山口薫展
 世田谷美術館で、山口薫展が始まり、先日オープニングに行ってきました。
実は世田谷に先立って群馬県立近代美術館で開催された同展にも露天風呂愛好会の面々と行ってきたのですが、わが青春の画家の久しぶりの大回顧展とあらば、何度でも行きたい。
群馬(磯崎新設計)の大空間と、世田谷(内井昭蔵設計)の端正な空間とはまるで違うので、展示作品も違って見える。出品作品も少し違っているようですが、展示は身びいきもありますが、群馬の方が良かった。
講堂でのオープニング・セレモニーでは酒井忠康館長、山口薫のご子息らがそれぞれ作家の人となり、エピソードを静かにスピーチされましたが、群馬県立近代美術館館長の木島俊介館長が「600年の歴史を持つ油絵の伝統が遂に途絶えようとしている。その最後を飾るのが山口薫ではないか」と語ったのがことのほか印象的でした。
そうか、油絵というのは終わりなのか・・・・

山口薫は私が私がサラリーマンになる前年1968年に死去しており、生前にはお目にかかれなかった。ただ会おうと思えば会える環境にいたのに、今思うと残念でなりません。美術業界に入ってからは何度か主無きアトリエに伺い、未亡人に絵をいただいたり、お話を聞くことができたのが、せめてもの思い出です。
私の母校高崎高校の教室の後ろ壁にやけに大きな白っぽい油絵がかかっていました。母校出身のヤマグチカオルという女みたいな名の画家の絵だということは美術の教師に言われたような気もするが、当時は全く美術に関心がなく、あたら絵の前を素通りしてしまっていた。級友たちもそんな名画だとは意識していなかったように思います。このブログで何度もご紹介している井上房一郎さんは山口薫を高く評価していて、井上さんが会社(先日倒産してしまった井上工業)の中に開いたファンデーション・ギャラリーでも確か山口薫展を開いていました。どこかにその折のポスターが残っているはず。ともかく、周りに山口薫関係が満ちていたのに、私自身は全く関心がなかった。
ところが、サラリーマンになって日々鬱屈しながら、竹橋の会社の目の前にあった東京国立近代美術館に通ううち、美術にだんだん惹かれていったんですね。1971年だったかに同館で開催された山口薫の遺作展を見て、すっかりとりこになってしまった。求龍堂から出された高い画集を買ったのはいつの頃だったか。
その後、美術界に入り、版画の版元をつくるうち、山口薫にますます惹かれ、生前に作られた版画(リトグラフ、銅版)を扱うようになりました。
戦後版画の創成期
今回の回顧展には版画は出品されていませんが、左に紹介するのは、昔、私が初めて手がけた大規模な版画展「戦後版画の創成期展」図録(1979年、豊田・美術館松欅堂、大阪・梅田近代美術館、東京・ミキモト他)です。表紙は山口薫の名作「朝昼晩」(1955年 リトグラフ 限定100部 刷り・女屋勘左衛門)で、この展覧会には、山口薫のリトグラフ10点、銅版1点を出品しました。この他にも若干ありますが、山口薫の版画のほとんどといっていいでしょう。これらを私はせっせと集め売ったものです。古くてもいいものはいい、いつかまためぐり合いたい作品です。