生きているTATEMONO 松本竣介を読む 1
盛岡市紺屋町界隈
「ときの忘れもの」の綿貫不二夫・令子夫妻と盛岡に行った。その翌日の岩手県立美術館での「生誕100年松本竣介展」に出席するためである。新幹線の席に落ち着いてまもなく、綿貫さんから段ボールの小箱を手渡された。開けてみると、松本のデッサン手帖の原寸復刻5冊と彼についてのエッセイ・評論・資料などをまとめた別冊が、布貼りの内箱に収められている。画家の没後40年近くを経た1985年、綜合工房から刊行された限定愛蔵版『松本竣介手帖全六冊』で、もちろん私にはその存在さえ知らなかったものである。
手帖は、表紙の体裁までそのまま再現されているようで、それぞれにTATEMONO、ONNA、TE ASI、KOZU、ZATUと、きちんとしたタイトル文字が入っている。すなわち、建物、女、手・足、構図、雑、とモチーフ別に予め手帖が用意されていたのか。こうした几帳面さと愛らしいサイズは、この画家によるいくつかの油彩に明確で強い印象を受けてはいたものの、その人となりや作品全体についての知識をほとんど持たなかった私は、思いがけない、ほかにないアーティスト像が立ち上がってくるような気持ちに襲われたのだった。後日、今回展の図録によって、スケッチ帖「TATEMONO」は全部で4冊あることを知ったのだが、この生誕100年展そのものが、最初期から最晩年までの各時代における画家の作品展開をあますところなく、初めて私に教えてくれたのである。そのなかでとりわけ建物や都市風景を対象にした作品についての何らかの感想をこれから書いていかなければならないのだが、綿貫さんに無理強いされたこの連続エッセイの先行きはまだまるで見えていない。
初めて盛岡を訪れたのは、ちょうど30年前である。1982年6月23日の東北新幹線開通に先立って、沿線の各駅前の現状と街の様子を取材した。朝日新聞から出されていた写真中心の大判週刊誌「アサヒグラフ」の企画によるもので、記憶は薄れているが、始発の大宮駅(まだ上野発も東京発もなかった)から終着駅の盛岡駅まで全13駅の停車時間にかなりの余裕を持たせて取材し、その周辺の写真もコメントもありの頁構成になっている。おそらく多くの報道機関にたいするお披露目に、「グラフ」の写真担当と私が参加したのだと思う。
盛岡では、このあとは一路東京に帰るわけだから、市心部をゆっくり歩く時間があった。こんなことを書いている。「盛岡の街で印象的なのは、雪よけのついた歩道橋や古い理髪店や銭湯や映画館に生きている折衷的な洋風建築の間にあって、また前衛建築も意欲的に受け入れている。そういった観光と無縁な光景こそが、盛岡の文化的充実や風土性を垣間見せているはずだ。」(「アサヒグラフ」1982年6月25日号)
今読むと、書いた本人にとってもやや不可解な部分のある文章だが、とくに装いを凝らした映画館がざわざわと集まっている一画などには、浅草六区などとはまったく違う盛り場の精気に圧倒されたことを思い出す。
東北新幹線の沿線風景は、いくつもの在来線を平行に辿る東海道新幹線のそれと隔絶していた。あれは処女地を蹂躙する一直線の鉄路だった。
その60年前、松本竣介は家族とともに盛岡市内に引っ越してきている。10歳、小学4年生である。生誕100年展を見終わったあと、綿貫さんは、当時竣介が住んでいたあたりを見に行こうと言う。そこは盛岡駅の東を流れる中津川ぞいの街で、川に懸かる下の橋、毘沙門橋、中の橋、与の字橋、上の橋を区切りと見れば覚えやすい。地図で川を下の橋からたどっていくと、その西岸は盛岡城址、公会堂、県庁、県民会館、県立中央病院などが連らなる官公庁地区であり、その対岸となる東側の、とくに中の橋から上の橋にかけての肴町、紺屋町には道も建物も昔のままの、しかしそれが出現したときは時代の最先端であったにちがいない洋風建築群が、突出しながらも橋と同じような分節点となって街並みにおさまり、その佇まいが現在も残され、手厚く保護されているのである。
この一帯には、新幹線取材後にも何度か来ている。まず市の建築遺産群のキングともいうべき旧盛岡銀行本店(現岩手銀行中ノ橋支店)がある。辰野金吾・葛西萬司の設計で明治44年竣工。彼等の手がけた日本銀行本店や東京駅に、規模はとにかくそのデザイン密度はひけをとらない赤煉瓦建築の名作である。そのすぐ近くにある旧盛岡貯蓄銀行本店(現盛岡信用金庫本店)は正面の列柱が威を振るう姿だがこれも辰野葛西事務所による。辰野亡き後の昭和2年竣工。そして同じ道筋に旧第九十銀行本店(現もりおか啄木・賢治青春館)がある。コンパクトな建築ガイドブック「ぶらり盛岡」(ぶらり盛岡研究会)によれば盛岡出身の横濱勉設計、明治43年の竣工で「ロマネスク様式をベースにユーゲントシュティルの影響を色濃く残し内部にセセッション様式を用いて」異色の建築となっている。基本は平滑なタイル貼りのボックス形だが玄関や2階窓のアーチ、出隈部などが粗面仕上げの石や彫刻で縁取られ、強烈な効果をあげている。
歩いて数分もかからないような範囲に、たとえばこのような建築が木造民家と共存している。漠然と都市環境などと呼ぶより、さまざまな個性的な建物役者が居並ぶ舞台のようだ。竣介はまさにその中心部で10歳から14歳までを過ごしたという。建物の隙間を抜けるとそこはもう中津川の河原だった。「住居は中津川を背にした紺屋町にあった(図録年譜による)。」だが彼が後年これらの風景を、追憶としても直接に描いた気配はない。逆にいえば紺屋町界隈はそれほどまで深く入り組んだ心象になっていたとしか思えない。彼は生涯にわたって建物や土木的構築物を多く描いているが、それを見たままのモチーフとして描くこと、消費することはついになかったのではないか。
それは紺屋町に住んだ数年間に深く関わっているのかもしれない。繰り返すが、古い民家と新しい洋風建築が入り混じっていた町である。しかも後者の主立ったものは本格的な銀行建築なのだから、それらを見る大人の視線と子どもの視線は交叉しながら隔っていたはずである。
もうひとつ、重要な出来事が加わる。小学校を卒業して岩手県立盛岡中学校に進んだその入学式のさなかに流行性脳脊髄膜炎で倒れ、聴覚を失う。このことについては別の機会に書きたい。
よく知られている彼の文章「生きてゐる画家」とスケッチ帖の「TATEMONO」を下敷きにした拙文のタイトルは、松本竣介の絵画における建築的モチーフの特異な位相について考えてみたいからだ。
その後は、また綿貫さんたちと美術館に戻って講演会に参加し、次には市内山王町に赴いた。竣介が14歳から17歳まで移り住んでいた場所である。山王を描いた油彩は何点かある。しかし都市化のなかで当然その風景は消失している。まるで予備知識はないのだけれど、山王の空間骨格は残っているようにも思われた。いや、当時から松本竣介においては風景そのままには描かれなかったかもしれない。
帰京するなりインフルエンザで10日近く寝込んだ。綿貫さんに頼んでおいた図録、評伝その他の資料がそのあいだに宅急便でドサッと届いた。とりあえずそれらに目を通したばかりである。
(2012.5.10 うえだまこと)
中の橋近く、中津川西岸を見る
紺屋町の旧盛岡銀行
紺屋町の旧盛岡貯蓄銀行
同じ町内にある現役の「茣蓙九」
紺屋町の南、肴町の旧第九十銀行
*画廊亭主敬白
生誕100年を迎えた画家・松本竣介(1912年4月19日 - 1948年6月8日)について、建築評論が専門の植田実さんに新たなエッセイ「生きているTATEMONO 松本竣介を読む」の連載をお願いしました。毎月15日、全10回ほどの予定です。
上掲の写真はすべて植田さんの撮影によるものです。

親しかった倉俣史朗さんのデスクで上掲原稿の最後の校正をする植田実さん。
随時更新している「美術展のおこぼれ」も続行しますので、あわせてご愛読ください。



盛岡市紺屋町界隈
「ときの忘れもの」の綿貫不二夫・令子夫妻と盛岡に行った。その翌日の岩手県立美術館での「生誕100年松本竣介展」に出席するためである。新幹線の席に落ち着いてまもなく、綿貫さんから段ボールの小箱を手渡された。開けてみると、松本のデッサン手帖の原寸復刻5冊と彼についてのエッセイ・評論・資料などをまとめた別冊が、布貼りの内箱に収められている。画家の没後40年近くを経た1985年、綜合工房から刊行された限定愛蔵版『松本竣介手帖全六冊』で、もちろん私にはその存在さえ知らなかったものである。
手帖は、表紙の体裁までそのまま再現されているようで、それぞれにTATEMONO、ONNA、TE ASI、KOZU、ZATUと、きちんとしたタイトル文字が入っている。すなわち、建物、女、手・足、構図、雑、とモチーフ別に予め手帖が用意されていたのか。こうした几帳面さと愛らしいサイズは、この画家によるいくつかの油彩に明確で強い印象を受けてはいたものの、その人となりや作品全体についての知識をほとんど持たなかった私は、思いがけない、ほかにないアーティスト像が立ち上がってくるような気持ちに襲われたのだった。後日、今回展の図録によって、スケッチ帖「TATEMONO」は全部で4冊あることを知ったのだが、この生誕100年展そのものが、最初期から最晩年までの各時代における画家の作品展開をあますところなく、初めて私に教えてくれたのである。そのなかでとりわけ建物や都市風景を対象にした作品についての何らかの感想をこれから書いていかなければならないのだが、綿貫さんに無理強いされたこの連続エッセイの先行きはまだまるで見えていない。
初めて盛岡を訪れたのは、ちょうど30年前である。1982年6月23日の東北新幹線開通に先立って、沿線の各駅前の現状と街の様子を取材した。朝日新聞から出されていた写真中心の大判週刊誌「アサヒグラフ」の企画によるもので、記憶は薄れているが、始発の大宮駅(まだ上野発も東京発もなかった)から終着駅の盛岡駅まで全13駅の停車時間にかなりの余裕を持たせて取材し、その周辺の写真もコメントもありの頁構成になっている。おそらく多くの報道機関にたいするお披露目に、「グラフ」の写真担当と私が参加したのだと思う。
盛岡では、このあとは一路東京に帰るわけだから、市心部をゆっくり歩く時間があった。こんなことを書いている。「盛岡の街で印象的なのは、雪よけのついた歩道橋や古い理髪店や銭湯や映画館に生きている折衷的な洋風建築の間にあって、また前衛建築も意欲的に受け入れている。そういった観光と無縁な光景こそが、盛岡の文化的充実や風土性を垣間見せているはずだ。」(「アサヒグラフ」1982年6月25日号)
今読むと、書いた本人にとってもやや不可解な部分のある文章だが、とくに装いを凝らした映画館がざわざわと集まっている一画などには、浅草六区などとはまったく違う盛り場の精気に圧倒されたことを思い出す。
東北新幹線の沿線風景は、いくつもの在来線を平行に辿る東海道新幹線のそれと隔絶していた。あれは処女地を蹂躙する一直線の鉄路だった。
その60年前、松本竣介は家族とともに盛岡市内に引っ越してきている。10歳、小学4年生である。生誕100年展を見終わったあと、綿貫さんは、当時竣介が住んでいたあたりを見に行こうと言う。そこは盛岡駅の東を流れる中津川ぞいの街で、川に懸かる下の橋、毘沙門橋、中の橋、与の字橋、上の橋を区切りと見れば覚えやすい。地図で川を下の橋からたどっていくと、その西岸は盛岡城址、公会堂、県庁、県民会館、県立中央病院などが連らなる官公庁地区であり、その対岸となる東側の、とくに中の橋から上の橋にかけての肴町、紺屋町には道も建物も昔のままの、しかしそれが出現したときは時代の最先端であったにちがいない洋風建築群が、突出しながらも橋と同じような分節点となって街並みにおさまり、その佇まいが現在も残され、手厚く保護されているのである。
この一帯には、新幹線取材後にも何度か来ている。まず市の建築遺産群のキングともいうべき旧盛岡銀行本店(現岩手銀行中ノ橋支店)がある。辰野金吾・葛西萬司の設計で明治44年竣工。彼等の手がけた日本銀行本店や東京駅に、規模はとにかくそのデザイン密度はひけをとらない赤煉瓦建築の名作である。そのすぐ近くにある旧盛岡貯蓄銀行本店(現盛岡信用金庫本店)は正面の列柱が威を振るう姿だがこれも辰野葛西事務所による。辰野亡き後の昭和2年竣工。そして同じ道筋に旧第九十銀行本店(現もりおか啄木・賢治青春館)がある。コンパクトな建築ガイドブック「ぶらり盛岡」(ぶらり盛岡研究会)によれば盛岡出身の横濱勉設計、明治43年の竣工で「ロマネスク様式をベースにユーゲントシュティルの影響を色濃く残し内部にセセッション様式を用いて」異色の建築となっている。基本は平滑なタイル貼りのボックス形だが玄関や2階窓のアーチ、出隈部などが粗面仕上げの石や彫刻で縁取られ、強烈な効果をあげている。
歩いて数分もかからないような範囲に、たとえばこのような建築が木造民家と共存している。漠然と都市環境などと呼ぶより、さまざまな個性的な建物役者が居並ぶ舞台のようだ。竣介はまさにその中心部で10歳から14歳までを過ごしたという。建物の隙間を抜けるとそこはもう中津川の河原だった。「住居は中津川を背にした紺屋町にあった(図録年譜による)。」だが彼が後年これらの風景を、追憶としても直接に描いた気配はない。逆にいえば紺屋町界隈はそれほどまで深く入り組んだ心象になっていたとしか思えない。彼は生涯にわたって建物や土木的構築物を多く描いているが、それを見たままのモチーフとして描くこと、消費することはついになかったのではないか。
それは紺屋町に住んだ数年間に深く関わっているのかもしれない。繰り返すが、古い民家と新しい洋風建築が入り混じっていた町である。しかも後者の主立ったものは本格的な銀行建築なのだから、それらを見る大人の視線と子どもの視線は交叉しながら隔っていたはずである。
もうひとつ、重要な出来事が加わる。小学校を卒業して岩手県立盛岡中学校に進んだその入学式のさなかに流行性脳脊髄膜炎で倒れ、聴覚を失う。このことについては別の機会に書きたい。
よく知られている彼の文章「生きてゐる画家」とスケッチ帖の「TATEMONO」を下敷きにした拙文のタイトルは、松本竣介の絵画における建築的モチーフの特異な位相について考えてみたいからだ。
その後は、また綿貫さんたちと美術館に戻って講演会に参加し、次には市内山王町に赴いた。竣介が14歳から17歳まで移り住んでいた場所である。山王を描いた油彩は何点かある。しかし都市化のなかで当然その風景は消失している。まるで予備知識はないのだけれど、山王の空間骨格は残っているようにも思われた。いや、当時から松本竣介においては風景そのままには描かれなかったかもしれない。
帰京するなりインフルエンザで10日近く寝込んだ。綿貫さんに頼んでおいた図録、評伝その他の資料がそのあいだに宅急便でドサッと届いた。とりあえずそれらに目を通したばかりである。
(2012.5.10 うえだまこと)
中の橋近く、中津川西岸を見る
紺屋町の旧盛岡銀行
紺屋町の旧盛岡貯蓄銀行
同じ町内にある現役の「茣蓙九」
紺屋町の南、肴町の旧第九十銀行*画廊亭主敬白
生誕100年を迎えた画家・松本竣介(1912年4月19日 - 1948年6月8日)について、建築評論が専門の植田実さんに新たなエッセイ「生きているTATEMONO 松本竣介を読む」の連載をお願いしました。毎月15日、全10回ほどの予定です。
上掲の写真はすべて植田さんの撮影によるものです。

親しかった倉俣史朗さんのデスクで上掲原稿の最後の校正をする植田実さん。
随時更新している「美術展のおこぼれ」も続行しますので、あわせてご愛読ください。



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