
「あつ!」「おおつ!」「こっ、これはっ!」 思わず漏れる声にマウスを握っていた手を慌てて口元へ。恐る恐る振り返る後の襖に開く気配はない。ほっと胸を撫で下ろして再び目をディスプレイに。家人が寝静まった深夜。密やかなる大人の楽しみである。こちらが食い入るように眺めているのは、私のお気に入り、永井桃子の新作映像。全部で17枚の画像がアップされている。
いったいどこから差し込んでくるのか、何層もの薄絹を通して宙全体から降ってくるような柔らかな光。触ったらきっと手の平が吸い付くにちがないしっとりと肉厚な肌。吐息にふるふるとふるえる柔毛に覆われているかに見えるはなびら。しんとしずまりかえってあたりに人の声なく、遠くから恐竜の叫びが聞こえてきそうな太古の森林を思わせる植物群。タイトルは「光途」(ひかりみち)。
そこには植物が描かれていながら、しかし描かれているのは「薔薇」とか「百合」といった名前の付いた存在ではない。もちろん、「~のように」見える植物もある。けれどもそれは、決して植物図鑑のように、他の植物と区別できるような描き方で描かれてはいない。永井桃子が描くのは、個別の植物ではなく、いわば「植物そのもの」であり、さらに言えば「植物的」とでも言いうるようないのちのありかたそのものであるように思える。
あちらこちらと獲物を求めうろうろするのではなく、たとえそこがどんな場所であっても、じぶんの置かれた場所に根を張り、ただ上よりのひかりを求めからだを伸ばし、降り注ぐひかりをからだぜんたいで受け止め、そのひかりによって自分じしんの中でちからといのちを生み出し、蜜を、実を、そしてついには自分のからだそものもさえも他のいのちに与え、そして与えることによっていのちを伝えてゆく「植物」のいのちのゆたかさ、ふかさ、けだかさがそこには描き出されているように見える。他のいのちを奪うことによってしか生きることのできない「動物」(けもの=ケダモノ?)のいのちに対して、与えることによって生きる「植物」のいのちは、私たちにまことのいのちのあり方を指し示しているようにさえ思えるのである。その意味で「光途」とは、まさにわたしたちのひかりへの途でありいのちへの途のことなのだ。
ある人が、2004年の「永井桃子展」〔2004年4月20日(火)~5月1日(土)〕で展示された116.8×274.0cmの大作に、宮崎駿監督の「風の谷のナウシカ」の印象的なラストシーン、清浄化された腐海の最深部に置き忘れられたナウシカの飛行帽の傍らで芽生えた若芽が成長したらきっとこんな森になるんじゃないかしらとコメントしていたが、納得である。
特に今回目を引いたのは、DMにもなった「光途-日々」。ふんわりとした緑のしとねを思わせる草むらに、赤、白、桃、橙、黄、色とりどりの五弁の小花が散らされている。これれまで太古の巨木を仰ぎ見るような視点に、足下の野の花にふと目をとめ、慈しむような眼差しが付け加わったとでも言えるであろうか。
これまで「見上げる」しかなかったまことのいのちのあり方、ひかりへのみちは、実は、私たちのごくふつうの当たり前の「日々」の中にあること、私たちの足元にある、ちいさな、わずかな、日々の生活の中の小さな彩りにも似た出来事に、喜びや感謝、信頼と希望を見出すことができるなら、そこにもまた、否そこにこそ、まことのいのちにいたるひかりのみちが開かれているということではないだろうか。
うつくしくあることが、目に見えるかたちのうつくしさではなくありかたそのもののうつくしさであることを永井桃子の作品は無言の内にしかし雄弁に指し示しているように見える。ギャラリーがどことなくしんとして、荘厳といえるような雰囲気をたたえていたことを思い起こす。次の個展が今から楽しみである。
(はらしげる)
*「永井桃子展」2006年5月26日~6月3日
コメント