本日は8月27日、「光の人」マン・レイの誕生日であります。
宮沢賢治も今日が誕生日ですね。
話かわって、昨年は瑛九の生誕100年で宮崎、埼玉、浦和の各美術館で盛大な回顧展が開かれ、その他ゆかりの地域や街の画廊で瑛九を顕彰する展覧会がいくつも開かれました。
ときの忘れものでももちろん連続企画・瑛九展の第21回展を開催しました。
瑛九命の亭主としてはまことに心躍る一年でありました。
瑛九の一つ年下の盟友がオノサト・トシノブでした。
今年はオノサト・トシノブの生誕100年ですが、なぜか大きな顕彰展は企画されていないようで、オノサトファンとしては誠にさびしい。
それでも規模は大きくありませんが、注目すべきオノサト・トシノブの展示が二つの美術館であります。
一つは、既に開催中ですが(5月19日(土)から10月8日(月・祝)まで)、東京都現代美術館の常設展示コーナーで「特別展示|オノサト・トシノブ―福原コレクションを中心に」として、1960年前後の「べた丸」時代にしぼった珠玉のコレクションが展示されています。
同コレクションは福原義春資生堂名誉会長から寄贈された作品群です。
もう一つは、オノサト先生のアトリエのあった群馬県桐生での企画展です。
「生誕100年 オノサト・トシノブ」展
会期=2012年10月5日(金)~12月16日(日)
会場=大川美術館
ぜひ皆さん、お出かけください。
オノサト・トシノブ先生は初期の頃は、絵の表にサイン、年記が記入されていましたが、70年代以降のシステマティックな図形の作品になってからは、表面には絵以外のものはまったく入れず、サインも年号もすべてキャンバスの裏面に記載されていました。
先日の「宮脇愛子 、私が出逢った作家たち」展で展示した作品も表には何も記載されていません。
オノサト・トシノブ
1977
油彩
30.0x30.0cm
裏面にサインあり
実に素っ気ない表記でしたが、オノサト先生らしかった。
先日嬉しいことがありました。
思いもかけないオノサト先生の作品を入手したからです。
1991年12月にオノサト家(オノサトトモコ夫人)から刊行された400ページにものぼる大部な『オノサト・トシノブ伝』という本があります。
いわば夫人の日記をもとにしたオノサト・トシノブの伝記です。
その194ページに以下の記述があります。
1956年8月27日
八月二十七日、夜、七時二十五分、高木病院で六丸が生れた。
お産に父親が立ち会うなど稀な時代だったが、産婦を置いて帰ってしまうなど出来ない人間だからそのまゝ産室に残り、朝から夜迄の十時間余、手を握っていてくれた。
初産の長い陣痛のあと産声を聞き生れた瞬間涙をポロポロ流して喜んでくれた。
三千四百八十七グラムと肉付きの良い男子は、翌日病院に掛けたサムホールの「六ツの丸」の絵から六丸と名付けた。
-------------------------------
この話は、1970年代からオノサト家に出入りした私もしょっちゅう聞かされた有名な話です。
オノサト夫妻のご長男の名は「六丸」さん、つまりそのとき描いていた絵が「六ツの丸」だったからです。
続いて次男の名は「十丸(とおまる)」さん、「十の丸」を描いていたときに生まれたからですね。
そんな有名な話の元となった六ツの丸を描いた油彩作品「六丸」がまさか私達の手許にこようとは、信じられないような出来事でした。


オノサトトシノブ
「六丸」
油彩・キャンバス
1956年 SM号
画像をご覧いただくとわかるとおり、六丸さんの誕生日の日付が入っています。
絵としては、オノサト先生のべた丸時代の名品です。
素朴な中にも、フリーハンドの線が生き生きと描かれています。
オノサト作品で、年号以外に月日まで記載されている誠に珍しい作品といえるでしょう。
8月27日にまつわるエピソードでした。
■オノサト・トシノブ Toshinobu ONOSATO(1912-1986)
1912年長野県生まれ。その後群馬県桐生に移り住む。本名・小野里利信。津田青楓洋画塾に学ぶ。35年黒色洋画展を結成。38年自由美術家協会会員となる(~56年、以後無所属)。41年に一兵卒として出征、戦後のシベリア抑留を経て48年に帰国後は桐生のアトリエでひたすら円を描き続けた。64年・66年にはベニス・ビエンナーレに日本代表として出品。戦前、戦後と親友の瑛九とともに前衛美術の道を歩み続けた。86年永逝。
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宮沢賢治も今日が誕生日ですね。
話かわって、昨年は瑛九の生誕100年で宮崎、埼玉、浦和の各美術館で盛大な回顧展が開かれ、その他ゆかりの地域や街の画廊で瑛九を顕彰する展覧会がいくつも開かれました。
ときの忘れものでももちろん連続企画・瑛九展の第21回展を開催しました。
瑛九命の亭主としてはまことに心躍る一年でありました。
瑛九の一つ年下の盟友がオノサト・トシノブでした。
今年はオノサト・トシノブの生誕100年ですが、なぜか大きな顕彰展は企画されていないようで、オノサトファンとしては誠にさびしい。
それでも規模は大きくありませんが、注目すべきオノサト・トシノブの展示が二つの美術館であります。
一つは、既に開催中ですが(5月19日(土)から10月8日(月・祝)まで)、東京都現代美術館の常設展示コーナーで「特別展示|オノサト・トシノブ―福原コレクションを中心に」として、1960年前後の「べた丸」時代にしぼった珠玉のコレクションが展示されています。
同コレクションは福原義春資生堂名誉会長から寄贈された作品群です。
もう一つは、オノサト先生のアトリエのあった群馬県桐生での企画展です。
「生誕100年 オノサト・トシノブ」展
会期=2012年10月5日(金)~12月16日(日)
会場=大川美術館
ぜひ皆さん、お出かけください。
オノサト・トシノブ先生は初期の頃は、絵の表にサイン、年記が記入されていましたが、70年代以降のシステマティックな図形の作品になってからは、表面には絵以外のものはまったく入れず、サインも年号もすべてキャンバスの裏面に記載されていました。
先日の「宮脇愛子 、私が出逢った作家たち」展で展示した作品も表には何も記載されていません。
オノサト・トシノブ 1977
油彩
30.0x30.0cm
裏面にサインあり
実に素っ気ない表記でしたが、オノサト先生らしかった。
先日嬉しいことがありました。
思いもかけないオノサト先生の作品を入手したからです。
1991年12月にオノサト家(オノサトトモコ夫人)から刊行された400ページにものぼる大部な『オノサト・トシノブ伝』という本があります。
いわば夫人の日記をもとにしたオノサト・トシノブの伝記です。
その194ページに以下の記述があります。
1956年8月27日
八月二十七日、夜、七時二十五分、高木病院で六丸が生れた。
お産に父親が立ち会うなど稀な時代だったが、産婦を置いて帰ってしまうなど出来ない人間だからそのまゝ産室に残り、朝から夜迄の十時間余、手を握っていてくれた。
初産の長い陣痛のあと産声を聞き生れた瞬間涙をポロポロ流して喜んでくれた。
三千四百八十七グラムと肉付きの良い男子は、翌日病院に掛けたサムホールの「六ツの丸」の絵から六丸と名付けた。
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この話は、1970年代からオノサト家に出入りした私もしょっちゅう聞かされた有名な話です。
オノサト夫妻のご長男の名は「六丸」さん、つまりそのとき描いていた絵が「六ツの丸」だったからです。
続いて次男の名は「十丸(とおまる)」さん、「十の丸」を描いていたときに生まれたからですね。
そんな有名な話の元となった六ツの丸を描いた油彩作品「六丸」がまさか私達の手許にこようとは、信じられないような出来事でした。


オノサトトシノブ
「六丸」
油彩・キャンバス
1956年 SM号
画像をご覧いただくとわかるとおり、六丸さんの誕生日の日付が入っています。
絵としては、オノサト先生のべた丸時代の名品です。
素朴な中にも、フリーハンドの線が生き生きと描かれています。
オノサト作品で、年号以外に月日まで記載されている誠に珍しい作品といえるでしょう。
8月27日にまつわるエピソードでした。
■オノサト・トシノブ Toshinobu ONOSATO(1912-1986)
1912年長野県生まれ。その後群馬県桐生に移り住む。本名・小野里利信。津田青楓洋画塾に学ぶ。35年黒色洋画展を結成。38年自由美術家協会会員となる(~56年、以後無所属)。41年に一兵卒として出征、戦後のシベリア抑留を経て48年に帰国後は桐生のアトリエでひたすら円を描き続けた。64年・66年にはベニス・ビエンナーレに日本代表として出品。戦前、戦後と親友の瑛九とともに前衛美術の道を歩み続けた。86年永逝。
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