斎藤義重 ―――― Aiko Miyawaki
斎藤先生との出会いも、元の義理の姉 神谷信子さんの紹介によるものでした。
家にいらしたり、斎藤先生のところに行ったりしていました。
神谷信子さんは、神谷葡萄酒にお嫁にいき、未亡人になられて、絵を描いていたのです。当時、義理の父が絵描きはひとりで沢山だと言われ、私は、ひそかに絵を描いていて、発表するなんて夢にも思っていなかったころ、斎藤先生がたまたま遊びにいらして、「絵というものは、人が見る事を意識して自分でも見ないとだめだ」という事をとくとくと説いてくださった。つまり実際に外に出してみないと、客観性は生まれないということです。
それは非常に重要なことだと教えられました。
そのことがあり、養清堂画廊で発表する気になったのです。へそまがりでしたから、絵なんて発表するものじゃない、なんて偉そうに言っていたんです。
ですからプロフェッショナルな絵描きになるなんて夢にも考えずに絵を描いていました。
斎藤先生の一言。その時初めて、絵は自分だけで描いているのでなく、発表しなくてはいけないのだと思ったのです。
斎藤先生は恩人なのです。ですから略歴には斎藤先生に師事と必ず書くのです。
実際に手を取って教わったわけではないのですが。
*『La Rencontre, c´est merveilleuse 宮脇愛子、私が出逢った作家たち』32頁所収
斉藤義重
《black (E)》
1971
額サイズ73.7x61.4cm
Ed.24/50
版上サイン
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■斎藤義重 Yoshishige SAITO(1904-2001)
1904年東京都生まれ。造形作家。大正から昭和初期、当時さかんに移入されたヨーロッパの前衛美術、とりわけダダと構成主義を手がかりに自身の表現を模索。二科展にレリーフ状の作品を出品しようとしたところ絵画部・彫刻部ともに受け付けられなかったというように、戦前から既成のジャンル分けではとらえきれない作品によって異彩をはなつ。戦後、国内外からの評価が高まり、斎藤の教室からは1970年前後に登場する「もの派」を筆頭に、すぐれた現代作家が輩出された。
1960年代前半に集中して取り組んだ電動ドリルで合板に点や線を刻み絵具を塗りこめる作品では、板面を刻む行為と、その痕跡としての傷が主題となっている。晩年は、黒のラッカーで塗装した板を床上や壁面に組み上げる作品を制作。2001年、歿。
*画廊亭主敬白
今回の宮脇愛子展では銀座のギャラリーせいほうで平面と立体の大作を、青山のときの忘れものでは比較的小品と、親交の深かったマン・レイ、瀧口修造、斎藤義重、ジオポンティ、阿部展也、ERRO、辻邦生、南桂子、オノサト・トシノブ、菅野圭介、ジャスパー・ジョーンズ、堀内正和、サム・フランシスなどの作品を展示しています。
それら作家たちとの交友・影響については、今回刊行した『La Rencontre, c´est merveilleuse 宮脇愛子、私が出逢った作家たち』に宮脇先生のエッセイで語られています。いくつか転載してご紹介します。
また日本美術オーラル・ヒストリー・アーカイヴ
「宮脇愛子インタヴュー」もぜひお読みください。
◆『La Rencontre, c´est merveilleuse 宮脇愛子、私が出逢った作家たち』を刊行
2012年6月25日発行:ときの忘れもの
限定200部 宮脇愛子オリジナルシルクスクリーンとDVD付

宮脇愛子、マン・レイ、瀧口修造、斎藤義重、ジオ・ポンティ、阿部展也、エロ、辻邦生、南桂子、オノサト・トシノブ、菅野圭介、ジャスパー・ジョーンズ、堀内正和、サム・フランシス、他
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斎藤先生との出会いも、元の義理の姉 神谷信子さんの紹介によるものでした。
家にいらしたり、斎藤先生のところに行ったりしていました。
神谷信子さんは、神谷葡萄酒にお嫁にいき、未亡人になられて、絵を描いていたのです。当時、義理の父が絵描きはひとりで沢山だと言われ、私は、ひそかに絵を描いていて、発表するなんて夢にも思っていなかったころ、斎藤先生がたまたま遊びにいらして、「絵というものは、人が見る事を意識して自分でも見ないとだめだ」という事をとくとくと説いてくださった。つまり実際に外に出してみないと、客観性は生まれないということです。
それは非常に重要なことだと教えられました。
そのことがあり、養清堂画廊で発表する気になったのです。へそまがりでしたから、絵なんて発表するものじゃない、なんて偉そうに言っていたんです。
ですからプロフェッショナルな絵描きになるなんて夢にも考えずに絵を描いていました。
斎藤先生の一言。その時初めて、絵は自分だけで描いているのでなく、発表しなくてはいけないのだと思ったのです。
斎藤先生は恩人なのです。ですから略歴には斎藤先生に師事と必ず書くのです。
実際に手を取って教わったわけではないのですが。
*『La Rencontre, c´est merveilleuse 宮脇愛子、私が出逢った作家たち』32頁所収
斉藤義重 《black (E)》
1971
額サイズ73.7x61.4cm
Ed.24/50
版上サイン
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■斎藤義重 Yoshishige SAITO(1904-2001)
1904年東京都生まれ。造形作家。大正から昭和初期、当時さかんに移入されたヨーロッパの前衛美術、とりわけダダと構成主義を手がかりに自身の表現を模索。二科展にレリーフ状の作品を出品しようとしたところ絵画部・彫刻部ともに受け付けられなかったというように、戦前から既成のジャンル分けではとらえきれない作品によって異彩をはなつ。戦後、国内外からの評価が高まり、斎藤の教室からは1970年前後に登場する「もの派」を筆頭に、すぐれた現代作家が輩出された。
1960年代前半に集中して取り組んだ電動ドリルで合板に点や線を刻み絵具を塗りこめる作品では、板面を刻む行為と、その痕跡としての傷が主題となっている。晩年は、黒のラッカーで塗装した板を床上や壁面に組み上げる作品を制作。2001年、歿。
*画廊亭主敬白
今回の宮脇愛子展では銀座のギャラリーせいほうで平面と立体の大作を、青山のときの忘れものでは比較的小品と、親交の深かったマン・レイ、瀧口修造、斎藤義重、ジオポンティ、阿部展也、ERRO、辻邦生、南桂子、オノサト・トシノブ、菅野圭介、ジャスパー・ジョーンズ、堀内正和、サム・フランシスなどの作品を展示しています。
それら作家たちとの交友・影響については、今回刊行した『La Rencontre, c´est merveilleuse 宮脇愛子、私が出逢った作家たち』に宮脇先生のエッセイで語られています。いくつか転載してご紹介します。
また日本美術オーラル・ヒストリー・アーカイヴ
「宮脇愛子インタヴュー」もぜひお読みください。
◆『La Rencontre, c´est merveilleuse 宮脇愛子、私が出逢った作家たち』を刊行
2012年6月25日発行:ときの忘れもの
限定200部 宮脇愛子オリジナルシルクスクリーンとDVD付

宮脇愛子、マン・レイ、瀧口修造、斎藤義重、ジオ・ポンティ、阿部展也、エロ、辻邦生、南桂子、オノサト・トシノブ、菅野圭介、ジャスパー・ジョーンズ、堀内正和、サム・フランシス、他
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