朝晩は急に冷え込んできましたが、景気の方も急激に降下しているようで、美術業界はどこも戦々兢々のようです。もちろんときの忘れものも例外ではなく、心配の種は多々ありますが、しかしもともと景気のいい時代には巡り合わせがなく、あっても私どものラインナップは流行には無縁だったのでピンときません。ここ数年のバブル(?)も私たちのはるか上空を通り過ぎただけでした。せいぜい昔作った(売れなかった)草間彌生先生の作品の在庫が一気に無くなってしまったことぐらいがバブルの恩恵だったでしょうか。
さて、既にご案内の通り明日31日から「写真に恋する 写真コレクション展」を開催します。写真の教科書に載るような名品、他ではなかなか見ることのできない珍しい作品、ときの忘れものならではの超お買い得作品、いろいろ取り揃えてのコレクション展です。ぜひお出かけください。
昨夜は例によって打ち合わせがてら飲んで遅く帰宅、ほろ酔い加減でパソコンをのぞいたら、懇意にしている顧客のAさんから、以下のような内容のメールが入っておりました。
「毎日のブログ更新、大変そうですね。楽しみに読ませて頂いています。その中で瑛九と久保氏の関係についても述べておられますがたまたまインターネットを検索中に眼にした 瑛九「田園」という表題の文中に瑛九が久保氏のゴーストライターのような事をさせられていた事や久保氏は瑛九の芸術を理解していなかった等、かなり辛らつな表現が有りました。夫人の都さんが久保氏を嫌っていたとの記述もあり、綿貫さんの書かれている久保氏像と差があるように思えます。・・・・」
Aさんがびっくりするのは無理ありませんが、その発言の背景なり経緯を知らずに過激な文字面だけを追うと本質から離れてしまいます。上記の「辛らつな」サイトの筆者は私どもの30数年来の大切な顧客でもあり、恩人でもあります。そのご発言を私は肯定も否定もしませんが、たとえ事実だとしても、久保貞次郎先生が瑛九の最大の理解者であり、パトロンであったことも紛れも無い事実です。このことを書き出すと収拾がつかなくなるので今日は止めますが、むしろ私がAさんからのメールであっと思ったのは、明日10月31日が久保貞次郎先生の命日だということです。
1996年10月31日午前11時半、久保先生は87歳の生涯を閉じられました。1992年10月に脳溢血で倒れられてから4年の闘病生活でした。
エスペランチスト、美術評論家、児童画教育運動のリーダー、跡見女子短大学長、町田市立国際版画美術館初代館長など、様々な顔をもった先生でしたが、実践的、合理的な思考は、ときには日本的なしがらみやウエットな感覚を拒否する痛烈な姿勢となって私たちを畏怖させました。
あらためて、久保先生の冥福を祈るとともに、その志のいくらかでも受け継ぎ、美術の世界に小さな足跡を残せたらと思っています。
もう少し久保先生と瑛九について書きたいのですが、アルコールが抜けていなくて、頭が朦朧としています。いつかまたの機会に・・・・
さて、既にご案内の通り明日31日から「写真に恋する 写真コレクション展」を開催します。写真の教科書に載るような名品、他ではなかなか見ることのできない珍しい作品、ときの忘れものならではの超お買い得作品、いろいろ取り揃えてのコレクション展です。ぜひお出かけください。
昨夜は例によって打ち合わせがてら飲んで遅く帰宅、ほろ酔い加減でパソコンをのぞいたら、懇意にしている顧客のAさんから、以下のような内容のメールが入っておりました。
「毎日のブログ更新、大変そうですね。楽しみに読ませて頂いています。その中で瑛九と久保氏の関係についても述べておられますがたまたまインターネットを検索中に眼にした 瑛九「田園」という表題の文中に瑛九が久保氏のゴーストライターのような事をさせられていた事や久保氏は瑛九の芸術を理解していなかった等、かなり辛らつな表現が有りました。夫人の都さんが久保氏を嫌っていたとの記述もあり、綿貫さんの書かれている久保氏像と差があるように思えます。・・・・」
Aさんがびっくりするのは無理ありませんが、その発言の背景なり経緯を知らずに過激な文字面だけを追うと本質から離れてしまいます。上記の「辛らつな」サイトの筆者は私どもの30数年来の大切な顧客でもあり、恩人でもあります。そのご発言を私は肯定も否定もしませんが、たとえ事実だとしても、久保貞次郎先生が瑛九の最大の理解者であり、パトロンであったことも紛れも無い事実です。このことを書き出すと収拾がつかなくなるので今日は止めますが、むしろ私がAさんからのメールであっと思ったのは、明日10月31日が久保貞次郎先生の命日だということです。
1996年10月31日午前11時半、久保先生は87歳の生涯を閉じられました。1992年10月に脳溢血で倒れられてから4年の闘病生活でした。
エスペランチスト、美術評論家、児童画教育運動のリーダー、跡見女子短大学長、町田市立国際版画美術館初代館長など、様々な顔をもった先生でしたが、実践的、合理的な思考は、ときには日本的なしがらみやウエットな感覚を拒否する痛烈な姿勢となって私たちを畏怖させました。
あらためて、久保先生の冥福を祈るとともに、その志のいくらかでも受け継ぎ、美術の世界に小さな足跡を残せたらと思っています。
もう少し久保先生と瑛九について書きたいのですが、アルコールが抜けていなくて、頭が朦朧としています。いつかまたの機会に・・・・
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