「版画と小切手は同じだ、サインがなければただの紙きれだ」と喝破したのはかのピカソですが(こんな乱暴な言い方だったかどうか、うろ覚えなので)、とにかく版画の版元にとって最後に作家のサインをいただかないことには、それまでの努力、投下した資金がすべて水泡に帰してしまう。だから、サインをもらうまでは一時も気を許せない。
私自身の経験でも、サインをいただけずに痛恨の涙を流したことがしばしばあります。
木内克先生のリトグラフ連作「四季平安万事如意」10点(限定75部)を刷り師の加藤南枝さんが刷り上げてくれたのは1976年10月末でした。上野の木内先生のアトリエに運びこみました。直ぐにその場でサインを貰えばよかったのですが、先生が「台湾旅行の後でいいだろう」とおっしゃったのでその日は引き下がり、お帰りを待っていたら、帰国後そのまま病院に・・・、全部のサインは叶わず、残りは先生のお許しを得て印で代用しました。それでも病床の木内先生に完成したポートフォリオをお届けできたのでよしとしましょう。
悲惨だったのは某有名彫刻家X先生の銅版画です。刷りあがった数百枚の銅版画をサインをいただくためにお届けしたのですが「ボクの指示した刷りと違う」と言い出され、サインしていただけませんでした。電話で泣きながら報告するスタッフに「いいから、そのまま置いて帰っておいで」と言って慰めたのですが、こちらが試刷りに確認のサインをいただかなかったのがミスといえばミスなのでそのまま引き下がりました。驚いたのは数年後に、私たちが刷り代を負担し、そのまま先生のアトリエに置いてきた銅版作品が他の版元Oから堂々と売りに出されたことです。「版」は本来の版元である私の手許にあるのですから、Oが新たに刷れるはずがありません。「ボクの指示した刷りと違う」はずの作品を、X先生は私たちに何のことわりもなしに他の版元に売り渡した。呆気にとられました。駄目といわれたのだからその場で破り捨てればよかったのですが、いまいち甘い私にはそれができなかった・・・。X先生が心変わりしたのか、それともたまたまご機嫌が悪く「サインはしない」と意地悪をしたのか、今にいたるまで謎です。
建築家の安藤忠雄先生に初めて版画制作をお願いしたのは1984年でした。名プリンター石田了一さんによって2点(限定各150部)が刷り上がった1985年2月、私は生涯最大の危機に直面し倒産してしまった。裁判所に全てが差し押さえられ、法律的にはサインがない作品は「仕掛品」(未完成商品)として扱われる。つまりただの紙切れです。このとき安藤先生は即座に全部数にサインを入れてくださり、ご自分のクライアントたちに手紙を出し、あっという間に2点の版画の大量注文をとり、全額を破産財団に入金してくださった。ご自身には一銭も入らないのに・・・。管財人が喜んだのはもちろんですが(債権者が逆に大金を寄付してくれたわけですから)、「私のできることなら何でもします」という安藤先生からの手紙が届いたとき夫婦で泣きました。その手紙が破産後の私を支えてくれました。孫子の代まで大阪には足を向けて寝られません。
マルク・シャガールの最後のリトグラフ連作16点(限定各50部)を刷り師シャルル・ソルリエが刷り上げて作家のもとに持参したのは1985年3月25日でした。からだの不調を訴えたシャガールにソルリエはサインを無理強いできず、「じゃあまた明日」と別れたのですが、三日後の3月28日心臓発作でシャガールは急死。残された800枚以上の版画にはスタンプが捺され発売されました。私は破産後に勤めたフランス人経営の会社で、いきなりシャガール関連の企画(レゾネの日本語版出版と生誕100年記念展)の責任者として、ニース(国立マルク・シャガール聖書のメッセージ美術館)と日本(群馬県立近代美術館他)で開催された生誕100年記念展に携わりました。その折、ヴァランティーナ夫人(愛称ヴァヴァ)を日本にお招きしたのですが、これは夫人から直接伺った話です。
サインに関する話を長々と書いたのは、現在進行中のエディションがいくつかあり、刷り師が重なっていることもあり、刷りとサインの作業が複雑に同時進行しているからです。
石山修武銅版画集『電脳化石神殿』32点組
2007~2008年 銅版(刷り:白井版画工房)
限定15部(うち6/15~15/15の10部をセットにして刊行)
*1/15~5/15は、特別に単品で頒布します。
石山修武
銅版画集より「電脳化石神殿 1窟 北」
2007年 エッチング・雁皮刷り
22.0×28.0cm Ed.15 サインあり
*単品で頒布するのは5部のみです(1/15~5/15)
ご紹介したように、石山先生の銅版画連作32点は、全部刷りあがれば限定番号入りだけでも480枚になります。
一気に全部を刷り上げられればいいのですが、同じ刷り師(白井さん)に北郷悟、磯崎新、ジャン・ベルト・ヴァンニの三人の作家の銅版画の刷りもお願いしています。
従って刷りも少しづつ同時進行となります。
左は、銅版画を制作中の石山先生です(ときの忘れものの2階です)。
実は、『電脳化石神殿』32点組は最初に各2部だけ超特急で刷ってもらい、1部を世田谷美術館で開催中の「建築がみる夢 石山修武と12の物語」に出品(8月17日まで)、もう1部は先日のときの忘れものの「石山修武新作版画展」で発表しました。おかげさまで複数売れた作品もあり、お買い上げくださったお客様には早くお届けしたい。白井さんの尻をたたいて、とりあえず各5部づつをようやく刷り上げてもらいました(それでも160枚になる)。
それを石山先生にサインしていただかねばならない。
早稲田の研究室にご連絡を差し上げたところ、「展覧会会期中は研究室をそのまま世田谷美術館に移動している。だから世田谷美術館に5日の午後2時にいらしてください。」とのこと。
これじゃあまるでライブですね。
5日に来館予定の皆さん、作家が小切手じゃない、版画にサインをする歴史的瞬間に立ち会えるかも知れません。
こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
昨日のNHK新日曜美術館で石山先生が特集されるとご案内しましたが、皆さんご覧になりましたか。正確な放映時間をお知らせせず、失礼しました。
私の家はテレビがないので、スタッフに録画を頼み、後日拝見する予定です(これもモニターがないので、どうやって見られるか・・・)。
5日に世田谷美術館に伺うので、見ていないのも気がひけるなあ、と私なりに考えた。思いついたのは自宅の近くにあるスポーツクラブ、私会員になっており、ときどきプールでウォーキングをしている(腰痛対策)。そこのロビーに大きなテレビがおいてある。昨日朝9時、クラブが開くやいなやテレビの前に直行、スイッチを入れたのですが、写ったのは甲子園野球。
そうか、いまは甲子園の季節で、そのときは新日曜美術館は放映されないんだと気づきました。
世間知らずですいませんでした。
私自身の経験でも、サインをいただけずに痛恨の涙を流したことがしばしばあります。
木内克先生のリトグラフ連作「四季平安万事如意」10点(限定75部)を刷り師の加藤南枝さんが刷り上げてくれたのは1976年10月末でした。上野の木内先生のアトリエに運びこみました。直ぐにその場でサインを貰えばよかったのですが、先生が「台湾旅行の後でいいだろう」とおっしゃったのでその日は引き下がり、お帰りを待っていたら、帰国後そのまま病院に・・・、全部のサインは叶わず、残りは先生のお許しを得て印で代用しました。それでも病床の木内先生に完成したポートフォリオをお届けできたのでよしとしましょう。
悲惨だったのは某有名彫刻家X先生の銅版画です。刷りあがった数百枚の銅版画をサインをいただくためにお届けしたのですが「ボクの指示した刷りと違う」と言い出され、サインしていただけませんでした。電話で泣きながら報告するスタッフに「いいから、そのまま置いて帰っておいで」と言って慰めたのですが、こちらが試刷りに確認のサインをいただかなかったのがミスといえばミスなのでそのまま引き下がりました。驚いたのは数年後に、私たちが刷り代を負担し、そのまま先生のアトリエに置いてきた銅版作品が他の版元Oから堂々と売りに出されたことです。「版」は本来の版元である私の手許にあるのですから、Oが新たに刷れるはずがありません。「ボクの指示した刷りと違う」はずの作品を、X先生は私たちに何のことわりもなしに他の版元に売り渡した。呆気にとられました。駄目といわれたのだからその場で破り捨てればよかったのですが、いまいち甘い私にはそれができなかった・・・。X先生が心変わりしたのか、それともたまたまご機嫌が悪く「サインはしない」と意地悪をしたのか、今にいたるまで謎です。
建築家の安藤忠雄先生に初めて版画制作をお願いしたのは1984年でした。名プリンター石田了一さんによって2点(限定各150部)が刷り上がった1985年2月、私は生涯最大の危機に直面し倒産してしまった。裁判所に全てが差し押さえられ、法律的にはサインがない作品は「仕掛品」(未完成商品)として扱われる。つまりただの紙切れです。このとき安藤先生は即座に全部数にサインを入れてくださり、ご自分のクライアントたちに手紙を出し、あっという間に2点の版画の大量注文をとり、全額を破産財団に入金してくださった。ご自身には一銭も入らないのに・・・。管財人が喜んだのはもちろんですが(債権者が逆に大金を寄付してくれたわけですから)、「私のできることなら何でもします」という安藤先生からの手紙が届いたとき夫婦で泣きました。その手紙が破産後の私を支えてくれました。孫子の代まで大阪には足を向けて寝られません。
マルク・シャガールの最後のリトグラフ連作16点(限定各50部)を刷り師シャルル・ソルリエが刷り上げて作家のもとに持参したのは1985年3月25日でした。からだの不調を訴えたシャガールにソルリエはサインを無理強いできず、「じゃあまた明日」と別れたのですが、三日後の3月28日心臓発作でシャガールは急死。残された800枚以上の版画にはスタンプが捺され発売されました。私は破産後に勤めたフランス人経営の会社で、いきなりシャガール関連の企画(レゾネの日本語版出版と生誕100年記念展)の責任者として、ニース(国立マルク・シャガール聖書のメッセージ美術館)と日本(群馬県立近代美術館他)で開催された生誕100年記念展に携わりました。その折、ヴァランティーナ夫人(愛称ヴァヴァ)を日本にお招きしたのですが、これは夫人から直接伺った話です。
サインに関する話を長々と書いたのは、現在進行中のエディションがいくつかあり、刷り師が重なっていることもあり、刷りとサインの作業が複雑に同時進行しているからです。
石山修武銅版画集『電脳化石神殿』32点組
2007~2008年 銅版(刷り:白井版画工房)
限定15部(うち6/15~15/15の10部をセットにして刊行)
*1/15~5/15は、特別に単品で頒布します。
石山修武銅版画集より「電脳化石神殿 1窟 北」
2007年 エッチング・雁皮刷り
22.0×28.0cm Ed.15 サインあり
*単品で頒布するのは5部のみです(1/15~5/15)
ご紹介したように、石山先生の銅版画連作32点は、全部刷りあがれば限定番号入りだけでも480枚になります。
一気に全部を刷り上げられればいいのですが、同じ刷り師(白井さん)に北郷悟、磯崎新、ジャン・ベルト・ヴァンニの三人の作家の銅版画の刷りもお願いしています。
従って刷りも少しづつ同時進行となります。
実は、『電脳化石神殿』32点組は最初に各2部だけ超特急で刷ってもらい、1部を世田谷美術館で開催中の「建築がみる夢 石山修武と12の物語」に出品(8月17日まで)、もう1部は先日のときの忘れものの「石山修武新作版画展」で発表しました。おかげさまで複数売れた作品もあり、お買い上げくださったお客様には早くお届けしたい。白井さんの尻をたたいて、とりあえず各5部づつをようやく刷り上げてもらいました(それでも160枚になる)。
それを石山先生にサインしていただかねばならない。
早稲田の研究室にご連絡を差し上げたところ、「展覧会会期中は研究室をそのまま世田谷美術館に移動している。だから世田谷美術館に5日の午後2時にいらしてください。」とのこと。
これじゃあまるでライブですね。
5日に来館予定の皆さん、作家が小切手じゃない、版画にサインをする歴史的瞬間に立ち会えるかも知れません。
こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
昨日のNHK新日曜美術館で石山先生が特集されるとご案内しましたが、皆さんご覧になりましたか。正確な放映時間をお知らせせず、失礼しました。
私の家はテレビがないので、スタッフに録画を頼み、後日拝見する予定です(これもモニターがないので、どうやって見られるか・・・)。
5日に世田谷美術館に伺うので、見ていないのも気がひけるなあ、と私なりに考えた。思いついたのは自宅の近くにあるスポーツクラブ、私会員になっており、ときどきプールでウォーキングをしている(腰痛対策)。そこのロビーに大きなテレビがおいてある。昨日朝9時、クラブが開くやいなやテレビの前に直行、スイッチを入れたのですが、写ったのは甲子園野球。
そうか、いまは甲子園の季節で、そのときは新日曜美術館は放映されないんだと気づきました。
世間知らずですいませんでした。
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