になると当然のように出稼ぎにでた。
しかし、私の家の周りは無人なので、
出稼ぎから帰ると家は荒らされていて、廃墟のようになっていた。
その後、家を留守に出来ないので、市内だけで働いたのだが、
収入は半分以下になった。引っ越すにも金はなく、生活は苦しくなった。
なにより、長期の撮影に出かける自由がなくなった。
身近な炭鉱遺産を題材にして、本格的に撮ることを始めた。

「炭鉱ほど良いものはない」。
夕張に暮らしてよく聞く言葉であった。
私は三重県生まれで、本物の炭鉱は知らない。
石炭を見たのも夕張に来てからだ。
炭鉱に対する私の知識はマスメディアによるものが多く、
暗いイメージしか持っていなかったので、その言葉には驚いた。
しかし、実際に炭鉱の街に暮らし、元炭鉱マン達と接していると、
炭鉱は暗いという固定観念に違和感を感じた。

炭鉱というと強制連行、事故、塵肺を想像する人は多いと思う。
中にはそれらの事だけを捉えて、炭鉱を語りたがる人もいる。
日本人をも含めた強制連行は確かにあった。
しかし、強制連行の本当の原因は戦争だ。
決して、炭鉱イコール強制連行ではない。
事故の哀しみ、塵肺の苦しみも壮絶なものだ。
しかし、それだけが炭鉱ではない。
それだけなら、誰も炭鉱で働かないだろうし、
閉山を悲しむこともないだろう。

炭鉱を知るために、もっとも注意すべきは時代である。
ツルハシで掘っていた時代と大型機械で掘っていた時代では比較のしようもない。
その時々によって炭鉱の生活、取り巻く環境、炭鉱の持つ意味は大きく変わってくる。
黎明期から戦時中、そして、最盛期から閉山までを、正確に検証すべきと思う。
炭鉱最盛期、空知の炭鉱の町には札幌より多くの人間が暮らしていた。
社員、直轄、下請けの差はあれ、高収入で家賃、光熱費も優遇され、
炭鉱のマチに嫁ぐ人は羨ましがられたという。
出始めの頃に大卒初任給の十カ月分もしたテレビが最も普及したのも
炭鉱のマチと言われている。
美空ひばりも札幌より、夕張で歌いたがっていたと語り伝えられている。
炭鉱の社長、組合委員長、夕張には市長が3人いるとも言われた。
まさに、炭鉱様で料亭の番頭さんは金のない役人や銀行員を断るのが
仕事だったと言われる。
炭鉱には大きな事故や悲しみもあったが、豊かな生活もあったのだ。
100年間の生命の営みが絶えなかったことを知って欲しい。
夕張に16年間暮らしてみて、そのことを一番強く思っている。

マスコミや炭鉱を語りたがる人達は強制連行や事故等の
炭鉱のマイナス面しか取り上げない事が多い。
そして、労働者=善 国家、大企業=悪 の観念から抜け出ていないように思う。
ストライキが多すぎて閉山した炭鉱もあるのだ。
旧産炭地にはもう一つの、現在の、顔がある。
閉山から、時間は経っているが、空知の炭鉱のマチには相変わらず、
大きな赤字があり、日本で最も倒産しそうな自治体が多い。
人口減少、高齢化の問題もある。
炭鉱閉山は国策の責任だと唱えるばかりの被害者意識では、
マチの再生はとうてい出来ないだろう。

炭鉱イコール暗いのイメージだけだと、炭鉱遺産は解体され、
明るいテーマパークが3セクで作られる。
当然、赤字になり、そのツケは市民生活にのしかかる。
旧産炭地は現在も疲弊しているのである。
九州の炭鉱のマチは閉山により、3割ほどの人口が減ったと言う。
しかし、空知の炭鉱のマチはさらに酷く、その中でも夕張は最盛期の
10分の1の人口になった。
炭鉱のマチは炭鉱施設を中心にマチが形成されるのであるが、
夕張の場合、それがいくつも点在しており、集約などの効果的な対策がとれず、
より過疎化に拍車をかけている。
鉄道マニアなら廃線になる日だけ訪れ、写真を撮れば良い。
廃墟マニアなら寂れている所だけを探し、宝物のようにありがたがれば良い。
しかし、そこには現在も生きている人間がいるのである。
夕張メロンを作ったり、映画祭の応援に頑張っている市民もいるのである。
炭鉱イコール暗いという幼児的発想だけはやめて欲しい。

地元には炭鉱遺産はコンビニ以下の負の存在と考える人もいるが、
国内の産業遺産に対する状況は近年、大きく変わって来ている事を知って欲しい。
長崎では海底炭鉱であった軍艦島を中心に世界遺産に登録しようという
動きもあり、ドイツの世界遺産選定委員もそれを認め、ユネスコに登録申請するように薦めた。
炭鉱施設は古いが、炭鉱遺産として、新たな価値が見出されているのである。
炭鉱遺産が注目されれば、炭鉱のマチにも経済効果があり、
元炭鉱マン達にも誇りが甦るのではないだろうか。
私は炭鉱遺産は空知だけでなく、北海道にとっても価値ある存在に
なってほしいと願っている。

2005年4月   風間健介


(はらしげる)



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