先日は瑛九のリトグラフ「鳥と円」をご紹介しました。
瑛九の取り組んだ技法のうち、リトグラフは幸いなことにカタログ・レゾネが刊行されており、ほぼその全貌があきらかです。リトグラフには「後刷り」は一切ありませんので、サインの有無のパターンさえ頭に入れておけば、安心してコレクションできます。
ところが銅版画となると、状況は一変します。
先ず、カタログ・レゾネがないので、いったいどれほどの作品が制作されたかが正確には不明です。
やっかいなことに没後、(カタログ・レゾネもないのに)膨大な「後刷り」がなされ、市場がいまだ混乱しているという残念な状況があります。
詳しくは、私のエッセイ「瑛九について」をお読みいただきたいのですが、あれを書いた後に後刷りを刊行した「林グラフィックプレス」さんがどういう事情かは存じませんが、大量に在庫していた後刷りを一挙に市場に放出するという事件(私にとっては大事件でした)が起こりました。
今でもいろいろなオークション等に林さんの後刷り作品が出回っています。中には「スタンプ印」を自筆サインと混同しているものもあります。
瑛九自刷りの銅版画が如何に貴重かをご紹介する前に、ざっと瑛九の銅版画とその後刷りについておさらいしておきます。
私が推定するに、瑛九は1951年から1958年までの足掛け8年間に銅版画を約350点制作しました。これより多いことはないと思います。原版のほとんどが都夫人のもとに残されていました。
その原版を使い、没後に二度、大規模な後刷りがなされました。二回とも瑛九を尊敬する人々によって、余りにも自刷りが少ないのをカバーするために企図されました。
最初は1969~70年に久保貞次郎(版画友の会の創立者、後に町田市立国際版画美術館の初代館長)らによって比較的大判の代表作50点が南天子画廊を版元として、池田満寿夫刷りで限定50部刊行されました(全5巻)。この後刷りは代表作50点に絞ったこと、販売力抜群の久保先生と大画商・南天子画廊の力で短期間に売り尽くし、今では揃いが市場に出ることはめったにありません。成功した後刷りといえるでしょう。
2回目は、1974~1983年にかけて、上述の50点以外にアトリエに残されていた原版 278点を、林グラフィックプレス(版画工房、刷りは小島光晴)が自ら版元となり後刷りしました。このときの限定はほとんどが60部で、一部が10部、または45部の限定でした。第一次後刷り以外の278点という膨大な原版を独力で後刷り刊行した「林グラフィックプレス」さんの壮挙は賞賛されるべきですが、いかんせん需要と供給の比率がアンバランスだった。加えて久保先生のような強力な販売網を持たない林さんはコストを回収するため、シビアな販売戦略に出た。つまり高額な価格で突っ張ったのですね。私たち画商にも魅力的な卸値は設定してくれなかった。
久保先生は逆でした。配下の販売網を束ねる小ボスたちに思い切った廉価な卸値を設定し、広く浅く作品をばらまき、あっという間に売りつくす。万一売れない場合は、十年でも二十年でも平気で抱える。資金力が豊かだったわけです。
林さんの「質の良いものは高くて当然なのだ」という哲学は素晴らしいと私も尊敬します。その結果(私も後から知ったことですが)林さんのもとには大量に後刷りが残っていたようです。それが数年前、一挙に投売りされた。それが今の混乱の元凶です。
それはともかく、これら二回の後刷り作品には全て同一の「Q Ei」のスタンプ印が墨色で捺されています。
大規模な後刷りはこの2回ですが、他にも例えば富松良夫詩集(1971年)に2点の 後刷りが挿入されたり、林さんが「エロチカ」連作を後刷りするなど、原版が残っていたものはほとんどが後刷りされています。
生前瑛九が刷った銅版の「自刷り作品」はリトグラフに比べて非常に少ないということを頭に入れてください。
なぜなら、リトグラフの版は保存がきかないため、一度に全部数を刷らないと駄目ですが、銅版は腐りませんから、それこそ注文があるたびに一枚づつ刷ればいいわけです。当時はそんなに売れませんでしたから、ほとんどが数枚で終わってしまった。
従ってリトグラフより、自刷り銅版画(生前刷り)の方が圧倒的に希少価値があります。
しかるに、2万枚近い後刷りがあるために、なかなかオリジナル(自刷り作品)の市場価格が成熟しない。
瑛九の自刷り銅版画で100万円以上で取引された例を私は知りません。長谷川潔、駒井哲郎、浜口陽三、池田満寿夫らと余りに違い過ぎます。その原因が市場にさ迷う膨大な後刷りにあることは明らかです。
リトグラフやフォトデッサンの高額評価に比べると、残念でなりません。
それでは、とっておき瑛九の自刷り作品をご紹介します。

瑛九「庭園」
1953年 エッチング(作家自刷り)
23.7×18.1cm 自筆サイン有
サインと年記が記載されているので、ご覧ください。

こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
銅版画のカタログ・レゾネがないと申しましたが、以前に紹介したとおり文献としては以下の三つがあります。
1)没後に都夫人が編集した「私家版の銅版画目録」(1961年、写真アルバム形式、229点収録、ただし重複あり)
2)南天子画廊発行の没後最初の後刷りの「瑛九原作銅版画集総目録」(1969年、50点収録)
3)林グラフィックプレス発行の「瑛九銅版画 SCALE Ⅰ~SCALE Ⅴ目録」(1983年、278点収録。同社が1974年から1983年にかけて行なった後刷りの図録)
*2)と3)は重複せず、つまり上記三つの文献すべてに重複掲載されている作品はありません。上掲の「庭園」は1)と2)に収録されています。
1)の都夫人編集の私家版目録には「限定25部」と記載されており、
2)によれば、池田満寿夫刷りによる後刷り(1969年)が50部あります。
私自身はこれまで何点かこの作品の自刷りを扱ってきましたが、限定番号が記入されたものは実は見た記憶がありません。つまり分母が25のものは未見です。自刷りは「25部くらい刷られた」と解釈した方がいいのではと思います。
内容的なことでいえば、この作品は上述の(2)に選ばれたとおり、少なくともベスト50に入る代表作ですし、日経の『瑛九作品集』にも選ばれて掲載されています。
前回と同様「オリジナル版画のルール」の則った自刷り銅版画のランク付けをしてみましょう。
Aランク=自筆サインと年記、限定番号が鉛筆で記入されているもの(Ep.も含む)
Bランク=自筆サインはあるが、限定番号が記入されていないもの
Cランク=サインはないが、裏に「瑛九作 都」というような都夫人の裏書がされているもの
Dランク=サインも限定番号も無く、夫人の裏書も無いもの。つまり作品本体のみ。
内容的には文句なくAクラス。サインに関してはBランクということでしょうか。
しかし限定部数の入った作品がもし存在しなければ、これもAランクとなりますね。
瑛九の取り組んだ技法のうち、リトグラフは幸いなことにカタログ・レゾネが刊行されており、ほぼその全貌があきらかです。リトグラフには「後刷り」は一切ありませんので、サインの有無のパターンさえ頭に入れておけば、安心してコレクションできます。
ところが銅版画となると、状況は一変します。
先ず、カタログ・レゾネがないので、いったいどれほどの作品が制作されたかが正確には不明です。
やっかいなことに没後、(カタログ・レゾネもないのに)膨大な「後刷り」がなされ、市場がいまだ混乱しているという残念な状況があります。
詳しくは、私のエッセイ「瑛九について」をお読みいただきたいのですが、あれを書いた後に後刷りを刊行した「林グラフィックプレス」さんがどういう事情かは存じませんが、大量に在庫していた後刷りを一挙に市場に放出するという事件(私にとっては大事件でした)が起こりました。
今でもいろいろなオークション等に林さんの後刷り作品が出回っています。中には「スタンプ印」を自筆サインと混同しているものもあります。
瑛九自刷りの銅版画が如何に貴重かをご紹介する前に、ざっと瑛九の銅版画とその後刷りについておさらいしておきます。
私が推定するに、瑛九は1951年から1958年までの足掛け8年間に銅版画を約350点制作しました。これより多いことはないと思います。原版のほとんどが都夫人のもとに残されていました。
その原版を使い、没後に二度、大規模な後刷りがなされました。二回とも瑛九を尊敬する人々によって、余りにも自刷りが少ないのをカバーするために企図されました。
最初は1969~70年に久保貞次郎(版画友の会の創立者、後に町田市立国際版画美術館の初代館長)らによって比較的大判の代表作50点が南天子画廊を版元として、池田満寿夫刷りで限定50部刊行されました(全5巻)。この後刷りは代表作50点に絞ったこと、販売力抜群の久保先生と大画商・南天子画廊の力で短期間に売り尽くし、今では揃いが市場に出ることはめったにありません。成功した後刷りといえるでしょう。
2回目は、1974~1983年にかけて、上述の50点以外にアトリエに残されていた原版 278点を、林グラフィックプレス(版画工房、刷りは小島光晴)が自ら版元となり後刷りしました。このときの限定はほとんどが60部で、一部が10部、または45部の限定でした。第一次後刷り以外の278点という膨大な原版を独力で後刷り刊行した「林グラフィックプレス」さんの壮挙は賞賛されるべきですが、いかんせん需要と供給の比率がアンバランスだった。加えて久保先生のような強力な販売網を持たない林さんはコストを回収するため、シビアな販売戦略に出た。つまり高額な価格で突っ張ったのですね。私たち画商にも魅力的な卸値は設定してくれなかった。
久保先生は逆でした。配下の販売網を束ねる小ボスたちに思い切った廉価な卸値を設定し、広く浅く作品をばらまき、あっという間に売りつくす。万一売れない場合は、十年でも二十年でも平気で抱える。資金力が豊かだったわけです。
林さんの「質の良いものは高くて当然なのだ」という哲学は素晴らしいと私も尊敬します。その結果(私も後から知ったことですが)林さんのもとには大量に後刷りが残っていたようです。それが数年前、一挙に投売りされた。それが今の混乱の元凶です。
それはともかく、これら二回の後刷り作品には全て同一の「Q Ei」のスタンプ印が墨色で捺されています。
大規模な後刷りはこの2回ですが、他にも例えば富松良夫詩集(1971年)に2点の 後刷りが挿入されたり、林さんが「エロチカ」連作を後刷りするなど、原版が残っていたものはほとんどが後刷りされています。
生前瑛九が刷った銅版の「自刷り作品」はリトグラフに比べて非常に少ないということを頭に入れてください。
なぜなら、リトグラフの版は保存がきかないため、一度に全部数を刷らないと駄目ですが、銅版は腐りませんから、それこそ注文があるたびに一枚づつ刷ればいいわけです。当時はそんなに売れませんでしたから、ほとんどが数枚で終わってしまった。
従ってリトグラフより、自刷り銅版画(生前刷り)の方が圧倒的に希少価値があります。
しかるに、2万枚近い後刷りがあるために、なかなかオリジナル(自刷り作品)の市場価格が成熟しない。
瑛九の自刷り銅版画で100万円以上で取引された例を私は知りません。長谷川潔、駒井哲郎、浜口陽三、池田満寿夫らと余りに違い過ぎます。その原因が市場にさ迷う膨大な後刷りにあることは明らかです。
リトグラフやフォトデッサンの高額評価に比べると、残念でなりません。
それでは、とっておき瑛九の自刷り作品をご紹介します。
瑛九「庭園」
1953年 エッチング(作家自刷り)
23.7×18.1cm 自筆サイン有
サインと年記が記載されているので、ご覧ください。
こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
銅版画のカタログ・レゾネがないと申しましたが、以前に紹介したとおり文献としては以下の三つがあります。
1)没後に都夫人が編集した「私家版の銅版画目録」(1961年、写真アルバム形式、229点収録、ただし重複あり)
2)南天子画廊発行の没後最初の後刷りの「瑛九原作銅版画集総目録」(1969年、50点収録)
3)林グラフィックプレス発行の「瑛九銅版画 SCALE Ⅰ~SCALE Ⅴ目録」(1983年、278点収録。同社が1974年から1983年にかけて行なった後刷りの図録)
*2)と3)は重複せず、つまり上記三つの文献すべてに重複掲載されている作品はありません。上掲の「庭園」は1)と2)に収録されています。
1)の都夫人編集の私家版目録には「限定25部」と記載されており、
2)によれば、池田満寿夫刷りによる後刷り(1969年)が50部あります。
私自身はこれまで何点かこの作品の自刷りを扱ってきましたが、限定番号が記入されたものは実は見た記憶がありません。つまり分母が25のものは未見です。自刷りは「25部くらい刷られた」と解釈した方がいいのではと思います。
内容的なことでいえば、この作品は上述の(2)に選ばれたとおり、少なくともベスト50に入る代表作ですし、日経の『瑛九作品集』にも選ばれて掲載されています。
前回と同様「オリジナル版画のルール」の則った自刷り銅版画のランク付けをしてみましょう。
Aランク=自筆サインと年記、限定番号が鉛筆で記入されているもの(Ep.も含む)
Bランク=自筆サインはあるが、限定番号が記入されていないもの
Cランク=サインはないが、裏に「瑛九作 都」というような都夫人の裏書がされているもの
Dランク=サインも限定番号も無く、夫人の裏書も無いもの。つまり作品本体のみ。
内容的には文句なくAクラス。サインに関してはBランクということでしょうか。
しかし限定部数の入った作品がもし存在しなければ、これもAランクとなりますね。
コメント