瑛九とオノサト・トシノブ/It's a real★本物を買う!

気更来のコレクション展」の最終日だった昨日は次から次へとお客様が来廊され、おかげさまで苦しい月末に笑顔をいただくことができました。お買い上げいただいた皆様には厚く御礼を申し上げます。本日と明日(28日)は休廊です。

20110225細江英公祝賀会社長一昨日25日の夜は、新宿の京王プラザホテルで「細江英公氏の文化功労者顕彰を祝う会」が開かれ、社長のお供で亭主も出席してまいりました。
(会場入り口で、和服の細江英公先生と社長)
細江先生は3月18日から、ときの忘れもので新作写真展を開催します。

20110225細江英公祝賀会2発起人20110225細江英公祝賀会江崎左)細江夫妻と田沼武能さんはじめ発起人
右)ノーベル賞学者の江崎玲於奈さん

20110225細江英公祝賀会大野慶人20110225細江英公祝賀会白石かずこ
左)大野慶人さん
右)白石かずこさん

日本の写真界の大御所たちが勢ぞろいした会のはじめに司会者から細江先生の華麗な経歴が読み上げられたのですが、まだ10代のころ写真家になろうとしたそのとき、最も影響を受けたのがデモクラート美術家協会の瑛九との出会いだったと紹介されました。
私たちが30数年前に細江先生と知り合ったきっかけも瑛九でした。
瑛九(1911-1960)は今年が生誕100年にあたります。
記念の大回顧展が宮崎、埼玉、浦和の三美術館で計画されています。
瑛九の盟友だったオノサト・トシノブ(1912-1986)は来年が生誕100年です。
仲の良かった二人ですが、その生き方は対称的でした。
オノサト先生がある時期から画壇とも画商とも、そして若き日に交わった作家たちともほとんど没交渉となり、桐生のアトリエを一歩も出ずに制作に没頭されたのに対して、瑛九は周囲に多くの作家やファンを集め、スタイルや技法にこだわることなく、次々と新しい表現、技法に挑戦して行き、最後に油彩の点描の大作に行き着き、48歳の短い生涯を終えました。
残したのは多様な作品ばかりではありません、その周囲に多くの若い作家を集めました。
浦和のアトリエに集ったのは、靉嘔池田満寿夫磯辺行久細江英公、河原温、などなど。最年少が細江英公先生でした。

3月5日6日に開催する「It's a real★本物を買う!」の出品作を順次ご紹介していますが、本日はオノサト・トシノブの油彩と、瑛九の珍しい自刷りの銅版画をご紹介します。

オノサト油彩
4 オノサト・トシノブ 《作品》
1977 油彩 20.2x20.2cm Signed

70年代にオノサト先生の絵の作り方が変わります。
ある事情で画商との接点を失ったオノサト先生の制作を支えたのは尾崎正教・高森俊・大野元明・岡部徳三のいわゆる「四人組によるオノサト版画」のエディションと頒布でした。亭主も4人組の尻尾について、オノサト版画の頒布に微力ですが尽力しました。
その影響かどうか即断はできませんが、50~60年代の何層にも絵具を塗り重ね、一点一点をフリーハンドで描く技法から、コンパスを使いシステマティックに幾つものキャンバスを同時進行的に描く方法へと変化します。色彩は明るく透明化し、オノサト先生ご自身は「純粋抽象」を自負しておられました。
今回の出品作は70年代のオノサト絵画の一典型ともいえる作品です。

次に紹介するのは世界的も注目され評価の益々高騰している瑛九の自刷り銅版画の傑作です。
しかし、油彩やフォトデッサン、リトグラフに比べて銅版画だけは悲惨な状況になっています。
瑛九「コンプレックス」
36 瑛九 《コンプレックス》
1956 銅版(作家自刷り) 23.2x18.2cm
Ed.5  Signed

瑛九の銅版画は没後二回にわけてほぼその全点が後刷りされたため(その功罪については亭主の<瑛九について>をお読みいただきたいのですが)、その膨大な後刷り作品が市場に溢れ、肝心のオリジナル(生前の瑛九自刷り)の価値が下落してしまうという、瑛九ファンには耐えられない状況が現出して
います。以下は今から一昔前、2000年に亭主が書いた上記エッセイの一部です。

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 瑛九が制作した銅版画は約350点、そのほとんどが没後に後刷りされています。
1951年から1958年までの僅か足掛け8年の間に350点もの銅版を制作した瑛九の集中 力も凄いものですが、そのほとんどが没後に後刷りされたということも、実は日本では空前絶後のことといえるでしょう。ある意味では快挙です。後刷りは、2度大規模に組織的になされました。
 最初は没後まもなくの1969~70年 に瑛九の最大の理解者であった久保貞次郎(版画友の会の創立者、後に町田市立国際版画美術館の初代館長)らによって比較的大判の代表作50点が南天子画廊を版元として各限定50部が、池田満寿夫刷りで刊行されました。2回目は、1974~1983年にかけて、前述の50点以外にアトリエに残されていた原版 278点を、林グラフィックプレス(版画工房)が自ら版元となり後刷りしました。このときの限定はほとんどが各60部で、一部が10部、または45部の限定でした。大規模な後刷りはこの2回ですが、他にも例えば富松良夫詩集(1971年)に2点の 後刷りが挿入されるなど、原版が残っていたものはほとんどが後刷りされています。
 これら後刷りの動機(企画者の意図)が、瑛九の顕彰にあったことは疑いありません。生前は恵まれなかった瑛九の画業を後刷りという形で後世に伝えたいという純粋な気持がこの大事業をなさしめたことは、高く評価して良いでしょう。
 ただし、それが本当に瑛九の顕彰にとって有効だったかは、冷静に検討する価値があります。生前瑛九が刷った自刷り作品はどのくらいあるのでしょうか。たとえば各5枚づつ刷ったと仮定すると350種X各5枚=1.750枚となります。この数字はそう 見当はずれではないと思いますが、それだけの自刷り作品が存在しているにも拘わらず、さらに2万枚近い後刷りを市場に一挙に提供したことが、果たして戦略的に良かったかどうか。私個人の感想としては、少し供給過剰じゃあなかったかと思います。

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2000年の時点では、まあまだ<供給過剰じゃあなかったかという危惧>程度ですんでいたのですが、ここ数年下記のような事情で第二次後刷り(林グラフィックプレス版)が市場に溢れかえり、二束三文の極端な価格で流通しています。
林グラフィックプレスのオーナー林さんは版画工房兼版元を経営し、若林奮さんなどの銅版画集などを積極的にエディションされていました。
上記の瑛九の銅版後刷りも林さんの一大事業だったのですが、発刊当時かなり高額の発表で、なおかつ我々ディーラーへの卸条件もきついものでした。
版元が自分のところだけで頒布できる数なんてたかが知れています。まして278点からなる大版画集を何十セットも売りさばくには他の画商さんたちの協力が不可欠ですが、林さんは自らの仕事にプライドを持っていたのでしょう。我々画商への卸には消極的でした。
その後、林さんは病に倒れ、お亡くなりになったと聞きます。そのため林グラフィックプレスの在庫作品が一度にどっと市場に投げ出されるという事態がおこりました。
私たちは知らなかったのですが、瑛九の後刷りもそうは売れていなかったようで、30年近く経ってそれが市場に溢れ出したというのが現在の状況です。
後刷りが極端に安く売られていれば、当然のことながら瑛九の生前の自刷り作品(オリジナル)の価格もそれに引きずられます。悲劇です。
しかし、自刷り(生前のオリジナル)と、後刷りは根本的に違います。
瑛九自らがインクをつめ、プレス機を動かして刷り、サインを記入した銅版作品の価値は、どんなに称揚してもしきれません。
自刷りと、林グラフィックプレス版の後刷りは見た目も全く違います。普通なら作家自刷りに可能な限り似せて刷るのが「後刷り」といわれるものですが、林さんは違いました。
二つを比べれば素人でもその違いは明確にわかります。瑛九の自刷りは意図的なインクの拭き残しが多く、紙の刷られた全面をインクの色が覆っているのに、対する林グラフィックプレス版の後刷りは拭き残しは全く無く鮮明な黒一色、余白はほぼ真っ白な刷りです。
余りの自刷りとの違いに亭主は林さんに「なぜこれほど自刷りと異なる刷りにしたのか」と疑問を呈したことがあります。林さんの答えは「瑛九がつくった版の中に作家ですら気付かなかったイメージが隠されている。それを明確に浮き上がらせるには、このようなくっくりとした刷りにした方がいいのだ」と、いかにも銅版職人らしいものでした。第一次後刷り(いわゆる池田満寿夫刷り)を監修した久保貞次郎先生も林さんの刷りには納得がいかなかったようでした。幸か不幸か林さんの後刷りが瑛九の自刷りと全く異なるために、現在のところ後刷りを「自刷り」と混同するような事態は生じていません。
しかし後刷りの一切ないリトグラフの名品が200万円を超える金額で取引されていることを考えれば、現在のオリジナル銅版画(生前の自刷り)の市場価格の低迷は嘆かわしいばかりです。
今回出品の自刷り作品「コンプレックス」はかなりの大判で、生前刷られたのは僅か5部(夫人作成の私家版銅版画レゾネによる)。
作品のクオリティも高く、刷りもコンディションも良好です。自筆サインも記入されています。

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