
最初は女性が普通にこちらを向いているアップ。でも息を吐くと大きな泡があらわれる。それによって女性のまわりを実は「水」が満たしていたのがわかる。最近見たテレビCMの中でとても印象に残ったものだ。一体何のコマーシャルだったのだろう、それ自体は覚えていないのに、我慢できずについに水の中で息を吐き出すシーンは忘れることができない。この一見、トリックのような映像に日和崎尊夫の一連の木口木版画をかさねてイメージしていた。
私にとって日和崎作品のイメージは「海」である。同じ木口木版であっても柄澤齊の作品には「宇宙」とか「空中」とかを感じるので、海のイメージは木口木版が根源的に内包しているものではなく、日和崎が抱えているイメージなのだろう。日和崎の作品を見る時、たとえモチーフが花であったとしても周囲に水を、海を感じていた。
今回の日和崎尊夫展で、久しぶりに彼の作品をまとめて見たように思う。私が日和崎の作品を見ていたのは80年代前半、場所は札幌と東京と半々くらいだったろうか。その多くはギャラリーに飾られた木口木版作品としてみたが、ごく一部は雑誌などの扉作品や本の装丁などの印刷物としても見ていた。このたびの展覧会では「旧友」に久しぶりに再会したような懐かしく、楽しい気分になった。
同じ木版画なのに、板目木版と木口木版とはまったく異なる世界を出現させる。板目木版の場合、正目を使う。自然木でいえば、もっとも成長の早い伸びしろの大きな部分が正目である。正目はともかくのびのびしている。木の状態では垂直になっているものを版画では水平において使う。一方、木口木版の場合、もっとも成長が遅く、伸びしろのないのが木口である。したがって硬い。木のなかの「おしん面」なのである。ともかく苦労している。立ったままの木を水平にカットして、そのまま版画の面として使うのが木口木版である。だから自然の摂理から考えると倒錯がない。もっとも自然な状態なのである。日和崎は特に椿を版木に使った。木口で切断された椿には時に割れもあったが、その割れも作品の一部として使う度量が日和崎にはあったし、黄楊ほどには硬くない椿の切断面をきれいに金属でいえば鏡面に磨きあげる作業を惜しまなかった。木口が苦労している「おしん面」であるなら、これを使う版画家も下準備に徹底して苦労する。この工程なくして木口木版作品の深さはでない。この磨きあげた面に黒いインクをのせて刷ると漆黒の闇がプリントされる。それは深い深い闇であるが、日和崎の闇は、私にとって果てしない海である。
銅版画つまりエングレービングの場合、光る金属面をさらに刃物で削る。すると、さらに輝く面が光をはじく。目に痛いほどである。だが、これを刷る場合、インクは輝く溝に入り込み、黒い刻み線としてプリントされる。左右の逆転とともにネガとポジの転換が生じる。木口木版の場合、左右逆転はあってもポジはポジのままである。硬くそして滑らかに磨かれた面に黒い海を孕ませ、刻んだ一本一本の線が光となって輝き始める。聖書には「はじめに光あれ」という言葉があり、世界のはじまりの前に光が生まれたということであるが、光がうまれるためには闇が必要であり、日和崎はまさにこの世界の生成を小さな木口という版木の上に形成していった。そして、その小さな宇宙は無音の海であり、海には生命のはじまりや生命の終わりが潜んでいる。日和崎は彼の代表作を『KALPA』と名付けている。KALPAとは古代インドの時間の永遠さを表す言葉。天女が百年に一度降りてきて羽衣でこする、これを繰り返して7km四方の石がなくなる時間というのだから無限ということだろう。生命の誕生からはじまる命をつなぐ無限の時間を日和崎は感じていたのかもしれないと思った。
2006.8.3. (なかむらけいいち)
*「闇を刻む詩人 日和崎尊夫展」2006年7月21日~8月5日

日和崎尊夫「KALPA-69」

日和崎尊夫「KALPA-74」
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