戦後初めてできた美術館がどこだかご存知ですか。
神奈川県立近代美術館(1951年)よりも、ブリヂストン美術館(1952年)よりも、国立西洋美術館(1959年)よりも、もっと早い時期に開館した美術館があります。
今年生誕100年を迎えた瑛九のほぼ全てのリトグラフ作品を所蔵している美術館がどこだかご存知ですか。
二つとも答えは山形県酒田にある本間美術館です。
先日、『世界一の映画館と日本一のフランス料理店を山形県酒田につくった男はなぜ忘れ去られたのか』という長いタイトル(42字!)の文庫本を買い、1976年10月29日の酒田大火を思い出しました。

著者の岡田芳郎という名前を見て「えっ、あの電通の詩人局長さん?」と思い出しました。
亭主が『資生堂ギャラリー七十五年史 1919~1994』というこれも長いタイトルの本の編集に没頭していたとき、お世話になった方で、当時電通のお偉いさんでした。
<酒田、雄大な庄内平野の最上川河口に位置する街には、世界に誇れるものがあった。淀川長治や荻昌弘が羨んだという映画館(グリーン・ハウス)。そして開高健や丸谷才一、土門拳が愛したという料理店(ル・ポットフー)。なんとそれらは一人の男ーー佐藤久一がつくったものだった。酒田大火の火元となった映画館が彼の波乱に富んだ人生を象徴する。>(表紙カバーより)
面白い内容なので、ぜひ皆さんはお読みになって欲しいのですが(講談社文庫)、亭主がここで書きたいのは、1997年1月、食道がんで亡くなった佐藤久一さん(享年67)のことではなく、彼を生んだ酒田の街のこと、そしてこの街の魅力的な人々のことです。
破天荒な佐藤久一さんは生れるべくして生まれ、そして故郷酒田に大きなものを残しました。この本には書いてないけれど、佐藤さんの周辺にはほんとうに魅力的な人々がいた。
亭主は1974年からほぼ10年間、つまり現代版画センターを主宰していた時期、版画を抱えて全国を行商して歩きました。
比喩で言っているのではなく、車の免許もない亭主は文字通り国鉄の各駅停車を乗り継いで、重いカルトンケースを提げて北海道から沖縄まで全県をまわりました。
一度だけしか訪ねなかった街もあれば繰り返し何度も訪ねた街もいくつもあります。
帯広、旭川、八戸、弘前、盛岡、大曲(秋田)、酒田、鶴岡、米沢、福島、新潟、佐渡、高崎、松本、勝山(福井)、大野(福井)、浜松、奈良、田辺、神戸、豊岡、広島、呉、岩国、松山、大洲、徳島、久留米、熊本、宮崎、都城・・・・・
なぜか北のほうが多いのですが、中でも盛岡、大曲、酒田、勝山などには何度通ったことか。
資金繰りが苦しくなるとこれらの街を訪れ頒布会を開いてもらったりして一息ついたのでした。
上掲の本にも出てきますが、山形県酒田の文化的中心は、本間美術館と清水屋デパートでした。佐藤久一さんがつくった「日本一のフランス料理店」は実は清水屋のデパート食堂です。
当時清水屋の専務だった堀正さんが「うちには日本海の幸をつかった裏日本で一番のレストランがある」と自慢そうに連れて行ってくださったのを昨日のことのように思いだします。
本間美術館の佐藤七郎さん、清水屋の重役・堀正さんなど、お世話になった方を思い出しながら、亭主の知る酒田の文化的雰囲気を少し書いてみましょう。
「本間様には及びもないが、せめてなりたや殿様に」とうたわれたように、第二次大戦前、日本一の大地主といわれた本間家は、約3000町歩(3000ヘクタール)の農地を保有し、3000人の小作人を抱えていたといわれます。
戦後の農地解放によりその栄華は崩壊するのですが、当時の本間家の後見人的立場にいた本間祐介さんは進駐軍相手に遺産相続税や農地解放の苦境を切り抜けるため奮闘します。
たしかこれはテレビ番組(ドラマ)になったはず。
1947年(昭和22)5月には、本間家の文化財の散逸を防ぎ、敗戦により自信をなくした市民に、日本の文化的伝統を知らしめ、自信を回復させることを目的に、本間美術館を創立します。
戦後できた日本の美術館の第1号です。
このブログでも何度も書いていますが、戦後の新しい美術運動のひとつに創造美育(創美)運動があります。指導者は久保貞次郎先生でした。
創美は主に学校の先生たちがメンバーでしたが、オルガナイザー久保貞次郎の凄かったのは、「支持することは買うことだ」と断言し、有名無名を問わず優れた才能の画家たちの作品を積極的に売り買いしたことでした。
創美と連動して「小コレクター運動」を主唱した久保先生は、創美傘下の教師たちに絵を売り、その教師たちが子供達の親にその絵を売る。
いまでは考えられない自由闊達な運動でした。
全国にその輪が広がりましたが、中でも福井県と山形県はその拠点でした。
リーダーの高橋周一さんや堀正さんたちの働きかけにより、本間美術館に瑛九のほぼ全てのリトグラフ作品が収蔵され、オノサト・トシノブや泉茂の作品もコレクションされます。
1961年には「藤田嗣治・北川民次展」が、同館で開催されています。

左は、1998年4月に同館で開催された「前衛の旗手 瑛九リトグラフ展」のチラシです。
そして昨年2010年11月25日(木)~12月20日(月)にも「没後50年 瑛九リトグラフ展」がやはり同館で開催されました。
酒田にはその後、土門拳記念館や酒田市立美術館ができましたが、素晴らしい和風庭園を持ち、本間家の栄華をしのばせる「伊勢物語」はじめ重要文化財から瑛九までを収蔵する本間美術館こそ、酒田の文化的レベルを高めてきたことは間違いないでしょう。
まだ行ったことの無い方はぜひ一度は訪ねてください。
明日は清水屋さんのことを書いてみましょう。
◆ときの忘れもののコレクションから瑛九と北川民次の作品をご紹介します。

瑛九「着陸」
1957年 リトグラフ
46.3x30.2cm Ed.20
自筆サイン・年記あり
※レゾネNo.97(瑛九の会)

北川民次「メキシコ群像」
1941年頃 木版
27.0×20.5cm
1955年に再版(Ed.100)
その後、再再版(Ed.10) 印あり
*レゾネNo.36(名古屋日動画廊)

北川民次「猫と女」
1941年頃 木版
21.5×26.7cm
1955年に再版(Ed.100)
その後、再再版(Ed.10) 印あり
*レゾネNo.37(名古屋日動画廊)
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神奈川県立近代美術館(1951年)よりも、ブリヂストン美術館(1952年)よりも、国立西洋美術館(1959年)よりも、もっと早い時期に開館した美術館があります。
今年生誕100年を迎えた瑛九のほぼ全てのリトグラフ作品を所蔵している美術館がどこだかご存知ですか。
二つとも答えは山形県酒田にある本間美術館です。
先日、『世界一の映画館と日本一のフランス料理店を山形県酒田につくった男はなぜ忘れ去られたのか』という長いタイトル(42字!)の文庫本を買い、1976年10月29日の酒田大火を思い出しました。

著者の岡田芳郎という名前を見て「えっ、あの電通の詩人局長さん?」と思い出しました。
亭主が『資生堂ギャラリー七十五年史 1919~1994』というこれも長いタイトルの本の編集に没頭していたとき、お世話になった方で、当時電通のお偉いさんでした。
<酒田、雄大な庄内平野の最上川河口に位置する街には、世界に誇れるものがあった。淀川長治や荻昌弘が羨んだという映画館(グリーン・ハウス)。そして開高健や丸谷才一、土門拳が愛したという料理店(ル・ポットフー)。なんとそれらは一人の男ーー佐藤久一がつくったものだった。酒田大火の火元となった映画館が彼の波乱に富んだ人生を象徴する。>(表紙カバーより)
面白い内容なので、ぜひ皆さんはお読みになって欲しいのですが(講談社文庫)、亭主がここで書きたいのは、1997年1月、食道がんで亡くなった佐藤久一さん(享年67)のことではなく、彼を生んだ酒田の街のこと、そしてこの街の魅力的な人々のことです。
破天荒な佐藤久一さんは生れるべくして生まれ、そして故郷酒田に大きなものを残しました。この本には書いてないけれど、佐藤さんの周辺にはほんとうに魅力的な人々がいた。
亭主は1974年からほぼ10年間、つまり現代版画センターを主宰していた時期、版画を抱えて全国を行商して歩きました。
比喩で言っているのではなく、車の免許もない亭主は文字通り国鉄の各駅停車を乗り継いで、重いカルトンケースを提げて北海道から沖縄まで全県をまわりました。
一度だけしか訪ねなかった街もあれば繰り返し何度も訪ねた街もいくつもあります。
帯広、旭川、八戸、弘前、盛岡、大曲(秋田)、酒田、鶴岡、米沢、福島、新潟、佐渡、高崎、松本、勝山(福井)、大野(福井)、浜松、奈良、田辺、神戸、豊岡、広島、呉、岩国、松山、大洲、徳島、久留米、熊本、宮崎、都城・・・・・
なぜか北のほうが多いのですが、中でも盛岡、大曲、酒田、勝山などには何度通ったことか。
資金繰りが苦しくなるとこれらの街を訪れ頒布会を開いてもらったりして一息ついたのでした。
上掲の本にも出てきますが、山形県酒田の文化的中心は、本間美術館と清水屋デパートでした。佐藤久一さんがつくった「日本一のフランス料理店」は実は清水屋のデパート食堂です。
当時清水屋の専務だった堀正さんが「うちには日本海の幸をつかった裏日本で一番のレストランがある」と自慢そうに連れて行ってくださったのを昨日のことのように思いだします。
本間美術館の佐藤七郎さん、清水屋の重役・堀正さんなど、お世話になった方を思い出しながら、亭主の知る酒田の文化的雰囲気を少し書いてみましょう。
「本間様には及びもないが、せめてなりたや殿様に」とうたわれたように、第二次大戦前、日本一の大地主といわれた本間家は、約3000町歩(3000ヘクタール)の農地を保有し、3000人の小作人を抱えていたといわれます。
戦後の農地解放によりその栄華は崩壊するのですが、当時の本間家の後見人的立場にいた本間祐介さんは進駐軍相手に遺産相続税や農地解放の苦境を切り抜けるため奮闘します。
たしかこれはテレビ番組(ドラマ)になったはず。
1947年(昭和22)5月には、本間家の文化財の散逸を防ぎ、敗戦により自信をなくした市民に、日本の文化的伝統を知らしめ、自信を回復させることを目的に、本間美術館を創立します。
戦後できた日本の美術館の第1号です。
このブログでも何度も書いていますが、戦後の新しい美術運動のひとつに創造美育(創美)運動があります。指導者は久保貞次郎先生でした。
創美は主に学校の先生たちがメンバーでしたが、オルガナイザー久保貞次郎の凄かったのは、「支持することは買うことだ」と断言し、有名無名を問わず優れた才能の画家たちの作品を積極的に売り買いしたことでした。
創美と連動して「小コレクター運動」を主唱した久保先生は、創美傘下の教師たちに絵を売り、その教師たちが子供達の親にその絵を売る。
いまでは考えられない自由闊達な運動でした。
全国にその輪が広がりましたが、中でも福井県と山形県はその拠点でした。
リーダーの高橋周一さんや堀正さんたちの働きかけにより、本間美術館に瑛九のほぼ全てのリトグラフ作品が収蔵され、オノサト・トシノブや泉茂の作品もコレクションされます。
1961年には「藤田嗣治・北川民次展」が、同館で開催されています。

左は、1998年4月に同館で開催された「前衛の旗手 瑛九リトグラフ展」のチラシです。
そして昨年2010年11月25日(木)~12月20日(月)にも「没後50年 瑛九リトグラフ展」がやはり同館で開催されました。
酒田にはその後、土門拳記念館や酒田市立美術館ができましたが、素晴らしい和風庭園を持ち、本間家の栄華をしのばせる「伊勢物語」はじめ重要文化財から瑛九までを収蔵する本間美術館こそ、酒田の文化的レベルを高めてきたことは間違いないでしょう。
まだ行ったことの無い方はぜひ一度は訪ねてください。
明日は清水屋さんのことを書いてみましょう。
◆ときの忘れもののコレクションから瑛九と北川民次の作品をご紹介します。

瑛九「着陸」
1957年 リトグラフ
46.3x30.2cm Ed.20
自筆サイン・年記あり
※レゾネNo.97(瑛九の会)

北川民次「メキシコ群像」
1941年頃 木版
27.0×20.5cm
1955年に再版(Ed.100)
その後、再再版(Ed.10) 印あり
*レゾネNo.36(名古屋日動画廊)

北川民次「猫と女」
1941年頃 木版
21.5×26.7cm
1955年に再版(Ed.100)
その後、再再版(Ed.10) 印あり
*レゾネNo.37(名古屋日動画廊)
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