瑛九・プロフィール 
左に掲載した図版は「瑛九石版画総目録」(瑛九の会)の1番に掲載されている瑛九の初めてのリトグラフといわれている作品です。
これを、瑛九は銅版画のプレス機で刷りました。

 瑛九のリトグラフ制作は、1951年(昭和26)9月に故郷宮崎を離れ、埼玉県浦和市に移住したときから本格的に始まりました。
 山田光春「瑛九 評伝と作品」によれば(330頁)、既に宮崎時代に真岡の久保貞次郎から銅版画のプレス機を送ってもらい、銅版画の試作は既に始まっていたようですが、リトグラフの制作は浦和に来てからのようです。

 前回お話した島崎清海さんの聞き書きをまとめようと思っていたら、島崎さんご本人からお手紙をいただきました。
貴重な証言であり、ご本人の許可を得ましたので、一部再録させていただきます。

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過日は長座しまして・・・。
その時の話、少し補足しておきます。
久保さんが瑛九にエッチングプレス機をおくったのは(中略)浜田知明が使っていたものだと思われます。浜田が熊本に帰るので手放したと聞いています。従って私が瑛九から譲り受けたのは久保さんがおくったものだったと考えられます。四本あるハンドルのうち一本がなくなっていました。ハンドルは私の知っている鉄工所で新しく作ってもらいました。プレス機を置く台は木製で、浜田が使っていたものでこれも瑛九から譲り受け、いまだに私の所にあります。プレス機はその後、名前は思い出せませんが山形出身で川崎の中原の方に住んでいた画家に譲りました。転々と移動したものです。銅版の材料は当時瑛九も私も神田東松下町にあった堀中伸銅店と神田駅北口ガード下にあった三善商会で手に入れていました。
瑛九がリトの手解きを受けたのは浦和常盤町にあった(今は浦和の別所の方に転居)ときは印刷の主人金森茂氏でした。私も泉茂の外、この金森氏に教わりました。私はこの外、光村印刷の大江恒吉氏(芸大の講師)、女屋勘左衛門氏、桐生のオノザト(注・オノサト・トシノブ)の絵など刷っていた刷師などに教わりました。
瑛九は新しいエッチングプレスを入れていました。石版プレスも・・・。私が使った石版プレスは泉茂のお古です。以上お知らせしておきます。
二〇〇七年六月一日 島崎清海
綿貫不二夫様
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瑛九のリトグラフは、実は浜田知明先生が使っていた銅版画のプレス機によって最初は制作されたことがわかります。
浜田知明と瑛九の思わぬ因縁、興味深いですね。

瑛九のリトグラフについて
瑛九のリトグラフについて2~浜田知明の銅版プレス機
瑛九のリトグラフについて3~浜田知明の銅版プレス機 続き